nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.11/3-12/24_「牛腸茂雄写真展 ”生きている”ということの証」@市立伊丹ミュージアム

享年36歳。「コンポラ写真」の代表者であり、伝説的な存在。その人生と歴史的な位置付けを簡潔かつ丁寧に押さえた展示。伝説から、史実へ。

 

一般人は死ぬと忘れられてゆくが、表現者は例外である。作品が残るからだ。

 

牛腸茂雄という神話

後から来た世代にとって、牛腸茂雄伝説そのものである。

神話的と言っても良い。

作家として絶頂期にあったまま、あるいは力の衰えが見えないうちに、若くして亡くなると神話化されるのは必然でもある。

 

誰かが作品を語るたびに本人のことが語られ、本人不在のままその力と謎が語り継がれてゆく。そして大なり小なり伝説となる。特に本人の手記やメディア露出が少ないなど、素顔に当たるメッセージが乏しい場合、その存在感と歴史的事実の断片とを埋め合わせるために、残された側はエモーションを込めて言葉を費やす。凡庸なまま現世に這いつくばっている私達の願望の照射先として機能してしまう。

 

牛腸茂雄はまさに作品も本人も謎めいていて、それは理論や言語で捉えきれない『SELF AND OTHERS』の世界観と、ハンデを背負った身体性とアイレベルに由来するのかも知れない。

 

本展示はその神話を冷静に解きほぐし、資料や時代背景から客観的に説明し、作品の魅力へ観客を導く。 

 

 

伝説化の一端を担っているのが書籍・写真集の入手困難さだ。牛腸茂雄が生前に出版した写真集はどれもプレミア価格もので、一般人には手が出ない。何なら写真雑誌『deja-vu(デジャ=ヴュ)』すらも牛腸茂雄特集号はPROVOKE特集と並んで他の号の何倍ものプレミアが付いていて、これも手が出ない。

が、幸いなことに赤々舎から2022年に発刊された牛腸茂雄全集 作品編』が、その名の通り全作品を網羅しており、これ1冊あれば牛腸作品に手が届かないという悩みは解消される。

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「作品編」とあるのは、なんと「資料編」の構想があり、赤々舎HPには「2023年11月編集予定」とある。つまり今である。その2冊が揃えば本展示の内容は完全に網羅されるだろうし、牛腸茂雄という伝説的な写真家についての正しい理解、そして謎めいた作品世界へのアプローチが万人に開かれることとなる。没後40年という区切りの時期に、非常に重要な取組みがなされたと言うべきだろう。

 

 

■展示構成

本展示の主催主体は「市立伊丹ミュージアム」だが、企画は佐藤正子(株式会社コンタクト)、プリント等協力は写真家・三浦和人、その他協力として写真史研究者・冨山由紀子と姫野希美(赤々舎)の名がある。

つまり前述の写真集『牛腸茂雄全集 作品編』制作に携わった関係者が関わることで、写真集にほぼ則った形で構成され、3つの部屋を移動し、牛腸茂雄の人生と作品を時系列で追っていくことになる。

 

第1室は1946年に生まれてからの生い立ち、桑沢デザイン研究所で大辻清司に見いだされ、写真集『日々』を刊行(1971年)するところまで。短編映像作品も5点紹介される。

第2室は、超名作SELF AND OTHERS(1977年刊)の特集。

第3室は、カラー作品『見慣れた街の中で』(1981年刊)の特集、そして最期の作品<幼年の時間(とき)>(1983年発表)6点の紹介。これは牛腸が1983年6月に心不全で死去したため、写真集にまとめることは叶わなかったものだ。

 

写真作品を主軸に据えながら、参考資料として掲載されたカメラ雑誌、本人の使用した機材、作品の掲載誌、手元で書いていた詩集や手帳、家族(姉)にしたためた手紙などを共に紹介していく。非常にオーソドックスな構成・内容である。

逆にそのオーソドックスさにこそ本展示の力はあった。

 

 

■神話からの解放

公的な会場での展示、没後40年という節目を象徴する集大成「全集」にふさわしく、各コーナーの解説の踏み込みが深く、言及する幅も広いことが特徴的だった。

解説と資料が言及していた要点を以下に挙げよう。

 

・病気による身体的ハンデ、様々な制約

3歳で脊椎カリエスに見舞われた牛腸は、約1年間の入院生活を強いられた。安静のためにコルセットを巻かれていたので発育が制限され、背骨が湾曲し、身長はちょうど子どもぐらいであった(150㎝ほどとも言われている)。

医者からは余命20歳と言われていて、若くして死を覚悟しながらの人生である。体力を使う仕事は難しいと判断し、19歳(1965年)でデザイナーを目指して桑沢デザイン研究所に入学。27歳(1973年)に建築模型製作会社アトリエ・ブロックに勤務する。

