私の母校である「大阪国際メディア図書館 写真表現大学」のゼミ生3名が、同じギャラリーのフロアを分割し、個展(写真展)を同時開催した。
「里庭」「裏庭」「気持ち」、三者三様の表現に何が見えるのか。
ポイントは3点ある。1点目は、グループ展ではなく「個展」として、3名の展示内容は独立したものであること。会場こそ同じギャラリーの同じフロアだが、フロアが相当広いため壁面の配置によって区切ることが可能となっている。
2点目は、3名とも写真家キャリアのスタートラインとして、「初」に近い形での個展開催であったこと(坂本は2023年3月に初回を開催し今回は2回目。よしざき、仲宗根は初回)。
3点目は、入学から一定の期間を経てテーマと内容を練り上げ、されど比較的スピーディーに展示へ結び付けていることだ(よしざきは2018年、仲宗根は2019年、坂本は2020年に入学)。
私自身がやってきた経験で言うと、初個展をやるのはたいへんです。初回が一番たいへん。何がというと、まず(略
大変だということです。では3名の展示を見ていこう。
なお、今回のレポは作品の価値評価というより、解釈論。個展として発表されたものを通じて、どんな解釈へと展開できるか、読解の可能性について考えていくという意味合いです。
◆よしざきしほ「里庭」
美しい草花が咲き誇るのは、作者の母親が手入れしている自宅の庭である。
本作に写るものを表面的に(悪意を以って)良いとこ取りをすれば、例えばこうも評せるだろう。「作者の高齢の親は悠々自適の老後生活を送っており、庭付き戸建てにて庭いじりをして季節の草花を愛でている」、つまり高度成長期の夢を叶え切った「アガリ」の世代で、優雅で富裕な層の回顧録である・・・などと。
だが作者の置かれた状況を知るにつれて、そう簡単な話ではないことに気付かされる。
華やかな庭は、まさに夢や憧れから始まり、そして現在、現実を孕んでいる。
会場に掲示された作者による作品解説文(ミニ写真集『お母さんの里庭 ―庭を見る、母を知る―』掲載)を読んでみよう。作品制作の動機や母親との記憶・関係もさることながら、「庭」というものについて、「庭付き一戸建て住宅」にまつわる上昇志向に満ちた時代の価値風景が綴られていて興味深い。
実家は両親が40代の頃、高度経済成長期に求めた一戸建てである。その頃私鉄がこぞって郊外の森や林を伐採し、住宅地として開発していた。当時サラリーマンが「庭付き一戸建て住宅」を持つことは憧れや目標であり、実家もそういう地域の一角にあった。
当時中学生の作者は公団に住んでいたところ、戸建て住宅に引っ越すことになって喜んだ。引っ越しの理由は父親の腰痛だった。
そんな理由でも、とにかく「庭付き一戸建て住宅」の仲間入りをしたのは確かだった。
ここに戦後日本、昭和時代に共有されてきた庶民最大の目標、価値の風景としての「庭付き一戸建て住宅」が豊かに描き出されている。この「家」こそが、正規職員の年功序列~終身雇用と、ヘテロセクシュアルな構成員を旨とする核家族と3点セットになって、国民的な正しさのトライアングルを構成していた。作者の親世代は見事に目標を達成したわけである。
達成の成果として、私有財産である「庭」を、無期限に自由にカスタマイズし続けられるという果実を得た。どれほど手の込んだ「庭」であったことか、驚くべき念の入り様であったことが上掲の文章で語られている。この「庭」は、かつて確かにあった日本の幸福な時代の、象徴的な風景なのだ。
これが本作の歴史性として語られる幸福の風景論であろう。
だが目標達成後の現在、ここ・令和にて、「庭」が現実としてもたらしているものは何だろうか。作者が作品制作を通じて向き合っているものの正体でもある。
大きなものは、この庭の継承・相続という問題、責任の風景論である。
作者の母親はもうかなりの高齢である(高度経済成長期:1955~1973年に40代であったならば、若く見積もっても現在90歳前後だろうか)。つまり母親の年齢的には、このボリュームたっぷりの「庭」管理人の世代交代が現実問題として迫っている。
