nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」閉鎖後の展示変更(2)@愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、豊田市美術館など

「あいちトリエンナーレ2019」、「表現の不自由展」閉鎖に対して抗議を表明した作家らの動向について、閉鎖の前後で展示内容がどう変わったかをまとめる。パート2では、愛知芸術文化センターの残りと名古屋市美術館豊田市美術館円頓寺豊田市駅についてレポート。 8/29~31に再来した際の状況を、8/3時点と比較している。ただし芸文センター以外は8/3に鑑賞しておらず、現状のみの報告となる。

 

 

 

 <パート1>

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1.愛知芸術文化センター(10F、B2F、その他) 

(ナンバリングは(1)からの続き)

⑧A07_クラウディア・マルティネス・ガライ《・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・》:展示内容の変更・一部中止

◆8/3時点 

( ´ - ` ) みんぱく国立民族学博物館)のコーナーみたいな展示。な、なにこれ…?

オブジェ群と映像の2つから構成。民俗学ですなあ。

解説では『陶製の器、壺、とうもろこし、人間の手足といったオブジェは、作家が制作した人工物(人の手で作り出された土着的な工芸品)です』。南の島の発掘物のような物体と、手足など体のパーツのはりぼてが立ち並び、これ現地の神話か何かですかね。死後も流転して消滅しないとか。

映像については『風景に似せた陶器の表面をカメラがなめるように移動し、そこにある人物のモノローグが重なっていきます。1200年以上前に犠牲となったその人物は、作家が人工物のリサーチをしている過程でたどり着いた実在の男性です』とのこと。こちらは、撮影禁止だったので記録がない。内容は先に書いたように、風景っぽい何か抽象的な映像と、人物のモノローグが流れ、抽象的な映像だった。いつ終わるか分からなかったので早々に切り上げた。記憶にも残っていない。

 

作家はペルー出身であるため、その歴史と植民地主義の影響に着目している。『戦争やテロに利用された図像や、ヨーロッパが侵略する前の伝統的な南米の工芸品や儀式を思わせるモチーフを、複製/変形/解体/再構築した作品』を発表する作家とのことなので、これらはペルー古来、元々の文化や世界観を表していると思えばよいだろう。

 

◆8/29~現在

 オブジェ群はそのまま置いてあるが、照明が消され、よそよそしく立入禁止の柵が施されている。まるでこの一角は展示ではないかのようだ。その先の映像コーナーは完全閉鎖。

『十分な安全対策が取られ、全ての展示会場が観客のために再開された際には、この作品も再び展示されます。』

つまりこのマルティネスの作品は「表現の不自由展」再開だけでは足りず、他の展示も全員再開しないとだめっぽい。

映像コーナーにも柵が設けられている。その先はこの通り、閉鎖。写真の記録が残っていない映像作品は、思い出すことなど出来もしないので、個人のレベルでは事実上なかったことになってしまう。せめて個人利用に限り撮影可を推進していただきたいものだ…。

 

 

⑨A06_ウーゴ・ロンディノーネ 《孤独のボキャブラリー》:変更なし・展示継続

 一時は展示中止の抗議に名乗りを上げていたが、その後どういう経緯があったのか、展示が続いている。説明書きにも『ウーゴ・ロンディノーネは、展示を継続することになりました。』と書かれている。よかったですね。

このピエロ45体が消えたら、今回のあいトリの主力となるキービジュアルが消えて、企画の芯を失うような事態になるだろう。再来してみて、やはりこの道化師だらけの空間は、異質さと穏やかさが併存していていいなあと実感。

( ´ - ` ) じわじわくる。

 

これ人間そのものですやん。ヒトの写し鏡。

 

これは撤去したら絶対あかん。あいトリ2019がこける。

アートを知らん人でも、等身大のピエロらの佇まいは感じ入るところがある。撮影しSNSに投稿する面白さもあるし、めいめいの表情、ポーズを巡って、感情移入する相手を探す面白さもある。アートを齧っていれば、人を模した彫刻として見たときに、例えばジョージ・シーガルや、マーク・クイン、ジャコメッティとの違いについて考えるのも面白い。道化師というモチーフを見たときには、絵画史において初期ピカソなどの関連が考えられる。サブカルで言うなら映画の「IT」や「ダークナイト」(バットマン)のヴィランとの違いが思い起こされる。等々。

