nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2023】R5.4/15~5/14_本体プログラム15個全体を通じて(前編)

第11回目のKYOTOGRAPHIE 2023(京都国際写真祭)(以下、略称「KG」を使う場合あり)のテーマは「BORDER(ボーダー)」。ここでは全15展示について、どんな「ボーダー」と関わり、扱っているかを概括してみる。

 

 

展示全体のレベルが総じて高まっており、会場構成や見せ方において不満がなかった。どの会場も手を掛けて作り込まれており、この新型コロナ禍に見舞われ資金や人手などの面から思うように実現できなかったであろう過去3回分における課題や不満点を、一気に解消し、底上げしてきたように感じられた。

鑑賞パスポートが6千円と高止まりしており、写真関係者以外が気安く来れない価格設定である点、パスポートを使っても1会場につき1回しか入れないのは残念だが、展示レベルが上がったことに間違いはないので、コストとの見合いの話はいったん置いて展示について考えていく。

 

 

「ボーダー」=境界・領域・国境などは、アート、表現にとっては存在意義とも呼べるほど普遍的かつ重要なテーマであり、またメディア・テクノロジーの面からも進化や変成、越境を求められている/その波から逃れられない「写真」にとっては切っても切り離せない主題である。

 

とはいえ写真の祭典KYOTOGRAPHIEでは、全ての展示が強く統制されているわけではなく、個々に個性を発揮している。明快にテーマタイトルに即したり表明しているものではなく、傾向や強度にはかなりの濃淡がある。そのため今回それぞれの展示・作品が越えたり可視化させようとしたのは一体どういう類の「ボーダー」なのか、改めて自分で考えてみたが、いざ考えてみると分かりそうで全体をうまく纏めきらず、やや取り留めが付かなくなってきた。

そのため、ここは明確に視点を大きく2つに分けることにした。「展示形態、モチーフの物的な形態におけるボーダー」と、「作品の扱う主題・取り組みにおけるボーダー」の2点である。

展示・作品によっては両方に特徴が跨るものもあるので、重複して紹介するものもある。なお、展示名に付した番号は公式HP・ガイドのものと同じである。

 

1.展示形態、モチーフの物的形態におけるボーダー

会場に行って鑑賞すれば分かる通りの、最も明快なポイントでの切り口である。「従来通りのプリント+額装による写真展」か「平面であることを脱して彫刻化した作品」か「空間を巻き込んだインスタレーション」か、といった、展示やモチーフの形態において「越境」を試みている作品を取り上げる。

KGは年々、より大掛かりでより大胆な空間展示となり、写真を用いたアート体験の場としての姿を模索し、発展と拡張を試みてきた。単なる写真展に留まらず、京都の伝統と革新あふれる個性的な建築物と作品とが共鳴した、京都ならではの現代アート的な祭典である。

展示形態において「ボーダー」とは、従来の「写真(展)」の領域をいかに脱し、写真(展)はどこへ向かうことができるか?と問い続けているKYOTOGRAPHIEの、活動の根幹のテーマであるとも言えるだろう。

 

① 空間と作品のボーダー

個々の作品と展示空間との境界、区切りを越境する作品を挙げる。会場に大掛かりな仕掛けを作ったり、壁面を作品の延長として色やプリントを拡張させたりする手法。この3~4年は必ずインスタレーション的な展開が見られ、特に「京都文化博物館・別館」と「嶋臺(しまだい)ギャラリー」は定番の見せ場となっている。

今年は例年より更に、展示空間と作品との掛け合い、混ざり合いが高度になっていたと実感する。特に共通して特徴的だったのは壁面の二重化とフレーム化で、会場の壁にもう1枚の壁板を設け、作品の来る場所をくり抜いてフレーム化させていた点だ。これにより、空間がやや狭くなるデメリットはあるものの、作品と会場空間とがよりシームレスに結合され、一体のものとして体感できるようになっていた。KYOTOGRAPHIEは毎年着実に進化していることを物語る試みと配慮だった。

 

▪【03】ロジャー・エーベルハルト(Roger Eberhard)「Escapism」@嶋臺ギャラリー

計4つの展示室を、置く作品に合うよう空間ごと一体化させている。特に受付を終えて扉を開けて入る最初の部屋は、壁全体に作品の特徴である(というより作品テーマそのものである)大きくカラフルなドットがプリントされている。まさにプリントを越えて作品が空間に侵出しており、額装は部屋のデザインの一部へと溶け込んでいる。

続くメインの大部屋も、大伸ばしの写真が壁面の二重化・フレーム化によりシームレスに繋がっていた。また、京町家としての風合いが最も濃い部屋も、床にミラー材を敷き詰めて照明を絞ることで、作品と同じく宇宙空間を演出していた。

