nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R3.7/16(金)~7/18(日)「表現の不自由展かんさい」展示内容(後編:韓国関連、その他) @エル・おおさか

騒動だけが膨れ上がった「表現の不自由展」、その実際の展示内容をレポ・後編。

後編では、韓国と日韓歴史認識に関連した作品と、その他の作品について取り上げる。うわあ。語りにくいなあ。言っとくけど穏便なことしか書かないすよ。あたしノンポリ猫ですから。(逃げた

 

f:id:MAREOSIEV:20210718003716j:plain

【会期】2021.7/16(金)~7/18(日)

 

 

<前回のおさらい> 

あつい中を、警官隊に囲まれながら、政治団体がワーワー言っている中、並んで整理券を得ました。夏祭りのようでした。

 

こちらは騒動の肝となってきた天皇」をモチーフとした作品についてのレポです。語りにくいからしんどいけど、見れば見るほど天皇批判とは言いづらい作品だった。

 

総じて、「あいちトリエンナーレ2019」出展時とは全ての点において性質が異なるため、同じ展示ではあるが同じ評価はできないという結論でした。「アート」という枠組みでは、今回は括って語れないのではという、そもそも論です。

 

 

◆韓国の歴史、歴史認識に関する作品

「あいちトリエンナーレ2019」で「燃える天皇の肖像」(大浦信行『遠近を抱えてPartⅡ』)とともに炎上・非難の槍玉に上げられたのが、「平和の少女像」、通称「慰安婦像」の設置だった。

日韓関係の歴史認識を巡る作品としては他にも安世鴻(アン・セホン)の写真群『重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち』(2012)があったのだが、かつて騒動の的となった作品なのに今回は全く名指しされておらず、争点の単純化の中でスルーされていたのは興味深かった。いつ誰・どの層がどこに向けて火を放ったか、誰がどういう判断で展示を自粛したか、という意思形成プロセスも大きな要素であることが分かる。

 

しかし今回の「表現の不自由展かんさい」を巡る騒動では、「平和の少女像」もが争点から外されているフシがあって、Twitter等で見聞きするのは天皇天皇の論点一本化、右翼団体の繰り返す演説の中でも韓国や従軍慰安婦について強い指摘は特になかった。もっと長時間聴いていれば取り沙汰されたのかも知れないが、「天皇陛下の写真が燃やされている」という指摘以上のものは、自分が触れた限りはなかった。

 

これは、大阪という土地柄を反映しているためかもしれない。

大阪市24区はシンプルな土地ではなく、多民族国家のような「地元」都市である。それぞれに個性的で、それぞれの歴史があるが、「大阪」の顔として紹介される、高層ビルと歓楽街の立ち並ぶ大都市の光景は、梅田、京橋、本町、心斎橋、天王寺、難波といった、北区や西区・中央区の一部に限られており、残りの多くは地元住民の生活の場である。東京の山手線と比べると、大阪環状線の円周自体、そして各駅の規模が圧倒的に小規模で、ローカル色が強く、多くの駅と景色の印象が薄いことからも、体験的に分かるだろう。環状線は人ん家なのである。

 

そして大阪の「地元住民」には、韓国・朝鮮や中国、沖縄など、様々な国・地域の人が含まれている。大阪府で見ればベトナム、フィリピン出身の居住者も多い。

 

中でも生野区と東成区は日本有数のコリアンタウンとして歴史的に知られており、その規模の大きさと地元への密着度は並みならぬものがある。ちょっと検索しただけでも、日本の韓国人・朝鮮人人口比率のランキング(2010)では、生野区がぶっちぎりの一位(15.5%)、次いで東成区が2位(5.7%)、少し飛んで6位~9位の4件も大阪市東大阪市である。

 

コリアンタウンを含めての「大阪(市)」と見なせば、色々と軋轢や対立はありながらも、韓国・朝鮮(人)とは、非難・排斥すべき対象ではなく、顔なじみの地元の一部に繋がっていくものと言えるだろう。自分の住んでいるエリアによっては、在日の方々がご近所さん、顔見知りや同級生ということも多々ある。

こうした大阪の地域性が、今回の展示への攻撃ロジックとして、「少女像」に象徴される日韓歴史認識の話題を追及し難くさせたのだろうか。根拠はないが、「あいトリ2019」で右翼団体のみならず名古屋市長やその援護者ら(大阪府の吉村知事とか、高須クリニック院長とか…)が繰り広げた非難のロジックに比べると、明らかに2本の柱のうち1本が抜け落ちている格好だった。

