nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R3.4/10_「ピピロッティ・リスト あなたの眼はわたしの島」@京都国立近代美術館

体当たりで触れて歩いて観る展示、ピピロッティ・リスト回顧展。美術館3Fの全室にカーペットが敷かれ、一つの繋がった空間としていて、鑑賞者は靴を脱いで、カーテンで区切られたセクションを巡る。それはリストの映像作品の中へ入り込んだような体験である。

その世界観は「女性」「フェミニズム」の枠組みを軽々と超えていて、性そのものや、地球・自然と人間との関わりなど、命について広く物語る。

 

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【会期】2021.4/6(火)~6/13(日)

 

 

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地球という生命体の内部へ潜行してゆく感覚。地球の体の、更にその奥へ潜れ。世界を構成している命のそれぞれの奥へと潜れ。

 

 

◆前書き的な。

2020年10月に予定されていたこのピピロッティ・リスト回顧展、延期されて、無事に4月の開幕となった。今、新型コロナ感染拡大の真っ只中ですけどね…。(注釈:鑑賞後の4/12より、京都府から「まん延防止等重点措置」が京都市を対象に発令された) 

まあ美術館って人も少ないし誰も喋らないし手も触れないんで、感染源にはならないと思いますが。みんな来やんだろ現代アートとか現代美術とか映像作品とか。どうせんみんな行かへんだろ(怒り出す)。行けよ(こぶしをふりあげる)。

 

さて

ピピロッティ・リストの名は「瀬戸内国際芸術祭」や「横浜トリエンナーレ」「PARASOPHIA(京都国際現代芸術祭)」など、これまで様々な展示を通じて知っていたが、「映像作品の人」という印象のみで、謎が多かった。体系的に観るのはこれが初めてとなる。

 

私におっては2015年の「PARASOPHIA」が私にとってのピピロッティ初体験だったかもしれない。これは凄かった。昭和の小さな部屋、堀川団地の一室で、自然と人間が溶け合う映像を見つめながら宇宙観を得たのでした。

 

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浮遊感が凄かった。Dive and 浮遊。 身を投じて生命の原初イメージに入っていく。

 

今回の所要時間は2時間ほど。想像していたのは、東京都写真美術館の構成のように、作品ごとに間仕切りがあって、映像作品がひたすら続いて、順番に20~40分ずつ見ていく形式、というものだったが、実際には全身を音や光に浸しながら漂うように体験する作品が多く、フロア全体が途切れずに、こちらを包み込むように出来ていた。

 

なお本展示は「写真・動画撮影OK」という、かなり珍しい、寛大な扱いとなっていて、後に手元で作品を確認するのにたいへんありがたい企画となっています。ピピ様を調査・研究してはる人は必見です。

動画映像作品って、写真で記録してもやっぱり全然違うんで、セリフとか音とか間合いとかありますやんか、総合体験のメモって動画でないと無理なんです、だから超ありがたくて泣きました。えっえっ(泣く)。

 

 

◆屋外、入口

美術館に近付くと何かが吊り下げられていることに気付くが、それが下着だと飲み込めるまでにはしばし時間を要した。

 

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( ´ - ` ) 下着やないか。

 

どう見ても下着、

 

《ヒップライト(またはおしりの悟り)》(2011)、洗濯物を干すようにして無防備に白い下着が吊られている。照明器具とセットになっているので、おそらく暗くなると光るのだろう。「下着」とか「容器」は重要なモチーフとして他の作品でも登場する。

どこかコミカルに性を扱うが、断定的な意味までは見せない。リスト作品を一言で語りづらいのはそのためだ。白パンツが宙に掲げられている、それは女性の解放がどうのというよりドラえもん的な光景だ。

 

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券売ブースも特別仕様。会場全体がキュートに仕上がっていて、気合が入っている。

 

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気合がある。まゆまろ京都府観光監)の紫と今回の企画のカラーが合っている。いいなあ。あんたこの日のために生まれてきたんちゃいますか。

 

 