体調には万全の注意を払い、予告よりは長く生きられたが、やはり健常な人に比べれば体は弱く、26歳(1972年)には入院。最期の1983年も体調が悪化し帰郷していた。それでも死は予想外だったようで、家の購入の契約を行おうとしており、亡くなったのは兄が代理で契約手続きを交わそうとした直前のことであった。

 

牛腸茂雄の写真家人生と作品には、この身体的ハンデ、そしていつ訪れるか分からない死のタイムリミットが通奏低音として流れている。

 

 

・独特なアイレベルと、子供という主題について

上記の通り身長が低く、前傾し歪んだ体形であったことが、牛腸作品に特徴的なアイレベル(=ちょうど子供と目が合うぐらいの目線)に繋がっていた。また体形だけでなく、多感な幼少期に闘病生活で大きな制約を受けた(手記を読むかぎり、病前は活発な子供だったようだ)ことも、「子ども」への親近感を強め、最初から最期まで重要なテーマとして扱っていたと示している。

作品を不思議な・独特な世界観と神秘化するに留めず、作品と牛腸の人生とが不可分に密接していたことを客観的に説明しているのは、牛腸茂雄のことを知らない人にも理解を促す親切設計であった。

 

その身体的ハンデゆえに「なにげない」日常それ自体が大変なものであったとし、多数派である我々の「当たり前」な身体性からでは気付けない状況があった、つまり牛腸には私達が抱く「なにげなさ」と全く異なる切実さがあったことを指摘している。

 

なお『牛腸茂雄全集 作品編』での冨山由紀子の論考「「きわ」を生きる―牛腸茂雄の作品と時代」では更に踏み込んで作品を分析しており、牛腸の独特なアイレベルや被写体(子供)を即座に彼の病歴や身体的ハンデと結び付けることを避けている。

 

 

・作家活動のバックボーン(人、論理体系)

大きく3つの支柱がある。一つは桑沢デザイン研究所大辻清司という師の存在、強い後押し。牛腸の才能を見抜き、写真家になることを強く勧めた。牛腸の人生をデザイナーから写真家へ振り切らせたといっても過言ではない。

 

二つ目は、写真集『SELF AND OTHERS』制作時に学んだ心理学系の論理体系。R.D.レイン『経験の政治学』『日々と他者』を筆頭に、神谷美恵子『生きがいについて』、メルロ=ポンティ『近くの現象学』、マグノリア『幼児期と社会』、吉本隆明『心的現象学論序説』・・・などが展示される。

牛腸の初作写真集『日々』の基本的な文体は継承しつつ、そこから全く異なる「コンポラ」に至らしめた最大の要因は、これら心理学の知識体系であると考察される。「他者を通じて自己を考えたのだ。

 

三つ目は、姉の存在。特に前半で展示される手紙で常に牛腸の話し相手(一方的にだが)となっており、牛腸にとって最も重要な精神的支柱であることが伺える。限られた人生をいかに生きるか、いかに写真家として成功するか、大辻清司によって触発され生じた思いを、姉に綴ることで咀嚼し具現化しているように見える。

 

 

・「コンポラ写真」や「カラー写真」の動向と当時の評価

牛腸の作品に特徴的な「コンポラ写真」「カラー写真」について、簡単にだが牛腸の生きた時代における状況や評価を記していた。

牛腸茂雄桑沢デザイン研究所の同期生である関口正夫と並んで「コンポラ写真」の代表的作家とされている。「コンポラ写真」の踏み込んだ議論は避けられているが(何を以ってコンポラとするかの定義は確定的なところがなく難しい)、傾向として、広角、日常の光景を平板に写した写真で、1966-68年アメリカの「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」展に端を発するものと触れている。

 

「カラー写真」については、牛腸の3作目『見慣れた街の中で』に全面的に使用されている。一般のカメラユーザーにとっては当たり前のような話だが、1970年代に急激に使用率が向上したカラー写真は、広告など商業写真、アマチュア写真においては主流となっていったが、作家の表現としてはまだモノクロが主流であった。また、当時のカラーポジには技術的な問題として退色の恐れがあった。そんな中で牛腸はあえてカラー写真を用いて、商業広告的なニュアンスも含めて表現に活かしていたことが触れられている。

 

こうした写真史的な要点を端的に盛り込み、「牛腸茂雄」の活動と作品の意味をわかりやすく解きほぐしているのが本展示の特徴であった。

 

 

■『SELF AND OTHERS』の謎と驚異

いきなり掌を返すのだが、客観的解説を尽くしたとて、なおも永遠の謎として輝くのが写真集2作目にして代表作SELF AND OTHERSである。

 

