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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R3.3_「永遠のソール・ライター」@美術館「えき」KYOTO

新型コロナ流行の影響によって1年延期された、ソール・ライターの展示である。絵画のように美しいカラーのスナップ作品のほかに、リバーサルのスライドショー、セルフポートレイト、そして重要な二人の女性:妹のデボラとパートナーのソームズ・バントリーの写真が特集され、2017年の展示からさらに人生に踏み込んだものとなっていた。

 

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【会期】2021.2/13(土)~3/28(日)

 

 

 

「ソール・ライターがいい」のは誰が見ても確かにそうだと思うし、異論は特にないと思うので、良さを全面的に引き受けながら書いていきたい。いつものことですが。

 

1.日本でのソール・ライターの展開

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本展示『永遠のソール・ライター』は、2020年1/9~3/8に東京・渋谷の「Bunkamura ザ・ミュージアム」で開催された後、巡回展として京都駅の「美術館「えき」KYOTO」にて同年4/11~5/10で展示される計画だった。が、新型コロナ感染拡大の影響により京都の展示は中止。Bunkamuraも2/28で会期終了となった。

 

こうして、1年越しで企画が復活されたのは本当に喜ばしい。

それだけの来場者が確実に見込める展示、ということかも知れない。Bunkamuraは展示を取りやめた後、早くも同年7/22~9/28に「アンコール開催」として展示を再開させていた。これには、NYでの新型コロナ感染拡大の影響が非常に大きくなり、作品の貸出元であるソール・ライター財団へ返却する目途が立たなくなったことが大きな要因であったが、多くのファンに来てもらえるという経済的な見込みと無関係ではないだろう。

 

日本に「ソール・ライター」が初めて紹介され、本格的に話題となって火が付いたのは、2015年に日本で公開された映画『写真家 ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』と、2017年4/29~6/25「Bunkamura ザ・ミュージアム」での回顧展『ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター展』である。このとき8万3千人超の入場者数を記録したとのことだ。

関西には伊丹市立美術館で巡回展があったが、私が行った時には会期終了が近かったのと、映画の無料上映会も行われたこともあって、会場は人だらけだった。

 

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ライターが代表作を撮り溜めたのは1940~60年代、ファッション誌等で活躍したのは80年代まで、NY5番街にあったスタジオを閉めたのも1981年で、そこから長い空白の期間がある。次に彼が姿を現す―世界が彼を「再発見」するのは、2006年にドイツのシュタイデル社から出された写真集『Early Color』である。それから約10年のタイムラグがあるとは言え、日本に回顧展の形でライターが紹介されたのは幸運だった。 

 

とにかく2017年の伊丹市立美術館での展示が混み合っていたのが、未だに衝撃として記憶している。写真展でそんなに観客が集まったことが信じられなかったのだ。

スナップにせよアートにせよ、写真の展示で会場が人で埋まることは基本的に少ない。もちろん会場のキャパシティもあるのだが、森山大道やグルスキー、ティルマンスの大規模個展を振り返っても、混雑はしていなかった。印象派などの有名絵画の展示では入場規制ものの行列が出来るので、その差は歴然としている。

今から思えば、ジャンルを超えて色んな写真ファンが来た(※一口に「写真が好き」と言っても、ここには細かな棲み分けが多数あります。。)だけでなく、もっと大きな枠組みを超えて、絵画・アートを好きな人たちが幅広く集まった結果だったのだろう。

実際、今回の展示でも、平日・火曜日の昼1時2時だったに関わらず、ひっきりなしに来場者があり、年配のご婦人から若い人からスーツ姿の人たちもいた。熱心な写真愛好家、あるいは余暇を楽しむリタイア世代という画一的な層では語れないところがああった。

 

ちなみに今回の公式図録となる単行本『永遠のソール・ライター』は、早くもWebで品薄状態になってきている。展示を見終わって物販コーナーで買おうか悩んでいたら、まだAmazonで定価での新品取り扱いがあり、「荷物になるから、後日Web注文しよう」と思っていたのだが、あっという間に売り切れてプラスオンの高値が付ついた品ばかりになってしまった。人気が高いのも困ったものだ…。

(3/19注:Amazonにまた在庫が戻っていた。一方で、注文を入れることのできた楽天ブックスは版元へオーダーを入れるところで止まってしまい、3/20にキャンセルしてAmazon発注に切り替えた。書籍の流通事情は本当によくわからない。。)

 

 

2.ソール・ライターの魅力 = 写真と絵画の二刀流

なぜソール・ライター展は写真展の中でも別格に来場者が多く、幅広い人気があるのか。それは彼の写真の世界観が「写真と絵画の二刀流だから」という答えに尽きるだろう。

 

大前提として、ライター作品とは、街角のスナップ写真である。これは、絵画と全く逆のものであることを意味している。スナップ写真は絵画のような美術教育の範疇にない。今後も義務教育や受験科目にはならないだろうし、大多数の人はスナップの模範的回答を遵守することはない。軽くスナップに手を出したとしても、ガチンコで深入りしない限りは生まれ持った技術や感性の有無を問われることもない。つまり絵画とは比較にならないぐらい「自由」なのだ。

