写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.6/6(土)_石川直樹「山は人間が生き延びるための根源的な叡智を引きずり出してくれる。」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

【会期】20204/11(土)~7/5(日)

 

「山は人間が生き延びるための根源的な叡智を引きずり出してくれる。」まさに本展示を観て、最初から最後まで反芻していたのが「人はなぜ、山に登るのか?」という問いだった。

 

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展示タイトルはそのまま、問いへの答えにもなっている。

 

 

人はなぜ山に登るのか?

 

何度見て何度聞いたことか、この言葉。残りの人生で何度目にすることになるのだろう。ナポレオンや坂本龍馬の名言(とされる)例のフレーズと同じぐらい、私達が地球に定住している限りは繰り返されることだろう。

真っ先に思い返したのが登山漫画神々の山嶺(いただき)』夢枕獏×谷口ジロー)だ。主人公のカメラマン・深町と、孤高の登山家・羽生の間でこの問答が交わされ、そして羽生は羽生にしか言えないであろう、独自の解を呟く。それは羽生の屈折した人生を自ら受け容れての一言だったが、現実の登山者らもまた、リアルに一人一人、この不変の問いに対する答えを山の中で、人生の中で、それぞれに見つけ出していくのだろう。

この問いはむしろ、山から距離のある一般人の方が多く繰り返しているかもしれない。山登りをする家族や友人が身近にいる者、平地で帰りを待つだけの身としては尚更だ。極端な例で言えば、10年ほど昔、新自由主義に毒された一部のネット民には、登山はレスキュー費用を食いつぶすだけの悪行のような扱いすら見られた。そう極端でなくても、レジャーの域を超えた命の保証のない山行、例えば厳冬期のアルプス縦走や、巨大な岩壁への登攀の挑戦は、命を賭けたギャンブルのようで理解を超えている。

そして山に登る当事者ですらしばしば「なんで私はこんな辛い思いをしに来たのか?」「なぜこんな危ない、見返りのないことを自発的にやっているのか?」という、1円にもならぬ営為を、1円にもならぬ問いで反芻しているのだ。私はきわめてライトな登山愛好家であるが、同じ思いに囚われたことのある先輩諸兄らも多いだろう。

 

 

本展示は2つの大いなる山、エヴェレストへの2度目の登頂(2011)と、K2遠征(2015年、2019年)の写真から構成されている。全部で50枚近い写真のうち、大半は後者、K2へのチャレンジ(断念)とガッシャーブルムⅡ峰の登頂の写真が占めている。

 

石川の写真は静かである。ふもとの集落の人々の暮らし、地元民と共に生きる動物たち、目の前の登攀の対象である巨大な山、岩の塊、高度を上げるにしたがって移ろいゆく表情、空の青さ、そこまで辿ってきた山稜、そして頂上までの道のり、そうした作者・石川個人からの視座が写っている。

 

写真が静か、というのは、大人しいとか弱いという意味では全くない。被写体:山や現地人や登山家らが、声高に自分の主張を叫んでいないということだ。被写体が過剰な神秘や崇拝に、あるいは広告的な美に毒されていない。エヴェレストもK2も、地球上の最高峰として、苛烈な難易度を誇る秘境として名高いが、本作はその峻厳の、絶景の美、特権性を訴えるものではない。力強く、言葉の手前で、そこにある。そして山も、山に辿り着く遥か手前の、手作りの橋も、同じテンションで撮られている。

 

そう、橋が重要だ。

 

写真は時系列で、現地入りしてから登頂するまでの過程を辿る並びになっている。麓からの長い道のり、川を渡渉していくための橋や、山の麓で待ち構えるクレバスに掛けられた梯子、斜面に掛けられたロープ。これらのカットは、登山者の労苦やプライドを語るものではなく、ヒトと山との「繋がり」として現れてくる。

エヴェレストもK2も殺人的な極地で、費用と時間が掛かり過ぎるために姿を拝むことすら困難という点では経済的にも殺人的なわけだが、ヒトを全く寄せ付けない領域であるにも関わらず、写真には、何とかして関わりを持とうとしてきた我々ヒトとの、根深い繋がりの形や痕跡が、粘り強く記録されている。石川の写真は繋がりの写真なのだ。

 

山岳、限界の秘境としての美しさや険しさも勿論含まれてはいる、だが誇張は一切ない。「山」と呼んでいる巨大な屹立した岩、地面の無限大のせり上がりが、この「地球」という存在の見せる表情の一つであるかのように、フラットに見据えていることを感じる。

また、その視座のフラットネスは、石川を初めとするパーティーの一団が、眼前の山岳に対して向ける挑戦の眼差し、すなわち天候、雪・山肌のコンディション、ルートを見定め、進退の決断を見極めるためのフラットで科学的な眼としても捉え直すことができる。山の表情が、誇張なく、よく写っているから、どこから入ってどう辿ろうかという、ルート検討にも資するような写真である。  