解説を超えたものがある。独特な浮遊感というか、現実の人物を正面から撮っているにも関わらず深い浮遊感がある。

浮遊というのは現実の様々で具体的な関連性から切り離されている、どの文脈にも属していないという意味だ。人物は表情、服装、アングルなど一切の誇張をしておらず、一定以上の距離を保って写され、背景の割合も大きい。人物以外の情報が多く写り込んでいるにも関わらず、写真は「現実」その他のことを語らない。写された個々人に関する背景や人柄などの情報も語らない。撮影者と被写体との撮影時の関係性もそこにはない。

写真集1作目『日々』や、関口正夫の作品との違いはそこだ。『日々』には日常の光景としてのスナップさがあり、フラットながらも写された場所や場面には前後関係(この場所はどこか、その人物は何者か、といった現実界との同定性)がある。

 

では何を語っているかというと、真四角な枠とその中に人物が置かれている、まるで前後のない映画のワンカットのように宙吊りとなった「間」がある。カメラと演者との間合い、その画面を見る観客との間合いがある。だが前後左右の文脈や物語がなく、枠組みと距離感だけが強く浮かび上がっている。つまり映像のフォーマット自体を見ているということになる。もし『SELF AND OTHERS』を「コンポラ写真」の代表作と見なすならば、「コンポラ写真」というジャンルの実体は文体芸術というコンセプチュアルな話になるだろう。

 

写された人々は様々である。子どもが多いが、男性も女性も、同年代も年長者もおり、一人でもあればカップルでも集合写真でもある。いずれも個々人の人格や人生とは切り離された、真空に浮いた、映像の中に映された演者といった存在感でそこにいる。これを大辻清司は「写っている者たちと同じ年代であった頃の牛腸君の像が重なり合って、あたかも時空間を超越して彼等自身に変身してしまった願望の自画像として、こうした写真が撮られているのか、とも想像するのである」と評している。

願望の自画像、これはこれで納得のいく文脈である。人生と身体的事情から作品を読んでいくと自然とそうなる。

 

だが一方で、第1会場で提示されるように、牛腸が70年代を通して短編映画の制作にも取り組んでいたことを思うと、写真の撮り方とはまた異なる「人物」像を扱う技法や距離感、文体を習得していたとも想像しうる。まさに実験映画のように、当人の生の地声ではなく、スクリプトに則った言葉を発する登場人物としての像である。

ここで「コンテンポラリー」とは、その人たちが撮影時点に負っていた歴史とその記録としてのものではなく、現実の前後関係を超えて・切り離されて、映像の世界の中で(へ)顕現する並行時間へのスイッチとしての同時代(同時空)性とも感じられた。実際、短編映画『Game Over』のワンシーンが作品としても登場する。写真の従来の約束事や文体を映画・映像世界にスイッチさせ、本来は時間が流れる尺の中でしか存在しえなかった「人物」像を、1枚の像としても同じように存続できる新たな領域へと招き入れた点で『SELF AND OTHERS』は新しく、神秘的だったのではないか。

そこでは「他者」の相対の仕方が当時の「写真」・被写体として相対するのと異なる存在として立ち現れることが発見される。それが「私」と従前とは異なる関係を結ぶ―自身の書くスクリプトを介してそこに立つ存在、すなわち自分(牛腸)自身を断片的に反映した、1・2・3人称の混在した何者かになることであった。そのような感想を持った。

 

諸々の心理学の学びを通じて牛腸が得たものとは、「心理(学)」というフレーズから私達が安易に想像するもの(悩みとその解決法とか、内面だとか、自己像の転写とか)に止まらない、もっと深いところにあったと留意する必要があるだろう。「私」の見ている世界を現わすことで「私」の内面が表現できる、という従前の写真表現の段階から、見る・見られるの立ち位置、画面内の配置と距離、陰影などから逆算的に話者=被写体/撮影者の「内面」なるものをマニュピレートする技法と、それを是とするスタンスを自分なりに、確証を持った形で得たのではないだろうか。

 

最後の、霧の向こうへと子供らが線を踏み越えて走り去り、消えてゆく象徴的なカットは、牛腸茂雄という個人の人生に照らし合わせると生と死の隠喩となろうが、映像のフレームとフォーマットの話と考えるなら、『SELF AND OTHERS』という映像作品のクランクアップ、登場人物=演者が牛腸世界からそれぞれの現実へ帰ってゆく瞬間を捉えたようにも見え、興味深いものがあった。

 

 

 

