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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.4/8~6/25_池本喜巳「記憶のとびら」@奈良市写真美術館

鳥取・山陰に根差した写真家である。その地に深く根差した作品が集まる展示となった。だがその価値は、個別の地域の特殊性、記録性にあるというだけではない。活動からは植田正治に象徴される、地域の写真文化と歴史が大きく働いていることが伺えた。

【会期】R5.4/8~6/25

 

池本喜巳鳥取生まれ・鳥取市在住の写真家であり、地元・山陰をベースにプロカメラマンとしての商業活動と、作家活動とを並行して行ってきた。展示歴・受賞歴は豊富で、写真集も多数出版しているが、活動の地域性の高さゆえ、必ずしも広く知られた存在ではなかった。今回の関西での大規模個展は存在を知るための貴重な機会となった。

 

私が池本喜巳という写真家を知ったのは、それこそ鳥取を訪れた時だった。

2018年夏、当時通っていた写真学校(大阪国際メディア図書館・写真表現大学)の同窓生で、鳥取から通うプロカメラマン氏の招きで鳥取観光ツアーを企画したのだが、そこで池本喜巳個展「裸のトポス」と個人写真館「小さな写真美術館」を案内され、初めてその存在と作品を知ったのだった。

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この鑑賞時にぶっちゃけ思ったことを吐露すると、「地域性と記録性の高さとその価値は十分理解できるが、地域性が高すぎてどう評価すべきか難しい」ことと「昭和の男性写真家が昭和の記憶を残す取組みは、どこまでの優先順位で評価されるべきか」という疑念だった。

今回の展示は、この時の問いに対する回答となった。つまり、地域性の高い作品を当該地域内で鑑賞・体験する時と、それを全く別の地域にて切り離して鑑賞する時とでは、客観性の差が生じて意味が変わる、新たな意味を見い出せるということだ。

 

本展示は、まさに当時見た「近世店屋考きんせいみせやこう)を中心として、初期作品「記憶の扉―そでふれあうも」、今回初の公開となる「三德山三佛寺」「精霊の山」、計4シリーズが展示された。中でも「近世店屋考」は特大プリントでかなりの枚数を展開し、序盤から最後まで続く。作者の代表作にして、本展示の主軸である。

 

また、本展示に合わせてCase Publishingより新たな写真集「On Display」が刊行された。内容は「近世店屋考」シリーズの再編集・コンプリート版で、2006年に発刊された同名の写真集とはまた異なる趣きとなっている。

case-publishing.jp

 

では展示順に沿ってこれら4つのシリーズを追っていこう。

 

1.三德山三佛寺

三徳山三佛寺(みとくさんさんぶつじ)天台宗の山寺で、706年に役小角(えんのおづぬ)が修験の場として開いたと言われている。標高ほぼ900mの山で、奥の院として岸壁の中に投入堂が組み込まれていることであまりに有名である。

10年かけて撮影されたといい、2002年10月に大型の写真集三徳山三佛寺池本喜巳写真集」としてまとめられているが、発行は新日本海新聞社、内容は山と投入堂だけでなく、寺にまつわる文化財全般から炎の祭典など幅広く撮影されており、執筆者も瀬戸内寂聴など仏教関係者、監修は三佛寺の住職・米田良中と、池本の個人的な作品というよりも、三佛寺、そして地元を挙げての一大プロジェクトだったのではと察する。

地元の三朝町(みささちょう)三徳山世界遺産登録に向けて取り組んだのが2001年からなので、写真集刊行の時期と合っている。

 

印象としても、個人の作品作りではなく、プロの手腕を最大限に活かして取り組んだ文化事業としての記録撮影で、「私」を交えず文化財と向き合っていることが分かる。この点は次の「精霊の山」シリーズと対になっていて、意識的に自己をかなり抑制して撮っていたらしい。

雪の中で投入堂を撮影している。撮影は1999年で、分解した4×5判カメラをリュックに入れて吹雪の中を登山したという。ステートメントには2000年1月27日に積雪の中を撮影に挑んだ際のエピソードが記されている。投入堂に至るまでの道は修行のためのもので、切り立った崖あり、鎖場あり、夏季でも危険で、死亡事故も起きているため、麓で履物のチェックを受けて入山許可を得ないと入ることはできない。言うまでもなく冬季は入山禁止である。

