nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R4.9/10~11 「表現の不自由展KOBE」@兵庫県民会館

昨年に引き続いて今年も精力的に展示活動を行っている「表現の不自由展」、4月の東京、8月の名古屋・京都に続いて、9月は神戸での展示である。脅迫や反対運動が根強いため、いつどこで開催されるのかが事前に掴みにくいイベントだが、今回は幸いにも行くことができた。

主力作品はやはり変わらず《平和の少女像》慰安婦像)《遠近を抱えて PartII》天皇の写真(の複製)を燃やす映像)だ。

【会期】R4.9/10~11

 

 

「あいちトリエンナーレ2019」での出展以来、ネトウヨ、ガチの右翼団体、その他愛国的信条を持つ層などからとにかく目の敵にされている展示イベントである。

どこぞで開催するとなれば、それを聞きつけた反対勢力によって反対運動・街宣活動・脅迫行為が相次ぎ、しかし安全が保障できないからと会場側(行政)が使用不許可を決定すれば、主催者側は会場の使用許可を巡って「表現の自由」の侵害を訴えて訴訟も行うという、もはや催すも地獄・断るも地獄、騒動と警官隊と慰安婦像がとかく報道で取り上げられ、何を巡って何のために展示が行われているのか、一般人にはよく分からない状況となっている。

 

まあ、分かるけど、

美術界やアート市場の原理・動機とはまた別の次元で行われている活動であり、どちらかといえば主催者側の政治的な信念・主義主張のための闘争に近い。

言葉を濁してますけれど、揉めると分かっていて敢えてわざわざ天皇批判作品や慰安婦像などを展示するスタンス、そして反対勢力が愛国者右翼団体に偏っていることからも自ずと分かるとおり、「表現の不自由展」の活動は左翼的な、言わば「反日・反天皇」である。

 

今回の展示は昨年の大阪展よりもその傾向が強く出ていた。

 

 

◆前回の大阪展と、今回の神戸展(受付対応や警備のようす)

前回の大阪展では、開催前から入場の整理券を求める客の長蛇の列が会場を取り囲み、更に周辺の道路の隅々まで大阪府警が人員と車両を駆り出して配備を固め、更にその監視の中を右翼団体と主催者側とが車道を挟んで、スピーカーで演説の応酬を繰り広げていた。割れる音、軍歌の轟音、攻撃と非難の声の応酬、警官警官警官。もう何が「表現」なのかわけが分からなくなっていて、大人の夏祭りのようでもあった。

 

www.hyperneko.com

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さすがにこれまで脅迫文や爆竹、ペーパーナイフの送り付けなど実害が大きかったためか、今回は開催地を「神戸」とだけ示して秘密にし、具体的な会場名は購入者にのみチケット郵送によって通知するという措置が取られた。チケット郵送が届いたのは9/5~6あたり、ギリギリであった。そのためか開催当日まで話題は浮上しなかった。

 

しかし9/10(土)当日朝、現地付近に着くと異様な光景が広がっていた。兵庫県庁、兵庫県警本部あたりの道路という道路が警察だらけだったのだ。

 

警察都市・神戸。

オウム麻原や酒鬼薔薇聖斗クラスの、超重大事件の関係者が兵庫県警本部へ連行されてくるのだろうか??? と本気で思った。

大阪の時と違って、反対の声をスピーカーでがなり立てる者や変な車はおらず、閑散としていたからなおさら異様だった。やはり7月の安倍元首相銃撃事件が「不測の事態」への備えを強め、厳重警戒態勢を敷いているのだろうか。せっかく会場を伏せていたのに、答えを言っているようなものではある。

 

ただ私でさえ「やるとしたら兵庫県民会館か、中央労働センターでは」と以前Twitterに投稿したぐらいなので、予想するのは難しいことではない。ある程度の規模の展示ができるスペースを有し、公に開かれた会場というと限られてくる。

 

会場の兵庫県民会館」のあたりは異常な雰囲気である。青い制服の警察官と、白いカッターシャツか黒いシャツ、黒ズボンの男たちがゾロゾロと待ち構えている。主催者側の関係者が右翼との街頭闘論に備えているのか?と思ったが、皆あまりに姿形雰囲気が似通っている。警察である。休日に駆り出された職員という感じがめちゃくちゃする。せっかく伏せた展示だが「ここでやります」と答え合わせをしているようなものだ。まあこの数を見れば下手なことをしようとは思うまい。

 

