nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

2025.10/18〜2026.3/22「江康泉 電気心音」(離騒幻覚シリーズ)@金沢21世紀美術館

江康泉(ゴンホンチェン、kongkee)、マレーシア生まれのアーティスト。香港とロンドンを拠点に活動中。展示「電気心音」で、主にアニメ作品「離騒幻覚」シリーズ3作を鑑賞した。

鑑賞はひどく楽しくエキサイティングだったが、言葉に書き表すとなるとすり抜けてゆき、途方に暮れた。形や答えがなく、物語の設定や筋が捉えられない、夢の中を旅するような体験だったからだ。それは意図的な構造だったと後に気付いた。

 

展示は3つのエリアに分けて展開される。

  • プロジェクト工房(別館):アニメ映像「離騒幻覚(りそうげんかく、Dragon's Delusion)シリーズ(3本)
  • 長期インスタレーションルーム「離騒幻覚」関連作、「未来本生譚」シリーズ
                短編アニメ作品(4本)
  • 交流ゾーン:短編アニメ作品(1本)

出発点になるのは「プロジェクト工房」で流される映像作品「離騒幻覚」シリーズで、「離騒幻覚:泪羅篇」「離騒幻覚:刺秦篇」「離騒幻覚:序」の3本、計30分ほど。他は関連作品と言ってよいだろう、まずはこれらを観なければ始まらない。

 

アジアンサイバーパンクの疾走、

未来と過去の混線的な流転。

ディストピアの中で瞬くサバイブのエロス、

虚実入り乱れて揺らぐ現実世界の主軸・・・そして全ては夢

ベタである。香港を舞台に描き起こしていることもあって『AKIRA』、『攻殻機動隊』をはじめとする著名なアニメに密接にリンクしている、しかし飽きない。刺激的だ。来るシーン来るシーンそれが次どこに行くかは定かでない、未知の状態がキープされる。登場人物らと同じく観客も過去/未来、現実/夢、ヒト/ロボット・・・の様々な二項対立の間を往還する迷宮の中へ放り込まれ、結論は出ない。それは夢だったのか、逆にこの「今」が夢だったのか。「邯鄲の夢」はアジアが誇る古典的にして定番の魔境だ。では「今」とは?

 

「今」とは知覚の現在地に他ならない。知覚が身体を飛び越えてゆく。秦に支配される前後、楚の屈原と、秦の統一から200年後のアンドロイド「祖(ゾー/漫画版での表記は「ジョー」)との間で知覚=今がジャンプしてゆき、更には「祖」の記憶と内面は失われたカセットテープにあるから、多くは知覚=内面の現在性は半主体的というか脱主体的にしか描かれない。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』もしくは『ブレード・ランナー』でも良いのだが、「邯鄲の夢」と並んで超定番の問いが本作では繰り広げられている。ヒトとロボット(アンドロイド)は区別可能か? もとい、ロボットに心はあるか? この問いは今なお健在、いやAIサービスが高速で進化し広く普及している現在こそまさに旬である。むしろAIとヒトの思考とコミュニケーションの狭間を高速でシームレスに埋めようとしている中、もはや問いは融解していて、両者が地続きの存在になることを誰もが志向しているとも言える。ハルシネーションとコミュニケーションに明確な境界はあるのだろうか、そんな現実に生きている我々だからこそ、このレトロと未来感そして夢の進行のような融解さの混ざり合ったアジアンサイバーパンクに没入し、ベタなまでの古典的物語に何か真実味を見出して共感する・・・アニメは夢を加速する。

 

まずここは何処なのか。

屈原、楚の懐王、秦の始皇帝、徐福といった登場人物の面々から、舞台は中国、七国が争っていた戦国時代末期・BC300~200年代だと分かる。

屈原が主役らしいが、場面ごとで時間の前後関係は不明、さらに近未来的な衣装やギミックの要素も加わって、楚での祭祀・ライブ演奏、秦による侵攻、懐王の監禁と奪還、屈原の汨羅江(べきらこう)への入水自殺…といった出来事が混淆していく。また、入退場自由のため多くの場合は上映途中から観始めることになる、後述の「未来」世界と話が混ざってしまい、より混迷する。