だが理屈抜きにして彼らのリアリティにじみ出る風体は、魅力的だ。どこか翳を湛えた横顔は、思わずのぞき込んでしまう。彼らの存在感の1/3か1/4は、こちら鑑賞者の分身なのだろうか、自分自身を見ているような錯覚を覚えた。

 

 

⑩A04_レジーナ・ホセ・ガリンド《LA FIESTA #latinosinjapan》:展示内容の変更

 ◆8/3時点

10F会場に入って早々、2つ目のフロアで登場する。当初は壁面で映像を展開、手作りの賑やかなパーティーのようすが流れていた。 

作者はグアテマラ出身で、映像は名古屋在住・ラテンルーツの外国人労働者を招いたパーティーの様子だ。供される飲み物、食事もラテンのものだ。ラテンアメリカの範囲が良く分かっていなかったが、メキシコ以南、スペインやポルトガルの文化を背景とする国々を指すらしい。この「労働者」というキーワードは他の会場、特に豊田市での展示において関連する作品があり、全体を通して関連が見えてくる。しかし楽しそうな動画だった。この時はまたじっくり見ようと思っていた。

 

◆ 8/29~現在

( ゚q ゚ ) うわあああ。

 

 

( ´ - ` ) 襲撃でも受けたのか。 

 

じっくり見ること叶わず。あかん。無残や。 

パーティーの交歓の様子は微塵もない。照明も落とされて薄暗く、床にはパーティーから引きちぎられた飾りつけが散乱している。展示そのものを床に叩き付けた、作家の怒りがしのばれる。最大限の皮肉と言うべきだろうか。

作家としてこんな展示は望んでいないことは、コンセプトからも明らかだ。ラテンのルーツを持つ人と言っても、日本で生活することとなった背景や日本との関わり方は、一括りには出来ない。そんな人達を一堂に会して、交流を図った会である。注:作者が主催しました。

それが、この有様だ。表現の自由を侵害、抑圧されたことに対して、「お前たちのやろうとしていること、やったことは、つまり、こういうことだぞ」と、最大限の皮肉を以って示したように感じた。人の輪を断ち、それを結ぼうとしてきた努力を水泡に帰させ、分断をもたらした。それが今回の現状であるという告発。素晴らしかった。

 

 

⑪A35_ピア・カミル《ステージの幕》:展示内容の変更

 オアシス21との地下連絡通路から芸文センターに入ってくると、地上階の天井まで大きな吹き抜けになっている。そこにはお化けのように黒い布が吊り下げられている。バンドのTシャツを繋ぎ合わせた巨大なコラージュ作品だ。 

これらはメキシコ人の作者が、自作のオリジナルTシャツを元手に物々交換によって得たバンドTシャツだ。知らないバンドが多いが、メタリカやアイアンメイデン、クィーンなど、日本でもおなじみの超メジャーバンドも見受けられる。世界中でこれらのロゴが流通していて、限定的ながら物品との交換を可能にするということは、貨幣の幼体を見ているような気分になる。

一方で、スピーカーが埋め込まれたこの集合体は、着る者のいない=実体のない、お化けのようでもある。ボルタンスキーのような霊的なものではないが、シャツの域を超えている。

 

◆8/29~現在 

作品自体は相変わらず吹き抜けを占拠しているのだが、マイナーチェンジが施され、作品の裾が上に引き上げられている。変更が地味なので、特に違和感がない。初見の観客には、これでも本来の姿と映ったのではないか。内蔵されていたスピーカーがむき出しになっていて不細工だったりはしますが。

何せ巨大すぎる宙吊り作品なので、これ以上の変更を加えることが危険だったのかも知れない。もっと深い意図があるかもしれない。作者の狙いは分からないが、これもまた抗議の形。

  

 

⑫A11_田中功起《抽象・家族》:展示の再設定

◆8/29時点

非常に大きなフロアを占めたインスタレーションで、本会場のメイン作品であることは言うまでもない。MAPを見る限り最大規模の割り当てである。小部屋も合わせて3部構成となっており、オブジェ、抽象画、写真、そして合計で約1時間50分となる3本の映像を展開している。端折りながら観ても1時間はゆうにかかった。

