nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.12/16-R6.2/12「生誕120年 安井仲治―僕の大切な写真」@兵庫県立美術館

1903年生まれ、1942年没。享年38歳。今年で生誕120年を迎える安井仲治の特別展である。

その足跡からは、アマチュアならではの豊かで先鋭的な写真表現の幅を知ることが出来るとともに、その豊かな表現の場であった日本が窮屈な戦争国家へ転じてゆく中で、作家がいかに生きてきたかを見ることにもなる。

インテリ実業家、あるいはタフな営業部長といった面立ち。1930年代の安井仲治である。実際、最後まで勤め人で、同時代の代表的写真家の中山岩太や野島康三がプロカメラマンとして自身の写真館を構えたりしていたのとは対照的な写真家人生を歩んだ。

 

 

■今回の概要:関西ならではの展示

本展示は、今年10~11月に愛知県美術館で行われていた展示の巡回展となる。2004年には生誕百年の企画展が名古屋市美術館と渋谷区立松濤美術館で催され、2005年には同じ兵庫県立美術館のコレクション展の一部として(小企画展「安井仲治―僕はこんなに美しいものを見た」)収蔵作品の紹介がなされていた。

つまり安井仲治が扱われるのは目新しいことではない。実際、20年前から新しい研究成果があったわけではないという。

 

ただ、安井仲治は大阪生まれ・大阪を拠点に活動し、戦前の近代日本写真史を切り拓いた関西を代表する写真家であり、兵庫県立美術館としても現在の場所に移転してきてから約40年間の研究実績がある。すなわち安井仲治は、ここ兵庫県立美術館がホームグラウンドとも呼べる写真家でもあり、それだけに美術館側も今回ならでは・関西ならではの展示を模索している。

 

その一つが、写真とともに提示される仲治の「言葉」である。安井仲治と言えば、時代の変化に応じて多彩かつ攻めた斬新な映像表現を繰り出す究極のアマチュア写真家、という印象があまりに強い(それは正しい)が、「言葉」の面でも会報や雑誌、座談会などで盛んに発信しており、写真表現者としての思想を遺している。こうした「言葉」を展示会場にて写真と共に配したのは、本会場が初となる。中でも「写真家四十八宜(しゃしんをとるひとよんじゅうはちよろし)という、いろは歌を元にした48句に独特のユニークさを見い出し、展示室の間の中庭的なスペースで大きく展開している。

 

展示構成は5コーナーからなる。基本的に写真家活動を行った約20年間を時系列で追いつつ、仲治の辿った作風・ジャンルに分けて展開されており、写真史的にも1920~40年代の動向が整理されていると言っても良いだろう。中でもキャリアの中心となる「1930年代」は4コーナーに及ぶ。

以下、内覧会での紹介を基にレビューする。

 

 

1920年代:芸術写真、絵画的な手法から
(1.1920s 仲治誕生)

 

10代の末、仲治は「浪華写真倶楽部」の会員となって活躍する。

前衛的・実験的な作風があまりに有名な安井仲治だが、写真を始めた1920年代の頃は「芸術写真」と呼ばれる作風を手掛けていた。当時は芸術=絵画の時代で、生まれてまだ歴史の浅い写真は絵画の後塵を拝するジャンルとして、絵画をお手本として倣うということがなされていた。

この「ピクトリアリズム」の動向は西欧も同じく辿った道だったが、米国ではいち早くスティーグリッツが1902年に写真独自の表現を目指して「フォト・セセッション(写真分離派)」を結成、翌年に機関誌「カメラ・ワーク」を創刊している。1910年代半ばには、ストランドらが現代に通じるストレート写真を発表し、後の「f.64」活動に繋がっていく。

 

仲治の手掛けた代表的な表現が「ピグメント印画法」(その中でも更に「ゴム印画法」や「ブロムオイル印画法」など種類がある)で、実写的な像でありながら、顔料でイメージを作っているため全体的に強く霞掛かった、非常にエモーショナルで幻想的な質感が演出される。

被写体は人物、静物、建物など多岐に亘る。だが仲治が秀でていたのは、芸術写真の全盛期にあってもその作法やスタイルの典型の内には止まらないことだ。仲治ならではの視点と作風で新たな表現を切り拓いてゆく。