 

大阪と在日コリアンの歴史的な関係については、謎に「NEWSポストセブン」の記事がよくまとまっているので、参考にどうぞ。江戸あたりからなんですね。

www.news-postseven.com

 

( ´ ¬`) 鶴橋は焼肉と冷麺がうまいんやで。

 ああっ。

 

 

■キム・ソギョン、、キム・ウンソン「平和の少女像」(2011)

今回は無いのかなと思ったら、第2室にありました。入口から全く見えなかったんで、無いんかと思った。

f:id:MAREOSIEV:20210718003808j:plain

これが無かったら「表現の不自由展」と呼べないぐらい、アイコン化した存在。他の多くの人にとってもそうなのでは。映像や写真、コラージュなど平面作品と違って、「像」というのは「象徴」としての存在感が格別に高いことを再認識した。あるとき・無いときの不在感、落差がすごい。551のCMぐらいすごい。五感への効果が強い。 

 

f:id:MAREOSIEV:20210718002427j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718003702j:plain

等身大の、人型の像・彫刻がそこに「在る」というのは、人が「居る」ことと同義なのだと実感する。特に本作は、芸術的なロマン性、写実性、抽象性といった文脈ではなく、歴史的に由来のある人物を等身大で現し、それがじっと「耐えている」姿であるから、理性による批評よりエモーショナルの食いつきの方が先行しやすい。マスコミによって何度も取り上げられ、観る側に下地が出来上がっていることも大きい。

 

世界各地で設置され、それだけで一種の政治的・歴史的主張を現地に呑ませたことにしてしまう「少女像」、これを持ってきて据え置くことは、美術作品の展示ではなく政治の領分なのではないかと、「あいトリ2019」鑑賞時にはそのようにレポートした。

それは前回の記事でも述べたとおりで、「あいトリ」が国際芸術祭を冠しており、その1プログラムとして「表現の不自由展」があったことに照らし合せると、リベラル=多様性の意義に適うかどうかをチェックすることになり、ある政治的立場に偏った「表現の不自由」の告発には疑問符がつく、という論旨であった。

 

しかし今回の場合、

①主催者団体の手作り感ある集まり(労働組合的な催し)

②アート、美術の文脈との距離感 

③大阪という土地柄(在日コリアン含めての風土、地元感)

が合わさることで、この「平和の少女像」については「まあいいんじゃないですか、」としか言えなくなってくる。別に投げやりになっているわけではない。場に馴染むことにより、設置に対する違和感(=批評)がだんだん無化されていってしまうということだ。

もちろんその先に、政治的に懐柔されてしまう恐れが十分にあるため、シンプルに「表現」「芸術」とは割り切れないし、「地元民のエモーショナルな癒し」などと全面的に了解できるものでもない。この像の設置を巡って様々な団体が動き、日韓の歴史認識について闘争を行い、それを外交の成果として反映させようという動きがある限り、少なくとも私は、単なるいち表現物としては見なすことはない。

そうした警戒心を脇に置いて像の造形を観察できるぐらいには、今回の展示は葛藤や反発を和らげる土壌があったということだ。(それはそれで危険な兆候とも指摘されるかもしれないが・・・)

 

f:id:MAREOSIEV:20210718003428j:plain

 

f:id:MAREOSIEV:20210726221955j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210726221926j:plain

「<平和の少女像>に込められた12の象徴」読んでみてください。趣旨が書いてあります。ええー12個もあんの。多いな、

これにより全方向から政治的闘争ではないことを弁明しつつ、「日本」への怒りと闘争心は煮えくり返っており、どのパーツにも慰安婦の忘れ難い記憶と忍従が込められていることを押し出している。「恨(ハン)」の結晶体。こんな彫刻があるのか。 

 

f:id:MAREOSIEV:20210718003623j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718003637j:plain

床石にはしっかりと「日本軍「慰安婦」問題解決のための~ここに平和の碑を建立する」と記されているとおり、やはり本質は日韓両国の「歴史」を巡る認識と補償の闘争のための像である。