映像には4名の出演者が登場する。それぞれボリビア朝鮮半島バングラディッシュ、ブラジルにルーツのある親を持ち、日本で生まれたり幼少期から日本で住むなどし、日本語を使い、日本の環境で育っている。彼ら彼女らは一軒家や演劇的空間の中で、それぞれのルーツ、個人的な思い出、家族についての考えを述べ合う。

正解も道筋もない対談の様子を聴いていると、まさに自分探しであった。「家族」は、正解があるものと思い込んでいた。実は、極めて抽象的なものだった。一人一人でその形も在り様も異なり、置かれてきた文化や制度、土地柄、親との関係によっても異なる。「家族」を語ること、聴くことは、抽象画――手探りで自分の内にあるものを描き、塗るという行為、に近いのだと知った。例えば幼少期の家族のエピソードや、小学校の頃に周りの子と違和感があった等の思い出話が具体的であればあるほど、見ず知らずの町の路地に迷い込んで出られなくなるような思いがした。行先のなさにクラクラとした。

だから抽象画なのだ。4人がそれぞれに語り、掴んだ「家族」や「自分」の印象なのだろう。会場内には抽象画が大きく貼り出されている。映像のやりとりを聴いていると、やはり抽象画でしか語りえなさそうだということを思い知る。

 

<パート1>

 

 <パート2>

 

<パート3>

 

◆9/3以降

鑑賞できていないので、動向のまとめだけ。

8/25付けの公式サイト・ニュースにて、展示の「再設定」の公表があり、9/3から展示形態が変更された。具体的には、展示室への立ち入りが出来なくなり、半分開いた入口から部屋を覗き見るだけになったとのことだ。8/30時点の係員の話では、会場内の3つの映像作品については、Webから観られるようにする考えもあるとのことだったが、入口で配布される「来場者への手紙」に動画へのURLが記載されているようだ。

長い時間、映像を観ている観客も多く、時間をかけてじわじわ「分かってくる」展示であっただけに、事実上の閉鎖は残念。家で動画を観ても、会場の臨場感には程遠い。

 

<★link>展示の再設定を報じるニュース(CBCニュース)

 <★link>公式サイト_ニュース「田中功起氏の展示の「再設定」について」

aichitriennale.jp

  

 

2.名古屋市美術館

⑬モニカ・メイヤー《The Clothesline》:展示内容の変更

◆8/29~現状 

( ゚q ゚ ) 襲撃にでも遭ったんですか

 

 

公式サイトには設置当初の写真があり、比較するとこの異様さが分かる。

<★link>公式サイト

モニカ・メイヤー(N04) | あいちトリエンナーレ2019

 

本来は来場者が机上のピンクの紙をとり、4つの質問に対して「声なき声」を上げ、展示に参加するものだった。女性として差別をされたと感じたことはあるか、どんなセクハラ・性暴力があったか、それをなくすために何をした/するか、本当はどうしたかったか。

ロープには、今年6月のワークショップで寄せられた回答が掲げられていたが、全て外された。質問用紙はビリビリに破られて、桜吹雪のように散ってしまった。作家の深い怒りがぶつけられている。レジーナ・ホセ・ガリンドが床にパーティーの飾りつけをぶちまけたのと同様のもので、今回の「表現の自由」を巡る世論の動向、そして運営側の「表現の不自由展」閉鎖が、「声なき声」に耳を傾ける機会を破壊したことを指摘し、強く抗議している。やっぱり日本は言論の自由が保障されていない国なのだろうか、と、日本人の私すらも、よく分からなくなってきた。

作者は1978年から40年以上に亘ってこのプロジェクトを世界各地で行ってきた。壁のパネルには各国での取り組みを見ることができる。 

なお、同館B1Fでは、「アート・プレイグラウンド つくる CREATE」にて、作家同意のもと、本作のスタイルを転用した子供向けワークショップが行われ、その回答が提示されている。 

「Q 子供として、嫌だな、と感じたことはありますか? それは何でしたか?」という問いに、子供たちが素晴らしい回答を寄せている。参加している年齢層が幅広く、かなりしっかりした回答も多かった。一番痺れたのは「親が嫌」という直球の一言だった。うむ。それはどうしようもないですね。いやあマジでかっこいい。がんばってくれ。

 

 

