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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真/映画】R1.7/7(土)「カメラになった男―写真家 中平卓馬」(小原真史)上映会&トークショー @梅田蔦屋書店

【写真/映画】R1.7/7(土)「カメラになった男―写真家 中平卓馬」(小原真史)上映会&トークショー @梅田蔦屋書店

半ば写真史上の伝説と化している中平卓馬が、生きて動いている。「情熱大陸」百話分を濃縮したような味わいがあった。

映画の公開はこの1日限定であった。上映後は製作者の小原真史と、写真家・勝又公仁彦のトークも催された。 

 

2016年8月の原宿VACANTで鑑賞して以来、2度目の鑑賞である。

シーンは大きく2つ、横浜の自宅とその周辺での暮らしの光景と、沖縄滞在での様子である。沖縄は東松照明展「沖縄マンダラ」の記念シンポジウム「写真の記憶 写真の創造 東松照明と沖縄」出席時のものだ。

 

「宮良康正」、鑑賞者はこの固有名詞に少々翻弄されるだろう。中平が繰り返し口にする氏名である。ある男性のポートレイトを指差しながら中平は、「宮良康正」という氏名および彼とのカラオケのエピソードを語り出す。

宮良康正(みやら・こうせい)とは、八重山民謡の第一人者である。沖縄滞在中に宴の場で出会い、歌ったりした時の記憶がよほど楽しかったのか、中平の中でいつまでも絡み付いているらしい。それがなぜか先述のポートレイトと結び付いてしまっていて、写真を指差しながら、てぃんさぐの人、マイク渡されて歌うよう促された、と、一夜のエピソードが繰り返し口を突く。

観客の側は、聞くたびに本当にそうなのか、徐々に混迷が深まっていく。ポートレイトに写された男性、よい陽射しの中で微笑む、恰幅のよい筋肉質の、白いタオルを頭に巻いた中年男性は、果たして「宮良康正」なのか。そうでなければ、一体誰なのか。実際、宮良康正という人物は写真とは別におり、風貌も年齢も異なっている。しかし中平の内部ではこのポートレイトの中にいる屈強な男性はあくまで「宮良康正」である、らしい。そして沖縄の宴の場で登場した「てぃんさぐの人」もまた「宮良康正」である、らしい。

その両者が中平の内部でどのように結び付いているのかは想像も出来ない。中平がどちらの人のことを「宮良康正」と呼んでいるのか、どちらの人相のイメージを「宮良康正」と認識しているのか、その正解は揺らいだまま、ただただ、錯誤が繰り返される場面が、動画という流れによって鑑賞者に共有されていく。

本作の意義はそこにあると思う。中平卓馬という、稀有な体験を経て、通常の認識の向こう側で生きることとなってしまった写真家の認知を、映像の中でリアルタイムに追体験、共有することになる。そしてそれが、単なる「症状」などではなく、中平の追ってきた「写真」そのものであると感じるようになることが、本作の優れた点だ。

 

中平卓馬は、1977年9月に急性アルコール中毒により昏倒し、記憶障害と失語症に見舞われた。単なる飲みすぎでの事故というものではない、彼はそれ以前からアルコールと睡眠薬を多用(常用?)し、時には入院もしていたことが知られている。1970年代以降、「アレ、ブレ、ボケ」に象徴される写真批評と写真行為とが限界を迎え、写真の解体の末に辿り着いた極地として「植物図鑑」を標榜するに至り、写真家でありながら従前のようには写真が撮れなくなった。批評の力が自身の写真を超えてしまったことで、薬に頼らざるを得なくなったとされる。

本作はその事故から20数年も経っている。日常生活に支障がないまでに記憶や言語は再建されているようだ。とは言え、中平の内部では、何らかの深い錯誤、混乱が明らかに見られる。その姿はまるで、彼自身の写真のような不確かさに満ちている。

