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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟@東京都庭園美術館

【ART】岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟@東京都庭園美術館

長年、女性は、早々に結婚して家庭に入り妻として母として家事・子育てをやるものだ、とされてきた。岡上淑子(おかのうえ としこ)もまた、そのように生きた。膨大な夢の世界を遺して。

 

岡上淑子は、日本が戦後の荒廃から高度成長へ変貌を遂げてゆく時代を生きる中で、フォトコラージュの技法に出会った。日本の先をゆく欧米のまぶしくきらびやかなファッションの世界を、雑誌の中からその手元へと手繰り寄せた。ただ憧れるだけではなくそれをイメージとして操作し、新たな平面映像の世界を編み出した。当の本人は気付いていなかったがそれはシュールレアリスムの世界だった。瀧口修造と出会うことで作家はシュールレアリスムと出会い、作家の存在と作品は世の知るところとなった。そして結婚し家庭に入り、コラージュの創作をやめた。

 

現在、岡上作品は人々を魅了している。2010年代に入ってからその名を美術館の企画でよく目にするようになった。2018年には高知県立美術館で個展『岡上淑子コラージュ展 ― はるかな旅』が開催されたところだ。優美なモードの世界と、シュールで謎めいたセンスが斬新で、注目を集めている。 

一方で、王朝的なきらびやかさの影には、戦争の凄惨な体験・記憶も力強く生きている。地元の東京が大空襲によって焼け野原となったことを、作者は忘れていない。本展示ではその両方の側面が提示された。以下に構成を挙げる。

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第1部 マチネ (本館)

 Ⅰ.岡上淑子とモードの世界

 Ⅱ.初期の作品

 Ⅲ.瀧口修造マックス・エルンスト

 Ⅳ.型紙からフォトコラージュへ

 Ⅴ.コラージュ以降

 Ⅵ.その他関連資料

第2部 ソワレ (新館)

 第1幕.懺悔室の展望

 第2幕.翻弄するミューズたち

 第3幕.私たちは自由よ

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主に第1部では作者とモード・ファッション世界との近接、そしてシュールレアリスム世界との邂逅が提示され、第2部・第2~3幕では自由で伸びやかな創造性、女性の自由な生き方への称揚といった語り口に寄せている。一方で第2部・ 第1幕「懺悔室の展望」は一転して戦争、干魃や洪水といった危機や破滅に満ちた世界観の作品が特集されている。

この「懺悔室の展望」によって、私は作者の持つ闇の力に魅力された。先進国のファッション誌に空想を巡らす女子、あるいは女性の生き方の自由を謳い上げた先見的な女性、といった、紋切り型の理解を超える相貌を見せる。

西欧へ過剰に心酔するでも、反戦を訴えるでも、ヒューマニズムに立つこともない。ヒトも動物もモードも災害も全て同等に切り刻まれて配置されるのだ。人類を苛む大規模な人災、天災に対する、クールで機知に富んだ態度はどうだろうか。個人の感傷に浸らず、あらゆるビジョンを等しく対象化し、再配置する眼は、常人では持ち得ない鋭さを湛えている。知性の鋭さとでも言おうか。

主義主張を伴わず、それらは一貫して夢の世界であり続ける。夢の輝きを、戦争の記憶――侵攻、攻撃、荒廃、焦土といったイメージの闇が際立たせている。岡上コラージュには、甘さが全くない。アンビバレンツがある。相反する力が切り貼りされた紙の上で、深い裂け目となって闇を湛える。谷なのか。我々は谷を観ているか。先端的なファッション誌から切り貼りされた西欧人美女たちの顔、髪、肢体、衣装、あるいは動物や骨の標本などを、グラフ誌の戦禍や飢えの写真は基部レイヤーとなって支え、その構造は一枚の作品の中に深く刻まれた谷となり、緊張感を湛えている。影ーー光と闇がある。