この後のコーナーにも共通して言えることだが、実際には仲治の作品はジャンルを越境しており、ここでも「全般的な技法や物性としてはピクトリアリズムに当てはまるが、モチーフや撮り方はむしろ新興写真」などという混合がよく見られる。ルールを超えてゆく自由さとパワーこそ安井仲治の真価であり、ひいては関西人の気質と言っても良いのではないか。大阪の民は共感できるだろう。

 

注目すべき作品として紹介されたのが下の《猿廻しの図》だが、特徴としてドラマチックな誇張や視点のクローズアップがなく、フラットな視点から「猿回し」の観客まで全体を捉えていることが挙げられた。猿、回し手、観客たちがそれぞれに別の方を向いている「多視点」の構図があると。状況を俯瞰して捉えるのは仲治の特徴である。

 

また、この頃の仲治の特徴として、名前を「娜迦璽(なかじ)」と当て字に変えていたり、写真の隅や枠の外に流れるような筆記体のサインを入れたり、若いがゆえの(?)スタイルも見られるのが面白い。

 

 

■1930年代、「新興写真」、モダニズム写真への目覚め
(2.1930s -1  都市への眼差し)

1931年に「独逸国際移動写真展」が東京・大阪を巡回し、日本の状況を一変させる。ラースロー・モホイ=ナジやアボット、アジェなどのストレート写真、いわゆるモダニズム写真」が紹介され、多くの写真家を絵画的な「芸術写真」からモダニズムへと目覚めさせる。これらは「新興写真」と呼ばれ、絵画路線と決別し、カメラ=機械の眼としての視座に立った表現を開拓し広めていった。

新興写真の方向性としては、ストレートに被写体を撮るスナップなどの技法と、クローズアップや仰角など「機械の眼」ならではの視点を強調したもの、フォトモンタージュ、多重露光など技術的操作を強めたものなどがある。現在の「写真」の撮影と編集の基礎とも呼べる各種技法だが、当時はそれが新しく、近代化されてゆく工業製品や都市空間と相乗的に組み合わさって、「モダニズム」の世界観を加速的に拡げていった。

 

仲治はこうした機械の眼の手法を余すところなく取り込み、独自の写真表現として駆使してゆく。「安井仲治ぽい作品」が多く見つかるのもこのコーナーだ。近代化を強めてゆく「都市」と仲治の写真とが掛け合わさることで、真に「近代」のメカニカルな重工感と速度感が高められている。そこには機械や金属の物質だけではなく、都市労働者、メーデー参加者といった新たな時代の被写体/人物像が登場する。

仲治の代表作「(凝視)」、なんと3種類ものネガが手を加えられて組み合わされた多重露光写真である。それも大胆なトリミングと反転を加えられている。オリジナルプリントは戦災で失われてしまったが、幸いにもネガは残されており、展示では3つの写真が元のネガの状態からどう反転・トリミングされたかも提示している。必見だ。

本展示では同様に、戦争でオリジナルプリントの失われた作品を複写やネガからの再プリントで蘇らせたものが多く見られる。複製技術メディアの強みを見ると同時に、戦争のもたらす文化的損害の深さを物語っている。

 

ちなみにタイトルがカッコになっているのは、生前に作者本人からタイトル付きで発表されたことがなく、確認できたのは仲治の死後に友人らの手によって刊行された写真集であるため、仮題としたためだという。

左作品フォトモンタージュ》のように、ネガ操作から写真を組み合わせるコラージュとしてだけでなく、右作品《斧と鎌》のように被写体の配置に手を加え、演出的に即物性や幾何学の妙を出すことも得意としていた。これを「半静物と呼んでいて、後にシュールレアリスムの受容へ繋がっていくものとしている。

 

 

■人生いろいろ、生と死と表現と
(3.1930s-2 静物のある風景)

「1930年代」を4部構成とし、その前後を「新興写真」(モダニズム写真)と「前衛写真」(シュールレアリスム表現)とで分ける中で、どちらの技法とも付かない作風のものを特集するのがこのコーナーだ。