現実に目にした「今、ここ」の光景を、特別な操作やセッティングなしに、特別な機材を使うこともなく、スッと何気なく撮る行為。ご家庭の冷蔵庫や近所のスーパーの素材で工夫して料理を作るような敷居の低さ、素朴さを想像してほしい。特別な技術やセンスを持たない庶民にとって、良き素朴なスナップは「私もやれば出来るかもしれない」という、創造的希望を刺激し肯定するものである。(勿論実際には、家事としての料理も日常を舞台にした写真も、簡単なことではないが、幻想として。)

創作に僅かにでも携わる者は誰だって、何歳になっても、ちょっとでも意義のあるものを生み出したいという願望と諦めを胸に同居させているものだ。ライター作品は基本的に肯定的な励ましをもたらしてくれる。

 

その逆に、ありふれた・何の面白みもないはずの「日常」「現実」から洗練された美術作品を生み出す、魔法のようなセンスと技術に魅せられ、思い知るというのもある。

深掘りすれば「こんなものは自分には作れない、撮れない」 という彼我の差を確認してしまうことになるのだろうが、アンセル・アダムスの特権的な超絶技巧のように初手からこちらを突き放したりはしない。下町の紳士のごとく、不思議な、等身大の親しみに満ちている。だが日常景を美へと変換する魔法の力は、冷静に考えると少々のことでは手に入らないものだとも分かってくる。この魔法は一体何なんだ?

 

魔法の正体は、「絵画」である。

このことはソール・ライターを語るほぼ全ての紹介文、評論で触れられているので今更感もあるが、展示を見ると改めて実感せずにいられない。何度でも言いたくなるぐらい確かな絵画の力を見てしまう。まるで初めて気付いたかのように。

ライターのカラー写真が備えている分かりやすく独特な魅力が、「色」を「面」として重ねたり並べたり分割する画面構成だ。そして手前や奥、あるいは全体を、影やガラス面の水滴・反射などで抽象化させる。時空間の偶然の出会いを凍結させる瞬間芸としての街角スナップ写真とは、対極のものだ。

会場で漏れ聞こえる歓談に耳を澄ますと、やはり色味の取り合わせに着目している方がいて、どうも写真というより絵画に近いものとしてライター作品を見ていることが察せられた。色の塗り面の合わせ方によって画面を構成する…それだけ聞くと絵画の話である。写真界隈の外から多くの人が来ているのではないだろうか。

 

根本的には、ソール・ライターという作家自体が、写真と絵画のボーダレスな表現者であったことに由来するだろう。

ライターは学生の頃から画家志望であり、父親の意に沿って歩んできた人生から脱してユダヤ教の神学校を中退、NYへ移り住む。しかし画家業では生計を立てられないことからカメラを手にし、ファッション写真誌などでカメラマンとして活躍することになった。しかし終生、ライター本人は自分のことを画家だと考えており、毎日のように絵を描いていた。

 

数多く指摘されているように、作品には印象派、ボナールの影響や日本の浮世絵のエッセンスが取り込まれているとされる。浮世絵のみならず、蔵書からは歌舞伎のレコードや古典や文学、能などの書籍や陶器の資料なども多数見つかっており、日本文化に深い関心を寄せていたことも確認されている。

スナップ写真を撮る工程に、絵画作品を作るのと似た意識が織り込まれていることは想像に難くない。そこに「和」の感性・傾倒も加われば、私達日本人の肌に合う世界観となることは自然なことのように思われる。

 

ただし、全ての作品が絵画的というわけではない。モノクロの初期作品は、スナップ写真ならではの瞬間的構成の妙を持ち、シュールレアリスムに通じるものとしての評価も受けたという。

それらは、都市における人と建築と影などの絶妙な組み合わせから構成されていて、確かな「写真」としての強さがある。図録『ソール・ライターのすべて』の年譜にはわざわざ『ニューヨーク近代美術館で開催されたアンリ・カルティエ=ブレッソン展を見て感激する。』(1947年)と書かれているように、スナップ写真の表現者としてのルーツに触れられている。色を面として見せられないモノクロでは、モノや人の形態の組み合わせと光が重要となるが、ライター作品はそちらにもルーツをしっかりと持っている。

 

 

こうした要因によって、写真界隈の人達は日常的に「撮る」ことに対して勇気付けられ、大いにインスパイアされただろうし、絵画やアート全般を好きな人にとっては、一種のメディアミックス的な絵画として味わうことができたのではないだろうか。写真と絵画のハイブリッドというだけでなく、印象派という西洋絵画の文脈と和の文脈というハイブリッドさを思うと、世界的な再評価と人気に繋がったのも納得である。

 

 

3.今回の展示の構成と見どころ

今回の展示では、ソール・ライター財団の新たな調査結果が盛り込まれ、2017年展示から更に踏み込んだものとなった。

初期のモノクロ作品、ファッション誌での仕事、代表作となるカラー作品を辿り、新たな展示として、セルフポートレイト、そして人生において重要な二人の女性:妹のデボラとパートナーのソームズ・バントリーのポートレイトを特集している。

