2年間の学びで得た技術や世界観を発表する修了制作展。多数のクラスが交代で展示をしていくが、私が見たのは「クリエイティブフォト専攻」である。
年齢層の若さもあって、従来だと身近な日常や心象、あるいはストリート・都市景のスナップ写真が主だったが、今回は家族やインスタレーション的な壁面コラージュなど、ジャンルのバリエーションが広がっていた。
【会期】2/1~3/1(1週間ごとに各専攻ゼミが交代して展示)
- 1ー① 小谷若菜《かたちのないもの》
- 1-② 松田莉歩《Identity》
- 2-① 周端《私の中のロマンチック》
- 2-② 橋本憧子《現実休憩》
- 2-③ 杉井陣太《copy and paste》
- 2-④ 石田翔陽《傍ら》
- 2-⑤ 清水佳祐《ウォークアイランド》
- 3-① 武田和也《Grace》
- 3-② 運上明愛《undress》
- 3-③ 今田実和《和花ちゃん》
- 3-④ 西川柚里奈《はるよ》
- 4-① 森優風《脳内スケッチブック》
- 4-② 黄曉麗《式微・止まれ》
全18人の作家が展示しているが、同じスナップでもジャンルの区分に広がりがあるため、以下のように4つに大別しながら、気になった作家をピックアップしてみる。
2.都市景スナップ
3.ポートレイト(仲間、家族)
4.インスタレーション、コラージュ展示
以下、なんか思ったこと感じたことをメモ的に書いていきます。学校の講師でも何でもないのに何いうてんのて感じですが何やらかんやら。
1ー① 小谷若菜《かたちのないもの》
光沢の強い折り紙を撮った写真に見えるが、写真自体を折ったものだという。ステートメントによれば、接写撮影→像を反転→印画紙を折る→プリント、という工程で作られていると思われる。
元画像が何なのか分からないが、パターンの連続が見える。反転したことで抽象化が進み、高級な折り紙の絵柄のようになっている。言うならば、落ち着いて馴染んでいる。手法が攻めている割に、かなり見慣れた絵柄に落ち着いていて、意外性がなさすぎるのが勿体ないと感じた。
「縦横、上下左右がない」ことでイメージの自由度を上げるのが趣旨のようだが、反転による抽象性は素材化に近く、実はイメージの広がりが乏しい。更に、「折る」ことで四角のフォーマットも強化されて、逃げようのない守備力が上がっている。反転させず像そのもので抽象性を突き詰めるとか、折り方に綻びを加えるなど、更に攻めた手法があってもいいと思う。Ryu Ikaは矩形(立方体)フォーマットの制約を人間の顔面を使うことで攻撃力に展示させた。
1-② 松田莉歩《Identity》
4枚1組で、「フィルムで撮影された写真に、いくつもの手作業と無作為を加えていった」とあるように、現像と暗室作業、プリント素材で何らかの迂回を施している。恐らく青い2枚はサイアノタイプだろうか。下段右側のモノクロは透明フィルムに印刷している。
狙いとして、写真が自分(の個性)と繋がっていることを認め、自分を突き放して見るために直接的な表現を避けたという。確かに、日常的にこなれたものでない技法や素材、特に古典的な技法へ変えると、そちらが主題化するというのは当然の帰結だ。だがこれだと何が写っているのか、なぜその被写体・シーンを選んでいるのかが読み取れない。
せっかくの技法・素材のチャレンジなので、例えば全く同じ日常のモチーフやシーンを題材にしながら幾種類も変位させていって、自己の遠のきを実験して見せるとか、何か切り込み方を深めていくと面白くなると思う。
2-① 周端《私の中のロマンチック》
4枚1組スナップで、日常の中に潜む光の情景を捉えている。日常の平板さ、硬質さ、直線的さをふやかし、微睡ませる光の効果を「ロマンティック」=現実を離れた甘美や空想的、情熱的なもの、と呼んでいるのだろう。
黒い手が光で燃えているようなカットは異質で、強靭だ。系統は違うが、日常の時空間を穿ち、鑑賞者側の時の流れをも止めてしまうのは石野郁和の作品に近いものがある気がする。
その他の3点では、光を催させているのは霧やモヤである。中谷芙二子と相性が良いと思う。手の1点は像の内側とも写真自体ともつかないところから発光しているのに対し、3点は光の細かい反射と拡散を外からスナップとして撮っている。前者は記憶を受け付けない発光=非現在の未来であり、後者は記憶をプロジェクションする膜=過去と現在が並列に出会う場である。
2-② 橋本憧子《現実休憩》
プリントの具合なのか不明だが、会場が歪んで写り込んでしまって、作品の本来の姿がどうしても写せなくてすいません。