作者55~56歳、雪中五体投地土門拳投入堂を「日本第一の建築」に挙げたが、雪の室生寺の撮影を狙い続けた土門にも、これは真似できない仕事である。

 

 

2.精霊の山

「三德山三佛寺シリーズで記録性に努めた作者が、本来の「我利我利亡者」たる自我を抑えている中で不満が蓄積された分、自己表現に転じてフラストレーションを発散させたのがこのシリーズである。

舞台は毎年10月に恒例の「炎の祭典」で、各地から集まった山伏が投入堂を目指して走り、護摩が焚かれ、素足での火渡りが行われる。作者はこの日だけは行者=プレイヤーとなって修験道の呪術の世界を表現できないか」と、大胆な主観的表現を施している。

その表現は予想を裏切って謎めき、そしてパワフルだ。写真自体は黒の深いモノクロで、修験道の行者らが修行している姿を捉えているのだが、写真は金箔を貼ったように部分的に黄金色がついている。色とさえ言い難い、プリント時の薬品の作用が溢れ出したように、内側から来ている。この黄金色はあの世と交わる黄泉の国なのか。

更に、多くのカットで画面の一部が流れたり、焦点が来ておらず大きくボケていて、水の中からカメラを向けているように歪んだ視座となっている。特に横向きの流れの歪みは強烈で、写真自体が流し撮りで流れた分だけサイズが横に伸びている。被写体を際立たせるための流し撮りではなく、時空を歪めて写真自体をも撓ませる流し撮りは初めて見た。

これが実際、流し撮りで撮影されたものか、それとも暗室でのプリント時に、強烈な歪みを掛けるように印画紙を大きく動かしながら焼き付けたものか、謎が多い。4×5カメラであれば撮影自体は通常通り行い、暗室作業で操作を加えたとも考えられるのだが、「カメラを振り回し、ストレスを発散させた」と書かれているので、これが比喩なのか大胆な手持ち流し撮りなのかが判然としない。ただ確かなことは、池本喜巳という写真家はストレートな撮影だけでなく、実験的技法を織り交ぜた変化球も好んで使う、貪欲な表現者であるということだ。

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3.近世店屋考

展示の大半を占めるのが「近世店屋考」シリーズだ。山陰の個人店や職人の仕事場を記録し続けた大作である。1983年の「河田理容室」が最初の1軒で、しばらくは鳥取県内の床屋を探し回っていたが、次第に古い商店全般へと関心が広がっていったという。

昭和の趣を色濃く残した、唯一無二の店の内部が記録されている。昭和レトロ、などといったよくある形容では生易しくてふさわしくない。毎日、夥しい年月の間、繰り返されてきた商いと生活の堆積がある。「凄み」と言っても良い。一枚一枚の情報量の多さに圧倒される。レトロ・エモーショナルとして消費できる空間ではない。

店主のこだわり、使い勝手や習慣、客の個性、山陰の風土、様々なものが混ざり合って折り重なり、それぞれの商店は独自の貌を刻む。店の写真だと思うと軽く見積もってしまうだろう。これは地元文化と地元人のポートレイトでもある。実際、店内には必ず店主が配される。時には客も配されて、重要な構成要員として店と共に共に写される。地元の人と店とが共になって織り成すポートレイトだ。きっとそれを文化という。

 

恐ろしく克明な写真である。凄みの正体はディテールにある。たった1枚でその店と店主のことを語りきるだけの細部を写し込み、抱きかかえている。大判カメラでなければ、1枚の写真にこれだけの情報量を抱えさせることはできないだろう。大伸ばしになったことで情報の解像度の高さに改めて驚嘆させられた。棚やケースの中に収められた商品の一つ一つ、天井や壁に貼られた張り紙の一枚一枚を目で辿ることができる。どこに目を向けても売り物や生活用品といった具体物に突き当たる。

