nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.11/28-12/10_尾仲浩二「10 Days 釜山 1996年」@ギャラリー・ソラリス

1996年に韓国・釜山で10日間の滞在をした際に撮られた白黒作品『10 Days』を主とし、更に、今年1~2月に発表された『そして、また旅』『続・そして、また旅』も繋げて展示している。後者は国内を撮ったカラー作品だ。

 

時代も場所も異なる2シリーズの作品だが、限られたスペースでうまく接続していた。どの作品にも共通して強く流れる「旅情」の雰囲気が接続を可能にしているのだろう。・・・と途中までは思っていた。

 

『10 Days』は30年近く前の過去作だが、今年9月に韓国・釜山のGallery Negativeで展示を行うにあたって、改めてセレクト・手焼きプリントし直したものである。

そのため、発表当時(『アサヒカメラ』誌・1996年10月号掲載)と同じ写真であるにも関わらず、内容は全ての面において全く異なるものとなっていた。作者が作品の掲載された雑誌ページをスクラップファイルにまとめて提示していたことで、差異の大きさを確認することが出来たのだった。

 

これによって、従前から尾仲作品を「旅情」や「ノスタルジー」として捉えてきた自分自身について、もっと根本的なところから問い直すことになった。

 

 

■「10 Days」

1996年の釜山は、昭和の日本のように鄙びている。街に個人の力が溢れていて、家、屋台、個人商店がひしめき、その看板の文字がひしめき、通行人が生活者としての貌を見せる。建物の作りや道への面し方、看板の形と文字の入り方、全てが想像以上に日本に似ている。

空と地面に空きがある。高層建造物が少なく、家や商店は同じ高さで並んでいる。車道は舗装すらされていなくて土が見えていたりする。余りある土地。これらはその後=現在の「開発」を予感させる。土地と空間の余剰を食い尽くして効率的に経済化させるのが開発・発展であり、それが果たされなければ衰退に向かう、ということを30年後=現在の私達は身を以って知っている。

 

訪問・撮影当時のことについては「AERA」での米倉昭仁氏によるインタビュー記事が詳しい。

dot.asahi.com

 

ここで私が戸惑い、疑問を突き付けられたのは、これは単なる旅情・ノスタルジーの作品なのか?という問いだった。確かに失われた情景である。好ましい、懐かしい、あるべき田舎・故郷の姿をしている。だがそれだけで写真を「良い写真」と言うだろうか。否である。

私は鑑賞時にそうした個人的な感傷や過去に陥ることを避けている。それらを封じたり打ち消してくれるものこそ「作品」として認め歓迎していると言えるだろう。つまり本作にはこちらの私情やノスタルジーを封じる何かがある。ただし念のため付け加えると作者は「昔の方が良かった、昔に帰ろう」などとは言っておらず、経済性や開発を否定・批判する立場で作品を作っていない。そうした社会的な異議申し立ての力とは別種のものが働いているようだ。

 

そんな破壊的なものがここにあると仮定するのがおかしいのではないか、それこそが個人的な感傷ではないのか、と私の中でも疑義はあったが、しかし「旅情」に前提を戻して読み直すことは難しく思われた。

 

卓上に置かれたスクラップファイルがむしろ仮説を確信に変えたのだ。

1996年の尾仲浩二が写し、現わした像を宿す印刷物は、破壊そのものである。都市という無機物が人の暮らしと交わりながら、生成と滅びの繰り返しを自己の内に孕んでいる様を、写真という記録的な場に叩き込むことによって、写真そのものをも揺さぶる行為だ。被写体と焼きがモノクロームの轟音を放ち内側から何かを揺さぶって壊そうと脈打つ様は、真っ先に森山大道を想起させた。尾仲作品の起点がこれであるなら、本作の読み方を「旅情」から「破壊」に振っても間違いではないだろうと思った。

 

「当時は若かったからそういう写真を選んだけどね」と本人は言うが、少なくとも「10 Days」でノスタルジーや旅情に見える光景の核心部にあるのは、生成と滅びの運動ではないだろうか。

目の前の風景が個々人の感傷や営為を超えたところで、変化の波に呑まれ、滅び、また別の風景へと移り変わってゆく。その失いの予兆(=開発の済んだあとの世界に生きる私達が有する記憶)と、眼前でしかと存在感を放っている現在形(=開発される前の記録)とが折り重なって拮抗しているところに、強い力が生じているようだ。

 

それは古き良き田舎、静かで優しい旅情のように見えて、時間の波の打ち寄せと引き戻しとが同時に綱引きをしているような、強烈なものである。

 

時空の潮力によって私はこれらの写真に強く惹かれたのではないか。

 

