nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+SELECT 2026】@くろちく万蔵ビル

私達はコンセプトを求めているか? それとも絵力を求めているか?

展示は誰が理解すべきなのか?

「KYOTOGRAPHIE」でも「KG+」でもない、また別の特異性をもったグループ展、「KG+SELECT」。

総合的で娯楽性も含んだアートイベント、写真の祭典としての「KG」本体。対して、作家個々人が自由に催す展示の総称である「KG+」。「KG+SELECT」がそれらとはまた異なる極に位置するのは、社会的、文化的、美学的なプレゼンテーションが詰め込まれている点であり、評価・批評への応答を備えているためだ。

 

「KG+SELECT」は審査制である上に、審査員5名(最終4名?)ともが海外の眼で評価を行う(うち1人は日本人だが仲西祐介氏でありルシール・レイボーズと共に務めているので当然に海外基準とみるべきだろう)。それゆえかどのプログラムよりもコンセプト性とプレゼンテーションが強い。その傾向は年々強まっていて、今回は今までになくコンセプトが前景化したように感じられる。コンセプトという設計・建築の中に「写真」が配置されている感。昨年の堀川御池ギャラリーよりも会場がコンパクトになったためか、より展示空間が思考的になった。

 

例年のことだが作品解説テキストの理解が難しい。ちゃんとした理詰めの文章だが、言葉の情報量が鑑賞時の許容度を超えていて逆に観念的すぎ、目の前の作品とテキストの間をどう埋めるべきかという逆解釈の問題が生じている。間髪おかず繰り出される意図・解釈が作品を超えてしまう。

作品をよく見たあとでステートメントに立ち返ると確かに言っていることは間違っていない。私がパリフォトその他海外の写真展示を見たことがないので判断基準はなく、これが海外(西欧)スタンダードなのか、「KG+SELECT」で特化された状況なのかが不明だ。この点は人によって意見が異なるかもしれない。

ただこれは運営・主催の側がというより、参戦している選手層(作家)が相当にキャリア豊富で、プレゼンの攻め方を熟知していることの方が大きいかもしれない。

 

【A1】リュ・ヒョンミン(Hyunmin Ryu)「キム・セヒョン」

近年の写真表現手法として、キャッチボールをするがボールをキャッチャーに投げない、前後左右数m離れたところに投げるというゲームが主流になっている感がある。離れた所に潜在的なあなたや私がいるといった具合。あるいは複数個のボールを同時に投げる。つまり直接に玉を捕らせない、キャッチボールの再考が試みられていて、取りこぼしにこそコミュニケーションを見るという算段だ。本作はそのことを強く感じさせた。

何を言っているのかを直接に受け止めて理解することが困難な写真(文体)が続く。キーワードは「家族写真」、そして「キム・セヒョン」という人名のタイトル。作者からは甥っ子の立ち位置にある。

少し考えて整理すれば作品の妙味が分かってくる。まず作者とセヒョンは「家族」ではあるが直系の親子ではない。息子的であり気の置けない友人めいた距離感を併せ持つ。甥っ子・姪っ子との距離感が実に特殊なのは、身近な友人を見ていると理解できる。孫よりも近い親友で、そして実の子供とは全く異質という、不思議なものだ。

そして作者はメディアアーティスト・メディアアート研究者であるから、「家族写真」をそのままに見る・撮ることができず、メタレベルでの考察・解体・再構築を掛けてしまう。写真に対して常にメタなレイヤー分解処理が入るのは私も他人事ではない。

こうして「家族」と「家族写真」の双方のタガが外れたところに生まれる空隙同士の接続、キャッチボールのバグのような様相が、本作のストレンジなビジュアル表現である。父親だか親友だか作家だか写真館だかわからぬ視座のぐらつきを、確かな技術で提示している。

 

【A2】スリダー・バラシュブラマニヤム(Sridhar Balasubramaniyam)「マナルスザル(砂の旅)」

今回最もシンプルな展示。シンプルさにおいて際立っていた。壁面に横一列で、縦写真がずっと並んでいる。解説通りなら、長期の旅の間に見聞きし、出会い、触れてきた土地や人々を撮り続けただけの写真。しかし、確かに最も説得力があった。