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会場の構成をMAPで見ておきます。作品番号は制作順のため展示順とは違っていて、地図も1~3Fが一緒に描かれているのでややこしいですが、回っていれば見終わります。以下、作品解説のナンバーはこの地図に対応。

 

 

◆1Fロビー

正面玄関から真っすぐ先の壁で、映像が流れている。

 

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( ´ ¬`) うわあ。なに。

 

ベロッベロッ。

 

【No.13】《OPEN MY GLADE(わたしの草地に分け入って)》(2000)、作者(たぶん)が顔をガラス面に押し付けて様々な角度からひしゃげる。本展示のポスターにもその顔が使われている。顔のパーツ一つ一つ、唇や鼻や目の大きさや厚みが大きいせいもあって、肉厚の器官が別の生き物として蠢いているように見える。顔全体の動きから幾秒か置き去りになりながら、追随してガラスから離れ、また寄せて返す上唇、下唇。

9分52秒もあり、ずっとは観ていられなくて早めに切り上げてしまった。顔を絵筆として用いて何かを描いているのではない。進出を阻む見えない壁に対する告発? 分からない。体の一部を極端に、それが何か分からないほどクローズアップして映し出すやり方は、他の映像作品でも共通している。顔にまつわる意味、性的な、外部から与えられた枠組みをミキサー車のように混ぜて溶かしているとも見える。

 

【No.14】《I NEVER TAUGHT IN BUFFALO(バッファローで教えたことはない)》(2000)は、この映像を取り囲む壁面のデジタルモンタージュのことのようです。ただのラッピングのデザインだと思ってた。ちゃんと見てません。。

 

【No.13】《SELBSTLOS IM LAVABAD(溶岩の坩堝でわれを忘れて)》(1994)

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《OPEN MY GLADE》を上映する壁面の手前に敷かれた赤いカーペットだが、一部に小さな穴、タバコの焼け跡のような穴が開いていて、そこに映像が流れている。音はけっこう大きいので、目録をチェックしていれば気付くと思うが、すぐ階段を上って3Fのメインフロアに向かった人は観ていないかも。

これも通しでは観ていないが、全裸の青い女性が何か叫んだり暴れたりしている。背景は燃え盛る星のようで、何だか分からないがエナジーの坩堝、怒りとも生衝動ともつかない。

 

自身の全身を、自己の手からも、社会のルールからも手放して、既存の手続きにはない動きを取らせたり、求められていない角度から体を見せるので、マリーナ・アブラモヴィッチとの関係を考えたくなった。全く違うんですけどね、真逆というか。アブラモヴィッチのように個人の身体の内側へと引き受けず、リストは逆に大きなもの(ビデオアートの文体とか地球生命とか)の内側へと投入させていく。 

 

◆2F(踊り場)

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踊り場の左手も展示スペース。

 

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映像作品が3つループ再生されている。カーペットに座って鑑賞できます。土足で立つか座るか悩みどころですが、今回の展示は「入口で靴を脱いで出口まで持って歩く」というスタイルなので何となく察するところ。

 

映像の中では【No.02】《I'M NOT THE GIRL WHO MISSES MUCH(わたしはそんなに欲しがりの女の子じゃない)》(1986)がめちゃくちゃよかった。

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初期衝動というのか、理解不可の力に満ちている。「ビデオアート」というもののパワーを見せられる。

ピントが手前に来ているようで、歌いながら踊る女性(作者)はぼやけていて色の影としか見えない。体を揺らして乳房が剥き出しになっているが、画面にはノイズが幾重にも押し寄せ、流れる時間も早回しと遅回しが効いて、性的に消費することは不可能だ。PVや物語としての消費もできない。それは麻薬や睡眠薬で知覚が遅くなったり溶けていくのと似ている。

操り人形が駄々をこねるように両腕を上げて小刻みに揺れたり回ったりしながら、タイトルの『I'm not the girl who misses much...』を繰り返す。もう鳴き声だ。