3.豊田市美術館

⑭レニエール・レイバ・ノボ《革命は抽象である》:展示内容の変更

◆8/29~現状 

元を知らないので、これが正規の展示だと言われてもあまり違和感がなかった。 

これらの展示物も抗議の意から見せ方が変更されている。新聞紙を巻いたキャンバスは、元はアーカイブ写真からカストロ毛沢東など、権力者の姿を消し去った作品だった。”検閲によって作品は見られなくなりました”ということだ。作品の代わりに提示される新聞の紙面には「表現の不自由展」を巡る騒動、閉鎖に関する話題と、「京アニ」放火事件に関する話題が並び、「表現」が脅かされている現状を鋭く伝えるものとなっている。

そして床に埋まった巨大な黒いオブジェは、元は「労働者とコルホーズの女性」という巨大な像の一部をモチーフとしたもので、銀色の槌と鎌だったが、黒いビニールが巻かれている。”検閲によって作品はゴミになりました”ということだ。

 

作品を伏せて新聞を提示する、それだけで現在置かれている事態の異様さと、問題の大きさが分かる。タイムリーなカウンターが見事だった。あいちトリエンナーレに初めて来た人にも、事の経緯が分かる。以下は、展示されていた紙面の一部である。

僅か1ヵ月足らずの間にこんなに多くの出来事が起きていたのか。時間の流れがいやになる。分かっているようで、分かっていない。それでも毎日は、やり過ごせる。えも言われぬ感情がした。無常観とでもいうのか。無力感か。  

 

あと彫刻作品はアホほど巨大なので、社会主義国ソ連)の思想や発想のスケールがやばいことが分かります。人民とは何か。 

 

原寸がヤバすぎる。でも牛久大仏みたいに「珍!」「珍なり!」って喜んだらたぶん怒られたんでしょうね当時。これ珍ですよ。思想や主義は斜めから見ればハイレベルな珍である。でもまたいつか権力として降りかかってくるか分からない。珍だ珍だとさわいで脱権力し続けましょう。

 

 

4.円頓寺本町商店街

⑮毒山凡太朗_アーティスト・ラン・スペース《多賀宮 TAGA-GU》《サナトリウム》:新規開設

毒山氏は新たに、議論・交流・展示スペースを自主的に設置した。一つは8/22、円頓寺エリア・本町商店街の神社・多賀宮境内にてオープンした多賀宮 TAGA-GU》である。もう一つは、商店街から一つ北の筋にある元・飲食店を使ったサナトリウムで、8/25にオープニングの討論会が開催された。

 

作者は「表現の不自由展」閉鎖に対する8/6付けのアーティストら連名によるステートメントには加わらず、その文言において疑義があったことから、個人にて8/20付けで意思表明を発表した。作者本人と円頓寺本町商店街の住民らとがキュレーションし選択した作品を展示し、広く議論を行い、自由な発言のできる場所を設けることが掲げられている。

私がこの表明文に出会ったのは、偶然であった。多賀宮の境内に目的もなく涼みに行っただけで、ストロングゼロ片手に、賽銭を投げ入れようとして、変な隙間に落とし、拾おうとしても指が入らず、しゃがんでわたわたしていた。やばいジャンキーであった。完。

 

その時はこの表明文以上の情報は特になかった。不定期で何かのイベントをやるんだろうな、ぐらいの気持ちだった。境内は賽銭箱以外に、2017年の時の映像作品《戦争は終わりました》のパネルしか見当たらなかった。

多賀宮はかなり細長い神社で、あまり人が集まる印象はなかったが、社務所の1F・2Fを会場として活用するらしいことが後に分かった。

サナトリウム》のことも、その時点では何も分からなかった。こうして書く段になって調べてみると、加藤翼とともに開設したこと、他のアーティストらも巻き込んで展示を行うことなどが分かった。

 

《戦争は終わりました》も、どちらの会場かは分からないが、また上映されているらしい。この作品は横浜トリエンナーレ2017で鑑賞した。沖縄のあちこちを回って「みなさーん!! せんそうはもうおわりましたー!!」と叫んで呼びかけるもので、沖縄の現状と併せて見たとき、いや、すんません、終わってない気がしてきた、と、何かそら恐ろしい響きを伴ってきたものだ。また観たい。

 

 

 