単に「その他」というだけでなく、仲治が見つめた「生と死」のありようを物語るものでもある。こうした視点は私生活での大きな出来事:1930年代に子供を4人授かった一方で、弟、妹、次男を相次いで亡くしたというイベントに関連しているとも言及されている。

代表的な作品が《犬》(写真上)《少女と犬》(写真下)で、小さな存在に眼を向けている。

上の《犬》は仲治の子供を大学病院に入院させた際、病院の裏で見つけたものだという。「食事ヲサスナ」と檻に入れられているのは、病気療養中なのではなく医療実験の検体として飼われているためだった・・・。憐れみを誘うシーンである。下の《少女と犬》では地味な日常に咲く花のように情愛を湧かせていて、無機質な都市や静物を実験的に組み合わせていたのと同一人物とはにわかに想像し難い。

実に、何を撮っても実に上手い。このコーナーではモチーフの多彩さ、表現の幅に恐れ入る。これでも「アマチュア写真家」なのだから恐ろしい。いや、アマチュアとしての本分を尽くしたからこそ、多彩な作風を攻めることが出来たのか。実家は「安井洋紙店」という豊かな商家で、高校卒業後はずっとそこで勤めていたという。

 

代表作の《蛾Ⅱ》(写真左)もここで紹介される。暗く、詩的・文学的な陰鬱さすらも抱えた一枚だが、続けて身内を亡くしていたと知ると、その暗さの中身を想ってしまう。だが劇的さだけでなく、他にも草花に停まるトンボやチョウを普通に撮った写真もあり、日常の素朴さに向ける眼差しを知ることができる。

しかしやはりここでも輝いていたのは無機質なモノの形・配列の作品である。「半静物として撮影時に手を加えられた被写体もあれば、自然体のままのものもある。作為と不作為のバランスと往還が絶妙で、どちらも見事なのだ。仲治個人の世界観が優れていたことは言うまでもないが、それだけでなく、新即物主義シュールレアリスム表現の熱とうねりが写真界隈に溢れていたともみるべきだろう。

 

 

シュールレアリスムからの前衛写真
(4.1930s-3 夢幻と不条理の沃野)

1930年代半ばあたり、シュールレアリスム受容後の作品群である。日本におけるシュールレアリスムの導入はアンドレ・ブルトンの宣言を受けて1925年、瀧口修造らがまず文学、詩から紹介し、次第に絵画が伝わり、1930年前後に古賀春江や福沢一郎が先鞭をつけた。写真もまたその影響を受けた。

実際に仲治は積極的に海外の写真・美術誌を取り寄せていて、エルンストの画集やピカソの掲載された洋雑誌を所有していた。「絵画主義」からの目まぐるしい転身、変化の裏には、本家本元を仕入れて学ぶという回路が存在したのだ。

被写体の操作は更に念入りとなり、身近に手に入る様々なものが画面構成に動員されている。新興写真の攻め方があくまで現実そのもの、機材と被写体の物理的な性質そのものだったのに対し、シュールレアリスムでは現実の諸要素を用いながら夢や幻想といった現実にない世界を創出している。

 

解説「北野中学校撮影会」には、1938年に北野中学校で丹平写真倶楽部会員が撮影会を催し、教材用の模型や標本、実験器具などを素材に、競うようにシュルレアリステックな世界が生み出されたとある。現実に存在するものを素材として組み合わせ、現実にありえないものを生み出す技、その組み合わせ方や余白の取り方は見事だ。

なお、ここでも「現実」を脱して深く夢幻の世界へ至る作品だけでなく、素朴な現実の日常景をそのままストレートに撮った作品、「半静物」の作品など他シリーズと横断的なものが多数ある。ジャンルに囚われず作品1つ1つに没入していくのがまずは正しいかもしれない。

また、シュールレアリスムと写真という観点でいうと、岡上淑子の初期作品と比較しても面白いかもしれない。

 

 

■迫りくる戦争との関わり
(5.Late 1930s - 1942 不易と流行)

最終コーナーは1937年の日中戦争開戦から1941年の太平洋戦争突入、1942年に逝去するまでをまとめている。戦争が具体的な形で国民の生活に覆いかぶさってくるようになると、写真家もまた逃れることはできない。物資の面からも、周囲の空気、表現規制の面からも、アマチュアの表現活動は困難となってゆく。