これはBeatles《Happiness is a warm gun》(1968)の歌詞の冒頭「She」を「I」に変換したものだ。フレーズの終わらない反復が、どうしようもない陶酔感をもたらす。

ピッチが上がったフレーズは歌詞でも歌でもなく、鳥の声に近い。かと思うと急に減速する。画面全体が朱色に染まったり、踊る軌跡が処理落ちしてそのまま画面に張り付いて残る、現実に還っていきそうでまだ当分は還れそうにない、「ビデオ」というメディアの中で反復される文体が「時間」の枠組みを奪っていく…

 

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他の【No.04】《(ENTLASTUNGEN) PIPILOTTIS FEHLER((免罪) ピピロッティの過ち)》(1988)はノイズが作品という感じで、走査線とザラザラの嵐、マントラを唱えるようにエコーがかった声デフレーズとドラムが繰り返され、作者は何度も転倒し、次のパートでは抽象絵画のような二重の色の四角形が映し出され、時間感覚は失われる。最後はプールに何度も飛び込み、何度もプールサイドに上がろうとしては、画面外から差し伸べられた手に弾かれてプールに落ちることを繰り返す。

【No.05】《You Called Me Jacky(ジャッキーと呼ばれた)》(1990)はノイズがない。ギターをエア弾きするリストに流れ去る車窓が重ね合わせで、KEVIN COYNE《Jackie and edna》(1973)を歌っている。いや、リストの声が違う。聞き比べると原曲と声が同じなので、曲だけ借りてきてパフォーマンスをしているようだ。何を意味しているのかは全く分からない。

 

作品解説・評論としては、リストは「ナムジュンパイクのビデオアートを継承した」と書かれているが、パイクの作品とも繋げて鑑賞してみたいところだ。

 

( ´ ¬`) しかし、

《I'M NOT THE GIRL WHO MISSES MUCH(わたしはそんなに欲しがりの女の子じゃない)》が凄すぎて刺さっており、なんでこんなにと謎なのですが、ビデオという映像の箱の内部構造って終わらない夢の中に閉ざされているかのように、気持ち良くも恐ろしくて、よかった。

 

 

◆3F(会場本体)

ここから靴を脱いで入ります。会場全体がカーペット敷きで、それぞれのコーナーは巨大なカーテンで仕切られている。全体が一つの大きな部屋のような抱擁感。

 

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映像の中を巡るように、カーテンの中を巡る。

 

現在が新型コロナ感染拡大「第4波」とも言われている中で、ルーム状の展示体験として、靴を脱いで移動し、クッションに座ったりベッドに体を横たえるなど「接触」の豊富な構成となっているのは、非常にチャレンジングで、攻めた企画である。

感染管理専門家が見たらどうリアクションするかは脇に置いておいて、個人的には、「接触」自体がリスクとされ管理される時勢にあって、展示の空間と体験(=これまではエンターテイメント的な消費の側面が強かったのでは)の意味を大胆に書き換えるものとして、肯定的に捉えている。

作者との本展示についての打合せはオンラインで行われたという。実際に全身を使って確認できない中で、これだけの空間を作り出したのは見事だった。

 

 

◆【No.24】《SLEEPING POLLE(眠れる花粉)》(2014)

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入ってすぐの大きな空間は暗く、銀色に輝く球体が緑色を照り返しながら宙に浮いていて、壁に植物の映像が流れてゆく。自然界の音、鳥や動物の鳴き声が響き、水をかき分ける音が響き、熱帯雨林の中で「命」を抽出したような場になっている。

大阪万博に呼んだらいいのにと思った。命や健康って行政や企業がなんぼ言うても限界があるというか、制度でしかない。その内側を語るには剥き出しの「生」に向き合っているアーティストの力が必要なんですよ。輝く球体はプロジェクターで、動きながら映像を照射している。人間は自然界の一部という世界観、その自然の内側に血肉として流れるエネルギーの描出こそ、ピピロッティ・リストの真骨頂というか。

 

 

【No.12】《EVER IS OVER ALL(永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に)》(1997)