彫刻として純粋に受け止めると「良いものだからじゃんじゃん建てたらええやん」となるが、外圧などの作用=外交的な側面を含めると、この像の設置を認めること自体が「日本側の歴史認識が誤っていることを認めている」という解釈に持っていかれ、いつの間にか線引きが無くなる。外交はあくまで交渉なので、有利な条件を引き出すために「無限反省しろ」「永遠に誠意を」「謝罪を」が繰り返される。この像はその引き金となりうる。だからいつもみたいに「この作品はいいですなあ~」て書かれへんねんです。わかってくれ。これはもうウシジマくんの世界や。 

 

造形を見ましょう。

f:id:MAREOSIEV:20210718003729j:plain

素足ですよ。この少女像は全身に「耐えている」がみなぎっているのが特徴。一見めちゃくちゃ地味だが、よく考えられている。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718003649j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718003611j:plain

最大の表情は両手だと思う。顔の表情が地味で、服装も地味ゆえに、握りこぶしの「圧」がすごい。着物が深く皺になるほど握り締めている。これは「耐えている」なあ。歴史にですよ。恥辱にですよ。あらゆるものに「耐えている」手です。手の内に爪のあとが赤黒く残ってそう。 

コンセプト12条の「両方の拳」の項がすごい。

構想段階では二つの手を重ねた姿でしたが、少女像の設置に反対する日本政府の動きを知り、平和な世界を実現するという私たちの固い意志を見せねばならないと考えました。それで、拳を強く握った形で表現しました。

 あくまで主訴を「平和」へとスライドさせていくのが上手い。強く深い感情の表し方を迂回させている。

 

「あいとり2019」同様、隣に座って記念写真OKとなっていて、入れ代わり立ち代わりで鑑賞者が撮影していた。穏やかだったり嬉しそうな表情の方が散見され、一定の慰撫の効果もあるとみえた。

置き換えて想像するのが難しいが、仮に自分の祖先のルーツが向こう側にあったとしたら、現物に立ち会えるのはシンプルに嬉しいかなと思う。そのあたりが大阪の「地元感」や、このイベント自体の「手作り感」と直結するので、全否定する気にはなれないところだ。癒されるのは良いこと  「じゃあお前、鶴橋駅慰安婦像置くのは賛成なんか?」 あっ、だめ、ガチ絡みするのはやめてください。あっあっ。

 

 

■キム・ソギョン、キム・ウンソン「空いた椅子に刻まれた約束パフォーマンス」

f:id:MAREOSIEV:20210718002539j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718002603j:plain

少女像と同じ作者の映像作品。これは今回が初出。

タイトル以外に情報がないので詳細が分からないが、「平和の少女像」を屋外で椅子に座らせるパフォーマンスのようだ。見ると複数体いる。椅子の数も多い。ゲリラ的にそこいらの公共空間に座らせているわけではなさそうだ。

 

少女像って韓国国内でどういう受け止められ方してるんですかね実際。

 

 

◆嶋田美子「日本人慰安婦像になってみる」(2012)、「表現の不自由像になってみる」(2019-2020)

f:id:MAREOSIEV:20210718001234j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718002037j:plain

こちらはもっと攻めた作品で、作者自身が慰安婦像になりきって公共の場に座るというパフォーマンス。作者は大浦信行『遠近を抱えて』を巡る美術館の自主検閲に抗議的な作品を制作した、攻め攻めの作家。何食べたらそんな闘士になれるんですか、すごい。

 

「何となく”慰安婦像”に似てるけどなんか違う」という違和感があるのは、従軍慰安婦の10%は日本人で、その多くは元芸者・売春婦だった」ことを表しているためで、服装や髪型が「平和の少女像」とは異なる。手を握り締めていない。だがこの座りポーズと2つ並んだ椅子ですぐにそれと気付く。

 

パフォーマンスの実演場所も攻めまくっていて、ロンドン日本人大使館、靖国神社、国会議事堂、カリフォルニア州グレンデール市公園、ソウル日本大使館の前、と、どれも一筋縄ではいかなさそうな場所だ。グレンデール市公園では慰安婦像が設置され、撤去を巡って現地在留邦人が2014年に提訴、2017年に敗訴が確定している。

