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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】熊谷聖司ゼミ_チェキを利用した実験的な試みのプロセスと表現の可能性を学ぶ修了写真展 @T.I.P-72Gallery

【写真展】熊谷聖司ゼミ_チェキを利用した実験的な試みのプロセスと表現の可能性を学ぶ修了写真展 @T.I.P-72Gallery

 

写真家・熊谷聖司のもとで、チェキ(Instax)を用いた写真表現の可能性を学んだ生徒17名による修了展。熊谷聖司「瞳を閉じて見る世界」展とは同じギャラリーでフロアを分けての同時開催となっている。

※なお、本企画は会期中に次々と作者が手を加え続けること(ライブ感)が推奨されたため、私が観てblogをしたためた時点と、会期最終段階とでは、相当に作品が変化していることを断っておく。観て比較できなかったことが残念です。

 

 

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【会期】2019.3/20(水)~3/31(日)

【時間】12:00~19:00(最終日17:00)
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【展示】熊谷聖司「瞳を閉じて見る世界」 

www.hyperneko.com

 

  

「チェキ」と言うと、 結婚式の二次会でメッセージを書き込んで手渡したり、日常景のポップさやアンニュイを手早くポラロイド風に表現できるツールとして、世間に広く認知されている。

本展示では、全5回のゼミを経た生徒らが、そうした固定観念を超えて、個々人の想い、記憶、表現の可能性を実験的に追求している。

 

その結果、ポラロイド風の感傷的な私風景とも少し異なるし、実験インスタレーションともまた異なる作品群となっている。

各自の組み方は自由で、サイズ、立体感だけでなくキャプションの有無、フォントも展示の一部として写真と等価に扱われる。各自に割り当てられた壁面スペースそれぞれが複合的に1枚の写真となっているかのようだ。

 

たくさんあるので、限られた鑑賞時間の中で、瞬間的に印象に残ったもの、その場で思わず撮っていたもの等を記します。

 

 

黒川和美

正方形で現された身体、肉と体温の放つ力は、引力を持っていた。チェキにせよポラロイドにせよ、その像の不確かさは写し撮られた光景をどこか遠くへと送り、鑑賞者と写像との合間のノイズやとろみが思慕や郷愁、追憶の念をもたらすのだと思うが、本作ではそれが反転していて、気持ちが良い。映像だけで力があって気持ち良いので、題字やキャプションが写真に近すぎない方がいいと感じた。

 

 

◆松永奈々

知らない間に撮っていた。壁のブルーが駆り立てるスピードが快感だ。気持ちが良い。この即興性、即物性こそチェキフィルムの真骨頂なのだろう。

壁面を含めた面全体で1枚の作品となっている。個々の写真は思い出、作者の影、都市のパーツ、鳥の集合、風景などと多岐に亘っていて、カテゴライズできそうでうまく出来ず、物語になりそうでしかし物語として語られることをすり抜けてしまう。《EACH LITTLE THING》の独自解釈版のような趣もある。どのカットも色と形がしっかり出ていて、生命力が豊かなのが、スピード感という印象に繋がっているのかもしれない。 

 

◆増永隼人「HOLY FORMAT」

エモーショナルな光景の作品が多かった中で飛び切りの異彩を放っていた。モバイル端末を用いた、レトロゲーム仕立ての作品である。任天堂ゲームボーイの意匠がそのままインターフェースに引用されていて、鑑賞者はAボタンを押して作品のページを進めていく。

写真による都市景から、一転してCGで作られたような描画になるのには驚いた。これもチェキで工夫するとこのようになるらしい(詳しい手法は忘れた…)。日常の時空間に裂け目が生じ、砕け、空の破片が飛び散り、別の世界がこちらへ現れようとしている。90年代前半頃のサブカル世界観がよく表れていて唸った。聞けば作者と私はほぼ同い年であった。

写真は高尚でなくてよいし、作者が社会性を意識していなくてもよいし、ドキュメンタリーを無視してもよいと、私は考えている。ゲームへとリンクして良いし、アニオタであってもよいし、ゲーム世界が写真界へと侵犯してきても大いに結構で、むしろ私のような世代にとっては、サブカルチャーのフォーマットこそが故郷であると、常々思っている。  

 

◆榎本八千代「明晰夢 / Lucid Dreaming」

 『私は14年前の2005年8月からずっと、夢を見ている。』と書き出される約2,500字の記述は、作品に写らなかったものへ向けて捧げられている。作者が生きている間ずっと見続ける「夢」は、現在進行形で続いている「喪失」の体感を可視化したものだ。それは前作《20050810》において、幼くして急逝した息子の遺品を通して向き合ったものを、よりダイレクトにより強く「今、ここ」へ引き寄せてゆく試みだ。

カメラという写真装置そして写真行為について、哲学者ヴィレム・フルッサーの考察を引用しながら、作者はいかにそれらから自由な立ち位置で表現を行うべきか模索している。全ては語り得ぬ存在のため――「喪失」の現在進行形の実感と生で向き合うためである。作者は戦っている。個人的な感傷に囚われないよう、しかし喪に服して終わりにしてしまうことのないよう、作者は自身を満たす喪失感、ひいては、ここには絶対に写らない何ものかを「作品」へと昇華させるために、持てるもの全てを総動員して戦っている。

その試みは成功していて、それでいて「喪失」の力は深く、それゆえに私は何日間も、書くことをためらった。ここには「作品」の形をした「喪失」そのものがある。

私は通常、作品を鑑賞していて感動することはあっても、動揺することはない。しかし本作が写し出す「白」、すなわち写せないもの=「喪失」そのものの深さと強さに、思わず動揺させられた。即効であった。ひどく動揺してしまった。作者の日常である「明晰夢」の多くは、白い。空隙が占めている。喜怒哀楽のいずれにも属さない。何か、でもない。圧倒的に「ない」、ということそのものだ。私が言及してよい話ではないとその場で思った。 

しかしやはり書かねばならないと思った。氏は「作者」としてこの場に現れた。過酷な経歴を語りつつ、全てを「作品」へと昇華させるためである。

その手法や発想は、本講座の講師を務める熊谷聖司氏の作品とことごとく真逆だ。作品は細身のフレームで額装し、チェキフィルムの1枚ずつをマットに収め、アクリルで封をしている。チェキフィルムは使うが、チェキカメラ自体は使っていない。熊谷氏の「夢」の朧げな世界が触れそうで触れられない読み手の想像の場と化しているのに対し、榎本氏の表すアブストラクトな光・色の描画はかなり直接的な面として表れていて、読み手の想像に属さず、「白」がこちらへ逆浸食してくるようだ。  

語れないこと、写らないものを表わそうとする試みは、一般的にアートに期待される癒しの効能と全く別種のもの、まさに実験、格闘である。作者は熊谷作品を研究し、ギャラリーに足繁く通い、写真評論にも造詣が深い。私などには想像もつかないが、今、表現がすなわち生きることそのものなのかも知れない。作者は「作品」を育て、自立させてやりたいと切に願っているように、ひしひしと感じた。

 

 

 

 ( ´ - ` ) 完。