ここに写真の原初的な喜びがあり、写真ならではの存在意義がある。都市空間に匹敵する情報量が詰め込まれている。店主の生活や生理に沿った究極に個別具体的な合理的空間であり、こうした物件が集まって、かつての日本の市場、生活圏、地方を形成し、日本という国を形成していたのだ。その意味では、本作は鳥取県など山陰のローカルな記録に留まらず、商業・産業形態の大転換の中で姿を変えていった「日本」の証言者というべきだろう。

 

「撮影の間にも消えゆく商店があり、時間との競争でもあった。」、平成の世となった90年代~2000年にも、こうした歴史的な店が現役稼働していたことには驚かされた。高度成長期と列島改造期を終えて80年代以降は、東京を中心とする大都市圏の開発・再開発もさることながら、地方においても街並み、暮らしぶりが決定的に塗り替わってゆく時期であっただろう。少子高齢化、過疎化、モータリゼーション、地方から若い働き手はいなくなり、店の跡継ぎは不在で、入れ替わりに大手チェーン店や大型ショッピングモールが地方の商業を担うようになった。更に時代が進むとAmazonなど商取引のWeb化が進み、実店舗すら不要となった。店主こだわりの、アクの強い個人商店は、急速に私達の生活インフラの範囲外に押し出されてゆく。確かに本作に出てくる多くの店を見ていても、どう注文したらいいのか、何が提供されるのか、サービスが値段と吊り合うのかが全く分からない。自分がインフラとしてそれらを活用している場面が想像できなかった。

 

撮影交渉の困難さも加味すると、こうして克明に撮影し記録されたことは奇跡といって良いだろう。

作者が撮影に取り組むことの意義はなかなか理解されなかった。「多くの撮影は困難を極めた」から始まるステートメントに苦労が凝縮されている。

「撮影はまず主人の説得から始めるが、ほとんどの場合嫌がられる。それも時には激しく拒絶される。」、2018年に展示を観た際にも驚いたが、今でも改めて衝撃を受ける。店主らが「なぜこんな古い店を撮るのか。ざまが悪い。」鳥取の方言でみっともない・きまりが悪いの意味)と強く拒絶する理由がなかなか飲み込めなかった。私がそもそも写真(家)の側に立ちすぎていて、地域性・歴史性を踏まえた記録性の高い写真=良いこと・不可欠な取組み、という図式が自分の中で完成されてしまっているせいでもあるが、納得がゆかずもどかしい思いをしたのが他でもない池本自身だろう。確かに、大きなカメラが個人店の内側へと入ってくるというのは、プライベートな生活、生理的な場を外部に晒されることと同義なのかもしれない。だが一方では消滅のタイムリミットとの競争がある。

時にモチベーションを失いながらも、作者の熱意と粘りは拒絶を上回る。1986年「石山理容院撮影では、恥ずかしがられて撮影許可がもらえない中、「何度も頭を頭を下げ、説得すること3時間、しぶしぶお許しをいただいた。」という。また1984「小田靴店のエピソードもしみじみと強烈で、「店主は困ったような顔をして、ジロリと私の顔を見た。返事がない。どうしようかと迷ったが、思い切って三脚を立て、カメラを組み立てた。」「それでも腕組みをしたまま黙っているので「撮らせていただきます」ペコリと頭を下げ、シャッターを切った。」「結局帰るまで一言も話されなかった。」、写真にはすごく変な顔をしてこちらを見ている店主が写っている。何とも言えない奇怪なものを見る顔だ。写真の裏ではこうした緊張感のある、奇怪な場面が多々あったことと想像させられる。

撮影を断られた店も多かっただろうが、この驚異的な粘り強さと熱意で実に多くの店が記録され、結果的に掛け替えのない価値を残したことになる。どの店も基本的には廃業し、取り壊す以外の道がないからだ。ましてやグローバル経済の伸展、Web商業化の普及、それに3年にも及んだ新型コロナ禍と緊急事態宣言の繰り返しで、どれほど多くの店が息の根を止められたことか想像に難くない。衰退は加速され、こうした昔ながらの個人商店はおとぎ話のように姿を消してゆきかねない。2018年に作品を見た時にはまだ無かった消滅の実感が、2023年現在にあっては際立ったものとして感じられ、重要な取組みであると再認識させられた。