日本人である私にとって、これらの人物と歴史の付置はかなり曖昧だ。『キングダム』でも屈原は出てこない。理解のベースを持ってないことが、本作の物語を体系的に捉えられなかった要因でもある。ハンドアウト等にも書いていないので、自分で時代区分と人物、特に屈原について整理する必要がある。後述するが、屈原への解釈を持っていないことが本作の最大の見落しに繋がっている。

 

まず屈原と秦の始皇帝とは、存命期間が重なっていない。BC340年頃に屈原が誕生、BC278年に入水し死去。BC259年に政(秦の始皇帝)が誕生、BC221年に中華統一し始皇帝となり、BC219年に不老不死の霊薬を求めて徐福を東方へ派遣、だが悲願は果たされずBC210年に死去。その僅か15年後のBC206年、秦国そのものが項羽によって滅ぼされる。史実は儚い。

本作では楚の懐王を人質にしている場面で、秦王らしき人物が映る。ミキサーのような透明の防護ケースで頭部をすっぽり覆い、リーゼント、水泳用のようなゴーグル、ブリキ人形のような防護服?に身を包む、もはや王というより経済マフィアのボスというか、サイボーグ化したスターリンのような出で立ちだ。それが始皇帝なのか、史実通りそれ以前の王かは不明だが、後に未来世界で映される王の像と似ていることから、既に不死に近いものが感じられる。

次に、屈原。政治家であり詩人でもある。彼は楚の懐王に仕える側近だったが、秦の陰謀によって懐王は人質として拘禁され、客死する。次の頃襄王(けいじょうおう)の時代には、派閥の争いから左遷される。この間、屈原はずっと国と君主の身を案じ、献策してきたが、尽く受け容れられなかった。そして秦の白起将軍の侵攻によって楚の都が滅ぼされるのを目の当たりにし、絶望から湖南省・汨羅江(べきらこう)に入水して命を絶つ。水辺と多数の死者と屈原というイメージの組み合わせは、心ある賢者の絶望と死、新たな物語の開始点と回帰点などとして、本作で象徴的に繰り返される。

こうした彼の生き様、理想となる君主を天界にまで求める壮大な旅、そして絶望とが合わさった長編叙事詩が、屈原の代表作『離騒(りそう)であり、本作『離騒幻覚』タイトルの引用元となっている。個人の感情を強く込めた詩というのは当時画期的だったようだ。

 

なお屈原と『離騒』については以下noteが詳しく、参考になります。日本人には高校の国語(漢文)・世界史で名前が出てくる以上の接点がないのが本作鑑賞において致命的である。まだ名前を知ってるだけ救いがあるともいえる。学校教育に感謝すべきであろう。

note.com

本作では、屈原と懐王は親友めいていて、アニメ映像では描写が断片的すぎて分かりにくいが、原作(漫画の書籍版)では仲良しシーンが多数描かれている。この点は史実と異なり救いがある。アニメでは説明的なシーンが少なく幻想、夢中のようなヴィジュアルに仕上げていて各個人のキャラクターが見えないが、漫画版では関係性がまだ掴める。

 

そしてもう一つの舞台が、秦の始皇帝が中華統一そして不老不死を果たしてから200年後の「未来」世界だ。

六国を滅ぼし、国を統一した後

「永生計画」が始動し

人と機械を融合させることで

始皇帝の不老不死の夢が現実され

二百年が経った

ここは完全なサイバーパンクSFで、我々の生きる現代のレトロな生活感と現代を凌駕する科学技術とが折り重なった、2200年代ぐらいの近未来の雰囲気がある。始皇帝の姿は、街中に建てられた記念像の姿でしか現われなかったが、代わりにこの世界では目に見えない「永生システム」が張り巡らされている。これは国民に不死をもたらすが、同時に心身を半永久的に統治・管理している。

不死のシステム開発計画を実現させたのが徐福だろうか。史実では始皇帝に「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と進言し、東方に遠征するも成果を得られなかった徐福だが、この世界ではシステム計画者として高位に立ち、大砲のようなリーゼントにカイゼル髭という昭和のいかがわしい業界人な出で立ちをしている。偉業を成したわりに小物感がすごい。

システムアップデートの度に秦以外の旧6国のシステムは淘汰されていくようで、更に完璧な支配的統治へと向かっていることが伺える。始皇帝はシステムそのものと化したのかもしれない。

 