それは山頂や未踏ルートの「攻略」を成し遂げんとする野心、狩人的な眼差しとは大きく異なる。確かに作者は登頂を喜び、細胞の内から興奮しているが、人間対自然の分かりやすい二元論をとうに脱した後の状況、ヒトと山・地球との関わり合いの中における、一つの「状態」であることを物語っている。ベースキャンプに向かう道中も、登り始めからも、そして最終のアタック、登頂後も、全行程で写真のテンションがほぼ一定であることからもそれが伺える。

 

 

声高に語らない写真の静かさと対比的なのが、動画映像である。

エベレスト、ガッシャーブルムⅡ峰のアタックは写真だけでなく動画でも撮られていて、会場内で流されていたが、そこでは高度が上がるにつれて、石川の呼吸の一息、一息が響いてくる。

 

動画のうち、ガッシャーブルムⅡ峰(K2アタック断念の代わりに登頂)のアタック動画がYouTubeにあった。

 


Gasherbrum II/Road to K2 2019

 

高度8000mを超えると、酸素濃度が地上の3分の1になると言われる。

石川の体調は安定している。だが平地と比べると――画面を見つめている私達鑑賞者の呼吸と比べれば、その一回一回の呼吸は全力疾走後のように苦し気で、そこに立っているだけでもひどく苦しく、だるいのだろうと伝わってくる。

登山者は皆、時間をかけて高所に滞在し、高度順応の手続きをとって低酸素の環境へ体を慣らしていくのだが、7~8000mから上は「デスゾーン」と呼ばれる。いかに高度順応していても、そこに滞在しているだけで摂取量を超える酸素を消費し続け、長時間留まるといつかは命を落とす。石川がいたのはそういう場所だ。

 

ちょうど漫画版孤高の人坂本眞一、原作・新田次郎)の終盤(14~17巻)が、K2登頂へ挑戦する話なので、石川の山行とはルートや状況が大きく違うとはいえ、デスゾーンの過酷な環境に立つことの凄まじさを追体験するには参考になるだろう。

苦しい息遣いを聞いていると、本当に「なぜ山に登るのか」が、心底分からなくなってくる。そのため、私の中で「問い」はより強く反復された。

 

身体や生命の危機の面からだけでなく、更に輪を掛けて「問い」となったのが、山の位置や環境、「山」そのものの存在である。

 

エヴェレストやK2、ガッシャーブルムなどはどれも、人里から2~3週間かけて歩かないと麓に辿りつけず、しかも富士山のように単独峰で立っているのではなく、多数の山々が連なる山脈の一つとして立っている。周囲は山だらけで、写真では解説が一切ないため、提示されるカットがK2なのか、ガッシャーブルムなのか、その隣の山なのか、それすら素人には良く分からない。エヴェレストですら、名前はあれだけ知っているのに、富士山のように「どこから見ても同じ姿」ではないので、少し違う切り口から撮られるとたちまちによく分からない。これは、多少なりとも登山をしていた自分にとって、何気にショックだった。

 

アイコン化されていない「山」が幾らでも登場する。山、山、山、山・・・判別不能である。

最初はそれに混乱し、手に負えず、不親切と思った。が、まさにこの状況こそ、「人はなぜ山に登るのか」という問いへと、次第に繋がってくることを感じた。「なぜその山でないとだめなの?」、山に登りたいなら、ここそこに幾らでもあるじゃないか、という素朴な疑問・問いである。知識のない者にとっては、似たような白い山が連なっているので、全部同じである。

登山家が「そういう話ではない。私はK2にアタックしに来たのだ」と、踏み出してゆく時、その一歩一歩は絶対の、替えがきかない歩みである。その固有の山でなければならない必然性がある。

恐らくそこには、人類がこれまでその山に対して挑んでは取り結んできた、歴史としての関係性を辿ってゆくという意味が非常に大きいのだろうと考えた。

 

本作からは主語が大きく広がってしまうが、その「人と山との関係性」には、これまでの多くの人間の労苦や犠牲も含まれるだろう。多大な犠牲があったからこそ、あえて人は登ろうとしているのではないか。この強烈に矛盾した原理に対する解答こそが、本展示のタイトル「山は人間が生き延びるための根源的な叡智を引き出してくれる。」へと、繋がっていく側面も見逃せない気がしている。

 

負の関係から、肯定的な関係性への転換に向けた運動としての登山。

 

