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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】許曉薇 (Hee Siow-Wey)「花之器 The Vessel that Blossoms」@gallery 176

【写真展】許曉薇 (Hee Siow-Wey)「花之器 The Vessel that Blossoms」@gallery 176

SNSの告知で遠目に見たときコミカルだった。実際に対峙するとアスリートの緊張感を湛えていた。ルールもライバルもいない場で、作者は何と戦っているのだろうか。宙吊りの「体」が放つ声に釘付けになった。

【会期】2019. 2019.8/30~9/10

 

作者は自身の体を優美な「器」に換えて、花や植物を生やし、それらが美しくあるよう、じっと耐えている。

 

作者・許曉薇は台湾で活躍する女性写真家であり、2011年頃から身体を責め苛む自傷的行為や緊縛、コスプレの作品を発表してきた。本シリーズ《花之器》は2016年頃からのシリーズとなる。

 

本作を直に目にしたとき、Web越しで見るのと全く異なる力があった。

エロスは微塵もない。大腿部、臀部、背中の膨らみと肉感に目が行くのかと思いきや、直によく見るとそれらは筋力であり、フェティッシュな「性」などとは異質の力があった。女性でありながら「性」が無化したその声は、ジェンダーを巡る話でもなかった。普通の女性のようで、ことごとく重力に抗う手足には、アスリートのような迫力があった。その体が発する声には、力があり、容易には逃れられなかった。

 

作者の体はとても大きな負荷に晒されている。宙吊りになり、あらぬ方向や角度で手足を下り曲げ、捻り、体の窪みや間に植物・花を抱えて保持し、体の曲線を強調し、手足が無いかのように折り畳み、まさに一個の「器」として振る舞う。動きを殺す曲芸師だ。優美だが緊張感を途切れさせない、無音のアスリートである。

 

この緊縛は荒木経惟のヌードとは全く異なる。荒木の緊縛とヌードは劇場的であり、都市(東京)の日常を撹乱するための前衛的表現行為と言えよう。鑑賞者は荒木という写真家・兼・目撃者を通してその劇場に参加し、貞淑で平凡な日常を送る「一般の」モデルらが、近親者にも友人にも見せない「表情」を浮かべるのを、半当事者として、”裏”リアルとして覗き見る。それがモデル各人らの私生活、私情を巻き込んだ、ある種の吐露と自己実現の劇場であったため、私写真という独自の表現手法として認知された。

 

許曉薇の緊縛と裸体は、パーソナルであるにも関わらず、私性を否定する。表情を否定する。言葉を否定する。許のヌードは、所謂「ヌード」として機能していない。劣情を誘うものでも、女性らしさ・瑞々しさの美を賞美するものではない。まず第一に、作者の顔や眼は植物・花に覆われていたり、草花へ注目を集めるために伏せられていて、人称代名詞の届くところから遠ざかっている。1枚1枚の画面内では「女性」としてさえ機能しない。青々と生き生きとした植物・花を携えて、それらを主役として支えるために圧倒的に不利な体勢を自らに強いている。それに耐えうる体は、一般人が持ち持ち得ない、特権的なものだ。

許曉薇という名前を孕んでいたはずの身体は、誰のものでもない「体」となっている。植物・花を支持するための台座、まさに「器」としてのみ働き、よって誰からの消費の眼差しも受け付けない。植物・花は、器――「体」の主導権を握る。もし力を抜けば「体」はたちまち弛緩し、私性を帯びてしまい、写真は私人のエロスへ逆戻りするだろう。よって、この張り詰めた運動は果てしなく持続される。結果、この体は作者自身でありながら、許曉薇という一人称の拠り所は奪い取られたまま維持されている。

 

 

体とは何だろうか。

私たちの「体」は本来、幼少期からの長きにわたる訓練、調律によって、それぞれが属する社会や組織に適したもの――「身体」になるよう作り上げられていく。身体にはそれぞれの所属先に必要な体型、ポーズ、佇まい、仕草、コスチュームへの対応といった言語基盤が内在されている。それらに対して例えば、男性優位の言語の是非を問う運動としてジェンダーの問題提議はあり、その言語を性的消費へ極端に振ったものに商品としてのエロスがあり、消費を抑えて美術の文脈から言及すればヌードと美の話となり、それらの文法を組み替えて混乱させると前衛的表現と呼ばれる何かになる。

許はそうした言語の一切を、「身体」に埋め込まれてきた言葉を、一旦、内側から全て取り去ろうとする。自らの手で、自分を手放そうと試みる。植物・花は、個人(自我)と肉体の主従関係を逆転させる。そしてついに許という個人は、語り・語られるものから、言語を脱いだ「体」と化すことに成功する。

 

形容し難いポージングを維持する緊張感と、それを無理なく支える黒と白の背景の余裕は、非常に洗練された、文化的な雰囲気をも醸し出している。私は台湾なり中国なりの文化・芸術に通底する土壌について全く知らないが、フォーマットの確かさからして何らかの影響や引用はあるのだろうと思う。体を包囲する美のフォーマットの強さは重要な特徴だ。