作品は、母親が手をかけてきた「庭」と写真によって向き合うことで、母親の思いや家族の歴史に改めて向き合うという趣旨に仕上がっている。美しいまとまり方だ。だが実情を考えるなら、そのエモーショナルな物語の裏には重い問題がある。
写真とテキストからは庭の継承が簡単なことではなく、悩ましい話であることが同時に察せられる。シンプルに庭が広いのだ。草花の種類もボリュームも多い。それに細かく手入れが為されていて、人工的な生態系と美のバランスが絶妙にとられている。この量と質の仕事を、勤め人がそのまま引き継ぐのは容易なことではない。
割り切って断捨離して売りに出せば良い、と誰もが言うだろうが、しかし作品を見た後だと難しさを実感する。母・庭と自己との関係性を見つめて尊重すればするほど、その「庭」は財としての不動産ではなくかけがえのなさ、尊さそのものとも映る。簡単ではない。
だが温存したとて更なる悩みも想像される。単純に日々の仕事や生活に忙殺されて放置することになるのではないか。売りに出そうにも、立地など経済的条件からなかなか買い手がつかず、結果的に放置されてしまうかもしれない。庭だけ切り離して売るということも出来ないだろう。すると庭は現代の「里山」化する。
本作タイトル「里庭」は緑が豊かで、住まいとふるさと的な自然とが同居している、庭サイズの里山との合いの子状態であるような、ほっこりした情景を表現しているだけではない。奇しくも現在、全国の「里山」で起きている事態をも連想させる。
「里庭」という言葉で、自宅の庭と日本全国の里山とは、入れ子のように重なる。
世代交代、相続によって手入れされなくなった山や田畑などの耕作地が、日本中で増加している。荒れ果て、自然災害に対して脆くなり、野生動物の緩衝地帯としての役割を果たせず、その下の住宅地を脅かしている。だが里山は、現代の現役世代にとって極めて扱いづらい。都市生活者にとっては手を入れて使おうにも手が回らず、売るにも買い手がつかない。少子高齢化でシュリンクし続ける地方自治体の掲げる「コンパクト・シティ」は、まるで里山の暴走から避難するように都市機能を中心へ集約しようとする。そんな状況が、戸建て住宅というミクロな生活・経済圏と重なって見える。
隣近所の家が、既に取り壊されている。
達成されたニュータウン、「庭付き一戸建て」という戦後日本の夢と目標は、ついにその世代とともに終わるのだ。これは平成をも終えて、令和に生きる現役世代が迎える新たな風景論の兆しの作品なのではないか。
本作については、個人的に面白かったポイントがある。
母親の手入れしている「庭」の範囲は、実は持ち家に付随する土地に留まるものではなかったことだ。
準・庭とも呼べる空き地の存在によって、庭は2倍近い広さとなっている。
所有する庭の先には高い壁があり、少しばかりの幅の道にフェンスが張られ、もう一つの庭園が出現している。更にその奥はコンクリートの擁壁が垂直に聳えている。
作者の家が建った頃、周囲は雑木林だったのが、更なる宅地開発を行うことになった際、隣接する住居が影響を受けないように幅2mほどのバッファをとったようだ。何の使い道もない空き地だったが、雑草が生い茂って虫が大量に発生したため、隣接する各家がその土地を管理することになったという。
この成り立ちも示唆的である。
山を切り崩して造成した結果、それは美しい庭付き戸建て住宅から成るニュータウンとなった。売れるので更に追加で山を切り崩した。だが少子高齢化が進めばニュータウンの需要は落ち着き、開発は止まる。新陳代謝は止まったところから更に、老朽化と人口減少の下り坂が進む。人の手の介入が緩むと、たちまちに追いやっていたはずの「自然」が顔を現し、境界を侵し、盤面を引っ繰り返しにかかる。都道府県のレベル、市町村のレベル、そして各個人の家のレベルで、「里庭」の自然の反逆が顕在化している。
本作はこうした「庭」の持つ制度的・経済的な側面にも思いを至らせる。他の多くの庭や家族を主題にした作品ではあまりこうした面に触れることがないが、本作は現実的な豊かさを孕んだ作品なのだ。
◆仲宗根寛子「裏庭学のすすめ」
