写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「生きられた庭」@京都府立植物園

【ART】「生きられた庭」@京都府立植物園

「植物園」と「美術」の歴史的な関係を、キュレーターが語りながら園を歩いて回るガイドツアー形式の展覧会。アーには参加できなかったが、作品を観ながらああだこうだ言いつつ園内を巡った。 ああだこうだ。

 【会期】2019.5/12(日)~5/19(日)

 

最近は写真展ばかり観ていたが、久々に屋外アート展示です。ほぼノーヒント。会場及び配布用紙にも特に作品コンセプトについては書かれていない。厳しい。「囚われずに自由に観てほしい」と「意味を知りたければガイドツアーに参加してね」という意図だと思うが、意味の入口も分からず困った場面も多かった。

 

以下の記録は、その場での感想に加えてガイドツアーの動画より作品の趣旨を拾って補足している。 

 

 

◆石毛健太《Not just water/ただの水ではない》

一番興味深い作品だった。噴水の真上に足場を組んで、噴き上げる水の頂点の飛沫をオブジェ的に見せ、なおかつ映像により噴水の水を巡る「物語」を展開する。これは作品自体が説明になっているので、解説がなくても、映像を10分~15分見ていると趣旨が分かってくる。

 

映像は情報のドリフトが激しく、何が「真実」なのかがたびたび揺さぶられるものだった。

映像は主にyoutubeの画面をコラージュのように重ね張りしたものに、エビの存否に関するナレーションを当てている。

ここで語られる話によると、噴水で噴き上げられる水には巨大な「悪魔のエビ」(巨大なフェアリーシュリンプ:田んぼによくいるホウネンエビ)が映り込んでいることが一般の投稿動画により判明し、近年大きな話題となった、ということらしい。話は非常にもっともらしく、「真実」の体裁を帯びつつ、非常にテンポよく語られる。

 

だが論旨がちぐはぐな上にYouTubeの参照画面も整合性があやしく、どこか妙だ。全世界で話題が沸騰したかのような語り口だが、この10年ほどの間に「噴水の水しぶきにエビが含まれていた」という話題がWebでバズったとは聞いたことがない。見落としていたのだろうか。また、もっともらしく語られるものの、根拠めいた部分は「動画内でそのように見えた」という証言?の貼り合わせや伝聞のみで、結局何の物的証拠も示されない。

終盤にかけて話は一気に胡散臭くなる。噴水をハイスピードカメラで速度を変えて撮影した映像の比較検証(しかも日本が実施)によれば、「30コマ/秒で撮影された水しぶきは、これまで撮影された悪魔のエビと同様に映ることが確認された」として結論付けられている。

 

「これまで撮影されてきた悪魔のエビと同様に映ることを確認した。」ことが、「悪魔のエビ」が実在することを意味することには全くならない。「動画内の噴水のしぶきは不鮮明だった」だけのことを、エビの存在証明されたようにすり替えている。観客はここにきて、完全に論理が破綻していることを示され、「この映像の語る情報はフェイクだ」ということに気付かされる。

 

本作は情報の真偽に関わらず、与えられた情報や語られ方によって外界の見え方が刻一刻と変化することを体感する展示である。噴き上げの頂点のみ切り取られた噴水は、映像の進行によっては「悪魔のエビ」がうじゃうじゃ棲息する場とも映るし、ただの水へと逆戻りもする。

他愛もないフェイクを「真実」として尤もらしく語ること、引用されるデータや切り口が正確性や根拠としては全くおかしくても、語り方がそれっぽければ印象は変化し、「真実」へと傾斜していくことを、自分自身の心理の変化から体感することとなった。

 

幼児が屋外の噴水の周りを歩き回る映像に当てられた、「悪魔のエビ」がメキシコからアメリカへと越境してくることの外来種の暴力性を語るナレーションは、完全にトランプ政権におけるメキシコ人移民に対するフェイクの言説と重なり合う。ポスト・トゥルースの時代構造をよく表した展示だった。

「悪魔のエビ」はここにいるでしょうか。いないでしょうか。どうかな。 

 

 

◆高橋銑《人間がニンゲンになるとき》

現地で長時間ワーワー言っていたが、ろくな仮説も立てられず苦慮した展示。広場のオブジェと、映像から成る。  

タイトルと映像の光景から、文明と袂を分かった「人間」が、世界の果てで自分の姿、居場所を探し求めて刻印してゆくという原初的な行為の中でも「ニンゲン」に戻る、そういう物語かと思った。