作品は写真の複写でありドットの集合である。新型コロナ禍で移動が困難となった中で、コーヒーフレッシュの蓋に印刷された絵柄を高解像度カメラで複写し、超拡大させたものだ。自国スイスにおけるコーヒー消費文化、そしてフレッシュ蓋の写真が半世紀以上にわたって風光明媚やファッション、建築、スポーツ、等々、様々な写真イメージを拡散させてきたことを物語る。写真と工業、消費生活との連結や、複製芸術との関連が浮かび上がる作品である。

 

▪【08】バオロ・ウッズ&アルノー・ロベール(Paolo Woods & Arnaud Robert)「Happy Pills ―幸せの薬―」@くろちく万蔵ビル2F

プリント作品の展示自体は額装・直貼りで壁面に配置しているオーソドックスなものだが、先述のロジャー・エーベルハルト「Escapism」と同様に、テーマである「薬」を全面的に壁・床に拡張させ、空間全体を写真の延長上に置いている。

この徹底ぶりは見事で、色の統一とゾーニングが鮮やかで美しいことに加え、床面には薬の錠剤や瓶の写真が繰り返され、後半には床面が錠剤シート(PTP包装)の凹凸を模し、歩くたびに錠剤を押し出す時のパキパキという音が鳴るよう作られたゾーンも設置されていた。ここまで物理的に伝わる質感や音にまでテーマを拡張させたのは、KG史上初めてではないだろうか。

また、写真を壁・床に大量に貼り出して繰り返すというコラージュ的な見せ方だけでなく、作品を主役として注目させるべきゾーンでは装飾をシンプルにする、シンプルな中に解説パネルを掲げるなど、メリハリの効いた構成となっていた。これも「薬」という高度に規格化・制御された工業製品、そして人々の精神に様々な作用をもたらす存在について、客観的に言及するのに効果的な見せ方となっていた。

 

▪【01】松村和彦「心の糸@八竹庵

昨年度の「KG+SELECT Award 2022」グランプリ受賞によって今回KG本体プログラムに参入となった作品だが、その展開方法は一変している。

会場は大正時代の京町家であり洋間と和室の4室から構成されるが、手強い「和」の空間を非常に巧みに作品世界の中身へと転換させていた。KGでは毎年のように和の展示会場において「会場が勝ってしまう」現象が見られ、その度に「和」と写真の折り合いの難しさを思い知るのだが、本展示は歴代KG展示の中でも最高と言ってもよい和合を果たしていた。

作品の提示方法は非常に細かく多岐に亘る。プリントの直置き、写真立て、壁への額装、襖の奥や軒下への配置、障子紙へのプリント、天井からの和紙の垂れ下げ、動画の投影・・・「写真」はあらゆる方法で京町家に内在され、部屋と一体化しながら作品世界の奥行きを押し広げる。

4つの部屋に跨る作品群を繋いでいるのが文字通り「糸」で、天井から天井へと糸は観客を誘い、作品と作品を、作品と観客とを結び、それらが一貫したテーマにあることを忘れさせない。認知症当事者やその家族が心に宿す記憶や気持ちの「糸」、あるいは、か細くも確かに存在する外部・社会などとの関わりの「糸」を連想させる。認知症という重く、絶望すら伴うテーマにふさわしい演出だったと思う。

 

 

▪【06】山内悠「自然 JINEN」@誉田屋源兵衛 黒蔵

毎年お馴染みの会場「誉田屋源兵衛 黒蔵」の照明を大胆に落とし、作品の舞台である屋久島の夜の森を表現しており、会場撮影が困難なレベルの暗さで、樹と石の写真が散りばめられている。会場全体で露出を決めると絶対にブレるしピントは来ないし、光る写真に絞って露出を合わせると白飛びする。このジレンマは、現地で作者が向き合った苦心を連想させる。五感は自然の闇をしかと体験している、だが写真には「闇」は写らない。夜闇に完全に同化してしまったら「写真」は撮れない。撮影行為は自然の中では異質なのだと思う。

本作では異質な行為を異形へと力強くぶつけることで「表現」へ昇華している。強いライトで青や赤を帯びて樹の幹や根、岩の異形さを炙り出し、自然というものが持つ奇怪で言葉の及ばない造形や存在感を強調して、相対する。人間対自然、理性の光対無秩序の闇といった二項対立の境界を揺さぶり、探求を続けてゆく。

暗がりを抜けて細長い螺旋階段を上った先には、天上界のごとき白いドームが広がる。白くて明るい。夜が明けて太陽の光が満ち溢れる場を体現している。時間や天の動きと「黒蔵」の構造を連動させた展示は初めてだった。