「KG+SELECT 2026」の中で唯一だろうか、コンセプトデザインの構造体ではなく写真そのものを見ることができた。「KG+SELECT Award 2026」受賞も納得だ。写真だったので。

それはまさに「KG+SELECT 2023」でジャイシング・ナゲシュワラン「THE LODGE」がアワード受賞のと全く同じではないか。展示形態といい偶然とは思えない。コンセプト、構造、デザイン、社会的プレゼンテーションが高度化すればするほど、生の「写真」への希求は強まり、また写真も対比的に原初的な獰猛さを増すということなのか。

kgplus.kyotographie.jp

だが本作を原初的な、素の写真というには注意が必要だ。普通の旅先のスナップではない。スタイリッシュなそぎ落とされた構図、半端な私情を挟まず、眼前の異文化を際立たせ、それが採集的・観察・記録にならないよう文体をずらし、数メートルずらしたキャッチボールを繰り出す・・・そこに地元部族、四大元素、そして血のイメージを絡めて地に足のついた世界観を示す。手練の技だ。

ゆえに見たことのない世界が垣間見える。我々がインドのタミル・ナードゥ州を旅してもこれらに出会うことが出来るのか。これは写真の中の世界なのか。鋭く深い反射光を放つカットがその二つの境界をも接続させる。

 

展示スペースの兼ね合いもあってか、小さめの写真が緊密に並んでいるのが、もっと画面内に写っているものへ入り込んで見てみたいと思った。サイズとスペースが拡大されたときに更に可能性が広がる気がする。

 

【A3】宛超凡(Chaofan Wan)「河はすべて知っている—黄浦江」

写真集「河はすべて知っている―荒川」(2022、Stairs Press)をアートブックフェアで閲覧したとき作者の存在と凄さを知った。川がそこにあったのだ。水量と川の距離はまさに「河」で、それを体現するために異様に細長い判型をしている。(家に収納するイメージがつかなくて買うのを見送った)

生展示で見られるのを楽しみにしていたが、どうも鑑賞体験は写真集のそれと違った。河を感じることができず、写真をどう見てよいかに苦慮した。「情報が渋滞している」というネットスラングがそのまま当てはまった。(それを表わす意図があったとしたら見事だが)

苦戦の最大の理由は、本作のアイデンティティーでもある細長さにある。6×18センチ判パノラマ写真という極端な細長さが実際に空間にあるとき、私達の目はそのサイズ感・比率に慣れておらず、一目で視界に入れて中身を把握することができない。よって右からか左から横方向へスキャンすることになる。作品が1点ずつ横一列に並んでいる場合、まさに川を下るような時系列的な鑑賞となり、体感と内容・テーマが強く合致し、写真集を読んだ時と同じ納得感が得られる。

 

が、本展示は縦3段 × 横6列のブロック構成で積み上げて壁面を埋めている。一見スタイリッシュかつ多彩な場所・地方を一望でき、またそれらのいずれにも等価に入り込めるように思われたのだが、実際はどの写真の何をみるかを絞り切れず、見ようと思っても同時に複数の写真が入ってくる、横向きスキャンの的が絞れない、川の上流下流の区別がつかない、etc…の不具合に見舞われた。読めない。

展示スペースが一番の問題で、横一列に並べきることが不可能だったのは言うまでもないが、もしかすると上流→下流という一方通行の直線的な見せ方/鑑賞スタイルに拘束されてしまうことを逃れようとしたのだろうか?

こちらの目が慣れたら通常比率の写真をグリッド状に配置したときと同じように鑑賞できるだろうか。写っているもの、取組みは確かなだけに、勿体なかった。

 

 

【A4】平良博義(Hiroyoshi Taira)「ぞめき」

普通のモノクロ写真ではない。黒をサンドペーパーで擦って光=像を削り出したがごとき、轟音のような荒々しさが際立つ。モノクロのギラつきとザラつきに囲まれた空間にいると、時代を二周三周遡って昭和の物故作家かと錯覚するが、作者は1987年生まれで、撮影されたのは2024年と、今の作家の仕事だということに驚かされた。