その困難な状況でもアマチュア写真家として仲治は様々な写真を遺している。

威勢よく戦況を伝える張り紙が、野球の得点表と相撲の試合告知、定食屋の看板と混ざり合った板。その真下に犬が佇んでいる。現実のものとして戦争が日常社会に迫り、割って入ってきている様を鋭く、滑稽さも交えて写している。

 

<白衣勇士>シリーズが興味深かった。写真による「文化協力」や「報国」が強く求められる状況にあったため、丹平写真倶楽部として白浜の陸軍病院へ傷病兵の慰問撮影に訪れたものだ。(仲治は最初、1922年に「浪華写真倶楽部」に入会し、1930年には「丹平写真倶楽部」にも入会している)

 

この撮影には「白衣勇士の家郷に送る写真」「快適なる療養状況を一般に知らしむる写真」というコンセプトがあり、メンバーの共同制作ということで個人名は省かれている。撮影された約200枚の写真は陸軍に献納されたという。

いかにも健康、壮健な、見るからにプロパガンダな写真であり、逆に何とも言い難い痛ましさを感じる。

<山根曲馬団>シリーズは巡業サーカス団を撮った写真だが、ヒューマンドラマというか、虚構の舞台に生きる「サーカスの女」の幕間、幕の裏でふと見せる演技と素のはざまの姿がそこにある。奇抜さではなく、生きた「人物」がいる。この眼差しはその後の<流氓ユダヤ>に通じるものがある。

 

■晩年:雪月花、上賀茂にて、流氓ユダヤ

いよいよ最終コーナー、最晩年の作品である。

<上賀茂にて><雪月花>シリーズは1941年5月の第23回丹平展に出品されたが、これが仲治がまとまった作品を発表した最後の会となった。

 

作風が一気に老成するというか、落ち着いた自然の風物、風景の写真になる。

だが樹々の感じ、影、陰影の在り様を見ていると、「落ち着いた」というより「ドスの効いた」ものを湛えていて、何か腹の深い所に力を溜めているような風景である。自然や風光明媚を愛でたり、癒されようとしているのではない。

1941年11月15日『丹平写真倶楽部会報』から仲治の言葉を引用しよう。とうとう病気で例会へ出られなくなった、例会の出品の質が気になる、と言いつつ、「若し感懐を自然に託して吐露するのが無理のない藝術であるならば淡如たる風月の裡に烈々たる心事を潜ませる事も出来、修羅の巷の描写に爲楽の相を表はす事が出来る。そこが藝術する人間のよろこびである。」と続ける。

 

烈々たる心事。修羅の巷。為楽の相。

すごい言葉だ。言葉の圧がすごい。これらの写真と併せて受け止める時にそこには安穏とした叙情などはなく、オーバーに分かりやすく解釈するなら「戦争により表現が規制されようとも、風景のうちに表現者・芸術家個人としての戦いの意思を忍ばせよ」と言っているに等しい。病床の身で、仲治は状況に対し、静かに燃えるように抗っている。

 

展示室のトリを飾るのは約10点の<流氓ユダヤシリーズだ。杉原千畝「命のビザ」発給によってナチスドイツの迫害から逃れ、日本に避難してきたユダヤ人らを撮影したシリーズだ。安井仲治の代表作であり、彼の名があまりに知られているが、丹平写真倶楽部の有志6名が集まって神戸の北野で撮影したものであり、椎名治や河野徹も同シリーズを撮っているという。

メンバー間での差異など比較してみたいところだが、仲治の作品は案の定というか抽象的なシーン・構成で、人道的な訴えや悲惨な状況のルポといったニュアンス、分かりやすい善悪の色が薄い。私も以前、解説をよく読むまでは「戦前、神戸の北野あたりの居留地に住んでいた裕福な外国人(ユダヤ人)のドキュメント」と誤読していた。事実や前後関係を写真自らが客観的記録として、あるいは主体的に我が事として語るには、そういう文体の写真=ドキュメンタリーへ特化しなければならず、安井仲治の写真は『LIFE』や『National Geographic』のグラフジャーナリズム写真とは別の領域にあるということだ。だからこそ意味が1つに同定しきれず詩のように味わい深いわけだが。