建物入口で手荷物チェック&金属探知機のボディチェックがある。犯罪はハードルを積み上げる・手続きを面倒臭くすることで抑止できると聞いたことがあります。板垣恵介世界では「鍛え抜かれた身体は金属探知機もスリ抜けちまう・・・」ですが、ここは現実世界なので大人しく身を委ねます。

 

 

あとで見たところ、今年8月6・7日に京都で開催された「表現の不自由展」も、超厳戒態勢で会場周囲を警官が取り囲み、右翼団体がわさわさするという状況だったようだ。やはり安倍氏銃撃事件の影響か。

news.yahoo.co.jp

 

2階の受付でチケットを提示し、入場。

入場は1時間枠ごとの予約制だが、各回鑑賞時間は50分間で、時間がくると次の予約帯の人達に強制切替えとなる点が普通の美術館などと異なる。

 

 

◆展示全体について

今回の「表現の不自由展」には、あえて「歴史と女性の人権」というコンセプトが設定されている。言われてみれば確かに女性、特に元従軍慰安婦が訴える性被害を扱った表現物が前回の大阪展より増えていた。

 

しかし会場入ってすぐ、バリバリの存在感を示していた前山忠「反軍」「反帝」「反戦」旗が象徴するように、本展示は「女性」よりも「反帝国」、すなわち旧・大日本帝国的なるものへの反対運動としての「反日・反天皇」が強く滲んでいた。

「女性の表現」についても、いわゆるフェミニズムやLGBTQ+の観点を扱っていたのはイトー・ターリの映像作品だけで、本展示の「女性」らが主張していたのは主に、日本が戦時中に動員した従軍慰安婦の問題について、被害者側の声なき声を伝えるというスタンスであり、会場全体で反日・反天皇の方向性として合致し、まとまりを見せていた。

 

展示空間としては、大阪展のときよりも会場が広くなり、壁面や間取りにおいて通常のギャラリー空間としての環境が整ったためか、作品が作品らしく力を持って見えた。その結果か、作品セレクトの傾向がより強く目に留まり、先述のとおり全体として「反日・反天皇」のスタンスを備えたものとして映った。

 

以下、作品をジャンル・手法別にレポートする。

 

 

◆写真、コラージュ関連

純粋にストレートな写真作品は2点。安世鴻、豊田直巳の作品である。これらは「あいちトリエンナーレ2019」の頃からお馴染みだ。

 

安世鴻(アンセ ホン)《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち、2012年に新宿ニコンサロンで予定されていた展示を一方的に中止通告されたシリーズからの1枚である。「あいちトリエンナーレ」と大阪展ではモノクロ作品ばかりだったが、本作は初めて見た。「東ティモールで16歳から3年間、性奴隷にされた女性を撮影したもの。」という。

さすがニコンサロンで展示作家にノミネートしただけあって、力のある、印象に残る人物写真である。

 

豊田直巳《叫びと囁き フクシマ:記録と記憶》はお馴染みの4枚組作品。1枚目・右側の写真:双葉町の有名なPRコピーの前で「撤去が復興?」「過去は消せず」とのプラカードを手にした防護服2人組の写真が、2018年に東京都大田区の施設での展示の許可を得る際、許可の条件として展示から外すよう指示されたという。

大田区は結局、指示を取り消したため、展示は予定通り開催された。良い写真に思うのだが、行政が誰に・どこに配慮して自主検閲しようとしたのか、電力会社その他? 原発事故から10年以上が経過した今となっては良く分からない。そのあたりの当時の空気感も含めて、良い写真だと思う。

 

 

本展示では写真を用いたコラージュ作品の方が目立っていた。

 

前山忠:「反天皇制」シリーズより《背広の下から元帥服がのぞく》(左)、《「王の再考の国事行為は生殖である」マルクス》(右)

 

素材を見る限り、昭和天皇の写った週刊誌の写真を切り抜いてコラージュ化した原画と、複写物にタイトル文字を印刷したトレーシングペーパーを重ねて透かしたものとを並べている。

原画だけならよく見ないと意味に気付かないだろうが、タイトル文字が強いので反天皇の主張を抜きには見ることはできない。

 

天皇の写真の背広の部分を細かく切り抜き、後ろに軍服の写真を差し込んで、暗に戦争責任を追及している。

 

天皇の肖像部分を切り抜いても、お召列車と菊の御紋がそこにいる者が誰かを如実に示している。写真というものがフレームから構築されているように、権力もまた舞台装置によって構築され、複製され、イメージとして流通する。