従軍慰安婦の歴史や慰安婦像のことよりも「何がこの作者をここまでの行為に駆り立てたのか」に惹かれた。嫌がらせを受けたり危険な目に遭うこともあるだろうのに、作者は現行の秩序体系や常識の欺瞞を喝破し、自身の見ている真実に向かって、公の場の中で身を投げ込んでいく。それも、国や大衆の考えは大きく変わらないことを知りながら体を張っている。古きテロリストのようでもあった。

 

 

■安世鴻(アンセホン)『重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち』(2012)

f:id:MAREOSIEV:20210718003454j:plain

もう一度じっくり見たいと思っていた作品だが、えらく間引かれて、おばあさんのポートレイトの巨大パネルが1枚だけとなった。写真に線が入っているのはパネル4枚を1組に合わせているため。

 

これだけだと「従軍慰安婦だったおばあさん」以上のことが分からないが、展示を巡って裁判まで起きた写真作品である。

 

本作は2012年6月にニコンサロン」で展示される予定だったが、開催を伝える新聞のネット記事が公開されるや いわゆるネトウヨがWeb上で取り上げて炎上の的となり、ニコンに抗議が寄せられる。抗議から約10日後、騒動を懸念したニコン側から一方的に展示中止が通告された。これに対し作者側は、ニコンの写真展会場使用の仮処分を求める裁判を起こし、結果、東京地裁の命令により「新宿ニコンサロン」では展示が実現された。

しかしその後に予定されていた「大阪ニコンサロン」での展示は行われず、中止を決定した理由の説明もなかったため、作者側は再度、ニコンへの責任追及として損害賠償請求を行った。

 

まさに「表現の不自由」を象徴する作品である。審査の時点では写真作品として高い評価を受けていながら、作品を実際に見ていないネトウヨらに火を点けられたことで、会場・主催者側から自主検閲的に展示中止に追い込まれたという、完全に作者の身を離れたところで起きた事件だった。「表現の不自由展」そのものではないか。

しかし内容は本当にいたって、普通の人物ドキュメンタリー写真で、元・従軍慰安婦だったという老婦人らがモノクロで写されている。「あいトリ2019」の出展数は8点だけだが、実際には約40点あったそうだ。

 

事の経緯は、岩波書店のWebサイトにて、書籍『《自粛社会》をのりこえる――「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』のお試しページから詳細が分かる。よくまとまっている。

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/2709730.pdf

 

時期的には「在特会在日特権を許さない市民の会)」とか極端に行動的な保守が元気だった頃だ。残念ながら当時はFacebookで身内に引きこもっており、Twitter2ちゃんねるがどんな盛り上がりをしていたか知らないのだが、何かにつけて「パヨク」とか、中国・韓国に絡めた揶揄・怒号が飛び交っていたのは覚えている。

 

こういうテキストが会場になかったということは、純粋に「元・慰安婦だったおばあさんの肖像」という一点で作品の意義を評価していることになる。その点でも「あいトリ2019」と本展示との性質の違いが出ている。

 

岡本光博「サクラ」シリーズ(2021)

今回新たに追加された、4点のミニチュア箱のオブジェクト作品。いずれもジョセフ・コーネルの箱型アッサンブラージュ作品を引用しつつ、その内容は韓国、特に従軍慰安婦像を主要なモチーフとしている。

制作意図や背景は書かれていないが、高密度にユーモアと緊張感を両立したオブジェで、政治的にどうかというより、各パーツの組み合わせの謎に惹かれる。これは元のジョセフ・コーネルのシュールレアリスム的発明が凄かったということだろう。

 

調べてみると本作は、2021年のグループ展・第2回桜を見る会(現代美術ギャラリー「eitoeiko」の主催で2020年から開催されたグループ展。同名の公的行事が、1952年から日本の内閣総理大臣の主催によって催されていたが、開催状況が問題視されて2019年で終了したことを受けて企画されたもの。)に出品されている。だからタイトルが「サクラ」なのか。なるほど。

 

『サクラー38度線ー』

f:id:MAREOSIEV:20210718002317j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718002330j:plain

ジャーナリスティックかつ現代的な、切り立った緊張感のある作品。意味は全く分からないものの、タイトルからすると朝鮮半島を南北に分かつ「板門店」の国境線にあたるテーブルを慰安婦像に置き換えたものか。黒づくめの軍人と黒い椅子の緊張感が強くて面白い。鋭い風刺漫画の味わいがあります。

 