 

ちなみに当時、ユダヤ難民を支援した「神戸ユダヤ共同体」の事務所があった場所は「神戸電子専門学校」が建っているが、石垣部分は以前のままであるため、歴史を語る案内板を設置したという。

www.kobedenshi.ac.jp

 

 

 

■展示を通じて① ~貪欲に学ぶもの

展示全体を通じて感じたことを挙げておこう。1点目は、安井仲治の貪欲な学びの姿勢を垣間見たことだ。各コーナーの資料、写真集や画集や雑誌の多くは仲治の所有物である。その時々で写真をはじめ、芸術全体の動向を押さえていたことが分かる。

小石清『初夏神経』。同業者の動向も押さえている。自身の寄稿や作品掲載の機会も多かったようで会報や写真雑誌が色々と見られた。

注目すべきはやはり海外の書籍だ。雑誌『フォトグラフィ』(パリ、1931年の)を取り寄せ、ムンカーチ・マールトン(マーティン・ムンカッチ)の写真を動態表現の例として紹介していた。今の時代ならAmazon1クリックで海外からお任せで仕入れられるが、戦前当時にWebを介さない個人輸入は大変な手間がかかったのではないか。

シュールレアリスムの項目でも触れたが、画集や芸術雑誌なども海外から調達している。同人会の内輪で表現を行うのではなく、表現の世界的な動向を捉え、絶えず外から新たな表現を取り入れては自身のものにしていたことが伺える。

また先端を追うのとは逆に歴史を辿ることもやっていて、講演のための資料にと、日本に写真がいかにして伝わってきたかを掘り起こすために江戸時代の『改正増補蛮語箋』やルネ・ダグロン『写真鏡図説』を手に入れていた。

紙の本は持ち主のことを持ち主以上に語る。これだけの品があるということは、展示で開陳されたのは蔵書のごく一部と推察する。こうした、自分の外側にある世界を絶えず取り込もうとする仲治の貪欲さがよく伺えた展示であった。

 

 

■展示を通じて② ~言葉、アマチュアの矜持

事前説明でもあった通り、本展示の最大の特徴は仲治の言葉を会場に配していることだ。そこで発せられているメッセージは、「アマチュア写真家」、素朴かつ純粋な芸術家としていかに写真表現に向き合うかという信念であり、矜持であった。

「結局アマチュアの楽しみでやっているので」、本展示の――すなわち安井仲治という作家の作品と活動の全てはこの一言に尽きるだろう。どの表現形態が正しいか、どのイズムであるべきか、社会的にあるいは芸術として有意義か。そうした序列付け、評価付けを行うよりも、心の動かされる方へ向かって「表現」という行為に打ち込むこと、その自由さを重視している。

フォトモンタージュやフォトグラムの手法を巡って、リアリズムと対置した際の議論では、「写真はリアリズムでなければならぬということは判り切っているが、写真術を正面から使って、われわれの空想を描き出そう、潜在意識をくすぐるものを出すという感じで出来るのが、アマチュアフォトモンタージュでなければならぬと思います」(現代かなづかいに直して表記)とあり、仲治の姿勢がよく伝わる。こんな言葉は中山岩太や野島康三からは絶対に出てこない。安井仲治という写真家が歴史に刻まれなければならない必然性を感じる。

 

断片的な格言に空間とともに、視覚的に触れるのも良いものだが、もう少し踏み込むには、展示図録の資料編が強力な助けとなる。貴重な文章、自作解説が多数掲載されているのと、論考の中で引用された発言や文章も多く、安井仲治という作家像を立体視できる。

hpma.shop-pro.jp

 

「言葉」の展示の見せ場は、展示室の移動の際に通る中庭的なスペースにある。四方をガラスに囲まれたその空間は、人の通行する3面にいろはかるた風「写真家四十八宜(しゃしんをうつすひとよんじゅうはちよろし)を貼っている。