その力を最も実感させたのが、市場を上方から見下ろした矩形の配置から成る写真と、山の手へとずっと続く住宅街を土の剥き出した地面から見やる写真だ。

 

前者は『アサヒカメラ 1996年10月号』の掲載作品と同じカットでありながら全く別物へと変貌していて、最も強烈に変化した1枚である。何せ、本来は今作のとおり横位置で捉えられた俯瞰的なショットなのに、紙面上では縦位置にトリミングされ、強いコントラストで造形の抽象性が際立たされていた。

後者は未来(=ゼロ年代以降の現在)(=高層ビル、高級住宅、土から切り離された暮らし、非個人の都市)に向かって、現在(=ゼロ年代以降から見た時の過去)(=低層の個人宅、土と草と連続した暮らし、パッケージ的な開発都市)へと完全に切り替わってゆくことを予兆させる。手前の土は当時の古き良き素朴な暮らしと、開発工事の着手、壮大な整備事業の一歩を強く想像させる。1枚の風景の中に、過去と未来が、現在から見た過去が、複数の逆流を孕みながら併存している。

 

どちらもが過去⇔現在⇔未来の時系列を同時に、複数の力線で引き合っている。

一見のどかな、しかしこうした狂暴なまでの潮力に、惹かれたのだった。

 

 

なお、韓国・釜山の旅作品「10 Days」が写真集としてまとめられるのは今回が初だ。モノクロ、日記、カラーが収められていてボリュームがある。写真はかなり上品な描画になっている。2020年代の視座といった感がある。写真行為の突出ではなく、失われた風景を風景として再考する、追憶のためではなく想起の写真だ。

gallerysolaris.stores.jp

 

 

■「そして、また旅」「続・そして、また旅」

日本の各地を旅して撮った作品で、冒頭の通り今年1~2月に「ギャラリー街道」で展示された作品だ。

作品の系統としては2020年の展示と同名の写真集「少し色あせた旅 Little Faded Trip」、更に続編の写真集『Have a Break』と直結される光景で、まさに「旅」の続編である。

www.hyperneko.com

 

本作が2つの写真集と同シリーズとすると、撮影時期は不明ということになる。「少し色あせた旅 Little Faded Trip」ではblog冒頭に書いた通り、家から出ること、遠出することが規制されるという緊急事態宣言下において、2000年頃の過去の作品を改めてプリントするという作品だった。「Have a Break」も2013年~2021年の旅の写真を織り交ぜて構成している。つまり、旅先の記録的な写真というよりも、旅の記憶、写真の記憶を巡る作品と言えそうだ。

gallerysolaris.stores.jp

gallerysolaris.stores.jp

 

ここでも私は大きな問いにぶつかった。

なぜ私は「旅」の実感、旅情を感じてしまうのだろうか。こういうことはあまり例がなく、例えば人の旅先で撮ったスマホ写真やインスタを見せられてもそれはその人の個人的な記録や表現に過ぎない。解像度が高くても低くても大概の旅写真は「私」と無関係に為されたことの記録か、あるいは既にあるフォーマットに即した表現(風景写真、日記的表現、etc)の繰り返しでしかない。

 

しかし本作には「旅」の実感がある。見ているうちにこちらへ当事者性を帯びさせる。ありえないことだが行ったことのない時間と場所に自分が立ち会っているような感覚になっている。いくら写された光景が古き良き日本で、懐かしく好ましいレトロみに満ちていたとしても、当事者性とは別の性質のはずだ。

 

詳細に根拠を挙げて分析するだけの余力がないので感想文になるが、ここには作者の独特のプリントの質感と、撮り方という、小説で言うところの「文体」が大きく作用している。

今作でも前2作の写真集でも、非常によく似た光景が繰り返されていることが分かる。日本全国の地方都市、商店街や集落、港や鉄道が似たような作りをしていることも理由の一つだろうが、むしろ作者がフォーマットを徹底していることが大きな要因となっている気がする。それが戦略的目的か、生理的な体質か、認知のパターンなのかは別にしても、繰り返される空間性―構図から被写体から色味、陰影から成る総合的な体感としての奥行きは、「旅情」という言葉では捉えきれないほど総合的でかつ広範にわたる実感を刺激し、催させている可能性がある。

 

鄙びた、懐かしい、静かな光景は、実は「今・ここ」をゆっくりと無音で穿つような、強い破壊力を秘めているのかも知れない。

 

これを「写真の記憶」という、写真(家)によって繰り返される写真内体験によるものとして捉えていき、1970年代に国鉄の打った「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンから始まる写真的旅情に抗し、その支配から脱する力として考えてゆくことも出来るかも知れない。

 

 

( ´ - ` ) 完。