5枚組のスナップ、それぞれに特に関連はないようだ。が、右手前から左奥に向けてラインが走っている(道、影、虹、階段、手すり?)構図は共通している。
《現実休憩》というタイトルからすると、何気ない日常の中に見出された、気を緩められる隙間ということになるだろうか。しかし実際の物理的な場所というより、写真の中――観念のビジョンとしてのみ存在する場所ということか。
だがやはり各写真を貫く構図の共通性に、写真の持つ緊張感や、イメージの反復という命題が指摘されているので、そこを文法として突き詰めていく、写真的文法をメタに追求することで外界の見え方を疑う・変えていくと面白いと思った。
2-③ 杉井陣太《copy and paste》
4枚1組の縦写真で構成するスナップで、構図の種類:平面的な立体、平面の中の点、点、平面の中の線、というパターンを列挙して見せている。絵画を離れ、外側に都市光景から文法を作る、モダニズム的な作法である。
平面の中に単点を置くスナップは定番だが、右下段の、強い陰影の中で浮かび上がる構造、奥行きのある線(細い面)は新納翔『PEELING CITY 都市を剥ぐ』で被写体が浴びる陽光と表面性:表面とは?光景とは何か?の問いを思わせる。
本作は展示作品だと大人しいが、ポートフォリオは前後左右の繋がりを排している分、1枚ずつが力強くて断然良かった。
見慣れた都市景スナップで、特に珍しい・新しい指摘でもなく、誰しもが撮るものだが、普遍的ゆえにひたすら撮り続けるべきものだと思う。都市景の中からスナップならではの画角とスピード感で繰り出されるイメージは写真独自のものであることに間違いない。
2-④ 石田翔陽《傍ら》
縦4段、7枚構成のスナップ写真群で、造形に注目しているらしいが写真間に直接の繋がりがない。具体的な風景と影や円形の光、色という互い違いの写真が並ぶ。
これも先述の橋本憧子作品と同じように、構図の図形としての共通と連鎖:四角、丸、三角のシークエンスなのではないだろうか。隣り合う作品が図形的に呼応して連鎖していく。具象と抽象のリズム感が主題というより、その二者を問わず共通した「写真の構図」という基本的な文法に言及している点が主題なのだろう。
そういう視点で捉えるとスナップは実験が色々とできて面白い。阿部淳や百々俊二とは全く違うスナップは可能である。
2-⑤ 清水佳祐《ウォークアイランド》
ビジュアルアーツの作品というと、こうした「街」を人と共に切り取る・写し止めるスナップものが多かった(もっと人物が主役だったが)。従来作に比べると都市の風景写真に近いスナップだが、記録にしてはエモーショナルさが強い。この人物との距離感の遠さは今の時代の感性として何を語っているのか。写真×都市景は既に、反復の末にノスタルジー=古典となっているのだろうか?
都市景自体がこの20年間で停滞、同じパターンの繰り返しを迎えたのか、一般的な写真が同じことを繰り返した果てに、自分や仲間らの共感というエモーショナルさしか言うべきことを持てなくなったのか、色々と連想させてくれる。
3-① 武田和也《Grace》
ポートレイトとスナップを組み合わせ、白く遮光を入れてエモーショナルな雰囲気でまとめている。ファッション系の記事に合いそうな柔らかいフィルム味を出して、目と印象に残る色味、カット、陰影で包んでいる。奥山由之と木村和平をうまく継いだテイストを感じる。それゆえにその2者あるいは他のフォロワーとの差異、独自性を出すのは至難ではないだろうか。
その点、中央に置かれた、ケーキの写真上下2枚組と、その隣の頭に虹色ヴェールを被った鏡合わせになった女性2人組。この2枚は、面白い。素朴でいて非現実的な演出というか、像のツイン性が現実との繋がりを揺さぶる。単一であるべきものがツインになり、完璧な二重ではなく似て非なる二重性で、真実が残像となるのが、意味を理解できそうなところで意味を捉えられない戸惑いが生じる。ポップなフェイクが面白い。
3-② 運上明愛《undress》
写真展示の下に、着ていた衣服を積んで展示している。積み上がっていて衣服の全体像が見えない状態である上に、写真より手前で存在感を示しているので、単なるファッション写真や、ファッション風のインスタレーションとも言い難い。
一番上・横位置の写真と2段目・左側の縦位置写真の対比が、本作の言いたいことを表わしているように感じた。服を「着た」私(彼女)と、服を「脱いだ」私(彼女)との対比がある。
今のところそれ以上は読み切れなかったが、服を剥いでアルミの防災シートに身を包む姿に、これら実物の衣服の積み重なりが呼応するはずだ。衣服と「私」との関係。ただ、「本当の私」の露呈や主張は必要としていない感じ、抜け殻も含めてどれも「私」という腹の座りようは90年代と大きく違う気がする。