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花を持った女性がストリートを歩く。聖火を持つように花を両手で構え、少しスローの掛かった中を歩いていく。

映画《Run Lola Run》(1998)を思わせる、キャッチーなビジュアルが目を引く。行為自体は破壊的(というか破壊そのもの)なのに爽やかだ。後ろを歩いている女性警官はそれを咎めない、追い抜く時にも軽く敬礼して笑みを交わすだけだ。音楽も明るい。全体の明るさによって破壊行為は意味を変える。破壊という意味を持たない。全体の明るさと警官の受容からも、「秩序」の書き換わった後の世界と化しているためか。

ガラスを割る時の音だけが巨大化して、砕け散る質感が体に伝わる。壊すというより何かが生まれて、芽生える時の衝撃のようでもある。そう感じさせるのは画面が左右二面展開になっていて、右側にその花がずっと映し出されているからなのか。しばらく、フェミニズムの訴えとしての作品だろうかと思ったが、その枠を超えているとすぐに認め直した。発表当時はどういう文脈で理解されたかは分からないが、ここには都市と個人の関係、個人の内面の関係、公の場での行為の意味など、様々なことが孕まれている。

 

 

【No.11】《SIP MY OCEAN(わたしの海をすすって)》(1996)

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海の中を進む映像、水着で泳ぐ作者と光に溢れる海底が続く。真ん中で鏡のように左右反転していて、人間の視界というより複眼の別の生き物から見たようでもあるし、鏡の国に迷い込んだようでもある。

陶酔感がすごいのは、海中の光と色、波の揺らめきだけでなく、Chris Issak《Wicked Game》(1989)が流れているためだ。甘く脳が痺れるようなギターはやはり睡眠薬が効いてくるように視界をとろけさせる。もっともオリジナルと違って歌っているのは作者自身で、最後は子供が癇癪を起したように絶叫する。

さきの《EVER IS OVER ALL》のガラスの破壊音もそうだが、陶酔や浮遊感を与えておいて、それとは真逆の不穏さを織り交ぜてある。だが、陶酔が破られることはない。それらは夢自体が上げた絶叫や悲鳴であって、こちら側―ビデオの外に引き戻されることがない。

 

 

【No.25】《4TH FLOOR TO MILDNESS(4階から穏やかさへ向かって)》(2016)

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天井に映像を流し、観客はベッドに座ったり寝そべったりして鑑賞する。このコロナ禍でもチャレンジングな企画だ。展示というより、展示物と空間と鑑賞者が混然一体となっていて、コンテンツを消費するという枠組みが当てはまらないというか。

では鑑賞者も作品の一部なのかというと、そうでもない。個々の鑑賞者はリラックスの中で真上の映像に没入するのであって、隣近所の鑑賞者は目に入らないからだ。個人が見る夢の中と、それを提供する場所との境目がない。これまで見てきた映像作品も基本的には同じで、とろけるような音や歌と、ノイズやスロー再生や鏡像の組み合わせによって、観る・観られる、消費する・されるの関係を溶かしている。

 

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映像はベッドに寝そべって見る。寝落ちに気をつけてください。これは気持ちいいので寝そうになります。zzz。 作品を観る or 観ないという選択肢もなく、身体が水中に浸かっていくように作品がある。

映像はまさに自然、水の中だ。海だと思っていたが、これはオーストリアとスイスの国境近くを流れる旧ライン川だという。水面と水中の光が揺らめく様がダイレクトに写し込まれていて、海の中に自分が居るように感じる。視点は海と同化する。また音楽が流れている、歌声が響き渡る。『In my neck, In my chest, In my waist...』聖なる一時だ。地球に対する敬意や喜びがある。

 

 

 

◆小部屋:映像作品【No.3,6.7.8】(性的表現のシリーズ)

動線から逆の小スペースでは、性的な表現を含む4本の映像作品 【No.3、6~8】が小さなモニターで流されている。観客の気持ちへに配慮した注意書きがある。観客は真剣に観ている。

 