橋本照嵩、原芳一の土着性と荒々しきモノクロ写真を更にオーバードライブさせたかのような描画は、作者が中藤毅彦の主催する自主運営ギャラリー「ニエプス」メンバーであることも関連があるだろう、まさに中藤毅彦氏がザラつきをもった深い黒のモノクロ・スナップの代表的作家だからだ。しかし本作はさらにガリッとした硬質さが際立っていて、独特なものとなっている。

こうした日本の白黒写真家DNAと「阿波踊り」とが結合したのが本作だ。だがここで特集される阿波踊りは観光で見るものとはかなり異なり、モノクロの描写と相まって、別の呪祭にも思える。

実際、ここでの阿波踊りは故人を送り出す葬祭、盆供養の形で為されている。年一回街を挙げての大規模イベント、民のエネルギー発散および観光名物としての「阿波踊り」しか知らなかった私には、ドキュメンタリーとしての衝撃もあった。寺の中、葬儀の設えと畳張りの場で、爪先を立てて躍動する踊り手の姿は「祭り」の本性を現わす。

 

祭りに内在する風習、情念がモノクロのザラつきと結合する。

祭りの凶暴なまでのエネルギーをどう記録し、どう表すべきか、どうやってその熱や狂気を憑依させ定着させるのか。岩根愛『KIPUKA』は時間と空間を遠く隔てた人々の奥底に流れる魂の共振を撮り、甲斐啓二郎の各種シリーズは情動が個々人の肉体を超えて人間そのものを高エネルギー分子運動となっている様を捉えた。本作ではどちらでもなく、祭りに参加する人々の、個々人としての情念、表情が重要となっている。作品の起点にあるのが、高円寺阿波踊りの重要人物(東京天水連の岩波幸宏会長)の逝去と供養という、個人であり公人である存在の喪失ゆえか。

 

ただ、写真の中へと入り込むのが難しかった面もある。部屋のスペース感、間合い、照明、額装等々の環境によるのか、モノクロ描画の荒さのためか――

 

【A5】ミラ・レイ・サラバイ(Mila Rae Sarabhai)「窓 Mado」

抽象度が最も高かった。窓側に張られた大きな白い布に印刷された図像はほぼ見えず、その元になっているであろう作品は対照的にサイズがとても小さい。フォトモンタージュが織りなす夢のようなシーンは、固定された意味を持たない。

布作品は「白いシルクのサリーに白いシルクスクリーン印刷」とある。

作者のルーツとしてインド、日本(イギリスも併記しているサイトもあり)があり、故郷のアーメダバードにはインド独立運動の歴史が残るという。調べると、あのマハトマ・ガンジーが活動拠点とした道場「サーバルマティー・アシュラム」があり、かの有名な「塩の行進」運動を立ち上げた地なのだった。塩は生命維持に不可欠なのに(ましてや暑いインドで)、イギリス植民地政府、要は外国に支配されて過大な税金を掛けられているのはおかしい、無許可で勝手に作るぞと抵抗運動をしたと。

それで作者の写真集が「インドにおける塩税の歴史を巡り、塩の政治性や「白」の象徴性、そして植民地主義が持つ恒久的な影響を結び付ける」プロジェクトとなっていたのだ。ようやくつながった。

毎度のことだが、ちょっと調べてみないとなかなか自分と解説文と作品とが繋がらない。解説文は高尚なテイストなので中学生に教えるようには書かれていないのだ。そこは少し手間をかける必要があるが、繋がると話は早い。ただ会場でそれが可能かどうか。

 

植民地支配の歴史の名残を作者はイメージ化する、それは暴力と支配の歴史の告発であろうが、淡く儚いファンタジーとなっているのは「塩」と光に重ねることによって浮かび上がるもう一つの情景なのだろう。すなわちガンジーの抵抗精神とシュルレアリスムという西欧的超理性運動の重ね合わせが見せる憧憬なのだ。

小品のフォトモンタージュ作品がとても素敵だった。見事なセンス。西欧の美術史のセンスを踏まえているから本作は説得力がある。国や地域を超えて誰にでも伝わる表現を行うには、西欧という水準、フォーマットを獲得したうえでローカルを接続・流通させねばならない。美しく、ジレンマでもある。

 

 