本作の言いたいのは天皇の隣にいる香淳皇后とのセット=皇族という「家(系)」が天皇制の本質であり、個人ではなく「家」の維持と存続が「国」の命題であるということで、生殖や家族というレベルで言うならそれは、皇族と我々一般人と何の違いがあるのか(=ない)、という指摘に繋がるのではないか。

 

 

同じく天皇陛下の肖像部分を消し去った作品として、小泉明朗《空気》シリーズが2点提示されていた。

報道写真をプリントしたキャンバスの上からアクリル絵具でなぞり、天皇の写った箇所を透明化した、写真でも絵画でもない、写実的でありつつ架空というハイブリッドな作品だ。

《空気》シリーズも「あいちトリエンナーレ」や大阪展で出展されていたが、毎回異なる作品が出てくるので、初めて見た作品だと勘違いしてしまった。

前山忠の《反天皇制》シリーズと違い、天皇陛下のシルエットを強調するのではなく、様々な儀式の場面で姿もろとも透明化しているため、タイトルや趣旨と併せてよく見ないと気付かないかもしれない。

更に、対象が平成天皇になると、「天皇」自体がより民衆の目線に溶け込む形で姿を現し、民と交わるようになっていることが、本作《空気#20》でも分かる。このことは東日本大震災に代表される未曽有の災害に見舞われた各地を平成天皇皇后両陛下が訪れ、傷付いた地方の民を、同じ目線から慰撫し、癒して回るという姿の記憶に直結する。国民を癒すという役割は、他のいかなる著名人や権力者にも到底真似出来ない行為であり、そこに現代の天皇制の存続意義を実感してしまった、「平成」という時代の実感とは、天皇による癒しと励ましであったのではないか。

 

 

山下菊二《弾乗り No.1》も定番の作品だ。銃と銃弾の写実的なイメージを散りばめたシルクスクリーン作品である。

パンフレットの解説を読んでなるほどと思った。

皇軍の一兵卒として先の侵略戦争に加担させられた20歳の山下菊二は、中国人俘虜の処刑をはじめとした戦場での殺人、暴行、虐待、差別を拒否できなかった自己への呵責を、傷のように抱えて戦後を生き続けてきた。

自分自身の戦争責任を追及した結論として、戦争当時の「昭和天皇」に行き着いた、ということなら、この怒りのカリカチュアのような図像は納得できる。それだけ「天皇」を内面化していたということがこの作品の強度そのものなのだろう。

 

 

大浦信行《遠近を抱えて》も、映像作品《遠近を抱えて PartⅡ》と併せて「表現の不自由展」で定番となっている。アイデンティティーと言っても過言ではない。

《遠近を抱えて》はニューヨーク滞在中に1976年から10年間かけて、全14点が作られたという。昭和天皇の写真と、人間の頭部の中身を骨、脳と横から見た図像が合わされている。これだけ見ればスタイリッシュなコラージュだ。他の作品も古書販売サイトのサムネイルで確認したが、人体の解剖図、入れ墨、ヌードなどのイメージと天皇の写真とが、和のテイストを持ちながら日本人離れした大胆な図像の合わせ方となっていて、実にパワフルな作品群だ。いちど全作をじっくり見る機会があればと思う。

 

なお、本作は1986年に富山県立近代美術館「'86富山の美術」展において、県議会議員から糾弾され、右翼団体の反対活動を招いたため、美術館側から作品の展示非公開と売却、展示図録焼却処分を決定した。後に作家らは訴訟を起こす。事件の概要は以下「artscape」にまとまっている。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

◆動画映像

映像作品は2点。一つは、イトー・ターリ《self-portrait 1996》。時間の問題がありほぼチラ見になってしまったが、「あなたは誰ですか?」「わたしは、イトー・ターリ。」「あなたは誰ですか?」「わたしは、パフォーマーです。」「あなたは誰ですか?」「わたしは誰ですか?」結婚していません、子供はいません、小金井に住んでいます、レズビアンです・・・と自己の問答が続くのが印象的だった。問いの連続はダムタイプの作品を思わせた。

 

本作は発表の際にレズビアン」という言葉を使わないよう公共施設側が警告した、という、今では信じられないような経緯があったそうだ。

 

パフォーマンス映像アーカイブ「IPAMIA(イパミア)」にて、多数の作品映像が参照できるのでありがたい。本作も下の方にあります。

ipamia.net

 

 