1枚の写真が意味、可読性を帯びるとき、写真は同時にまた別の、時には全く逆の意味を持つことは珍しくない。写真の展示を観に行って、タイトルやキャプションの有無、作者やギャラリストの解説によって、意味のありようが全く変わってしったという体験をした人は少なくないだろう。写真は言葉により意味が揺らぐ。それは権力の手による恣意的な読解、意味づけをも容易に許す。そのような写真の性質がまさに争点となったのが、1971年・沖縄ゼネスト警察官殺害事件(※) における現場写真を巡っての解釈である。
(※ 過激派に襲撃され火だるまとなった警察官が死亡。現場写真からは、デモ参加者が警察官を足蹴にリンチを加えているように解釈され、加害者の特定・逮捕の証拠とされたが、実際には火を消し止めようとする救助の姿であった。中平はこの裁判において被告人・松永優の応援のため沖縄に飛んでおり、当時の回想も作中の中平の発言に登場する。)

 

中平卓馬の写真における運動とは、写真の有する曖昧さゆえの可読性、意味の交換可能性の高さが、恣意的な解釈を容易に招き入れること、すなわち結果的に「意味」を語る権力の側に取り込まれ、写真そのものが政治・権力へ属してしまう事態からの脱却にあった。そうして辿り着いたのが、純粋な事物だけを写す「植物図鑑」のような写真である。

映画の中での中平は、まさにその「植物図鑑」の世界に到達しながら、日常生活を生きているように映った。その意味で彼の活動、写真における運動は、1977年の事故の前後でシームレスに繋がっていると言えるだろう。写真や言論という媒体上での活動が、事故によって図らずも身体、生活そのものへと肉薄してしまったということだ。

それは周囲に深い混乱と問いをもたらす。何故なら少なくとも私たち一般民間人は植物図鑑ではなく、権力的存在だからだ。周囲の文脈や状況に応じて物事の意味の読み取り方を絶えず可変させつつ、その場に適した「意味」を選択・読解する。時には意図的に誤読・誤謬を率先して選択し、また時には何者かへの積極的忖度によって意味・読解の体系をも差し替えつつ生きている。

私たちは行使・被行使いずれにおいても権力ありきの存在であり、国家や生活の構造上、意味や文脈に完全に隷属している。だから中平卓馬の言動は理解できず、不安であるし、彼の放つ問いには答えられない。

とはいえ私達は、カメラ・スクリーン越しに「中平卓馬」の「映画」というコンテンツとして本作を享受する、消費者の側(あるいは写真愛好家、写真を学ぶ者の側)にいるという絶対安全圏に居ることを全面的に許されている。よって鑑賞者は危うげながらも、わけのわからない中平卓馬なる人物と、その前後左右のもの・ことたちと関係性を結ぼうと試み、それぞれに糸を張る。そして中平の言動は、その糸を脱力させてしまう。いつの出来事なのか分からないエピソード、指示対象のズレの錯誤が大真面目に繰り返されることで、意味付けの糸はたわみ、外れたり、誤った場所へ再紐付けされてゆく。

もし本作の主人公が高次脳機能障害を患った一般民間人であれば、ある「症例」の「ケーススタディ」としての枠組みに全ては収まり、太い線を結んだ「理解」に早々に落ち着くことが出来るだろう。だが作中で錯誤を繰り返しているのは、生粋の写真家であり批評家・中平卓馬である。私たちが目にする言葉と記憶のズレ、意味の混乱は、果たして「症状」や「後遺症」か、それとも「写真」行為なのか。その時点から既に、大いに深く揺さぶられている。この映画は挑発に満ちている。

 

