「KG+」2026年のレポ。200を超えるKG+の中からどこを回ろうか思案しつつ、いきなり一番濃ゆいところをレポです。
【01】山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」@PURPLE
【05】平川典俊「母は私、私は娘」@ARTRO
【67】PIDAN「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想」@Gallery SUGATA

- 【01】山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」@PURPLE
- 【05】平川典俊「母は私、私は娘」@ARTRO
- 【67】PIDAN「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想」@Gallery SUGATA
KYOTOGRAPHIEサテライト展示企画「KG+」。2026年は「KG+」183、「SPECIAL Exhibitions」16、「KG+SELECT」10、と展示だけで209プログラムがある。全部回れると思ってない。
例年通り、本稿の展示ナンバリングは「KG+」公式サイト/MAP上の番号を参照している。
まとまった鑑賞結果を踏まえて、関連性を見出してセレクト&記述できれば理想的だが、観た先から書いていかないと物理的に間に合わないので、記事内でセレクトに脈絡はない旨ご了承いただきたい。
【01】山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」@PURPLE
エメラルドグリーンの透明な光を帯びた写真は想像以上に強力な印象があり、それは既に私に備わっていて、会場を一望したときには既に「始まっていた」。2018年に『We are Made of Grass, Soil, and Trees』(T&M projects)が出たあたりから話題になっていたが、展示がなく、写真集も買いそびれていたら高騰し、今回が生で初めて鑑賞となった。にも関わらず私の中では始まっていた。
作品は見たことがなく写真集も持っていないのにWebではそのエメラルドグリーンの肖像群が流れ続けていた、思えば私はそれを折に触れて目にし、湧き水をすするように目にしていたわけだ。枯れることのない湧き水のように山元彩香の肖像写真は流れ続けていた。


大きなプリント1枚1枚に対峙すると、更に容易に呑み込まれた。そこには人物が写っているのだが、個々の人格やプロフィールを想像しようという発想すら生じることがなかった。薄布で区切られたギャラリースペースに踏み入った瞬間から意識は沼に浸かっていた。五色沼(福島県)や丸池様(山形県)、神の子池(北海道)といった、山の中で湧き水により形成された透明な緑の沼、それらを結晶化した世界がある。
写真を「見る」と言うよりも気付いた時には意識が湖に浸かっている。なぜそのような事態に陥ったのか、写真を見ているようでそれは定型的な「写真」ではなかった可能性がある。色であり、波長であり、透明度。鑑賞している時には気付かないが振り返ってみると湖の中に体があった。
それに。写された人たちは誰もこちらを見返していない。カメラ・撮影者の視線もまた写されていない。つまり山元彩香作品には「撮影者」と「被写体」という構成要素が「ない」とも言える。
写真の構成要素を挙げると兼子裕代『APPEARANCE』に近いように思える、歌声か透明な水かの違いはあるが、比較すると『APPEARANCE』は被写体個々人の歌(声)の違いが明確に浮き彫りになり、逆に山元彩香の人物らは更に青い湖の底へと沈みゆく。
色、透明感のある波長が撮影の痕跡を奥底―湖底に閉じ込めている。
本来は夥しいほどの差異に満ちた人間たちが、なぜ差異を鎮め(沈め)、一つの大きな湖となっているのか。湖、湧き水、時間の環、神話、透明な青・・・。中世絵画の永遠性との関係も考え得る。過去-今-未来の時間直線を曲げて円環へと変える超透明帯域がここにある・・・。
人物らは陶酔か微睡みかの中にあり、個別の私的な意識を持たないように見える。それは時間がないのと同義であろう。この世界は通常の一方通行の時間の流れがない、いわば、現在と古代を直結させた環の中にある。それは伝説や神話のように、何処へも流れ去ることのない独自の流れを持つ。物理や社会、経済などの時間軸とは切り離された大きな環を織りなす。言葉の通じない異国の相手と言葉を交わさずに意思疎通を行う、という撮影手法で知られるが、何もない間を溜めて、留まった「時」そのものを以って関係を持つという撮影姿勢が、こうした言葉では測れないほどの世界を湧き起こしているのは確かだ。この測れなさがずっと続くことを願っている。


【05】平川典俊「母は私、私は娘」@ARTRO
KG本体と併せて、R8.4/29現在、今のところ最も印象に残っている作品/作者だ。こちらの理解が及んでいない、腑に落ちていない、要注意点を残す、等々の要因が絡み合っている。