合間には、コンタクトシート、写真を手で千切った「スニペット」と呼ばれる名刺ほどの断片、カラースライドを壁に投影するスライドプロジェクション、自室の再現コーナーと絵画などを展開する。

 

スライドプロジェクションは、金銭的事情からも膨大な写真を全てプリントすることのできなかったライターが友人らに作品を見せた手法だ。紙、額装から解き放たれた50~60年代の都市と人々の姿は鮮やかで、レトロなのに新しく感じられた。プリントより奥行きがありつつも映画のような尺がなく、どの時間軸からも浮いていて、不思議な感触があった。

 

現実でありながら、現実とは遥かに異なる、もう一つの異郷のように感じたのだ。

ソール・ライターの写したNYには、争いや憎しみ、危険が存在しない。写真の中で行き交う人々はそれぞれの生活を営み、それぞれの瞬間に生きている。そこにシリアスな事情は一切ない。

2000年代からのNYは9.11同時多発テロを皮切りに、リーマンショック、2017年のトランプ大統領就任以降の分断や対立、昨今の新型コロナ禍の猛威、ブラック・ライブズ・マター運動など、大きな困難と問題に見舞われてきた。いずれもアメリカ合衆国全体の話ではあるが、同国最大の都市としてNYは象徴的な場所である。この20年ほど、いや昨年のコロナによる病床逼迫とトランプの振る舞いの合わせ技だけをとってみても、NY市民が強いられた困難は日本の東京や大阪のそれよりもハードだったようにすら思う。

ライターの生きていた時代が特別に平和で穏やかだった、というはずがない。いかなる時代にあっても政治・経済・宗教・民族その他の困難と問題があるものだ。が、ライターの写真は苦しく複雑な事柄を全て忘れさせてくれる。全てを光と色の淡さへ還元してゆくところには、癒しの作用すらある。

具体的な主張や誇張がなく、美術史的な言及は仄かにあったとしても、現実の人の世に対する言及はない。影や掠れ、水滴によって、写り込んだ人々はある個人としてではなく画面上の要素、人影へと還元される。ポリティカル・コレクトネスからも360度安全な世界である。それはこちらに内蔵されたポリコレ棒をも収めさせる。だからスライドショーを見ていても、何も余計なことを考える必要がない。認識のフックはしまい込まれ、気持ちよく酔うことが許される。

 

このような思いは、写真をプリントで見ているときには出てこなかったものだ。動画映像に近付いたことで、連日繰り返されてきたコロナやBLM、トランプ指示・反対などを巡るニュースの記憶と、かすかに接点が生じたのかもしれない。

 

 

現実のシリアスを忘れさせてくれる写真家。癒してくれる写真。

皆の心の中にある永遠の憧憬としての都市景、NYの風景として、それらはこれからも愛されてゆくのだろう。

 

しかし1枚だけ、ゾクッとするシリアスな写真があった。妹のデボラを写したモノクロ作品だ。

デボラはライターの2歳違いで、仕事を離れたところで様々なポーズと表情で写っている。愛情深く、親密さを感じる写真である。

 

しかし1枚だけ、質感の全く違う写真がある。

額に手を当て、こちらを振り向く素振りを見せるデボラの首から上が写っている。顔だけに光が当たっていて周囲は暗く、肩のあたりは闇だ。ポートレイトにしては距離が少し遠い。表情は、形容できない。曖昧なのではない。眼に力がある。どんな感情を抱いているのかは分からない。顔の輪郭もパーツも質感がとてもくっきりしている。

他のデボラの写真はどれも少し霞んだような、絵としての美しい雰囲気を帯びているが、このカットだけは写真の冷徹な、暴くような光の下に、デボラが晒されている。絵として画面に参加するではなく、晒されているのだ。別人が撮ったようにクリアだ。眼は泣いているように潤んでいる。この緊張感が何なのか分からないが、他のライター作品が湛える優美さと教養に満ちた雰囲気とは全く別のものだった。

 

デボラは20代で精神障害を患い、施設に入り、その後、2007年に亡くなるまでずっと外に出てくることはなかったという。

1947年に撮られたこのカットがどういう状態の時のものかは想像するしかないが、そこには結び付けたくはない、もしかしたら何でもない寝起きか何かの瞬間かもしれない、などと思いつつも、爛々と咲ききった大輪の花が、ぽとり、と落ちる寸前のような、ぎりぎりの美しさに、私はとても心を奪われてしまった。美しいと呼んで良いのか分からないものに美しさを見い出してしまった、この感情は今も整理がつかないでいる。

 

 

ソール・ライター本当はもっと残酷に、冷酷に都市を撮ることも出来たかもしれない。そうすればもっと早く写真家として名を認められていたかもしれない。だが彼はとても紳士的で、優しかった。美術の世界を愛していた。その愛が色彩の膜となって、幻想の―永遠のNYを見せ、私たちを癒してくれる。今後も私達が現実に疲弊すればする程に、彼の作品は愛されてゆくだろう。そんなことを思った。

 

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 ( ´ - ` ) 完。