クライシス景に限らない。岡上作品の中でも、「これは」と痺れるような快感を伴うものは、組み合わされたコラージュの造形の妙もさることながら、影が濃く、深く画面全体を満たしている。宮殿の一室を蝋燭で照らすように。谷底を太陽が照らし出せないように。女性や動物らの断片は影の奈落に落ちまいと、その場に留まろうと力を込める。建築だ。その相反するアンビバレンツの力が、深い衝撃として我々鑑賞者に響く。

そのままでは谷底にコラージュのパーツは叩き落されるだろう。それに力を与えて、画面内の主役として留まらせているのはまさに建築、デザインの力学とでもいうべき、類稀なバランス感覚である。風化されず手懐けられることもない谷としての緊張感。初期の岡上作品(『視る』(1951)、『ポスター』(1950)、『轍』(1951)、『脚』(1952))などは、バウハウスだ。切り取られたパーツを無地の羅紗紙の上に置くだけで、そこには鋭い構造力が生まれていた。既製品からパーツを切り出して凝視したり、アイレベルを変換して新しい見え方を探し求めたり、それらを組み合わせ直したときに現れる新たなリアリティを探求するといったこと、こうした試みはまさにバウハウスが1920~30年代に追求したものだろう。1928年生まれの岡上氏は、知らないところで感化されていたのだろうか。

 

欧米は日本を滅ぼさなかった。徹底的に破壊はしたが日本は残された。物理だけではなく国民の心情や国の仕組みもまた破壊の後、残された。それらは深い谷へと引き裂かれた。 近代的豊かさへの憧れや期待と、戦乱の記憶、滅びへの危機感が時折、作品と化して、戦闘機の発進や、飢餓・飢饉で転がった動物の骸のビジュアルとなり、噴き上がる。普段は隠蔽されている。何食わぬ顔で、世界のトップモデルらは手足を放り出して奇矯な舞を踊り、動物との身体交換に興じ、終わらない夜を重ねる。この文体をシュールレアリスムと呼ぶらしい。

瀧口修造を驚かせたのは、岡上氏がシュールレアリスムという美術運動を知らずにその世界観を体現していたことにある。岡上氏は通っていた洋裁学校で出された「ちぎり絵」という課題で、偶然コラージュの技法に出会い、真空の宇宙にトップモデルの顔や肢体が構造体として浮き上がるような作品を生み出してしまった。

そこで瀧口はマックス・エルンストの作品を岡上氏に紹介し、岡上氏はその技法を吸収して、より複雑なコラージュ作品の作成を行うようになる。それまで背景に使っていた単色の羅紗紙を、写真に替えたのだ。この流れを観客も展示会場で追体験するようにできている。本館2階へと歩を進めると、本場西欧のエルンスト三部作『百頭女』(1929)、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930)、『慈善週間または七大元素』(1934) に触れることになる。そして観客は、岡上作品が西欧のシュールレアリスムとまるで別物だということを思い知らされる。当時の瀧口修造もその点が衝撃だったのではないだろうか。エルンストのそれは現代人の私からすると、べっとりと重く、咀嚼・嚥下しづらく、到底意味の分かる、摂取できるコラージュではなかった。桁違いの糖分と脂質で苦みやえぐみを抑え込んだ代物だ。会場でとったメモには「重すぎ」と一言書いてあった。まさに醒めない夢のような、重たい粘りに辟易とする。

要は宗教観と科学観だ。西欧社会が2千年近く引き摺ってきた、信仰の問題、理性の問題、神話、悪魔、天使、科学、性、個人の問題とその歴史性の重みについて、シュールレアリスムは一つの態度を示したものだ。近代科学で精神分析等々で何とか折り合いを付けたり、神なき世界に生きることの主体の問題を思考したりしてきたが、色々やった結果、近代的理性の結論がWWⅠであった。先に上げた諸々の事柄――まとめると歴史性というものに対して、近代人は圧倒的に消化不良(解決不能)であることを認める態度が、シュールレアリスムではないか。それらは夢のような混然とした、バケツをひっくり返すようなものとして(ロートモレアンの句『解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い』が象徴的だ)、半ば嘔吐気味に示してみせた。