『サクラー東海ー』

f:id:MAREOSIEV:20210718002225j:plain

韓国の地球儀。これ完全にジョセフ・コーネル『Soap Bubble Set』。わあい。

だが上部の円柱は原発事故の汚染水タンク、マジンガーZぽいフィギュアは韓国のキャラ「テコンⅤ」。硬貨は偽造500円硬貨、500円硬貨、500ウォン硬貨の3点。へんな筒はマッカーサーのパイプをコーンで模したもの。なんだこれは?? フェイクと国家の関連がちりばめられている。

 

『サクラー日本茜ー』

f:id:MAREOSIEV:20210718002056j:plain

これもジョセフ・コーネル『The Hotel Eden』の引用、というか枠組みをトレース。岡本光博はもともとブランド品をパクって下町風にイジる(引用する)作品を戦略としており、全く違和感がない。さすがや。

中央の金色の物体は、慰安婦像の肩に止まっている小鳥の3Dスキャン・3Dプリント。ミニチュアのパチンコ台や韓国版コックリさん、10ウォン硬貨、日本茜で染めた和紙の玉などがちりばめられている。意味が乱反射していて意味が分からないがとにかく面白い。

 

『サクラーみよしのー』

f:id:MAREOSIEV:20210718002159j:plain

チマチョゴリを着た慰安婦像が気球みたいに飛んでいる。これもジョセフ・コーネル『Untitled(Tilly Losch)』 の引用で、西欧風の女性であればシュールレアリスム作品として不思議さ、謎が出るところ、韓国の伝統衣装となると一気に政治色が前景化する。それでいて意味の明言は避けられている。

 

 

■白川昌生「《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》より追悼碑へのドローイング」(2016)

f:id:MAREOSIEV:20210718001317j:plain

「あいトリ2019」では大きなオブジェが据え置かれていたが、本展示ではドローイングと映像だけになった。

 

本作は、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に2004年から置かれている朝鮮人・韓国人の強制連行犠牲者追悼碑」(「記憶 反省 そして友好」との碑銘)をモチーフとしたオブジェである。

2017年4月に群馬県立近代美術館の企画展「群馬の美術2017」に出展予定だったが、開会前日に美術館側から撤去が言い渡された。それ以前に出展していた東京の表参道画廊、鳥取県立博物館では何事もなかったのに、群馬県で展示拒否と判断されたのは、白川の作品が直接問題となったというより、その元となる追悼碑を巡って係争中であったためだという。

公園の追悼碑を巡っては、保守団体らが2012年から撤去を求めて抗議活動を起こし、陳情を受けて県議会で2014年に、公園での設置許可の取消が決定されたという。これに対して設置主体の市民団体「追悼碑を守る会」が、県を相手に裁判を起こした。「群馬の美術2017」企画はちょうどその時期で、県としては係争中の案件・作品をモチーフとした作品の出品を認めることは出来ないという立場であった。

 

バズフィードの記事がこのあたりの経緯を簡潔にまとめていてわかりやすいですよ。

www.buzzfeed.com

 

映像作品も、元となる追悼碑の由来や経緯について説明している。意外に関係が分かりにくく、「公園に設置されている記念碑=白川昌生の作品」と勘違いしていた。ちがうちがう。そっちは市民団体。

 

白川昌生『《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》より現状』(2016)

f:id:MAREOSIEV:20210718101142j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718101115j:plain

映像では『2016年の現在も裁判が進行中。』と締め括られる。

「守る会」による控訴審の判決はいよいよ2021年8月26日に出るという。

 

これも本質的には、戦時中の日本の行い(日中戦争以降、日本人男性が徴兵されて失われた国内の労働力を補うため、日本政府と企業が協力して朝鮮人・中国人の強制連行を行った)を反省することを形にして刻んだ彫刻であり、「平和の少女像」と何が違うのか、という話にもなろう。

しかしそこは像のアイコンとしての浸透力や普及力、それらを活用する勢力の動向などが作用する話で、同じものと扱うのは性急な気がしてきたので、今後の宿題にしておきます。彫刻は難しいな、、写真とは全く異なる性質がある。

  

 

◆それ以外の視点、モチーフの作品

本展示のコアとなるのがこれまで見てきた通り、天皇という象徴・制度(特に昭和天皇と戦争責任)に関する作品と、「韓国」という国と日本との歴史認識を巡る作品が2本の柱であった。それ以外にも政治・歴史や人種問題、放射能などアンタッチャブルな問題に絡む作品が多い。 