永生システム下の世界では、システムに接続され心身を管理された「長生」という不死の人間と、アンドロイド(ロボット)の2者しか存在が認められていない。「人は6歳になるとアップグレードと言われる機械を埋め込む手術を受け、不老不死システムにログインしなければならない」と原作にあり、児童保護法(不老不死法の細目)では権限を持つ者に未アップグレード者の捕縛と恩賞を認めている。

3番目の存在:システム管理を逃れた「純人間」は、コードを擬態しながら生きている。

未来編での主役は、屈原の記憶の一部を宿したアンドロイド「祖」、純人間であることを隠して生きる女性・キャサリン。

「祖」はキャサリンが川辺から拾い上げてきた旧式のアンドロイドで、戦前の、という言葉から、屈原の入水時期と重なる。

漫画原作ではこうある。

楚の懐王と竹馬の友である屈原は川に投身自殺した

傷心の懐王は彼とそっくりのアンドロイドを作ったという伝説が残る

だがこれを証明する者はいない

アニメでは屈原とアンドロイド「祖」との関係、懐王との関係がかなり不明瞭なため、このことには気付かない。

後に出てくるカセットテープと記憶のくだりは、生前の屈原に関する記憶データを懐王がテープの形で作らせてセットしたのだと思われる。このテープがおそらく秦による侵攻、戦乱の中で失われ、秦に渡り、未来では徐福が手にしている。もしかすると秦は、ある個人から記憶や個性を情報として扱う技術をそこで得たのかもしれない?

 

ラストは、キャサリンが徐福からテープを奪還し、それをセットした「祖」は、記憶、自分を取り戻し、「屈原」の時の意識へと回帰する。

祭祀のための音楽(詩)が思いつかないといって思索に没入していた屈原と、未来で自己の記憶を入れたアンドロイドとが直結される。

懐王「どんな夢を見たんだ」

屈原「私は」「遥か未来で」「ロボットになった自分の夢を見たのです」

懐王「ロボット?」「では」

   「あなたはロボットの夢を見た屈原なのか」

   「それとも自分が屈原であった夢を見たロボットなのか?」

もし夢なら、全ての苦しみは幻だ、と屈原は答え、アニメ3部作は完了となる。答えは明らかでなく、問いかけが残される。全てが夢の移り変わりのように、現実離れした色と繋がりとディテールで流れてゆく。美しきフューチャー。

これの意味を掴むのは容易ではなかった。

まず前述のとおり屈原や秦の関係を調べ直す必要があり、それは事後になった。

 

本作の制作について作者インタビュー動画はあるが、話は作品概要のステートメントと大差がない。


www.youtube.com

夢の中のような、抑制的ではあるがサイケデリックな幻覚調の色彩と、歪に紛れ込む未来感と古典感、繋がりの不明瞭さに気持ち良く酔う中で、作品の意図や意味を考える必要はないように思われた。実際、断片的な部分がかなりあるので、原作漫画を併読しないと設定が補完されないし、アニメは漫画(会場で販売されていた日本語版を指す、それ以外に原作があるかは不明)にない場面・物語をブリッジしていて両者はイコールではない。

kanazawa21ms.base.shop

同館の他の展示も『離騒幻覚』の中身は補完しない。謎のまま快楽とともに鑑賞が終わる。意味は求めなくて良し・無尽蔵に自己増殖する都市の中を疾走し彷徨うべし、意味をすり抜ける疾走感、これぞサイバーパンクの流儀だ。

 

だが。

そもそも「屈原」という人物像や重要性が、私達日本人と中国人・香港人とで大きく異なるのではないか。作品の意味性を改めて見ようとするとき、この問い掛けが発火してくる。

 

中国での屈原は、高校の授業くらいでしか出てこない日本に比べ、遥かにメジャーで偉大な人物に見受けられる。辿りきれるものではないが一例を挙げると、中国版Wikipediaとでも言うべき「百度Wiki」では非常に長大な記述があり、歴史的評価の項目では毛沢東からも絶賛されていたりと、並ならぬ存在感があって面白いのだが、これらの記述に中国における屈原評価の典型が見てとれる。一文を挙げると、

「屈原は中国史上における偉大な愛国詩人であり、中国ロマン主義文学の礎を築いた人物、「 楚辞 」の創始者かつ代表的な作家である。」

この「愛国」という評価が繰り返し強調されるところに現代中国の政治的意図とプライドを感じずにはいられない。

baike.baidu.com

また例えば「中国宇宙デー2024」オープニングセレモニーでは、屈原のAIイメージ画像が来賓たちと対話している。

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だが一方で香港における屈原の評価と受容はどうか。ここをピンポイントで突いている研究や著作物の情報がWeb上にあれば話が早いのだが、なかなか見当たらない。民主化運動制圧後の言論環境が影響しているのかどうか?