私が連想したのはメイプルソープの花、ヌード、そしてSMの作品群だ。1970年代後半~80年代のアメリカ社会において、これまで抑圧され、禁じられてきた「体」や「性」の「自由」を急進的に探究するアンダーグラウンドな欲望の活動。その暗い輝きの結晶として、メイプルソープの作品群は登場し、衝撃を与え、嫌悪され、評価された。それから30~40年を経た2010年代現在、時代と国境を越えて、自身の体を責め苛むようにして表現を行う、許曉薇のような写真家が現れた。

一概にこの作品群をSMに引き寄せて語ることは出来ない。そもそもアンダーグラウンドではなく、後ろめたさとは真逆の、品の良さを纏っている。それでも、裸体と植物・花が織りなす一連の運動の緊張感は、SMと近しい要素から成っている。頭部を覆い、臀部の谷間、穴の位置に差し込まれる植物・花はそのままフェティッシュなラバーグッズに取って代わられる余地を残している。何よりも、自己を成立させる言語を取り払われて「体」だけが取り残され、なおもアクロバティックな負荷に耐えている姿は、SMの緊縛プレイの仕組みと近しい部分も否めない。

 

しかしSMやメイプルソープ作品とは、本質的に異なる点があると言わざるを得ない。許の作品は恍惚を宿していないことだ。許のものだった体は、自己を、身体の言語を手放すことによって、恍惚、倒錯的な解放を得ているのだろうか。

 

いいえ。

全く解放されていないのだ。体は緊張し続けている。

 

まず一つは、負荷のかかる重力や体勢を維持することを通じ、それに抗し続けるという緊張がある。もう1点、体の外側を占めている、より大きなものに対しての緊張がある。それは先述の、作品のフォーマット、フレーミングが安定している話に繋がる。美の基準が守られ、逃げ場がない中で、許の「体」は「器」であることを守らされ続けている。体の動きとしては言語的な何物かから抗っていても、作品の総体としては、美しく調律のとれた画面であることを、綺麗な器であることを、強く従わされている。許の「体」は、誰のものでもないものであろうと抗し、筋肉は声ならぬ声を上げながらも、「器」としての役割を全うしようと、植物・花の美を守ろうと働く。ここに、不思議な二律背反がある。

 

抗する声と、従う体。

 

本作に写っているのは単なる肉ではない。ある意思を秘めて運動し続ける筋肉である。「個」として抗する声だ。その声が向かう先は何だろうか。私は中国の写真家・任航(Ren Hang)を想起した。メイプルソープとはまた異なる形で、国や社会から脅かされている個人が、力に従いながらも「生」の解放を求めて、声なき声を上げている。

メイプルソープの作品には声はない。あるとすれば漏れるような恍惚の吐息、恍惚的な、蕩ける一時がある。タブーの耽美を、これも「美」ではないか、と、美の基準へ滑り込ませていく。タブーの境界面を滑らかに侵犯して、社会の規範の内へと至ってゆく、感染のようなものだ。

それと比較すると、任航や許曉薇の作品には、恍惚や悦楽よりも差し迫った緊張がある。社会から脅かされている個人が抱え持つ本当の「声」を、身体の奥から、体の内から発し直す決死の運動。

だが許曉薇の作品は、任航ともまた異なる。任航の作品では、若者らが制度や外圧の全てを放擲し、同世代の仲間らとともに体一つで街のど真ん中へ駆け出していく、街へ体を投げ入れ直す運動だ。反逆と連帯の切実さが濃厚に満ちている。体と声の双方で反逆を試みているように感じる。

許の作品はまさに「器」:自己を取り巻く言語や制度や伝統をに過度にフィットしつつも、その中で自身の内なる声を、誰の所有にも当てはまらない声を発せようとしている。これは作家個人の作風の差異だけではない。中国と台湾との文化の差異や、社会・政府と個人との関係性、権力の働き方、切迫度の違いなど、より大きな次元での相違点も、当然影響しているだろう。

 

 

こうした内なる声、抗する声と、美しさのフォームに沿った体とを突き付けられて、さて、それでは日本に生きる私には何が可能なのか? しばし考えたが、さて。残念ながら私はその返答を持ち合わせていなかった。狼狽しながら、鑑賞の一時を楽しんだ。

 

 

( ´ - ` ) ええもん見ました。抗するとは何か。

日ごろ政府与党にも野党にも地元の市会議員にも文句たれてるけど、たれて終わりなんですよな。くそったれがあああ。体をさらす必要もない。それはまあ幸せなんですが。緩慢に不幸になっていってるとも言いますわね。ふう。

 

フォトブックは売り切れていました。無念。くそっ。

 

( ゚q ゚ ) 作者の経歴、どのような作品の遍歴があって現在の姿に至ったのかがよく分かった。初期のダークサイドな、自傷行為溢れた作品から、よくもまあここまで来れたものだと思った。多くの写真家がうろうろする踊り場を、何段階も突き抜けていったことがよく分かった。人生そうありたいものですね。

 

( ´ - ` ) 完。