新型コロナ禍のことは、震災とはまた別の形で順化し、忘れてゆく。写真家は様々な形でそれを刻みつけて遺そうとしている。
本展示は東京からの巡回展である。2020年4月7日~5月25日に発令された第1回目の「緊急事態宣言」下で撮られた写真と手記を収めた『宣言下日誌』が今年7月に刊行され、それに併せて催された展示だ。同時に、過去のスナップ写真が並置されている。
【会期】R3.12/14~12/26
展示構成は、緊急事態宣言下で撮られたサイアノタイプ写真と、これまでの約20年の作家活動の中で撮られたスナップ写真の2つから成っている。
このことは会場では分からず、Webサイトにもはっきりとは書かれておらず(正確に読むとそう読めなくもないがまず気付かない)、ギャラリー発信のTwitterで知った。新型コロナ禍を振り返りつつも、コロナという枠に括らない形で「日常」と「写真」を振り返ろうという意図があったのではないだろうか。
◆サイアノタイプ作品(第1回 緊急事態宣言下)
ゆったりとスペースをもって、全5点が展示されている。造形美があり、美術品の風格がある。被写体は確かに日常物・日常の空間だが、「被写体(の形状や形態)を撮った」というより「光の一部として被写体を撮った」もので、光が画面内に溢れているため、記録や記憶とは逆に、永続性が滲む。
「光を撮った」のではなく、「光を現わす」作品だ。過去形にならず、現在系でそこにある。
流れ去ってゆく時間に対して「点」で瞬間的に対峙し、痕跡を残すのがスナップ写真なら、サイアノタイプは制作工程の通り、時の流れを「面」で受け止める。そうして受け止められた「時」がその後も生々しく生き続けるのか、冷えて固まって「記録」となるのかは、写真に宿った「光」の量と質が大いに関係しているだろう。本作は生きている。
『宣言下日誌』には他にも多数のサイアノタイプ作品が登場する。日記部分と合わせて読むことで、文章と写真の呼応関係が生まれるし、読む側の当時の「記憶」が誘引されるので、会場では美術品のような出で立ちだった作品が、全く異なった意味を帯びてくる。
販売サイトで中身がちらっちらっと紹介されていて分かりやすい。文字もサイアノブルーなのがいいですね。
皆さんも日記しましょう日記。解像度があがりますよ。
◆カラースナップ写真群(1998~2020年)
反対側の壁面はカラースナップ特集になっている。
写真活動を始めてから現在までの約20年の間に撮られてきた、膨大なスナップから編まれた写真集『R』と、他3冊の写真集から選出された写真群が、この壁面だという。
ユニークなのは写真集『R』購入者が特典として好きな1枚を持ち帰れることで、補充はされないため、会期の始まりと終わりで大きく光景が変わることだ。私の訪問時は開催5日目のため写真がまだ沢山残っている。
これらを前置きなしで見にかかったため、当然のように「新型コロナ禍での日常で撮られたスナップ」の枠組みで観てしまったのだが、それにしては撮影シーンがえらく多岐にわたり、まとまりがない、つまり極めて異常性の高い「日常」だったにしてはその異常さ(都市部、歓楽街、公共交通機関が無人化した、室内と近所以外に出られなかった、等)が全然撮られていないため、何を読み取ればよいかが分からなかった。「まあプロカメラマンだから、依頼仕事もあって全国色々と移動していたのだろう」とその場では済ませてしまった。
比較対象として脳裏で対置していたのは、ちょうど1年ほど前に同じギャラリー内で展開された、当ギャラリーオーナー・橋本大和展「そっちはどうだい」だ。作品はスナップで、まさに緊急事態宣言下で行動制限を強いられた日常景を捉えていた。
こういう展示を予想し、期待していたのが自分でもよく分かる。まあそうですよね。
本展示のスナップ写真の構成について知ったのは鑑賞から1週間近く経ってからだった。
会場の写真をもう一度確認すると、富士山とか、空港っぽい風景が混ざりつつ、花や植物が多く写っていて、日常としては捉えどころがないように見える。
逆に言えば、それらは非日常的な日常の記録性を見い出そうとするから混乱するのであって、この断片的で散乱したイメージ群を、作者の根底にある関心事、テーマ性を反映した原風景のスケッチと見なすと、逆にすっきりしてきた。
過去の展示・写真集タイトルを引用するなら、これは『叢(くさむら)』ではないか。
単一の主題に収斂された作品(=個体としての花)ではなく、写真の物的・質的な集積(=林、森)でもなく、散乱していてバラけた印象――植物/日常イメージたちがなんとなく集まって、バラバラとしながら、同じ世界観の光景がなんとなく、いつのまにか、自然と寄り合っていた展示、それがこの壁面ではないだろうか。
すると、日常とは等価であり、同時に、作家のテーマ性の原型が宿るものだという論旨が現れてくるだろう。万人と同じく、作者にとっても新型コロナ禍は重大な非日常であった、しかし写真家としての営み・写真行為においては、「日常」はそれ以前の日常とも等価であり、切り分けられない光景を孕んでいたのではないだろうか。作家として、そのような光景を活動以来ずっと追い続けてきた。
過去作品と現在とを混ぜた構成はそのような意図によるのかもしれない。
◆出版社「Kesa Publishing」
展示会場では作者の写真集、もとい「Kese Publishing」の出版物が並んでいた。
『宣言下日誌』の出版元「Kesa Publishing」は、写真家の大和田良、デザイナーの吉田ナオヤ、キュレーターの藤木洋介の3名によって、2018年に立ち上げられた。
写真界隈が大手メーカーから切り離されてゆく中、個人の力によって制作、展示、出版などが再興していく様は、大変なれど、観ている分には面白いと思っています。自由で良いですね。
そろそろ感染もおさまってへらへらできる世の中に戻りますように。まあいつもへらへらしていますけども。ひい。
( ´ - ` ) 完。