 

香港大学出版社の論文アーカイブでは、中国文学(詩)の南国(中国南部地方)における特徴に「忠誠を誓う反逆者」の人格があり、その元になっているのは屈原(と彼について編纂し後世に伝えた司馬遷の影響)が見られるという。ただ論文の中身は見られないので本文で屈原が江南、香港とどう絡むかは未確認。

academic.oup.com

 

逆に「人民網」からは「香港における屈原の評価が高まっているのは中国史の教育の重視により、中国の歴史的人物への魅力が浸透した」という、中国目線からの評が載っていて、えも言われぬ圧を感じる。

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学術研究ものはサマリーのリード文しか見えないので何とも引用できず、手詰まり感があった。が、下記「BBC News 中文」2014年11月、香港民主化運動(雨傘運動)での中環(セントラル)占拠について批判的に報じる記事は最も生々しく、興味深い示唆を与えてくれた。

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ライターは中国側視点から屈原の『楚辞:不載』を引用し、法の支配に従うべきとして不法占拠について嘆く。しかしコメント欄では香港在住という投稿者は「屈原を侮辱しないで」と、こう続ける。Google翻訳そのままのためやや不自然な日本語だが引用する。

屈原の『離墾』には、「私の心の望みは、たとえ九度死んでも後悔しない」という有名な一節がある。

香港の学生たちがセントラル占拠運動を続けたのは、中国共産党の誠実さの欠如、偽りの普通選挙で香港市民を欺いたこと、そして689政権と連携して行政暴力を用いて香港市民を抑圧したことを目の当たりにしたからだ。中国共産党は香港市民の真の普通選挙を求める強い要求に耳を貸さず、見て見ぬふりをしたため、市民は市民的不服従と法への反抗によって最後まで闘わざるを得なかった。これこそが「たとえ九度死んでも、心の望みを後悔しない」という意味だ。作者よ、お分かりだろうか?!

(中略)

この記事の筆者が、セントラル占拠運動の参加者たちが法律を無視し、法の支配を損なっていると考えるならば、『離騒』を著し、川に身を投げた屈原は、永遠に罪人、つまり「不忠で親不孝な」人物と見なされるのではないだろうか?

 

民主化運動時代の香港人に宿っていた自由意志への希求と危機感は、屈原という存在を中国的愛国心の言説からもぎ取るように奪回してみせる。

本来はこうした言葉、精神の動乱が幾らでも、無数に見られたはずだ。

2020年6月30日に香港国家安全維持法が施行されてもう6年近くが経つ。こうした記事や生のレスポンスをWebから見つけ出そうとすることは、もはや手遅れなのかもしれない。

 

本作『離騒幻覚』が古代中国そして架空の未来にまで秦の始皇帝の支配を描き、そこに 「屈原」を呼び出し、アンドロイドの姿で屈原の記憶を探し求めさせる様を描いたのには、大きな意味と意図があるように思えてならない。

愛国心と自由意志という二つの精神は、相反するのか、両立するか。

どちらも個人の精神であるはずだが、個人とは何なのか、それを決めるのは国家か、それとも、個人なのか。

もし個人の意思・意志を統治システムに奪われながら生きていくことになったとしても、過去にあった意思の記憶は、完全には無くすことはできない。それをどうやって取り戻すのか。近未来の飛躍したようなSF的世界は現実へと繋がっていて、「今」ここは、過去・記憶によって再起動する。意思は必ず取り戻され、蘇るはずだと・・・「香港」という自由意志は消えたのではなく必ずいつか取り戻されるはずだと・・・。

 

本作がそういうメッセージを湛えているのではないかと気付くのに、1週間以上もの時間を要してしまった。本作は注意深く、曖昧に、夢のように作られていて、中国/香港を名指ししていないためにその論点を持ち出すことに気付かなかった、あるいは躊躇われてしまったのと、そして私が、香港で何が起きたかを忘れていたからだ。

記憶、感覚、「今」という実感は、たやすくうつろう。全てが夢のように・・・

今この現実は低刺激的サイバーパンクに他ならないのだろうか?

 

 

完( ◜◡゜)っ