山は地形であるから、意思や意図を持たない。人が返り討ちに遭って犠牲となるとき、その犠牲は何と表現すればよいだろうか。本人のミスや限界もあろう。自然側の理不尽なコンディションの乱れもある。だが原因が何にせよ、人は犠牲の蓄積という事実に、何かの義務のようにして向き合うことになる。山に議論や説得は通じないから、ヒトは、自らの体で、歴史を、関係性を更新するしかない。

本来立ち入らなくてもよかったはずの領域に踏み込んだ罰のようにして、挑んだ者たちがことごとく命を奪われ、頂上に辿り着けない。その負の積み重なる歴史に対し、失われたままには出来ないという動機が働くのだろうか。登山家個人の野心、功名心は勿論あろう、だが積極的な動機の裏に流れているものは、負の関係を乗り越え、更新しようとする、人類全体に流れる何かの力なのではないか。人間は、ヒトが死んだままには出来ないらしいのだ。

そして科学的な分析と超人的な粘りと努力を重ねた結果、誰かの「登頂」によって負の歴史は解消され、山と人とはまたひとつ昇華された関係を取り結ぶ。すると次は、昇華された山との関係性、「この山は、正しいアプローチによって死なずに攻略可能な山である」というテーゼに則りながら、より個人的な関係性を山と構築していこうとする動機が生まれ、また連綿と関係構築が続いていく。

 

「山」との関係の構築と更新を試みようとする行為が「登山」である。そう考えると、個人の内面の話と、人類全体で共有している「山との関係性」との2つが絡み合って、人を山へと駆り立てているように思われる。

 

思った以上に歯切れの悪い文章になり、問いに対する導入部のあたりで終わる感じになってしまったが、ここから先はやはり山に登るか、山に登った人の話を聴くしかないと思う。

 

 

本作は解説が殆どないので、前述のとおり、その場に立つことの肉体的な苦しさや、山の危険さはおろか、どの山が何の山かすらよく分からない。恐らく作家本人のトークショーなどで生の言葉から体験を共有しつつ、作品を通じて共に2次登山を行うのが最も豊かなものとなるのだろう。しかし新型コロナの影響を鑑みて、4月のトークショーは中止となった。

石川の写真はフラットさゆえに、解説の量が増せばそれだけ、写真が補足資料としてひっくり返る危うさがある。そのことを重々理解しているから、展示にも写真集にも解説はほとんど載っていないと思った。逆にフラットさゆえに、鑑賞者はかなり実情を棄却してサラッと写真を見てしまう――この極地を鑑賞者が法外に軽く見積もってしまうということはあるかも知れない。

 

 

念のためエヴェレスト登山の何がきついかを、一般論からおさらいしておきましょう。

www.redbull.com

こういう一般論をある程度身に付けた上で、本展示を辿ると、鑑賞体験に何かリアリティが宿ると思います。

 

あと映画『エベレスト3D』もあるけど、なんかぬるい。

お金を払えば一般観光客も連れていってもらえたり、頂上付近で登山客が渋滞して時間待ちを強いられる描写は非常に参考になった。


映画『エベレスト 3D』 特報

 

ただし、ここで何度か「地球との関係」と拡張して書いたように、石川は登山の話だけをしているのではない。

そもそも石川は、山岳だけでなく、北極・南極を初めとする様々な極地を旅し、各地の文化、人と地球との関係について広く考察している。

手で持てそうな大きさの岩石が、凍った雪の塊で持ち上がっている(あるいは周囲の氷が溶けた中で取り残された)のを、ひとつの山のように捉えたカットがある。象徴的な写真であった。森羅万象、足元にある岩から、大地、眼前の巨大な山脈、それらすべてが、一つの「地球」という、とてつもなく偉大で多彩な世界の一部であることを語る、入れ子構造のようなカットだった。

 

 

登山について考えすぎて、地球の話にまで及ばなかった。

また別の展示の機会にこの続きを考えたい。

 

 

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会場では巨大なドーム状のテントも展開されていた。ここは撮影OKでした。

中には写真集『EVEREST / K2』という超巨大・特製写真集(40万円超えw)を鑑賞でき、それだけで小一時間ぐらい堪能しました。展示作品と同じなんですが、顔の何倍も大きなページをめくって辿るというのは、これまた一つの旅、登っていくような体験でしたね。

巻末の本人の文章がとても良かった。

oil.bijutsutecho.com

 

 

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鹿が町中をウロウロしていましたが、4月あたまよりは奈良公園側に引っ込んでいましたね。

車と人が街に少しは戻ってきていて、一時よりは寂しくはなかったです。

先ほどネットニュースで、観光客激減で鹿せんべいの摂食量が減ったら、糞が健康的になった(鹿せんべいを食うと喉が渇くので、必要以上に水を摂って、おなかが緩くなるらしいよ)という記事を見た。へえー。

自然のことって分かんないもんですね。

 

 

( ´ - ` ) 完