5.名鉄豊田市駅

⑯小田原のどか《↓(1946-1948 / 1923-1951)》:一部展示取り止め

アーティストによる連名の抗議ステートメントに名を連ねてはおらず、公式サイトでも時に触れられていないが、展示の一部を取りやめたことが会場にてアナウンスされていた。

作者は8/6以降、3部作であった《彫刻の問題》の1枚:ソウルの《平和の少女像》に関する写真を、総監督、キュレーターとの協議の上で取り止めている。

その理由は「表現の不自由展」に対する攻撃、危害予告を鑑みて、『もしもネット(とくにTwitterなどソーシャルネットワーキングサービス)で画像が拡散された場合に、「ここにもまだあるではないか」と再び攻撃の対象になることが想像され』たためとしている。

先日のNHKクローズアップ現代」でも報じられたが、暴力沙汰を仄めかしたり、高純度のガソリンを散布し着火しますとの予告が実際にあり、いつどこで誰が何をしてくるか分からない状況にあったため、会場の豊田市でも市職員が見回り、警備に当たっていたという。反対意見やクレームの域を軽々と越えていて、もう議論を試みる余地がない。「表現」に携わる現場には、取りようのない規模の責任がつきまとう事態となってしまっている。

 

小田原氏の作品とその取り組みは、非常に科学的である。この部屋だけでなく豊田市エリアには複数の展示があるが、全て、社会に置かれる彫刻なるものが、その時々の権力の意向や社会情勢によって目まぐるしく変容してゆくことを、歴史的・地理的資料を基にして考察し、成果を発表するものである。これがもし炎上の標的になるとしたら、この国の教育制度や文化・学術機関は全部終わりである。大学進学の意味など、就職先への繋ぎでしかなくなり、後進国だと言わざるを得なくなる。そのような危機感を持たされた展示だった。

 

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なにやら収まらない想いがする。

 

小田原氏の危惧する「”ここにもまだあるではないか”と次の対象を発掘して回る感覚」は、まさにTwitter社会を支えている「正義感」を見事に表している。むしろその「正義」の発動機会を担保し育む土壌として優秀であるがために、TwitterFacebookinstagramよりも広く活発に用いられている感がある。

この正義の運動力は、例えば2015年夏、東京五輪エンブレムのデザイン案に対するパクリ疑惑の追及において、Twitter民が総力を挙げてデザイナー・佐野研二郎にまつわる疑惑を、過去の仕事を掘り返しては次々に挙げていった事件などを思い起こさせる。最終的に、デザイナー界自体が閉鎖的なお友達構造であったことを指摘したり、デザイン案も白紙撤回に持ち込んだりと、社会的に響く成果を得た事案であった。「デザイン」という、門外漢にはよく分からないものへ反感を抱いた構図は、表現・アートを巡る話でも似ている。

その他にも当時、新国立競技場のザハ・ハディド案への疑義、築地から豊洲への移転問題への疑義など、時期的にもTwitterを用いて個々人の疑問や怒りをぶつけることがより身近になっていた。バカッター投稿を糾弾して犯人を晒すに留まらず、より公的な感覚、疑義の訴えとしての場が熟成されていった過程ではなかったか。Twitterはもはやツールではなく、それ自体が社会として「正義感」を孕むものへ成長し、この数年で一定の正当性を獲得したように感じる。

 

Twitterに代表される場を感情社会と呼んでみると、「表現の自由」とは根本的に相容れない部分がある。全ての立場の人間が等しく満足し納得する「表現」など元来ありえず、むしろ社会や一般民間人が隠蔽したり黙殺していることに目を向け、指摘することが「表現」の生業でもあるからだ。「表現」の度合いを強めれば誰かの耳や目に痛い「主張」となり、「主張」を更に突き詰めてゆけば大きな話に至って政治的傾向をも帯びるだろう。政治を回避すれば力の矛先は死やエロスやグロみへ偏らざるを得ない。何にせよどこかで快・不快の分界線を跨ぐことになる。それは感情を紐帯とし、参加の根拠とするTwitter的な感情社会においては、致命的なヒビや不協和音をもたらす。

「表現」を可能な限り、フラットに平等に観客側へ渡すのは、至難の業だ。なので議論とか対話とかを試みる以外にないのだが、対話と理解のコストーー「気持ちのコスト」は、結構馬鹿にならず、何ならあらゆるコストの中でも上位に来るぐらい、民にとっては重い。それを日常的に成しうるには、私たちは根本的に疲れているのかもしれない。欧米人とは違って「気持ちのコスト」を払うような教育を受けていないのかもしれない。