 

② 写真と立体物とのボーダー

平面表現である「写真」を拡張させ、立体物へと至らせる作品がある。絵画などでも常に模索される動きだと思うが、写真とは何か、どうあるべきかという問いと模索の中で、平面という領域・境界を越える試みは絶えず企図されている。

写真のデジタル化の普及と進展は、像自体の定義を拡張しただけではなく様々な手法での3Dプリンター技術を発展させ、写真の立体物への展開はありふれたものになりつつある。毎年のようにKYOTOGRAPHIEには「それ写真って言わへんやん」という、ボーダーどころかジャンルそのものをも飛び越えた造形作品が登場し、鑑賞者に揺さぶりをもたらすが、もはや個人的には「それもまた良し」という心持ちである。

 

▪【02】マベル・ポブレット(Mabel Poblet)「WHERE OCEANS MEET」京都文化博物館・別館

「文博別館」では毎年のKGで目玉となる大規模インスタレーション作品が展開されるが、今年も事実上の目玉作品として、気合いの入った会場構成が成されていた。CHANEL NEXUS HALL」主催の企画で、東京からの巡回展である。 

海の青を体現した大きな構造物と、煌めきを宿した様々な形態の作品群は「写真」離れした造形表現であり、それら全体でミクストメディアの彫刻のように振舞う。だが個々の造形物に近寄ったり遠退いたりして見てみると、実は写真を元にした工作であることに気付く。2階で上映されている作者紹介映像を観るとよく分かるが、撮影した写真を元に、一つ一つ折り紙を折るようにしてピラミッド型のパーツを作っていた。

会場で見た際には各作品ともメディア表現×彫刻という印象が強かったが、作品を正面から写真に撮って写真で見ると、パーツが連結され平面となり、女性の裸体は実に生々しく「写真」として浮かび上がった。

なぜ普通に1枚の写真で表すのではなく、凝った造形を用いているのか?と写真家側は思うところだが、ポブレットが彫刻など造形を手掛けるアーティストであり、海に囲まれたキューバ出身であり、海・水という主題に深く向き合ってきたことを知ると、表現の手順が写真家とは逆なのだと分かる。写真はフィニッシュの形ではなく「海」に至る手段であり、純粋にマテリアルなのだ。写真パーツが繊細で力強く粒子のように煌めくのを見ているとそう実感する。

 

▪【15】インマ・バレッロ(Inma Barrero)「Breaking Walls」@伊藤佑 町家跡地

見ての通り、無数の茶碗や皿の瓦礫、金網にそれらを括りつけた壁、敷地を囲む工事用の仮囲い鋼板、うち1枚の中で流される映像・・・と、「写真」は一切登場しない。皿や茶碗も写真とは直接関係がなく、写真のオブジェ化でさえない。

だが「KYOTOGRAPHIE 2020」、新型コロナ禍の混乱の渦中で秋に延期されながらも何とか開催された回において、ここにまだ町家が現存していた状態でマリアン・ティーウェン「Destroyed House」と福島あつし「弁当 is Ready」を鑑賞した記憶はまだ新しい。特に前者は家屋内部をごっそり繰り抜いて新たな空間を生じさせるという、破壊と再構築に満ちた作品だったが、本展示で地面と壁に敷き詰められた陶器の破片は町家の記憶、そしてティーウェンの破壊的クリエイティブの文脈を引き寄せて結び付く。

本作に用いられている陶磁器は市内の窯元や陶芸家、学生などの協力を得て集められたという。映像作品では頭から全身黒のスーツを纏った女性が、これらの陶器を繋ぎ合わせたオブジェを引き回し、蹴り飛ばし投げ飛ばし、破壊する。破壊の後に続く破壊。場所・建築物の記憶を催させつつ、更に解体後の「更地」という現在形とも別の場へと本作は接続する。陶器のガレキは「写真」の記憶想起の力と似たものが、映像はまた別種の力があった。

 

③ 写真と平面・映像とのボーダー

最後に、同じ平面表現でも「写真」とそうでないものとの領域を越えていく展示を挙げたい。今や写真も動画・映像も同じデジタルデータであり、出力装置もプロジェクターや液晶画面など共通している。逆に、同じ平面表現でもアナログな物性や手仕事へと寄せていく方向性の作品もある。多彩な展示形態にチャレンジするKYOTOGRAPHIEにおいて、これらの厳密な区分はなく、全ては同居している。

 