四十八句は1940年7月11日の『丹平写真倶楽部会報』に掲載されたものだ。「夜も写つるフイルムはよろし」「カメラ自慢はせぬがよろし」なんてその通りすぎて首肯のあまり首がもげそうだ。

〆の一句「きようの写真より明日の写真よろし」、ここに仲治の写真表現、哲学の肝がある。未来に向かってシャッターを切る、像を焼き付けることの。

 

一方で非常に鋭い警句も発している。将来、カメラの小型化と簡便化により写真は普遍化され、「写真家」という特殊な呼称(種族、人種)はいなくなり、そして芸術としての立場はあまり進歩しないだろうと。

時代の流れと技術進歩、技術の民主化と普遍化、それらがもたらす透明化と停滞、無意味化に抗うべく、100年後の私達は色々と撮ったり編んだり見たり読んだりを繰り返しているわけなのだ・・・。

 

 

■展示を通じて③ ~戦争、国家に対して

安井仲治の生きた時代は激動と呼ぶにふさわしい。日本が近代国家として大転換を試み、急激に躍進するとともに、西欧先進国に追い付こうとし、同じく植民地支配の競争に乗っていった時代である。江戸時代生まれの人が気の毒でならない。そして西欧を相手に戦争を行う体制へと進行していく渦中で、仲治は世を去る。

戦争というものは完全に何もないところから急に始まるのではなく、下地となる文脈、歴史的経緯、感情の蓄積がある。

仲治が1903年に生まれてからの大きな出来事を挙げてみると、日露戦争(1904)、韓国併合(1910)、第一次世界大戦(1914~1918)、満州事変(1931)~満州建国(1932)、国際連盟脱退(1933)、2.26事件(1936)、日中戦争(1937-45)、国家総動員法公布(1938)、第2次世界大戦勃発(1939)、日独伊三国軍事同盟、大政翼賛会の発足(1940)、ハワイ真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発(1941)。そしてミッドウェー海戦(1942)、etc・・・と続く。また、それ以前にも日清戦争(1894-95)を経験済みだ。

要は、戦争を行う国家としての諸条件が備わっており、更なる深みへ、戻れない道へ踏み出していく過程にあったといえる。

 

時局の変化、生活における空気の変化というものは、書き残されている言葉以上に強くリアルな問題としてあったのではないだろうか。何々をすべき/自粛すべき、といった同じ生活者である国民からの無言の要請、その空気の圧は今般の新型コロナ禍でも嫌というほど味わったが、あの嫌な相互監視の空気が総動員体制化でも遺憾なく働いていたとすると、アマチュア写真家の置かれた立ち位置の厳しさは容易に想像できる。

図録P244-246では、若山満大「世界そのものの愛好家 安井仲治と「不易流行」をめぐる一考察」にて、日中戦争(1937)開戦以降にアマチュア写真家に課せられた制限について、経済面、法令、そして「世間の眼」から列挙している。まさに死活問題である。写真をやるには不要不急の道楽と呼ばれないための、国家への協力という大義名分、国民間での感情的納得を得る必要があったことを想像させる。安井仲治はその時勢の中で、アマチュア写真家として、芸術家として、生きていた。

 

論考は晩年の<上賀茂にて><雪月花>シリーズの保守的なまでに何の変哲もない風景写真について、「戦時社会への奉仕を目的にした写真表現に対する痛烈なアンチテーゼを含んでいることになろう」と考察している。

 

展示の最後の部屋、その壁に掲げられた2句を紹介しよう。

古への紅毛人の造りたる カメラ オブスキュラ 今吾が命

(『丹平写真倶楽部会報』1941年8月4日)

 

しからば卓上一個の果物を撮る人も、
戦乱の野に報道写真を撮る人も「道」において
変りはないのであります。

(講演「写真の発達とその芸術的諸相」1941年10月18日)

 

カメラと写真技術を用い、自由な精神で表現を行い、それを「命」とした安井仲治にとっては、日本も諸外国も、アマチュア写真家もフォトジャーナリストも、分断・対立される存在ではなかった。底の深いところで繋がっている存在だったのではないか。分断と戦乱と攻撃的な空気が吹き荒れる今、そのようにも感じた。

 

 

( ´ - ` ) 完。