【A6】ソ・ミンギョン(SEO MINKYUNG)「The Gestures」

時のシークエンスから人体のシークエンスへ。エドワード・マイブリッジが「時」をスライスして技術的に創出した領域を細分化・発展させたところに、人々の身体的ムーブの切り出しと比較があり、非言語的言語の再発見があった。

本作で提示されるムーブの数々が「ジェスチャー」と呼ばれる所以は、身体を使う者同士でそれが何らかの意味を持つがゆえに。人前で身体を用いたパフォーマンスを行う各種ジャンルのダンサー、演劇・舞台のアクター、ミュージシャンなどは典型的で、人前からは姿を隠すストリートの活動者らも独特な身振り手振りを用いる。

その意味は非常に細分化されたスラング、あるいはルールとして領域や集団ごとに設定され流通しているので、具体的なことは分からないが、ストリートダンスひとつとっても定型のムーブとそれが現す意味・ニュアンスは絶対にある。ストリートということでいえばSIDE COREを想起してもスケートボードまたはガードマンに象徴される動きの連続性と組み換えは言語の操作であり、逆にコンタクト・ゴンゾなら身体接触をもっとジェスチャーの意味を解いて生の接触を深掘りし肉体同士の手探りへ潜り込ませてゆく。卑近なところでも、アイドルがなぜアイドルであるか、AKB48と乃木坂48とTWICEとPerfumeがなぜ分類可能かというと、ジェスチャー、身体言語の差異化が大きな役割を果たしていることは想像に難くない。

というところで、本作は動きを切り出すために背後・背景を切り落としていてデザイン性が強いことと、ムーブがストリートダンスに絞られているようで、解説文と作品との間で射程にかなり開きがあり、そもそも写真として見ることが難しいというところが残念であった。

 

【A7】ピオトル・ズビエルスキ(Piotr Zbierski)「ソリッド・メイズ」

「KG+SELECT 2026」で最もチャレンジングな作品だった。この展示デザインと作品テーマが理解できるか、入り込めたか? これはアリか?ナシか? 鑑賞者に突き付けられたチャレンジでもある。これで振り落とされるか?意味を掴めるか?

私の回答は「無理、分からない、勿体ない」だ。

黒い壁面に写真が点在し、英文の連なりがそれらを迷路状に繋ぎ合わせていく。英文を辿って読むごとに1枚また1枚と写真が何かを語り出すのだろうと思う。読んでいない。はっきり言おう。縦横にうねって書かれた、何処が文末の切れ目かも分からない英文を翻訳しながら意味を写真と照合しつつ追っていくだけの時間が、KG期間中には無いのだ。物理的にはたぶん捻出できただろうが、精神的余裕がない。要は、ハラ立つ(失礼)。

 

写真が90度横倒しに掲示されているのも、見た目にはスタイリッシュだが、余裕のない中で急いで読解しようとしている身には、ハラ立つ(余裕がない)。

 

そして、撮った会場写真を試しにGoogle翻訳に通してみたが、案の定容易ではない。「・・・私のポケット、あなたはそれに微笑む。塔は覆われている。羽が通り過ぎた。均等にバランスが取れているだろうか。上へ。たった一つだが、それでも不可能な橋。ここにそれは合併されている。そこは終わり、そしてあなたは存在する。名前を読むために。・・・」 どこをどう切り撮るべきかが分からないが、あるまとまりを訳しても全部断片なのだ。分かるわけがない。

 

つまり、「分からない」というのが本作のメインテーマだ。解説に立ち返ると持って回った口調で結局そういうことが書いてある。「《ソリッド・メイズ》は記憶、時間、感情についての写真による随想である」「彼にとって、自らを包む迷宮とは光と影のあいだ、より正確には存在と無のあいだで揺れる振り子なのである」「《ソリッド・メイズ》は純粋なアーカイブや日記を志向するものではないが、その両方の秩序を含んでいる。」

 

要は、不明瞭で、分からないことを、分からないままにやろう、ということだ。

 

「KG+SELECT 2025」ヴィノッド・ヴェンカパリ(Vinod Venkapalli)《In absentia》の路線をもっと明確かつ自覚的に迷路化したとも考えられる。