そんなわけで「感情」、分かりやすく言えば「お気持ち」が最高位の存在根拠で、「表現」を向けられて「お気持ち」が揺さぶられた際には、とりあえずキレてチャラにした方が勝つ、という、クレーマーの怒鳴り得、みたいな発想も蔓延する。ノーコスト・イズ・ジャスティス。しかし初手から「ガソリンを撒くぞ」「撤回しろ」とガヤられるのでは、もうお手上げである。コストを端折りすぎである。企画展や、アート自体を疑問視する層も一定数いるのも分からなくはないが、初手が悪手すぎるのだ。

 

とにかく「感情」から発せられる「正義感」は、怖い。かく言う私ですら、8/3に「表現の不自由展」を鑑賞した際のレポートをblogに書いた時は、これまでにないプレッシャーの中で、慎重に言葉を選びながら書いた。不自由展潰しが最も熱く盛り上がっていた時期だったため、いつ誰がどのような角度から焚き付けの材料として火を付けに来るか、全く想定できなかった。盛り上がりようによっては容易に遊ばれて潰されるだろうと思った。幸い何事も無かったが、現場のスタッフや作家らの緊張感はその比ではなかったことをお察しする。

 

こんな要請が聴こえてくる気がする。”「表現」は人を不快にする恐れがあるし、実際不快なので、無限に責任を負うべきだし、生活や心身への危害も受忍せねばならない、それが「表現の自由」の代償なのだ。現在の状況は、改めて、異常だと言わざるを得ない。太平洋戦争はもう終わったはずだが、ネオ隣組のような感性がTwitter社会に生きている。隣国との戦後補償のごたごたは置いておきます。それはそれとして。

ターゲットのプライバシーを暴いて拡散したり、電話受付や会場の誘導員を恫喝したり、暴行や放火をちらつかせるのは、果たして民の本懐なのだろうか。それを見事に成しえたとしても、日韓関係のこじれも、日本経済の低迷も、勤め先の理不尽な労働環境も、個人の生活苦や心身の不具合も、何一つとして解決しない。

しかし感情社会では、その瞬間の感情を通すことと、その瞬間に盛り上がっているグルーヴ感に乗り、絶やさないことが至上命題となる。本来、展示や作品に対してモノを申したいのなら、お互いの「表現の自由」を担保した上で抗議を行うべきである。しかし、おらが「感情」の尊重こそが最優先にあるため、「(私/私たちを不快にするような)表現の自由は抑制されるべきだ」という線引きの議論から入らざるを得なくなる。

これは初手から間違え過ぎている。何故なら、飛躍を恐れずに大局的に言えば、権力を持つ側にとって、自由を規制するほうが楽で都合がよいからだ。また、一度設定した規制を緩和、解除するためのコストは膨大なものになり、事実上困難なため、権力側の優位性を維持する結果となるからだ。目先の不快感や怒りを理由に、表現の自由を憎み、やり玉にあげ、現場の人間を糾弾する手法は、後で後悔する事態を招くための呼び水にしかならないだろう。

「気持ちのコスト」を払って、その先の段階(=一旦考えるとか調べるとか対話とか議論とか)へ行くための訓練が要るのだろう。そのためにアートは少なからず役に立つ。対話や議論や考察、あるいはエンタメの要素を織り交ぜ、色んな立場の民が摂取できるように、苦心して練り上げられているからだ。それを目に口にするぐらいの「気持ちのコスト」は、支払っても良いのではないか。燃やす前に。

 

 

長くなってすいまへん。何か刺激された。

いやまあ、一言でいうと、仲良くやらへん? ってことです。ガソリンは車に飲ましてや。人に向けたらあかん。

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以上で、8/4以降に展示変更のあった作品についてのまとめでした。まだ見落としがあると思いますが、ひとまず。

同時多発的に出展作家が展示内容を変更したり、展示中止になっていたり、他のアートイベントでは今まで見たことのない「動き」があります。それはすなわち「この現状はけっこうまずい」という話に繋がっています。作家の生の怒り、現状のまずさを知りたくば、あいちトリエンナーレへどうぞ。

 

 ( ´ - ` ) 完。