 

岡本光博「表現の自由の机」

 「あいトリ2019」では原寸大のシャッターが展示されていたが、本展示ではミニチュア:「3Dプリントしたシャッターにアクリル絵具、木材、アルミ複合版印刷、アクリル板」での登場となった。小さくてかわいい。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001202j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001217j:plain

正確には、2017年に公開が封印され、「あいトリ2019」で展示されたオリジナル作品は『落米のおそれあり』という名で、図の通り「落石の恐れあり」の道路標識をパロディ改変し、アメリカ国旗が欠けて米軍が落ちてくるものとなっている。

解説では『2017年の「落米のおそれあり」は、相次ぐ米軍ヘリの墜落事故への「警告看板」を絵画化し、伊計島の焦点で公開予定だった。しかし、開催前にベニヤ板で封印された。』とあるが、これだけだと下部の黄色い「要望書」の内容との関連がよく分からない。

 

「あいトリ2019」での解説文も引用すると、『本作は2017年の沖縄県うるま市の地域美術展、イチハナリアートプロジェクトに出品されたが、自治会長が「展覧会に相応しくない」と言い、市の判断で封印された。その後の新聞報道と地元の作家たちの抗議によって、最終日に一日だけ場所を移し再公開された。本作はその際にシャッターごと切り取られたものだ。』

「要望書」は、うるま市長宛てに「主催者による重大な契約違反」「作品の隠蔽が「地元の意志」だとする根拠の薄弱さ」「「アート」に対する無理解」の3点について指摘している。

 

同じく要望書の『市商工観光課は「一括交付金を財源とする事業なので、政治的な作品は国の監査が入ったら引っかかる」伊計島はアートの聖地にしたいが、基地反対活動家の聖地になってほしくない」との理由で作品を隠蔽する方向を示しました。』という一文が、このアートイベントの空気や、地元のアート観を如実に物語っていて面白い。まさに2010年代に乱立した地域型アートイベントの功罪が凝縮されている。

 

 

 ■大橋藍「アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子」(2018)

f:id:MAREOSIEV:20210718000938j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001051j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001928j:plain

タイトルがそのまま作品の要点であり、メインコンテンツは(バイト先の社長からもらったもののなんとなく食べることもできず部屋に置いたままにしていた)「お菓子」である。

が、本作を重要な作品たらしめているのは身近な人種差別意識の告発というより、展示会場であった国立新美術館の要請で、展示内容の一部修正を余儀なくされた点だ。

 

当時、学生であった作者は第41回「五美大展」(東京の美大5校による連合の卒展・修了展)に出品しようとしたところ、中身が菓子なので美術館の規定に引っ掛かり、事前審査で問題視された。だが箱から菓子を取り除いたにも関わらず、経緯を記した紙は撤去され、美術館側の仕様規約などあらゆる資料の開示は不可とされた。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001003j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001028j:plain

それが本当に「菓子」(食品)の取り扱いを巡る規制だったのか、中国、香港への差別的な意識を扱った表現を巡る規制だったのか、鑑賞者は壁一面に張り出された美術館とのやりとりの書面を読んでいく中で考える仕組みとなっている。こうした、メールのやりとりや規約のテキストを提示するタイプの作品は、読み込みと理解に時間と労力がかかるが、生々しい。

逆を言えばアーティストと関わる場合、このように業務上のコミュニケーション自体が告発的な「表現」として晒される可能性も、十分にあることが分かる。企業や官公庁など組織で働く皆さんも、現代アートは鑑賞しといた方がいいかもしれない、いろんな意味で。

 

当時、この作者を含めて計4名の学生が事前協議の対象となり、展示の変更を強いられたという。この作品も白川昌生のオブジェと同じく、それぞれ事前に開催された各大学での展示では咎められることはなかったものが、公立の美術館での展示となるや、事前に入念な審査が行われ、問題の起きないように仕向けられる。

2010年度以降、そのような流れが強まった点を、2012年・第2次安倍政権以降の状況に絡めて論じる向きもある。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001114j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001137j:plain

アライ・ヒロユキ氏のテキストは必読。 

 

 