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立て続けに観たせいもあって、4本の映像の区別が付かなくなってしまった。いずれも注意書きの通り、裸や性的なイメージが続くが、通して観ると「出血、経血」、「異性、性愛、性交」、そして「出産」と続いていく。女性が辿ることになる性(生)の道だ。

 

【No.3】《SEXY SAD I(セクシー・サッド・アイ)》(1987)は、どんなのか忘れた・・・もう区別が付いていなかった。【No.6】《母の兄が生まれたとき、日に焼けた窓台のそばに立つと 山から梨の花の匂いがした》(1992)、は出産シーンだ。ただし画面中央に小さく挿入されていて、迫真性や衝撃は抑えられている。見ているとそれとなく気付く。色が溢れるPOPな画面に擬態しながら、見覚えのある器官がクローズアップされ、それが動いているのを見て、ああそうだと。

【No.7】《PICKELPORNO(ピッケルポルノ)》(1992)はイメージとして強い。男性と女性が登場し、案の定というか体が繰り返しオーバーにクローズアップされる。陰部や陰毛も含めて、全身の様々な個所が大きく寄りで写し出される。カメラは陰毛に潜り込むように動く。次々に写し出される器官の膨らみと襞は、指の関節なのか、膝なのか、性器なのかが分からない、どれもアップになると生殖器にしか見えないことに気付いた。カメラワークは寄りと引きを海の波に揺られるように繰り返す。

背景は謎にチープな合成を施されていて、身体ははっきりと不器用に浮き上がっている。なんか90年代のCMとか映像作品の合成技術で懐かしいですね。リストの作品に共通する浮遊感がここに発揮されていて、現実から浮き上がっている。深刻さやエロスはなく、ただ性の衝動というか、欲情するときにこみあげてくる謎の力そのものを喚起された思いがする。

 

【No.8】《BLUTCLIP(血のクリップ)》(1993)は、血を模した赤い液体がだらだらと裸の体を伝う。生理の経血にしか見えない。命が体という器から溢れ出す。

 

 

◆作品【No.1】【No.35】【No.39】【No.38】【No.16】のフロア 

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次のフロアは5作品が展開されている。空間を思いっきり暗くしているので雰囲気は抜群。立体とも平面とも付かない構成だ。

 

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【No.35】《DOUBLE BIG RESPECT TO TAKAEZU TOSHIKO(タカエズ・トシコに捧ぐダブル・ビッグ・リスペクト)》(2020-21)は、この美術館に収蔵されている器(タカエズ・トシコ《緑の雨》《タピオカ》)に映像を当てている。陶磁器は海と臓器のような世界を宿して、立体造形物と映像とスクリーンとの3つの混合した状態になっている。写真に撮ると曲面ゆえに臓器みたいになりますね。

 

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壁面に配列された古代遺跡の模様のような模様は【No.39】《APOLLOMAT WALL(アポロマートの壁)》(2020-21)、白いプラスチック廃材が集められ、配列されている。包装も中身も解かれて、裏返しになったり同型のものが並んだり裏返しにされたりすると、例えばマクドナルドの容器のように使い慣れた・見慣れた商材でも案外気付かなかったりする。鏡餅の容器も回路や遺跡のようだ。リサイクルや環境破壊の訴えではない。全体を通して見ると薄っすらとそういう文脈も加味されるだろう。

 

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ほぼ同名の作品【No.38】《APOLLOMAT FLOOR(アポロマートの床)》(2020-21)では、床に円形に敷いた白い小石へ映像を投影している。

 

これまで見てきた映像作品と比べてみると、女性の振る舞いや身体に関するものとは別のテーマだが、我々の心身と地球や自然との一体感についてのものとは根底で共通している。小さなものを集めて小宇宙を見せる。

 

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《DEINE RAUMKAPSEL(あなたの宇宙カプセル)》(2006)は、「FRAGILE(われもの)」と貼られた搬送用の箱の中に、月とマイルームが入っている。

