写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】没後50年 藤田嗣治展 @京都国立近代美術館

【ART】没後50年 藤田嗣治展 @京都国立近代美術館

ろくすっぽ美術の教育も受けておらず、アートつまみ食い状態で生きていると、藤田嗣治に対しては非常に偏った印象を抱いてしまう。やれ、戦争に加担した人。やれ、戦後怒られて日本を飛び出した人。やれ、技術はすごいけどそれだけの人。等々。

本展示は藤田の通史を豊富な作品群によって提示し、彼がどのような試行錯誤を重ね、どのような思いを抱きながら生きてきたかを明らかにする。

 

本展鑑賞による気付きを簡単に箇条書きで。

①人の土俵で相撲を取らなかった

1913年(大正2年)、20代後半にパリに渡ってから、シュールレアリスムキュビスムモディリアーニなどの影響を思いっきり受けながらも、それら西欧の土俵の中で戦わず、自分独自の世界観・技術を開発した。このことは非常に大きい。有名な、透き通るような乳白色の背景・下地の作風である。

当時の日本では、印象派を輸入してその解釈、消化を懸命に行っていたと思うが、藤田の作風はむしろ和の技法、仏教画を思わせる。油絵なのに厚みがほとんどなく平面的で、絵の輪郭を線で描いている。印象派の気配は微塵もない。当時の日本からすれば、完全にあり得ない話だ。海外行って何やってんのという。理解が出来なかったのではないだろうか。同時に、当時のパリでも、この東洋人すげえなとなっていたことは想像に難くない。印象派でもキュビスムでもない、神秘的な陶器のような白の世界を産み出し、裸婦を美しく描き上げるのだ。たまりませんね。

明治期に西欧へ留学した日本人画家の多くが、西欧美術の歴史の厚さには到底太刀打ちできず、半端な模倣に終わったり、帰国後も成果を残せなかったとの記述を読んだことがある。後発組の藤田は、その恐ろしさはよく分かっていたのではないだろうか。

 

ギリシア彫刻を平面絵画でやった

で、先述の乳白色の作風だが、この絵画は非常にミステリアスな美を湛えている。遠目には、ゆるやか・ふんわりした乙女チックな絵にしか見えないが、至近距離で表面のディテールを見ると、その「白」は非常に硬質な素材感を有している。油絵とは思えない。まるで薄い大理石の質感、ギリシア彫刻をそのまま平面にしたような離れ業なのだ。

描かれる裸婦の立ちポーズからしても、人間が立っているというより彫刻を並べているような、不可思議の硬さがある。長身の人物が並んで立っている絵ということで、ホドラーを連想してみるが、人間ぽさがなさすぎて比べようがない。

肢体、特に下腹部の肉の盛り上がりは、大理石の凹凸に生じた陰影そのものだ。健康的な筋肉を宿している。下腹部の肉のちょっと余分に付いている描写がエロい。だが脂肪分とタンパク質から出来た肉ではなく、成分は石とその凹凸が生み出す影だ。

 

③キキは特別

モンパルナスのキキという有名な人がいまして、1920年代に多くの芸術家らに愛でられ、インスピレーションを与えたミューズです。マン・レイ作品でも重要なモデルである。彼女と藤田がどういう関係だったか分からないが、裸で寝室に横たわるキキを描いた作品で大ヒットを掴む。

その後しばらくキキの絵を描いているが、キキの感情が全く分からない。なぜなら眼球が黒く塗りつぶされていて、虹彩や瞳の中の光が描かれていないのだ。見ているはずのこちら側が向こうから見透かされているような底知れなさすらある。超越者だ。

他の女性については、基本的にかなり丁寧に瞳の中の明暗、色調を描写し、瞳の細部を描くことで完成としているふしがあるぐらいだ。まさに画竜点睛。これは、生涯最高のミューズの胸の内は読み取れなかった・翻弄されていたのか、あえて作品としては完成させたくなかったのか。いずれにしても、スーパーミューズというのは、良いもんですなあ。嗚呼。暗黒の惑星だ。嗚呼。

 

④移動する異邦人

パリに行ってパリ寵児になって、戦争で日本に戻って来たけど居場所を失ってまたパリに帰った人、終わり、という印象があまりに強かったが、実は移動者としての一面があった。