違った。

 

円筒状のオブジェは、円筒印象(=回転式のはんこ)なのだった。

主人公(作者)は、オブジェを破いてその中から物資を取り出し、電灯を伸ばす。周囲には砂浜と海と空しかなく、世界の果ての感が強い。円筒には人(作者)の等身大の型が刻まれていて、砂地を転がすと作者の姿が刻印される。原理的にはこの世のどこまでも自分自身を刻み付けることができるのだ。 

 

だが円筒オブジェがハンコになっていることは、映像では判然としない。屋外に安置されている実物でも、人型の部分は地面に接しているため目に触れることがない。ガイドツアーによっては見せてもらえたようだ。

そのため、映像の理解の入口は作品の趣旨から大きくずれる。作者が砂地に圧した何やら人型のようなものに白い液体をまぶして、その型を固形化させ、後に収穫する工程は分かるものの、そもそもなぜそれをしているのかが全く分からなかった。人型もはっきりしていないので、私は敷物(文明、社会的な居場所)の代わりに、新たな手作りの居場所(野生)を再構築したのかと思った。

 

だが後に円筒印象だと聞いて、もはや何が何だか分からなくなり、お手上げです。最低限のコンセプトやテーマについては、映像を観る前に与えてほしいと感じた。とは言え、ハンコという設定なしでも解釈行為自体は楽しめた(意味が分からなくて半ばムキになっていた)ので、それはそれで良かった。 

 

意外と軽い素材で出来ているが、風で転がらない程度には重いという絶妙さ。中から色んなものを取り出していたので、ハンコというより、無人の星へ降り立つための一人脱出用ポッドに見えた。その方がロマンがあったかな…。

 

 

◆多田恋一朗《「君」に会うための繊細な毒》

倒木、切り株の上に立ち上る魂状のもの。色鮮やかな魂が、遠い将来にまた太い木々へと成長することへの期待を促しているように見えた。

これらの木々はもしかすると、昨年・2018年9月の台風21号による被害者なのだろうか。 園内全体の少ならかぬ樹木に、恐らくその時に折れたりしたと思われる傷が見られた。

絵画? 漫画めいた印象派風の絵が一枚掲げられていた。顔のない女性がはんなりと切り株の上に座り、全体は緑色を帯びている。彼女は木の精霊か、絵画の象徴だろうか。

 

先ほどの魂のようなオブジェは、裏側から見ると、絵を描くためのカンバスなのだった。幹を失った切り株は、今後、元の姿に戻ることはないだろう。形の歪んだカンバスを提示したのは、そびえ立つ樹の姿を想像させるためか。それとももっと別の意図、例えば絵画論の拡張、風景と絵画との関連、自然との関係を突くものなのか。それは分からない。ただ、切り株が単なる「終わった」存在ではなく、生きた土台、支持体として再起動していたことは確かだった。

 

 

◆立石従寛《Abiotope》

会場4ヵ所に展開、うち3ヶ所は園内放送のスピーカーを使用し音声での作品展開をしているが、池に面した1ヵ所では、銀色のシートが溶けた機械のように自然景に絡みついている。

 

この池の音声はひどく印象に残った。災害時の緊急放送を少し連想したからだろうか。

作者と思わしき日本人男性がひたすら、例えば、「7時20分、降水量なし、平均風速・毎秒2.5メートル、風向・東北東、最大瞬間風速・毎秒3.7メートル、風向・北東。7時30分、降水量なし、…」といった風に、10分刻みの気象情報を読み上げ続けている。同時に、機械的な男性の音声が「Seven twenty AM...」と英語で同じく10分刻みの気象情報を無限に読み上げている。

 

AIと人間との関係を問う作品であると、後に知った。現場ではただただ音声が流れていた。この場は人工知能のための「庭」である。銀色のシートはマジックミラーシート(鏡のような光沢を備えた半透明のフィルムで、遮光・遮熱の効果がある)で、作者によると、AI側から人間を見たときの視座、関係性を表わすものだという。

 