このスタンスはたいへん素晴らしい。今になって展示と解説を読み返していると、それは実に良いことだと気付き始めた。理知的で社会的で批評的で政府や資本主義や西欧や男性権力への異議申し立てでなければ「作品」と呼ばない、などというスタンスは狂っていて、本来それらは「作品」成立―評価要件のone of themであり、「意味不明」が作品を成しても良いはずなのだ。

私は何にムカついていたのだろうか? しかし、見づらい、持ち味のはずの写真の良さが伝わらない、勿体ない・・・。

 

【A8】キム・ウンジュ(Kim Eun Ju)「Unhealed Light」

光に照らし出された人物らの写真が壁に貼り出され、フロア中央にはそれぞれの人物のプロフィール、「5・18民主化運動(光州事件)」の記憶、物語が綴られている。

人物らが立つのは「5・18民主化運動」の舞台となった場所だという。

ただの肖像写真、歴史回顧ではないことは光と場所からもわかる。

 

本作を理解するためには韓国という国の苛烈でタフな現代史に触れなくてはならない。日本は1945年の敗戦をもって一夜にして自由民主主義体制へ切り替わったが、韓国は第二次世界大戦後もまだ続きがあった。南北に分かれての冷戦代理戦争:朝鮮戦争(1950-53)、李承晩の独裁政権に対する学生運動、四月革命と軍部クーデター(1960-61)、軍部独裁政権への移行、朴正煕政権下での急激な経済成長「漢江の奇跡」(1960-70年代)。その裏で民主化は弾圧され、林政権の長期独裁状態にあった。

1979年10月に林大統領射殺事件が起きると、文民出身の崔圭夏が大統領に就任、学生の民主化運動と組合運動が活発化する。これがいわゆる「ソウルの春」で、民主化の風が吹き込んだかに見えた。

が、軍の全斗煥将軍が軍部クーデターを起こし、盧泰愚を中心に独裁化を図る。これへの強い反対運動・大規模デモと軍とが衝突。厳しい弾圧により多数の市民の犠牲者が出る。これが1980年「5・18事件」である。

民主化が果たされるには、1987年の6・29民主化宣言を待たねばならない。

www.hanatas.jp

国家が市民、国民の敵となって弾圧にかかる。最も基本的な暴力の形、その結果が長きにわたって自国民を傷つける。「韓国」と「歴史」と「傷ついた国民」というと、どうしてもこれまでの日韓関係のこじれと応酬から特定の話題にしか連想が向かわないが、その実、韓国は波乱と傷に満ちた現代史を抱えていた。

 

想像以上にナイーヴで複雑な事情と感情を抱えたすぐ隣の国。このことは今年1月のグループ展:「韓日国交正常化60周年記念 現代写真交流プロジェクト『乾いた土地』」展でも実感したところだ。

www.hyperneko.com

韓国(人)の抱える傷というのは、南北に分かれて同胞同士が思想によって分断・対立し殺し合っただけでなく、その上さらに南の中でも長きにわたる弾圧と抵抗、対立してきたことで、二重、三重に深く刻み込まれてきたものだと実感する。中心街を歩いていても、見た目は何も分からない。しかし、こうして歴史が示されることで、ようやく知るのであった。

 

 

【A9】岸本絢(Aya Kishimoto)「Behind Motherhood」

純白のヴェールで顔を覆った保育者=母親、の像は、何重にも皮肉と批判を込めた、無言の抵抗として現われる。「白」がそうしたパワーとして用いられるのは先述のミラ・レイ・サラバイ(Mila Rae Sarabhai)「窓 Mado」とも通ずるところがある。

母親に課せられた責任と役割と期待の重さは尋常ではないが、その存在は社会、職場、家庭においてすら常に献身のシャドウとなって不可視化される。そこに母性信仰の聖性がどこからともなく付与され、見えない母親労働の上から覆い被せられている。そうした実態をビジュアルで端的に表していた。見事な聖母像、絵画的な作品だ。

それぞれのカットで背景―屋内の風景が異なるようで、乳幼児のいる複数の家庭に協力を得て制作されたと思われる。それだけの共感者がいるということだ。

 

この話は2つの方向で更に課題と発展性を孕んでいる。一つは母性への聖性の源泉、どこから聖性は供給されているか?という問い。端的には親世代だと思うが、そうした親世代を支持母体とし、マスとしての社会基盤としてきた政治的党派性も否めない。

もう一つは私や作者よりも更に若い世代の感性、家庭観。母性・母親役の解体・分業化が、こちらの想像以上に進んでいるのではないかという問いだ。父権は失われ、労働分業としての「親」が各家庭、夫婦間に課せられている。明らかに急速な変化を迎える中で、「母親」像は変容するのか、それとも保守的に再強化されるのか? 