2人続けて「庭」というテーマで、よしざきの「里庭」に対してこちらは「裏庭」と、かなり近いニュアンスを感じるところだが、特集されている庭の性質・位相は逆である。
仲宗根のいう「庭」は、個々人の住宅・家庭から離れた場の「緑」を扱っている。公共空間としての「緑」である。
写真1枚ずつに撮影地が記されている。「城南宮」「渉成園」「勝林寺」「詩仙堂」「瑠璃光院」「圓光寺」「平安神宮」・・・名だたる場所名が揃っている。いずれもただの都市公園、緑地ではない。関西を代表する寺社仏閣、庭園である。多くは今も都市の中心部に広い敷地で緑を残している。いかなる官・民の都市開発もそれらを侵すことができない、覆しようのない歴史や文化を保持する場所なのだ。
つまり強大な権力の効いている場所である。
「ガーデンミュージアム比叡」は比叡山山頂の民間土地活用なので例外的で、「詩仙堂」や「瑠璃光院」は寺の所有・運営する物件と割り切ることもできるが、例えば「渉成園」は豊臣秀吉、徳川家康との関わりも深い東本願寺の中にあり、「平安神宮」は1895年の創建と比較的若いが、平安遷都1100年を記念する復元物で、桓武天皇と孝明天皇を祭神とする。「城南宮」の歴史は平安遷都にまで遡り、やはり天皇や上皇との関わりが深かった。つまりここで挙げられた「庭」は、武家・公家から成る日本の権力中枢、日本史の体現者そのものと言えよう。
歴史のみならず外見、風景だけを取り上げてみても、どの「庭」も念入りな造園によって四季折々の美しさを誇り、歴史的な建造物の美を誇り、和・洋の美術品を揃えるなど贅を尽くしている。「日本の美」にフルコミットし、私達の情操、美意識を牽引している存在であるとも言えるだろう。
本作が静かにして大胆な「コロンブスの卵」であるのは、大文字の「歴史」や「国」のアイデンティティーに関わる場所を、しれっと(私達の)「裏庭」と読み替えている点だ。
単に場所性の読み替えというなら観光地化も同様ではないか。確かに権力性や歴史的背景と切り離された、消費に特化した機会をもたらすものだ。だが観光地では、場所(権力)側によって譲歩的に、限定的な立ち入り・利用権を与えられているに過ぎず、その主導権はあくまで場所側にある。一方で「裏庭」というのは利用権者の主従関係が密かに逆転していて、その言葉の行使者がそのまま「裏庭」の利用権を、ひいては裏庭と呼ぶか否かの決定権すら、人知れずアナーキーに握っていることになる。ラベリングによって一人で市民革命をやっているに等しい。
単なる「庭」ではまだ荘園的、国家的な権力がぬぐえない。「裏庭」であることが重要なのだ。誰の許認可も介さず、「私」だけが発動できる革命的な磁場転換だ。
「裏庭」が成立するための条件は、匿名性である。場所の特権性を認めた瞬間に、利用権はその庭側に奪い返され、「裏庭」と呼ぶことは出来なくなる。一目ではそこが何処かを同定できないように、あまたある風景の束に紛れ込ませなければならない。そのことを意識的に狙ってか、あるいは無意識でか、作品はそれなりに程々に美しい光景が、基本的な撮影技術によって写し取られているのみで、それ以上の華美、いわゆる「映え」や風光明媚、ことに場所性は強調されていない。抑制的であり、匿名性を保とうと意識されている。そこがどういう場所かを任意で「私が」決定できること、それが重要である。
国や自治体、歴史的な宗教法人が最大限の力をふるって保護・保全している領域を「しかし、これは私の裏庭でもある」としれっと言ってしまう。これは、翻って、官・民挙げての都市ブランディング向上のための大規模再開発、それが整備する公園や緑地の虚を暴くことにも繋がる。
高級な高層マンション、割高なホテル、高級ブランド店、割高な飲食店に長居できない排除ベンチ、そして緑化率の法的達成とSDGs・脱炭素への気配りの効いたイメージ向上のための緑・・・等といった高所得者向けハイスタンダードなパッケージが、全国の主要都市で次々に繰り返されているが、アナーキーにして低コストな反逆的「裏庭学」は、痛快な精神的実用価値をもたらすのではないか。皆さんも、ぜひご活用を。