母親と娘が演技的に、互いの衣服を取り換えるというコンセプトアート作品である。近年では仲田絵美『よすが』に代表されるように、母―娘の関係性を作家自身が再考する作品は散見される。自分と同年代だったときの母親に自分を重ね合わせ、再現的に衣服を纏う、古写真を再現する、写真に合成で入り込むなどといった形でビジュアル化がなされる。(これらは石内都『mother's』を源流とし、その発展形として「母親を再演する」表現が生まれたようにも感じる)
本作はそれらと似て非なる構成、そして全く想像もつかなかった動機から作られている。
まず作者はあくまで外側にいる男性の現代美術家であり、被写体の母・娘はプロジェクト参加者と、両者は完全に切り離されている。
そして母―娘が衣服を互いに交換している点も少し独特だが、ここで試みられているのが、「見えない異性」の可視化であるという。
交換される衣装は、母、娘がそれぞれ男性と関係を持つときの衣服――「母親が着ているのは娘がボーイフレンドとデートをする時の服であり、娘が着ているのは母親が夜、夫とベッドに入る時の服である。」
ステートメントは続く。作家の言葉が引用される。「母は娘と一体化することで、失われた若さと欲望を取り戻そうとします。娘は母と一体化することで、無意識のうちに求めてやまない『大人の男』に触れようとします」
oh.
今どきそんな欲望あるんかいな/昔はこうして「欲望」が作出されていたのか、と思っていたら、手渡したハンドアウトを読んでいた妻がブチ切れた。「気持ち悪い」の一声からの怒りの言葉。女を何だと思っているのか、私ら女はそんな男になんか欲情してない、私らがそんな感情を抱いてると思われてるのが気持ち悪い、男の妄想を勝手に押し付けるな、本当に気持ち悪い、等々。この怒りは帰路の車中でもずっと続き、「気持ち悪い」と繰り返していた。
私は何事も距離を置いて把握し理解する性質なので、言われるまで気付いていなかった。自分の前提として、まず人の欲望、願望、心理の類は時代によって姿形を変えるということと、それらは医学や科学というより、誰がどう語るか、どういう言説がどんな媒体・人脈で流通するか、結果何がどうウケるかによって大きく変容する=言説とメディアと権威とノリが人の欲望や真理を決める、という体系で理解をしている。なので20年前の言葉を振り返れば当然に違和感や問題点は生じるという立ち位置だ。
がしかし、彼女が反応したのはまさに違和感と問題点そのものだった。そしてそれは、20年ほど前には当たり前に流通していた反面、当時も多くの人達が苦々しく感じていたであろう言説のありようそのものだったのではないかと思い至った。すなわち、主体性の剥奪という問題。
女性の欲望をなぜ男性が語るのか。男性の考える欲望(それ自体が壮大な欲望)を当てはめられ語らされ体現させられるために女性は駆り出されるのか。ここに妻はキレた。
なお作者の発想の根本にはフロイトがあり、必ずしも女性に個人的な性的妄想を背負わせたわけではない。また、本プロジェクトは制作の趣旨を聞いた上で賛同し応募した母娘を撮ったものなので、当時はそういう感覚が「アリ」だったのだろう。
なおかつどうも平川典俊というアーティストが異色というか、活動・作品自体が物議を醸す存在だったようで、少し調べただけでも「上半身裸の女性を街中で撮った写真とペニスのオブジェを並べて展示」「パフォーマーが毎朝採れたての大便を運んできて展示」、
あかん。だめだ。判断不能に陥った。語れないものを語ることはできない。恐らくはそういうタイプの作家――会田誠を一般的な倫理観で殴り付けても殴りかかるこちらの姿が浮き彫りになって滑稽に取り残されるように、作家像やキャリアを知る必要が出てきた。なお作品がそんな調子だから世界中の美術館で作品の扱いに難色を示されてきたとも。また、時代の違いというのは侮れなくて、荒木経惟と女性とヌード・緊縛の関係性は今でこそ女性蔑視・女性搾取の読解線が挿し込まれたが、80~90年代当時は女性の自己表現の実演のために逆に荒木という媒体・写真機が用いられていたという側面もあった。
そういう話もあるけれどもそれとは別の話で、この20~30年の間、美術界、写真界の何が変わったか・なぜ変わらなければならなかったかが、10分ほどの滞在の間に圧縮されて襲い掛かってきた。そういう意味で、たいへん意義深い展示だった。


【67】PIDAN「宇宙の一粒を持ち去ろうとした妄想」@Gallery SUGATA


妄想というが現実に石は宇宙の一粒である、しかし「持ち去る」となると確かに妄想かもしれない、私達人間はこの宇宙からは去ることができないので。ありえるとすれば観念、言語・論理、数式といったメタフィジックスによって。しかし「石」を持ったままでイデアに至れるものか、無理です。それは硬くて重い。
逆に「石」というイデアを以てこの宇宙に裂け目なり穴を開けて逃走することは可能か? それはありえるのではないか、そもそも我々は「石」をよく知らないし、「石」自体の捉えどころのなさは半端ではなく、姿形も質感も大きさも色ツヤも多岐にわたるるのだから、「石」はそもそもが定義から逃れており規格があって無いようなもので、そのくせ質量と硬さが際立っている、一個一個はどこにも逃れてはいない強固さに満ちている。解像度を上げても下げても「石」はより奇妙な振る舞いをみせる。
こうして「石」を物質と情報とイメージの三態から扱う場が開かれる。展示を構成する代表的な作品を挙げよう。
作品1:本は石(物体)によって穴を穿たれ、情報が吸われて本もまた物質へ還元されている。
作品2:写真の中で石は文房具や画材と供にオブジェとして配置、構成され、一枚のビジュアル表現を構成するイメージ体となっている。(対比として、額装の縁に実物の石が置かれ、写真内のイメージ体とは全く大きさも質感も存在感も別物であることが明示される)
作品3:作者が川の上流で岩を鉛筆で擦って紙にフロッタージュし、石の立体的・物理的な情報を転写する。紙には鉛筆の筆致だけが残されている。
これらは全て「石」だ。石が千差万別なのではなく全てのものが同様に物質、情報、イメージの三態を持ち、何によって触れたり運んだりするかといった関与の媒介物によって分かれている。ただやはりここでは「石」であることが重要で、三態のいずれにも強く同定されるし、相転移もまた容易に起こし得る。極めてはっきりとした個体、物体であるにも関わらず、どこまでも領域を超えて相を変じてゆくことができる、その可能態としてのポテンシャルが、作者に多くの力とアイデアをもたらしたことが分かる。
無機質を扱いながらとても有機的な展示で面白かった。石がエネルギーを媒介したのか?それとも石からエネルギーを抽出したのか?






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( ◜◡゜)っ 完