そうした時代の機微、変遷、差異もがビジュアル化され、更新されてゆくとしたら、きっとおそるべき作品シリーズになる。

 

【A10】中西宗平(Sohei Nakanishi)「Urban Paradise - neither inside nor outside」

個人的興味と感覚でいえば最も好きな作品、都市の断片を切り取って再構築させるときに何が見出されるか。作者は、管理・ノイズの排除されきったかに見える都市から「生活の痕跡や人間の癖、無意識の振る舞い」「日常の営みの余白や些細な仕草」の潜み、滲みを写真によって捉える。

都市機構を主体として見れば「棘」、都市を人間の生活場と見れば「暮らしの痕跡」「生活のざわめき」となる。

穏当な表現だ。

私も長年、都市空間内で写真を撮ってきてぶち当たった問題がまさにこれで、とにかく大規模再開発で真っ新になり、維持管理の高コスパ化&顧客管理の徹底化により無駄とノイズを排除しまくっているので撮るものがない。隙も特徴もない、Webページのインターフェースのように完結されたフラットな空間が占め、カメラと撮影行為が逆に大きなノイズ・異物として浮かび上がる=排除対象候補となる。

 

撮影行為は猟または漁で、特に都市スナップは瞬時に時空間へ網や釣り針を掛ける行為に近い。針を掛ける場所がとことん尽きた都市は透明度だけ高くて痩せた川に似ている。魚はいない。その中でかろうじて見出された、針のかかる隙や異物が本作に収められていることになる。

都市空間における異物同士、ノイジーなもの同士の邂逅の接点が本作に写されたものと見ることができる。おそらく都市側には綻びやノイズの自覚はない。写真/写真家の側にとって針を掛けられる可能性のビジョンである。

これで本作が試みたことが2つ。一つは過去の写真イメージの反復と更新。かつてどこかで見たような写真、かつてどこかの写真で見たようなもの、を再帰させ、所属を奪還する。もう一つは、写真自体の更新。唯一無二のオブジェクト、時間、空間を手放し、無意味で平板で無機質で非美学的なレイヤーへ写真自らも到達する―Web化した都市のありよう自体を複製すること。

写真は都市空間に対して無効化したのではなく、関係の再構築を迫られていて、都市の管理運営の隙を人間的/写真的に暴き、写真を都市側に複製する。同時に、写真自体が都市のイメージ構造に近付いてゆく。この相互作用が本作にはあると考えた。

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はい。

 

いつもに比べてなんだか辛辣というか棘のあるレビューになってしまった。限られた空間で多元的な作品をインスタレーション的に展開することの難しさを知った感がある。作家個々人の問題ではなく、現代写真それ自体に託される意味や論旨が構造化し、複雑化していて、結果、写真のビジュアル表現の器を超えて飽和しつつあるのだとしたら、どうだろうか。

 

その問いはまだ早計か。だがいずれにせよ。

コンセプトと写真とが引き裂かれるか、一体の構造体となって示されるのか、写真それ自体の中身を見ることができるのか。それらの統御力トリテラシーを観客側に強く求められているのは実感する。昨年もそうだったが、今回は会場スケールがコンパクトになったことで一層、コンセプトの構造線が切り立って目に入ってきた感がある。

そんな中で、「写真」のビジュアルが最もストレートに生きていたスリダー・バラシュブラマニヤムがアワードを受賞したのは当然とも思われた。

かつて「KG+SELECT 2019」で福島あつしも同様の観点で評価されアワード受賞したのではなかったか。どうやろね。

 

ただ、矛盾するようだが、「KG+SELECT」がただのニコンサロンの写真展みたいな形態になるのは違うと思う。今の路線で、バリバリに海外目線から批評され、勝負し合う、試合場であってほしいのは確かな気持ち。我儘ですけども。はい。

 

完( ◜◡゜)っ