その実、そんな状況に最も振り回されていたのは、他ならぬ中平自身だったのではないかと察せざるを得なくもなった。昨夜宴席で会った人物と、全く別の時期に撮ったポートレイトの人物との区別が本当に付かない。旅館の傍の樹で鳴いているのがセミなのか鳥なのか分からない(本人にとっては鳥)。牧子剛が亡くなったことを繰り返し伝え続ける。中平の中で完結しているうちはよいが、誰かに指摘されて、何か重大な錯誤があったと気付いた時、それは自分を通じて結んだ世界そのものへの不信、崩壊に繋がりかねない。映像の中では、「てぃんさぐの人」「宮良康正」を巡って、時間が本当に凍り付くシーンがあった。恐らく中平の周囲と本人の内部では、日常的に、20数年ずっと、世界の再生と解体が繰り返されてきたのだろう。

 

「宮良康正」と並んで頻繁に登場する固有名詞が「牧子剛」である。

牧子は、大学の写真学科を卒業して間もない頃に偶然、中平と出会い、写真の友人となった。1993年6月の沖縄撮影旅行には牧子も同行し、中平と、同行した出版社側の間に立ちながら、中平の身の回りの世話や意思疎通の仲介者として尽力した。また、写真家として中平から鋭く問いを挑まれる場面にも多々付き合っていた。本人の気真面目さに中平の真摯さも相まって、正面から向き合わざるを得なかったのだろう。このあたりの話は大竹昭子《目の狩人》(1994年/新潮社)に詳しく、極めてスリリングに描写されている。

だが牧子は海の事故で亡くなった。中平は作中で度々、牧子が海で亡くなったと繰り返す。しかし、色んな場面でさも初めて聞かせるようにこの話題を切り出しているので、一見、普通の世間話のように見えるが、じわじわと奇異な場面に思えてくる。中平にとっては眼前の全ての人が等価なのだろうか。顔と名前など機能上の区別は為されていても、それ以上の深い認識の区別があるのかどうかは定かではない。 

ただ、中平の表情は特段変わらないものの、沖縄滞在中の会話にしばしば「牧子剛」の名が登場することからも、彼の逝去は余程、深いショックだったのかも知れない。

実際には、牧子剛は事故で亡くなったのではない。自死したという。中平との2度目の沖縄旅行の後、地元の横浜で二人で撮影し、中平が喫茶店で待機している間に海に飛び込んでいたらしい。何度も牧子の死の話題を語る中平の内部ではその瞬間、その都度、牧子の死は忘却されず生成されることになる。そのことがどういうことか、どれぐらいの辛さがあるのかは知る由もない。ただ、中平という真っ直ぐで深淵な「問い」が、牧子剛という若い写真家にとって「答え」に窮するものであったことは、察せられる。

 

映画の制作者である小原真史は、当初は1日限りの撮影のつもりだったはずが、こうして3年越しの取材を経て映画化したことについて、「多分あの笑顔にやられたんだと思う」「あのキュートな・・・」と述懐した。

それと同時に、中平の「指を差す」動作について、「お前はどうなんだ、と問われているようで、凄くキツい」と実感を込めて語った。そのしぐさは、言葉とは逆の、「写真の怖さと同じ」類のもので、何かをはっきりと指示するわけではないが、言外の意味を読み、考えることを促すような働きを持つ。トークでは中平卓馬の愛嬌と、全身写真家、いや、全身「写真」そのものであるがゆえの怖さにも触れられた。怖さ。その点はまさに大竹昭子が《眼の狩人》及び《彼らが写真を手にした切実さを》(2011/平凡社)において生々しく書いている点だ。

 

私はこの映画は2度目である。今回、確かに中平卓馬の笑顔が印象に残った。NHKのドキュメンタリー番組ではやたらカリカリしていた荒木経惟とは対照的に、終始、人懐こい感じで何事かをボソボソ話しては笑顔を浮かべる中平の姿は、逆の意味で衝撃だった。

だが、愛嬌だけでない「何か」の漂う人物であることは、開幕すぐに感じられた。特に初回の鑑賞時は、全く気を許せる相手ではないことを直感した。職業病だろうか。役所の窓口や居酒屋のカウンターなどで議論を吹っ掛けられたとしたら、所謂”クレーマー”などよりもずっと厄介で手強い相手であろうことが自然と思い浮かんだ。無意識のうちに警戒する自分がいた。