 

こうして書いていてまるで我が事のように熱を帯びてきてしまうのは、写真ともう一つ、作者の筆、各店の写真に添えられたテキストの効果だろう。店の来歴や特徴の説明に留まらず、上述のように撮影時のエピソード、店主とのやりとりや関係性が宿されているが、これがとても面白い。地方や故郷の記録、店の記録の作品というなら、全国の写真学科の学生らが毎年のように修了制作で発表し、無数の作品が生み出されているのだが、別次元の面白さをもたらしている要因の一つがこのテキストである。

メモ書きのようにごく短い文章でありながら、それだけで撮影時の空気や店主の人柄、作者との間合いややりとりが映像として立ち上ってくる。言わば本作は記録の作品であると同時に、各店舗・店主の物語でもある。この短文では描き切れていない事柄や出来事も多いはずなので、1店ずつエピソードを長めに書いて本にまとめてほしいぐらいだ。

 

まるで旅をしたかのように密度の濃い時間を体験した。

本作は山陰にとどまらず、昭和の日本と、日本の地方という2つの顔に関する記録のポートレイトである。インフラ、生活様式、経済の仕組みそのものの転換によって縮小・衰退の一途を辿る「地方」と「個人事業主」の在りし日の姿、かつての「日本」の姿を写しとどめ、この先もそれらが実在したことを伝えていくのだろう。

 

4.記憶の扉―そでふれあうも

最後に紹介するのは初期作品「そでふれあうも」シリーズである。撮影時期は1974年から80年代半ば(一部、1989年)、山陰のスナップ写真で、正方形のカット内に人物を入れた写真が多く、「近世店屋考」シリーズと似た構造でポートレイト的に表情や配置が作られたものと、背後から背景と同等に撮られたスナップ性の高いものとがある。

どの写真も素朴さの中に朗らかさとコミカルを持っている。コンタクトシートを確認している時に作者は校庭で撮った2人の少年のはにかみ顔に「そうかこの顔が山陰だ!」と、山陰の風土・風景を発見する。日本海に面して東西3県にまたがり、中国山地によって山陽と分け隔てられ、独自の風土のもとで人々の暮らしが育まれている。「山陰」という響きとは裏腹に、写真に写る景色と表情は明るい。

 

本作で強く想起されるのが、植田正治である。

作者と同じく鳥取出身にして山陰、特に鳥取砂丘をベースに活動してきた写真家であり、何より作者が約20年間(1977~1996年)にわたってそのアシスタントを務めてきたため、その関連性は無視できない。事実、「そでふれあうも」の素朴で朗らかな作風は、植田正治が山陰を舞台に作成した「小さい伝記」や「童歴」シリーズに近しいものがある。これらは砂丘に人物を配置した、植田を象徴する構成的かつシュールな作品とはまた異なり、構成的さを持ちながら山陰の風景や人物の素朴さが写し撮られている。特別なものは何もない地方・田舎を舞台に、精力的な写真活動を催させ続けたのは、山陰の風光と人柄なのだろうか? 

こうした思いを馳せるとき、池本喜巳植田正治の精神とDNAを受け継いでいると実感する。逆に言えば、植田正治のごとき優れた先駆者のDNA――美意識や探求心を継承しつつ、独自の模索を行ってきたからこそ、いち地方に限定的な写真(家)と見なすことは不適切であり、そこには広い普遍性や強い表現力があるのだと感知することが可能なのだろうと実感した次第である。

本展示は池本の代表作としてクラシカルな写真が主体となったが、実際はもっと実験的な、「写真」の概念や形態を解体、遊戯するような試みも多数行っている。「写真家はかくあるべし」という権威的な枠に嵌められることを拒否し、自由に逃れようとする池本の表現姿勢は、植田正治の攻めた表現を顧みると非常に合点がいった。優れた先人、歴史、風土は、また次代に面白い人物を育むのだと知った。

そうした地域の独自性、特異性を客観視し、より広い視座から再認識することが可能となるため、離れた土地の美術館での展示というのは重要なのである。

 

 

( ´ - ` ) 完。