もう1点は、大浦信行《遠近を抱えて PartⅡ》。会場の最後の部屋で、大きなスクリーンで上映され、トリを飾っていた。

天皇陛下のお写真を燃やした映像」として、「あいちトリエンナーレ2019」で批判・反対の争点として大きな注目を寄せられ、以来、「表現の不自由展」といえば「天皇の写真を燃やす展示」というレッテルがつきまとっている。それゆえ本作のみ撮影禁止、主催者側も注意を払っていた。

 

20分程度の映像は、2014年発表の靖国・地霊・天皇と、2020年発表の『遠近を抱えて』との2つの映画作品がカットされ組み合わされたものである。戦時中の音声や血を思わせる暗い映像から、途中で急に現代の若い女性の住まいに切り替わり、視界がクリアになるのはそのためだ。若い女性は、従軍看護師がインパール前線へ出動する前日、母親に宛ててしたためた手紙を読み上げる。

冒頭、中盤、終盤で昭和天皇の写真がバーナーの炎に焙られて燃やされるのだが、「お写真を燃やした」と喧伝されているほどは分かりやすくはない。素材が普通の紙ではないらしく、メラメラと燃えてクシャクシャと灰になるものではない。写真と炎との間に一定の時間が滞留して光となっているのだ。炎は時間をかけながらゆっくりと、黄金色に光り輝く。昭和天皇の顔が包まれ、光に還っていくようにも見える。

大浦はこれを自分自身の内面における天皇の昇華と説明している。昇華という意図はその通りだ。しかし、画面に写り込むガスバーナーのノズルは、聖なる意味づけを排する強烈な行為性を示している。このアンビバレンツが魅力なのだと思う。

 

 

慰安婦

大浦信行《遠近を抱えて PartII》とともに「表現の不自由展」の屋台骨を支えているのが、キム・ソギョン+キム・ウンソン《平和の少女像》。正式名称として「慰安婦像」という呼称は否定している。このへんは表現を用いた政治的な運動との兼ね合いがあるようなあれで深入りしません。日本政府は2017年2月以降、少女像の呼称を「慰安婦像」で統一。

 

「あいちトリエンナーレ」と同様に、隣の椅子に座って記念撮影をすることができる。人気があり、入れ代わり立ち代わりで撮影する観客ら。

 

生で見たら、なんか顔の感じが、行き場のない女性らをシェルターする今話題のアクティビストにめちゃくちゃ似ててびっくりした。目がいがんでんのかな私、

 

この少女像については、はっきりいって日韓関係のありようで意味が極端に変動する。韓国政府が日本叩きキャンペーンを加熱させ、元慰安婦被害者団体の活動を後押しすれば、本作は政治・外交のパワーそのものになる。逆に、過去は過去・今は今でうまくやっていきましょうとなれば、本作は素朴な彫刻作品になる。「少女像」という名前も含めて本作はそこをうまく戦略的に用いたプロジェクトだと思う。浅はかなモノの見方ではあるが一市民からは、本作はそのような存在として映る。

 

ミニ銅像も含めてこれらのセットは定番。

 

加えて、《消される彼女たち、偉大な女たち》という葉書サイズのCG絵が多数展示された。

平和の象徴としての「おばあさん」たち、ということだ。平和とは何なのかという問いがありますね。望ましい平和状態を勝ち取り、維持する闘争みたいなものだと解しました。

 

 

◆その他:絵画、絵本、彫刻など

その他の様々な作品について簡潔にレポしておきます。

 

前山忠《反戦》シリーズ。

前述のとおり、入口を入ってすぐの壁面がこれで、迫力があった。いい構成だ。緊張感がある。60年代学生運動の頃は日本中がこの熱気だったのかと思うと、熱を持てない人間には地獄のような…。私、持続力ないんで・・・。

 

1971年の「第10回 現代日本美術展」で、鑑賞者参加型展示としてカンパ箱を置いてたら、美術館の管理運営規則に違反として撤去されたらしい。けっこう古い話で驚いた。昔だから何でもやってよかったわけではなく、どこまでが表現かというせめぎ合いは今日までずっと続いているようだ。

 

 

いちむらみさこ《表現の不自由展 消されたものたち》、今や見慣れたロゴだが、初出は2015年。まさに今みている「表現の不自由展」がそこから始まったようだ。

 

日本の戦時中の暴力を訴える絵画作品は今回初めて見た。

 