岡上作品は歴史を背負っていない。前述のとおり戦中・戦後の感性であり、西欧先進国への憧憬と、彼らに破壊・侵略された実体験というアンビバレンツ、引き裂かれた谷としての表現である。西欧2千年の歴史に比すれば、戦後日本の歴史は昨日今日の話である。また、それらのイメージが立つ場が、ファッション誌とグラフジャーナリズム誌の切り貼り、すなわち写真をベースとしていることも特徴的だ。それらの写真は常に「今」しか無い。

すなわち岡上作品のコラージュ世界は、現在である。現在進行形と言えるかもしれない。西欧のそれが過去2千年近くから続く、神と自己と科学との兼ね合いがぐるぐると、王朝の影で、怪物のように渦巻いてきたのに対して、岡上作品はあくまで「現在」を生きる者の、瑞々しい感性の賜物と言えよう。ファッション写真、ジャーナリズム写真、ともにその瞬間が最も新しく、そこに過去は写らない。そして戦後を生きる日本人も、過去から切り離された、瞬間的な存在だ。それらを統御する作者の力量は、知性だ。

 

まとめよう。本館での第一章は、多くの点数の資料によって瀧口修造との関係、エルンストのシュールレアリスム岡上氏自身の洋裁やドローイング、写真作品などを豊富に提示する。これらが別館の第2章前半:「懺悔室の展望」へと接続されたとき、岡上作品の真価が、戦火や被災の深い傷や恐れを持っていること――モードの夢物語、戦後日本人の憧憬として美しいだけではないこと、へと思い当たる。

これらをフォトコラージュという一つの卓越した文体へ昇華させたのは、岡上氏の生来的な知性に他ならない。それはかつて近代社会を目指した日本人らが求めた、選良としての資質であったかもしれない。西欧近代を模倣し国家の枠組みは男性らが設計・建造し、そして破壊に導いたが、その陰では、彼らと対等かそれ以上に深い傷と知性を湛えた「女性」が、静かに存在していたのではないか。本展示はその一人として岡上淑子を可視化する。

この堂々とした、感情や主義主張を訴えずに切り貼りを続ける姿は、ダリと真逆である。ダリは結局のところ母親のことしか描いていない。癇癪気味に聖母を呼び続け、授乳の後は聖母のうちに眠る。夢の形をした羊膜の中にいる。性的に未熟な児童が、夢と戯れ、悪夢にうなされて夢の中で飛び起き、また夢の中で授乳で癒され、そして夢の王国の中で生きていく。戦争や原子爆弾もまた胎盤を伝ってから摂取される。岡上淑子は「一人」のヒトとして心身で受け止め、生きている。本質的にリアリストだ。今を生きていて、そこには今しかない。大人の知性なのだ。

自身のアンビバレントな存在に橋を架け、その影の深さゆえに「内面」を持った。西欧の2千年近く抱えてきた王朝の影、神と理性の桎梏に負けない重みがあり、西欧と対等に渡り合えるものを有した。 それが岡上作品の醍醐味かも知れない。

 

しかし疲れきってしまった。展示量が半端ではなかった。

第二部は広いフロアに作品が横並びで続く。後半は正直きつかった。第1部の構成と緊張感があまりに優れていたからだ。作品展示だけでなく、資料の有用性、なによりも庭園美術館の空間美が素晴らしい。1933年に竣工したアール・デコ調の旧・朝香宮邸は、歩いているだけで満たされてくるものがある。本館の建築上の世界観があまりに良すぎて、新館が完全に霞むのも、企画者泣かせなところだ。 

なお本稿では牽強付会を承知であれこれと書いた。戦後日本の心情やアンビバレンツと岡上作品を不用意につなげて語ったが、本展示ではそんなことは言っていない。終盤は特に、女性の自由な感性と生き方を語る構成をとっていた。コラージュという技法自体が、本来の前後の文脈を攪乱させる手法であることから、思いつくままに好き勝手させていただいた次第である。たまりませんなあ。

 

( ´ - ` ) 完。