作者は「Ruinart Japan Award 2022」受賞によって「ルイナール」社のアート・レジデンシー・プログラムに参加、2022年秋に渡仏し、ブドウ畑で収穫したブドウの実や葉、畑の石、持参した金箔とセロファン、そしてシャンパンを合わせたものを撮影している。インタビュー動画では「スキャンを用いて映像とイメージを作った」と語っていたが、これら写真作品はスキャナ上で配置されたものかもしれない。

「写真」作品と書いたが、かなり暗い会場内で、床に置かれたパネルから像を発光させている光景は静止「映像」と呼んでも差し支えないぐらい、デバイスと像とが不可分のものとなっていて、細部まで内側から光っている様子はまさに映像的であった。ここに「写真」と「映像」の仕分けを厳密にすることの意味は発展的に解消しており、特にこれがもしカメラ撮影ではなくフラットにスキャニングされたものであればなおさら、「写真」という領域を平面上(内)において越えた作品であると言えよう。

動画映像作品もあり、不明瞭な膜と闇の中に光が瞬く。二重写しのような視界の中で眠り、目覚める、それはやはりシャンパンの泡である。毎年ルイナールの関わるプログラムで作品が発表されるのを見ていると、ワインやシャンパンは生き物と呼んで差し支えがないように思う。それが文化や伝統の正体なのかもしれない。

 

▪【12】ボリス・ミハイロフBoris Mikhailov)「Yesterday's Sandwich」

暗い部屋に通されると、大きなスクリーンに映し出されたスライドショーと椅子のみがある。不穏さと甘美を併せ持った、意識から隔絶された醒めない夢のようなイメージが続く。

多重露光のように重ね合わされた写真は作者が言うところの「計画的偶然性」の賜物で、1枚のフレームの中で2つのイメージは潰し合うこともなく絶妙に互いを見せ合いながら重なり合う、しかし予測やコントロールのきかない不気味な異世界を生じさせている。

元々は、カラーフィルムの現像中に誤って2枚のスライドをくっ付けて離れなくなってしまったのだが、そのミスがメタファーのようなイメージを有したことで本作を着想させたのだという。合成された像、その投影は写真なのか、短編映画なのか、厚さのない平面の中で枠組みの越境が続く。ピンク・フロイド「The Dark of the Moon」(1973、邦題『狂気』)が流れる中でスライドショーは続いていく。それは1960~70年代、ソビエト連邦支配下にあったウクライナにおいて、表には出せなかった美や世界観そのものであり、ソビエト社会が人々、特に表現者に何を強いてきたかを逆説的に想起させる。1938年生まれのミハイロフはまさにウクライナの激動の時代を生きており、写真活動によって工場を解雇されたり、監視下に置かれ、妨害されながらもしぶとく、したたかに作家活動を続けてきた。本作に重ねられたイメージには耽美だけではない、権力の言説への抵抗や逃避などがあると見るべきだろう。

 

▪【14】ジョアナ・シュマリ(Joana Choumali)「Alba' hian」建仁寺両足院、「KYOTO-Abidjan」@出町桝形商店街

HPの画像から絵画作品だと思っていた。会場に着いてもなお、絵画に刺繍を施した作品だと見えていた。だが近付いてよく見ると元になっているのは「写真」だった。

詳細な手順は分からないが、朝の散歩で撮影した写真をコラージュし、薄い布に印刷したものを何層にも重ね合わせ、更に上から写真に沿って刺繍を施すことで、幻想的でパステル絵画のような優しい風合いをもたらしているらしい。写真という領域だけでは語れない、だが確かにこれは写真なのだ。

写真のリアリティ・写実性と、その配置や遠近の操作に伴う演出性のどちらもを活かし、日常を生きる人々を神話に連結しているような作風であった。写真に刺繍を施す手法は近年、若い作家らによく見かけるが、本作では強めの幻想を掛けることで、写真の現在性を個人の記憶や繋がりといったスケールを遥かに越えた領域へと結び付けている。

更に、作品を支える什器が非常に特徴的で、照明のためのコードも這っているため、昔のテレビモニターやパソコンによく似た箱型をしており、そんなデバイスめいた筐体が映像という軸をもたらすため、「写真か、刺繍か、絵画か、それとも動画映像か」という多彩な平面表現が交錯する場として独特な場となっている。

また、出町桝形商店街の天井には毎年恒例、商店街の人達とコラボレーションした大型作品が掲げられる。作者の住むコートジボワールのマーケットと京都の人達の写真が糸で結ばれており、ここではストレートな写真が用いられている。ストレートに現実を写す力、画面構成の力があるからこそ、刺繍などで手を加えても説得力がある。

 

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後編:「2.作品テーマ、被写体にまつわるボーダー」へ続く。

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