3-③ 今田実和《和花ちゃん》
この数年来、ビジュアルアーツの卒展を見ているが、生徒が非常に若いこともあって、家族、しかも自分の子供というテーマの作品を観たのは初めてかも知れない。
第2子を妊娠している身の作者が、これから姉になる第1子にエールを送る意味で作成した、パーソナルな作品である。と言いつつ、濱田英明『Haru and Mina』のように、多彩なシーンで光と色を駆使しながら、我が子を一人の個人として、なおかつその世界の主役として撮っていくスタイルは、上手い。生まれて間もない頃からのカットも混ぜられ、成長の記録にもなっている。
私は出産も子育てもしたことがない半ちく者なので、それがどのぐらい過酷なことなのか想像が付かないが、まあ人によっては消耗戦で、息つく間もないとも聞く。そんな渦中でもこうして、しっかりした写真を撮ることが出来るのだと示してくれているのは、大事なことかもしれない。
空をバックに、網に留まったセミの写真がすごく印象的だった。こういうのを撮れるのは、やはり上手い。同じ手法で愛別離苦、喪失感も撮ってしまえるだろう。ただ、齋藤陽道のように、否が応でも強く記憶に残るカットがあるかというと、どれも標準的で、安全な写真である感は否めない。
3-④ 西川柚里奈《はるよ》
がっつりとした家族写真、これもビジュアルアーツでは珍しいテーマだった。被写体=主人公が年齢的に母親なのか祖母なのか断じ難いが、もし作者が20歳前後だとすれば若い祖母でもおかしくない。いや、少し年がいってから作者を生んだ母親なのかもしれない。そのあたりの、女性にとって境目となる、初老とも言える微妙な年齢の表情を、アクティブかつ前向きに捉えた写真であろう。
それぞれのカットの躍動感とユーモアが優れている。先の我が子の写真と同様、こちらも純粋に上手い、反射神経がある。日常生活動作の中で絵になるところをしっかり押さえていて、「探偵ナイトスクープ」のダイジェスト版みたいな温もりがある。
画面中央、主人公の後頭部のアップと、右へと伸びた街路灯+鳥の組み合わせのカットに、作者のセンスを感じる。ドキュメンタリーもきっちりこなしつつ、非現実的さも含んだ造形のテイストを見い出せるタイプだ。幅広く活動できそうである。
4-① 森優風《脳内スケッチブック》
再現が難しそうな、吹っ切れた高密度のインスタレーション、大量のスナップが貼り重ねられている上に、写真の多くは切り抜かれ、布や小道具の装飾も混在している。
作者自身か気心の知れた友人モデルかのポートレイトを多用しつつ、街のスナップ、モノのスナップを混ぜ、しかもフラッシュ光で浮かび上がらせたりフィルターによる変色を掛けたりして非現実的な、入り組んだ夢の真っ最中のような世界観を演出している。これは赤鹿麻耶の手法を参照したのではないだろうか。
赤鹿麻耶の作品が醒めることのない夢:「こちら」の現実と、写真・映像的フィクション・演出の世界とを、同列に文法上で混合することで、非常にはっきりとした「夢」という迷宮を打ち立てる――誰のものでもない集合的・象徴的な記憶の場を仮想上で呼び出すのに対し、本作は身近な仲間らとの日常と関係性を重視し、それらの映像を力技のDIYで撹乱することによって、唯一性の尊さと儚さを「夢」という不可侵の場へ引き上げている、と解釈した。赤鹿は仮想の世界を、森は現実の人間関係を表現しているという大きな差異がある。
ポートレイト、人物の顔が散乱と重層を密集して繰り返すことの最大の効果は、登場人物がどこを向いているか、意識・意思のベクトルが混線することだろう。つまり鑑賞者とも撮影者ともつかないところへ視線=作品世界は行くことになる。これが本作の「夢」の構造である。もっといい言葉があると思うが、赤鹿麻耶の前作に倣ってとりあえず「夢」と呼ばせてもらった。
作者の付けたタイトルは、もっと冒険していいのではないか。この密度とパワーなら、「まだ形にならない脳内アイデア段階なんです」と自重する必要もないだろう。ドキュメンタリーとファンタジーのどっちをやりたいのか、どっちに振り切るのか、と問われていくことで、更に変容していくのだろうと思う。
なお、ポートフォリオの方は『私のマブをご紹介します』と、非常に率直なポートレイトで、力強さがあった。どこでもしっかり撮れる人なのだと分かった。成人以降の、大人の女性しか相手にしない梅佳代のような。でもインベカヲリ☆まではいかず、もっと素朴な実像を撮ると。こうした立ち位置は面白い。世の中とにかくコロナとか低賃金とか低成長とかポリコレとか戦争とかで暗いので、DIYファンキーの精神は大事だと個人的に思っています。はい。