◆坂本和志「善意の押し売り」
面食らう。作品は全て、人物写真を模した物撮りのデッサン人形なのだった。様々なシチュエーションをデッサン人形で再現していて、それはポートレイトと物撮りが入り交ざった形で表わされている。
写真学校に通い、ライティング撮影術を学び、技術習得や商業的展開の一環としてデッサン人形を用いたユニークな「習作」を撮り溜める中で、作者ならではのユーモアの独自性をPRするためにまとめられたポートフォリオ・・・とも捉えられそうな作風だが、本作はその域にとどまらない。すなわち「表現」行為が試みられている。
タイトルのように、作者は人間の「気持ち」を表現するために、あえてデッサン人形という軽いモチーフを主役に扱っている。
「気持ち」とは何だろうか。
一般論を振り返ってみる。「気持ち」は主観的表現として、特に現在では当事者である「私」が発する生の声が重視されている。当事者がどう思ったか。本人がどう感じたか。時系列はともかく、当事者の感覚、感情、記憶から成る証言 ≒ あるべき事実が「気持ち」として盛んに繰り出されている。事が起きてから何年もの沈黙を経て、今になって切り出される数々の証言・告発がその最たるもので、出来事と行為、その時思ったこと、そして何らかの感情を持ったと語ることの、一連の運動が紡ぎ出す文脈的膨らみが「気持ち」と呼ぶもののようだ。
本作では行為者だけがあり、関節しか有さず顔面がないので、語る行為を持たない。語れないものが何らかの行為をとり、あるいは何らかの状況に置かれている。ここで生じる「気持ち」は必然的に鑑賞者側のものとなる。
「気持ち」の生じ方には3通りあって、最もシンプルなものは人形の様子を見て受ける喜怒哀楽の印象の類。2つ目は「この人(人形)はこのときどんな気持ちだろうか」と、人形へ「気持ち」を代入する作業。そして3つ目は人形が「気持ち」の表出や受け渡しに困惑する様子などから「そこで流通している気持ちは何か」を考えさせられる作業である。
俯瞰して見ることになるので、「気持ち」の種類もさることながら、様々な角度と位置から「気持ち」が生じてくることが分かる。最も近いのはAC広告、寓話的かつダイレクトに諭してくるあの話法だ。SNS等で頻繁に飛び交う「気持ち」を巡る激しい応酬、血を血で洗うような感情闘争から少し距離を置いて、メタ的に心身をほぐすエクササイズとして本作は良いかもしれない。
だがそんな中でも、こうした区分けや読解があまり意味をなさなくて特異なのが、今回の主力作として提示された「葬儀シリーズ」だ(私が勝手に名付けた)。
仰向けの蝉に乾電池を与えたり、死んでいるであろう蝉を運んだり、自身が看取り(死亡確認)をされ(している側かも知れない)、遂には仏壇のおりんの前で座して合掌、成仏である。
一連のストーリーがあるのか無いのかも不明、全体の中での位置付けも不明だが、一般的な「気持ち」を巡る説諭にしても、人の「気持ち」のメタ論にしても、このパートだけ逸脱している。死別の現場とプロセスが簡略化されて描かれているのだ。よい逸脱である。これはシンプルに、作者が仕事として「お葬式カメラマン」を始めたことに由来しているのだが、ビジュアルの強さが文脈の逸脱を招いていて、別物として鑑賞した。
登場人物は皆、人形なので喜怒哀楽も「気持ち」もない。真っ暗な背景は真空の宇宙を思わせる。言葉や「気持ち」の代わり、エネルギー交換として乾電池を渡そうとしている。つまり電気の世界であって、蛋白質をベースとする生体のいない世界である。相手も蝉の形をした、精巧なマシーンの一族だ。
真空と電気の世界――人間が絶滅した遥か後の世界で、人間に似せて作られたものたちが、自分たちの学んできた「人間の気持ち」や「命」をなぞり、主人不在の世界で「人間」をやろうとしている。そして命も自我もないはずなのに、成仏しようと試みている。彼らはどこに行ける/逝けるのだろうか。
作者が日頃触れている死別の現場が、物言わぬ人形と蝉によって、思いがけない形で昇華されたのではないか。偶発的に生まれた『火の鳥』のような展開に、私は強く引き込まれた。
( ´ - ` ) 完。