無機質なデータを読み上げ続ける人間の声と、人工的な声で人間のやることをなぞるAIとは奇妙なハウリングを起こす。人間の声は一定せず、呼吸や発語の調子が不規則でくぐもりがちで、AI側は歯切れよく、強調箇所がソリッドでよく聞こえる。情報は大量に流れ去るばかりで意味を成さない。浮かび上がる人間と機械の、声。

 

そして読み上げ音声の背景には、自然側にはないはずの音が多数含まれていることに気付く。強調気味の小鳥のさえずり、滝の音、せせらぎ、etc.  これらはAIによって、設置場所の環境にふさわしいよう生成された音だ。言わば人工的に「自然」の環境が再構築されている。

すると一つの疑問が湧く。彼らが読み上げていた気象データはどっちの世界のものだろうか? こちらの・物理世界側の実データなのか、それともAIが算出した仮想の「自然」の値なのか。

データは読み上げられ続け、「自然」を語るための情報としては十分すぎる。実際の物理世界のデータのように思い込んでいたが、それらの数値が指し示す「自然」は、一体どこにあるのだろうか。AIの内面を解することの出来ない我々には、それを知る術もない。

 

 

◆野村仁《林間のTardiology》

タイトルにある「tardy」とは遅刻、のろさを意味する。「tardiology」は「遅延論」と訳されているようだ。

作品は段ボールを積み重ねた、巨大な彫刻だ。設置当初は3段の箱として高く直立していたらしいが、わずか1週間たらずの間に湿気や風、太陽光、自重などの要素によって、写真のように下部がひしゃげ、紙の戦車のような形になってしまった。

 

本作は1969年、大学の修了制作展で作成したものの復活版だ。重力をはじめとする自然の要素の作用によって、万物が変容していくことをテーマとしている。作者については、国立国際美術館に収蔵されている太陽の軌道を捉えた長時間露光の写真でお馴染みであり、意図がほんのりと伝わった。目に見えない力の関係によってこの世界は静かに成り立ち、動いている。

 

 

山本修路《風景を読む》

鳥の巣箱のように、穴だけが空いた木箱だ。カメラの形はしているが、穴、風景と眼の間にはレンズも何も嵌められていない。この穴を覗き込む人間の眼がレンズとなり、人の知覚が暗箱となる。

 

だが不思議なことに、穴を覗き込むと円周部の風景は滲んで丸く浮かび上がっていた。レンズを介したように少したわんで見える。そして、一風景として眺めている時には捉えどころもなく、のっぺりと埋もれていた木々や、木の枝の分かれようが、オブジェクトとしてくっきりと浮かび上がった。写真の始まりである。

 

穴から目を離して風景を見やると、先程までのオブジェクトはまたのっぺりと、凹凸も存在もなく、埋もれて消えてしまった。不思議な体験をした。

 

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時間の都合もあり以上のようなあれでした。全部は観られていません。

 

会場で感じたことを率直に申し上げると、「ちゃんと理解したいのに、あまりにノーヒントすぎませんか?」とイラッと来たのは事実だった。ツアー外でこれを的確に理解できる観客は果たしていたのだろうか。

 

帰宅後、公式サイトからツアーガイドの動画で作品解説を見たところ、現場で必死になって推理した主旨とあまりにかけ離れていたので、うなった。「キュレーターによるガイドツアー形式の展覧会」と銘されている通りなので、ツアーに参加して初めて完結する展示だというのは重々承知である。だがあまりに前提条件からズレたまま体験、読解するのもどうなのかという思いがある。

アートを少々かじっている人間でも、ずば抜けてキャリアの長い野村仁以外の作家については、なかなか知らないのではないだろうか。新進気鋭の作家らの哲学は触れていきたい。

 

もう一つ言えば、本展示が日本における「庭」や「植物園」の歴史といかにリンクするものかを語るキャプション、それを踏まえての植物園の見所を披露してもらえたら、最高だった。あえてキャプションを排しているのだと理解はした。

 

 

というようなことを執心混じりでああだこうだ書き付けているということは、展示を字面で「消費」せずに真っ向から格闘したとも言える。キュレーター陣の思惑通りにはまったのかもしれない。いやあ。わはは。   嗚呼、

 

 

温室で珍奇な花々の撮影に夢中になって時間がめっちゃ押したのは失策でした。後悔はしていない。ウツボカヅラはエロいを。

 

( ˆᴗˆ )完。