■『見慣れた街の中で』のパワー、健康的さ

何かと身体的ハンデ、病魔、短い寿命、生への願望と結び付けられがちな牛腸茂雄であるが、写真集3作目『見慣れた街の中で』のカラー写真群のパワフルさには全力で裏切られる。会場で私は「なんと健康的な、、」と思わず反復していた。強く濃い陰影と色の乗りで、都市を行き交う人々の雑踏が焼き付けられている。

確かにここでもやや低めのアングルから、大人の腰あたり、子供と目線の合う高さで切られたシャッターが多く見られ、同志のように子供が撮られている。だがそれ以上に、燃え上がるようにプリントのカラーが力強く、その濃厚さが最初から最後まで印象深かった。これは写真集の描画では現われきらない、カラーポジの生プリントならではの力だ。

 

色だけではない。どのカットも瞬間の切り取り・写し込みが全力投球なのだ。

これは写真を、街中でスナップをしたことがある人間なら痛感するだろう。「なんとなく」「なにげない」ショットが一枚もない。

曖昧さがない。どれも全力で、渾身のラリーをやっている。

 

写真というのはポートレイトでもスナップでも常に対峙、戦いのような側面がある。本質であり宿命と言っても良い。被写体から、自分から、逃げるのか、向かうのか、やり切れるのか、打ち負かされるのか、逃げられるのか。「とりあえず」何か写っているだろう、何か読み解いてもらえるだろうと妥協するのか、やり抜くのか。

特にスナップは、価値や意味があるのか無いのか分からない(多くの場合は、無いであろう)ことも含めて、それを押して挑みかかり、自分の限界の先へと辿り着こうとする無謀な行為である。凄まじいカロリーを必要とする。

 

そうした全身の筋力の躍動を、一枚一枚から否応なく感じさせられた。

牛腸茂雄の身体の事情について知っていたからこそ一層、その写真的強さは際立って感じられた。ゆえに「健康的な・・・」という驚嘆しかなかった。『SELF AND OTHERS』の謎めいた世界観よりもむしろ、『見慣れた街の中で』のパワーの方が、どこからやってきて、どうやって繰り出されたものか、どこへ向かおうとしていたのか、計り知れない謎があった。

 

牛腸が『カメラ毎日』1980年2月号「写真というもう一つの現実」という論を寄せているが、その中で興味深い一節があった。

わたしは意識の周辺から吹きあげてくる風に身をまかせ、この見慣れた街の中へと歩みをすすめる。そして関係妄想に取りつかれたかのように、往来のきわで写真を撮る。

 

ここで「関係妄想」という言葉に釘付けになった。なかなかに強いフレーズである。

通常、外界をスナップする際には、そこには「私」や自我から切り離された「外界」を写そうとする、写真そのものとしての行為(写真にしかできない、スナップにしかできない、瞬間芸としての、etc)か、あるいは記録性としての撮影が連想される。だが牛腸はそこに「関係」をかなり積極的に、パワフルに見い出そうとしている。いや「妄想」という言葉からは、外界との間に特別な「関係」がもはや自然と生じてきているようでもある。

 

その関係構築の衝動は何から催されているのか?

また本人の言で気になる点を引用したい。

私の中に巣食っているものの一つに自分という<自身>から逃れえない「自己」という存在への関心、その「自己」をとりまく最小単位としての「家族」というしがらみ、その拡がりとしての「社会」という場

 

「巣食っている」「逃れえない」「しがらみ」という、これまた強いフレーズが登場して驚かされる。牛腸茂雄はどこへ向かおうとしていたのか? 自分自身、家族すら何かしら「逃げる」べきものであったのか。遅れてきた思春期のように苛立ち、あるいは移動・活動のままならない自分自身とその日々へ苛立ち、ここではないもっと遠くへと渇望を抱いていたのだろうか。

『見慣れた街の中で』の常人離れした健康的さ・力強さは、身体的・体力的ハンデによって移動範囲が「見慣れた街」に限られた中においても、その制限の中で最大限の雄飛を試みたものだとすれば、単なる都市雑踏スナップと何かが違うことにも納得がいく。

 

このあたりは、また全集の『資料編』が出たら、読みながら考えてみたいと思う。

 

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てごわい作家でした。写真集3冊とも傾向と世界観がかなり違うんで、「コンポラ写真家」というレッテルだけでは全く太刀打ちできない。

 

しかし生プリントは、非常に雄弁に様々なことを物語ることが分かった。家で写真集を繰っていてもこれらのことは何も思わなかったのだが、プリントは、効いた。

プリントは作者本人をコンテンポラリーに覚醒させ呼び起こす、写真集(特に本人の没後に作られたもの)は鎮静的に資料として、プリントや展示体験の想起のツールとなるようだ。

このあたりも今後の読解の課題。

 

 

( ´ - ` ) 以上。