1931年に南米に渡り、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、そしてキューバアメリカときて、2年近く旅を続けている。

本展示で示されていた重要な点はそこだ。これは本展を監修した林洋子氏の著書『旅する画家 藤田嗣治』でもしっかりと強調されている。単なる取材や行楽旅行ではなく、行った先で絵を描き、売り、個展をするなど、作家としての巡業をしている。その時に描かれた絵の多くは水彩画で、輪郭線のはっきりした、とにかく上手い絵である。

「上手い」以外の感想が持てなかったが…。

そして1933年に日本に帰国してからも、今度は国内を旅している。東北にも沖縄にも行き、現地の人々の姿を絵にしている。日本の風俗・伝統にまつわる職業者の絵もある。西欧の眼で日本文化の貴重さを再検証したのだろうか。ここでも「上手い」以外の感想を持てなかったが、もしかすると画家としての独自世界を表現することよりも、各地・各国の人々の文化の装い、表情、骨格などを記録したかったのかもしれない。

なお、1937年に勃発した日中戦争に際し、翌年から軍部の依頼を受けて「事変記録画」を描く。今度は戦地を移動する画家となったのである。

 

⑤ねこの人。

( ´ - ` ) ねこ描いてるんですよ。しょっちゅう。

他人事とは思えないんですけど藤田さんは自分を描くときしょっちゅう猫を一緒に描いてるんですね。これってもう自分の内面なんじゃないんですかね。イド。対外的・理性的な部分、映像化できる部分は、自分の衣装や身体によって表現・提示するけど、それには表わすことができない(不適と判断した)内面の澱とか奥の方に潜む衝動、これを、ニャーでニャーニャ-したんじゃないか。そう思ってしまう。

というのも、乳白色の美を得た藤田作品は、明らかにギリシア彫刻的な、時を止めた硬質的で圧倒的な美を獲得した。ダリの世界をアルカイックに大理石で表現したようなものだと思っていただきたい。

その舞台はまるで写真のようで、時は止まっていて、真空で、人間の内面、情念とは別次元の世界だ。スーパーモデルを置くには最適だが、市井の生身の人間として、感情の機微や、内面の乱れなどを託すことには向いていないだろう。世情は、二度にわたる大戦で乱れに乱れている。心理のうちを託すのに、動物はよい代弁者となったのでは?

 

( ´ - ` ) 面白かったです。

最も面白かったのが、「どこがターニングポイントになったか」が時系列ではっきりと見えた点です。「乳白色」の美を開発する前までは、技術力もあるし、貪欲に現地のセンスを吸収しているのがよく分かるけれど、地方の万年佳作で終わる画家にしか見えなかった。それが、稀代の革命者として生まれ変わる。それがよく分かった。原理は分かりませんよ。わからん。神のみぞ知るところです。神の手かな。

実際そこは神の力だと思います。なぜなら、現地で最新鋭の絵画を学びつつ、一方で宗教画にも関心を持って研究していたこと、ギリシア彫刻にも親しんでいたこと、資料はないけれど恐らく日本の仏教絵画なども相当に参照したこと。

こうした取組によって「深さ」を宿すことで、目の前の風景や静物を技術のトレースで描くだけの段階から、何らかの「世界」を描く段階へと藤田を引き上げた、そのように感じます。

 

( ´ - ` ) あと日本が戦争に負けてからの絵は、なんか見てて切ないというかキツいので、ここではもう触れません。

 

藤田氏のことを「パリ行ってパリから帰ってきて戦争に加担して怒られてパリに帰った人」としか思ってなくてマジごめんなさいすいませんすいません、という意を込めて、この気付きを大事にしたいと思います。

こういう悪い方のレッテルは、根拠もないのに面白おかしく根深く受け継がれることを身を以って知った次第です。藤田さんの人生って「あいつパリでめちゃくちゃやってる」「女関係が派手」「戦争に加担して逃げた」「戦争に加担したのに日本から逃げてきた」とか言われ続けてきたのかと思うと、百年近くレッテルが生き続けていることになる。そういう意味で、この展示は良かった、非常に意味があった。

 

( ´ - ` ) 完。