 


www.youtube.com

これらを合わせたこの室内は、立体作品とも映像とも何か異なり、個々の作品は制作年も別であるのに大きな全体を成すパーツのようでもある。親密なようで未知の星。個人の部屋の内から派生していった壮大な世界ということか。ステイホームの掛け声はいつからか聞かれなくなったが、それとも関連しそうに思う。 

 

 

最後の部屋では、まさに壮大な「部屋」が展開される。そこに個別の「作品」の仕切りはなく、混然一体としている。

 

◆最終フロア:【No.15、18、19、22、23、28、29、30、31、32、33、34、36、37】

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作品No.を書き上げるのがもうめんどくさいので、冒頭のMAPを見てください。15作品のクレジットがあるけど個別に切り出して分類することができないし、その意味もあまりない。作品の多くは2020-21年の制作だ。

観客は円卓やソファに腰かけることができ、上から注がれたり壁面に投影される映像を観る、壁際に積まれたり掲げられたオブジェ群を観る、観客は室内に同化する。

 


www.youtube.com

  

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食卓の上に投影される映像が【No.28】《CARESSING DINNER CIRCLE(愛撫する円卓)》(2017)と思うが、食器の並びとか周囲の環境などと合わせて、これだけを取り出すことは鑑賞者側には難しい。万事がそう。作品管理上は個別に分類されていても、この部屋では、部屋という空間自体の豊かさというか、部屋が持つ想像力を顧みることになった。

 

「部屋」が持つ想像力。

それが本展示のテーマであり作品だと実感する。2020年の新型コロナ禍以来、世界中が「室内」での時間を強いられたことも無関係ではないだろう。ピピロッティ・リストの従前の展開方法を知らないのだが、海や森といった地球生命への潜行と浮遊を外へ外へと拡張するのではなく、「室内」の実の濃度を高めていったことは、何か「今」の状況との呼応を感じられてならない。

 

置かれているオブジェに特別なものはないようだ、全部特殊というか、エッジの尖った雑貨屋のようで楽しい、と思ったら【No.33】《TRIPPLE RESPECT IN RED VITRINE(トリップル・リスペクトの赤いガラスケース)》(2020-21)には、この美術館蔵の樂直入《大地に眠る精霊たち 大地の朝》とタカエズ・トシコ《オーシャン・エッジ》が入っていたり、色んな発見があるだろう。色々すぎる笑笑笑

 

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この左手が出口だが、右手奥の角を曲がると、最初の部屋【No.24】《SLEEPING POLLY(眠れる花粉)》へとループしていく。ここまでずっと観客は脱いだ靴を袋に入れて持ち歩く。展示のフロア全体が共通した「室内」であるとともに、ループする動線はビデオアートの構造となっている。

 

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奥の巨大壁面での映像は3本、
【No.19】《ANOTHER BODY(もうひとつの身体)》(2008/15)、
【No.22】《MERCY GARDEN RETOUR RETOUR(マーシー・ガーデン・ルトゥー・ルトゥー/悲しみの庭へ帰る)》(2014)、
【No.23】《WORRY WILL VANISH RELIEF(不安はいつか消えて安らぐ)》(2014)。

ちょっとあれで、もういいかなとおもって みてない(筆者は小心者なので無駄に正直です)  また2回目行くことがあったらみる みます  はい。

 

 

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でた水着とか下着的な。

 

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本が積んであるんで気になるよね。なになに。椅子には座ってOKだけれど、周りのものに触れてもいいかは確認してませんでした。たぶんあかんと思うんですけど、どうかな。

 

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そういう感じでした。

 

( ´ - ` ) これは面白かったですよ。力がすごいある(語彙

とにかく、芸術祭とかでチラッと印象に残った作品、指先に刺さったまま消えない棘のような作家のことは、回顧展をしてもらえると、超ありがたいです。本当の力を思い知れるのは嬉しい。日本語訳での解説や評論も出ますしね。いいことづくめ。

世界のアートの思考や水準を思い知ることは、ちょっとした海外旅行に匹敵する何かがあるのではと、思っています。

 

完。