中平には、本質的な議論を挑む、答えを許さない問いを挑んでくる気配があった。容易には答えのない(出せない)問いを投げかけ、そして回答の粉飾さを見抜いて問いの手をひるめない、そんな気配を感じた。ただの私の職業的な経験則による反射的感想だが、あながち大きくは外れていないと思う。

牧子剛の最期の件はそのことと無縁ではないだろう。先述の通り、一般民間人は程度の差はあれ、政治や権力の庇護を受け、その恩恵の中で生活を営み、人生をやっている。その虚と実を鋭く突く「問い」は、命のやりとりになると言っても過言ではない。そう思うと、小原真史がこうして無事に3年間もの撮影を完了させ、映画として成立させたことが奇跡に思える。映画という最終成果物があったことや、カメラ越しに取材対象として距離を置けたことが幸いしたのだろうか。

 

 冒頭のシーン、中平が自宅近辺をチャリンコで走る背中、そしておもむろにチャリンコを停めてカメラを構える一連の動きに、何か得も言われぬ異質さを感じた。季節感のよく分からない風体、赤い帽子、直線的でない動き、おもむろに停める自転車、撮影行為。カメラの先には特に何もなかったり、人がベンチで昼寝をしていたりする。一眼レフの操作にしては、シャッターを切るまで随分と長い時間、狙い澄ましている。長い。そして、他意の全くない笑顔。撮り終えると子供のように嬉しそうに、ジャンプするように体を動かす。そして何かをボソボソ呟いては、その日の思考や撮影物をタバコ(peace)の箱にマジックで書き込む。

 

ああこの人は、全身で写真のように生きているのだと分かった。

いや、写真家やアーティストの生活というより、「写真」の暮らしである。彼のこれまでずっとやってきた写真行為そのものが暮らしを営んでいる姿だ。意味性や政治性を回避しつつ、見る者へ日常や既成概念への問いを放つこと、それでいて個々の写真自体には主張や詩情を持たず、ただそれがそれとしてある。それを写真や言論によって成すに留まらず、それそのものが中平卓馬という生を占めている状態である。

 

とは言え、写真や批評は作品や商品として、一定の工程を経た上で展示、発行されるが、「中平卓馬」はどこまで行ってもあくまで一人の人間である。そのヘヴィさと危険度は桁が違う。

「問い」は、厄介だ。「あなたの作品のテーマは何ですか」などといった、回答を求める問いではない。彼の問いは厄介だ。「この世界は何だったのか」「あなたは何だったのか」と、回答の可読性の余地を極限まで広げることで生まれる、真空のような話だ。いかなる言葉もそこでは分解され散逸する。意味の無意味さを突き付けるような問い。本作は、その極地の中で生きる人間のリアリティを見せられた感がある。

 

 

感想は困難だが、そのような、何かとんでもない人との時間を共有したという感触が残っている。

 

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なお、本作は諸勢力による色々な事情により、完成後も3年ほど世に出すことが出来ず、お蔵入りになっていたという。

写真界の内情を全く知らないので恐縮だが、例えば深瀬昌久の集大成写真集《MASAHISA FUKASE》(2018/赤々舎) の製作過程においても、様々な妨害などがあったことを編者であるトモ・コスガ氏がしばしばリアルに呟いていることからも、著作物を取り扱うことの難しさ、界隈の諸勢力の難しさについて「うわあ」「めんどくせええ」と呻いた次第である。めんどくせえええ。うげえええ。うちのじいちゃんもそういう勢力・権利関係のアレがあって夏目漱石研究には手を出せなかったと言っていたな。戦争や内乱のない世界にならないもんですかね。むりかな。

 

( ´ - ` ) 完。