姜徳景《責任者を処罰せよ―平和のために》、なんかすごい糾弾の絵。まさかこれ昭和天皇? 作者は韓国にある慰安婦被害者シェルターで暮らし、1995年に制作、1997年2月死去。死してなおより強い念・・・ 念能力みたいな作品である。さすがにこれは、個人の内面の訴えとしてはいいとしても、「表現」として表に出すのは意味が異なってくる。「あいつ殺したいから殺す」と公言することは「芸術」ではない。だが「表現」として意味を帯びるとすれば、それは「殺す」対象が公的な、非常に政治的な存在であり、殺すことが政治的闘争の勝利に結びつく場合だ。本作がここに掲げられている意味はそのへんにあるだろう。構造の理解はするが共感はできない。

 

同じ作者、《奪われた純情》(右)、《梨をとる日本軍》(左)。表現力の豊かさと性暴力の実感のえぐさがすごい。特に若い女性を梨に喩えて描いているのは見ていてけっこう精神的にくる。この実感のこもった表現はなかなか。。。 

 

クォン・ユンドク《<花ばぁば>1 苦しまないで》。

韓国の絵本作家第一世代を代表する作家の一人という。日本軍の慰安婦被害を題材とした絵本。

 

 

従来の展示品の一部が、これらの慰安婦被害関連の絵画へ差し変わったことで、展示全体のテーマが「女性の表現」というより「反日」、日本の戦争責任追及の訴えとして映ったのだった。

 

趙延修《償わなければならないこと》。こちらはお馴染みの巨大な絵画作品。『ひとりの高校生が、いわゆる日韓「合意」を知って、日本軍「慰安婦」の「被害者達の尊厳はどうなるのかと憤りを感じ」(趙)、一枚の絵を描いた。』というもの。

ポップな絵柄に、白いボンドのような粘液質の塗りが、変な質感を与えていて、生々しいのが良いと思った。

本作の場合は、単体として規制されたのではなく、本作を含む地域アートイベントが政府批判を含むとして、千葉市補助金交付取りやめとなったという。日韓関係に言及すると色々あるわけですね。

 

 

最後は定番の大型彫刻作品。

白川昌生《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》。

群馬県立公園「群馬の森」に立つ朝鮮人強制連行追悼碑」をモチーフとした原寸大再現作品。2004年4月に県の許可を得て公園に設置したが、2014年7月に県が撤去を求め、長らく裁判で争っていた。

2022年6月、最高裁が市民団体の上告を棄却し、「県の不許可決定は適法」と認めた。新聞によると、政治的行事を行わないとの条件付きで設置を認めていたところ、追悼式で「強制連行を認めない」と発言があり、それが政治的主張にあたるということで判決に至ったらしい。

 

最高裁で判決出てしまったので、これは本当に撤去される流れになるが、どうなるのだろうか。群馬県遠いからなあ… 見に行かれへんなあ、、、

 

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展示レポは以上です。作品とラベルを撮影して、《遠近を抱えて PartII》を通しで見て概要メモったりしていたら、鑑賞時間50分はあっという間です。たいへんや。「表現の不自由展 東京」図録を入手できたので、レポ作成にかなり役立ちました。フー。

 

観終わったら別の通路を通って、裏口から退出。建物越しになんか拡声器でがなってるっぽい声が聞こえるが、不明瞭で内容わからず。あついし、入口側に回り込むのもだるかったので、そのまま移動しました。ジャーナリストになれそうにない私。暑かったですからねこの日。

建物裏側はこの状況。やはり凶悪犯が立てこもってるぐらいの勢い。

 

表現を見に来たのか警察を見に来たのかよくわかりませんが、警察祭りでした。まあ何事もなくて良かったです。平和にやりましょう平和に。争ったり憎み合うのめんどくさいんですよ。

 

やはりコラージュ作品にせよ絵画にせよ、「写真」が動員されると指示対象へ直接言及できるから、説得力があるなあと思いました。説得力は命より大事。命は大事ですけど。

 

( ´ - ` ) 完。

 

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注:

本文中、天皇陛下の呼称を「天皇」と一般名詞として突き放して表記してる箇所が多くありますが、過去にこのことで「不敬である」「失礼にあたる」とわざわざ言ってくる輩がいました。どっちが失礼にあたるのかよく分からないし、大麻でも吸っとけと思うのだが、そういう輩はだいたい大麻も吸わず、さりとてせきどめシロップを大量摂取するわけでもなく、くそ真面目に気分を害する側に回るばかりなので、もし気分を害された方がおられましたら、なぜ気分が害されたように感じるかの内面の仕組みを辿っていくと、それが本展示のような様々な作品の読解の糸口になったり、何ならご自身の作品制作のテーマになったりしていくと思いますから、ぜひ深堀りしていただきたいと思います。え? めんどくさい?? 大麻吸ってろボケ(  ╹◡╹)