4-② 黄曉麗《式微・止まれ》
前出の森優風と並んで、インスタレーション作品で、同様にとても説得力があった。「あんたインスタレーションなら何でもええんか」と呆れられそうだが、多数の文字・画像情報が同時進行で次々に手元のスマホに流れてきて、過去の「流れ」はほぼ二度と再現されない現在の写真体験の状況では、情報の過剰さと制御と同時多発性こそ現実感のリアリティなのだから、仕方がない。
本作も身近な友人・仲間らと日常景が組み合わされているが、組み合わせ方が全く異なる。1枚ずつの間隔が保たれ、コラージュではない。土台がバラバラで、色付きの土台を噛ませたシリーズ、1枚の大きな写真を破いて文字で繋げたシリーズ、シンプルに写真を並べたシリーズの大きく3つがある。
これをどう読めば良いのか分からず、会場では謎のままでいたが、ポートフォリオを読むと『個人と社会との関連性を上編(泥棒3月)・中編(1 or 0)・下編(都市妖怪)を通して伝えている。』とあり、3シリーズを1平面上に同時展開していたことが分かる。とはいえ厳密に写真の内容が切り分けられているわけではなく、人か光景か、素撮りか演出か、具体物か空気感かという違いはあれど、やはりこれらは同じ作者の周りにある、同じ日常の世界線上にあるものと言わざるを得ない。
では、本作の謎=構成が分からなかったため作品の意味を解することができなかった、すなわち構成が分かればごく普通の日常系スナップとして納得がいき、了解できる、それだけの、大風呂敷を広げた作品なのだろうか? そうではない。
中央の大きな、割いてから繋ぎ合わせた写真は奇妙な魅力を放っていた。パンである。
複数の写真がコラージュされているように見えたが、ポートフォリオでこれが1枚の完結した写真だと分かった。3人の女性が並んで、食パンを瓦のように積み上げて、顎や顔を乗せている。白い服、黒い髪、焼けた茶色いパンの耳と手、この3色から成る。シンプルにして奇特な、儀式めいた、意味ありげで意味不明な、特異なカットだ。この1枚は圧倒的に異質である。
この1枚だけでも威力があるのに、割いて、繋いで、言葉をかすがいのように継ぎ目に当てている。「いくらで私と付き合う?」「君は冷たい石だ」「ガラス瓶で彼らの頭を殴りたい」「君の汗が好き」・・・などと、男女の間柄のような、仲間との他愛もないやりとりのような、しかし作者が言っているのか言われているのか判然としないメッセージが散りばめられる。
改めて元の写真で確認すると、食パンは1枚ずつラップ包装されていて、冷蔵庫保管用だと分かる。この女性らもビニール袋を頭から被せられ、パンと同じようにモノのように管理される、無垢な消費財であることが示唆されている。その扱いを目を閉じて、顔を伏せて受け入れるのみという、日常の中に潜む不条理さや無力感が表わされつつ、脱力感の漂う演出であるため、悲壮感はなく私的さも薄い。
画面内に飛び交う「言葉」は、人間スイッチが切れて冷蔵保管のパンのようになってしまった「私」から、受け止めきれずに零れ落ちてしまったと同時に、バラバラになりそうな「私」をかろうじて繋ぎ止めている、そんなコミュニケーションそのものを物質化したもの、ということだろうか。言葉があったからヒトの形を保っていられる、みたいな。
こうした演出・象徴の作品がメインに来ていることは、ただの日常語りにとどまらない表現の力がある。ゆえに目が離せないのだろう。空と多重露光か合成で合わされた熱帯魚のイメージも、不自由さ、窮屈さを感じる。
なお、ポートフォリオのほうは技を使わず、1枚ずつストレートなスナップが続くという、非常にオーソドックスなものだった。これはこれで面白いが、この作者であれば、展示のような訳の分からなさ:繋げては離す、千切っては繋ぐ、という構成上の操作を期待してしまう。写真集のような平面でどこまでインスタレーション的なことが可能なのか、ぜひ試行錯誤を行ってほしいと思う。
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様々な写真展示や写真論に目を通していることもあって、やや上から目線の書き方になってしまったのと、全員の方を紹介することが出来なかった。
基本的には色んな形・シチュエーションで「写真を撮る」人がいないと、写真というもの自体が存在を担保されないので、とにかくみなさんじゃんじゃか撮って、発表していただきたいと切に願っております。写真の存在を既成事実化しましょう。特にスナップ。火をたやしてはなりませぬ。わああ。
( ´ - ` ) わめきながらの完。ありがとうございました。