■豊田直巳「叫びと囁き フクシマ:記録と記憶」シリーズ

今回が初出展。福島県双葉町2015~2018年の写真4枚を展示。作者はジャーナリストとしてイラクパレスチナチェルノブイリ、そして福島で取材活動を行っている。 

本作は東日本大震災福島第一原子力発電所事故から年月が経つにつれて、被災者らの「叫び」は徐々に小さくなるが、それは「囁き」として残り続けている、という趣旨だ。

同名のタイトルで個展が複数回行われてきたが、反対運動や自主検閲は特になかったようで、他の作品と「不自由」の位置付けは異なる。時の流れの中で事件が風化し、話題に上らなくなるとともに、現地でも負の歴史として積極的に語ろうとしなくなることなどが挙げられよう。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001648j:plain

 2015年12月21日、双葉町原発PR看板『原子力明るい未来のエネルギー』の撤去に抗議。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001634j:plain

2016年3月11日、双葉町の中心街。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001337j:plain

2018年5月3日、飯館村の祭り。行列の背後の青緑色は畑ではなく、汚染された土壌の「仮処分場」だ。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001619j:plain

2018年9月18日、福島第一原発

 

いずれも率直で力強い、報道色のある写真だ。アートとは真逆で、意味がストレートだ。被災地を特集した写真家って把握しきれてなくて、星の数ほどいると思うので、どこか巨大な会場で一堂に会する企画展を誰か、五輪とかもいいけど、10年目の節目ならそれ、ああもう。 

 

 

 ■マネキンフラッシュモブ「路上パフォーマンス」

f:id:MAREOSIEV:20210718001753j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001817j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001841j:plain

映像作品。モデル然としたヒョウ柄、グラサンの女性らが、プラカードを持って立ちポーズをキメている。不特定多数の人が集まって同じ動きをする「フラッシュモブ」は、2010年代前半に流行し、屋外だけでなく結婚式の余興などでも見られたが、「マネキンフラッシュモブ」はその静止版だ。

動画の説明文のとおり、2016年に海老名駅前自由通路で行われたマネキンフラッシュモブが「海老名駅自由通路設置条例」に違反(「集会・デモ・座り込み」の禁止)しているとして、参加した海老名市議会議員が市から行政処分(禁止命令)を受けた。これに対して「表現の自由」を求め、市議への処分取り消しと、今後モブ行為が受けるかもしれない処分の差し止めを求めて横浜地裁へ提訴を行った。

 

f:id:MAREOSIEV:20210718001905j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001706j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210718001730j:plain

2017年3月8日に勝訴。

 

アベ政治を許さない」などプラカードを掲げて演じたことが「集会・デモ」に当たるとの根拠で市が禁止命令を出したことについて、横浜地裁は「条例の解釈適用を誤った違法なもの」と判断。市側も控訴せず。

これも市議会議員が参加していなければ市の命令は出ていたかどうか。さらには、内容が安倍政権批判でなかったら同じ判断にまで至っていたかどうか。

この事例は、公共の場でプラカードを掲げてデモ活動(政権批判)を無許可行ったあたりが焦点になっていたが、極端に恣意的に適用すれば、分かりやすいデモ活動でなくても「公共の場で人が集まった」というだけでも禁止を発動できてしまう。この判決は地味に、重要な前例となるのだろう。

 

hamakado-law.jp

 

経緯がよくまとまった、法律事務所さんの記事。

 

------------------------

 

長くなったが、こうした作品が2021年「表現の不自由展かんさい」で展開されていた。 やはり後からこうやってそれぞれの作品について、改めて深堀りをして経緯などを調べないと、個々の作品の意味・意義は分からなかったりする。

 

生活が何不自由なく満ち足りているときは良いが、こればかりは運というか、いつどのような形で権力による制限や禁止、監視がその身に降り掛かるかは、誰にも分からない。その時には、個人が何の力や知識もなく抗うことは不可能だろう。異議申し立てを行い、闘ってきた人たちがいたという事実は、シンプルに重要なものだと思う。

 

一方で「表現の自由」を求める闘争は、好き勝手にクレーム入れたり暴れたらいいというものではなく、結局は法的手続きに直結していて、裁判などを通じて闘争自体を世の中に認知させたり、検閲・禁止を撤回させることが不可欠であるようだ。これは限られた人間にしかなかなか出来ないだろう。柔軟に、連携して戦える方法があればいいのだが。

 

( ´ - ` ) 完。