【美術展】THE ドラえもん展 OSAKA 2019 @大阪文化館・天保山
時代を超えて愛される、国民的アイコン・ドラえもんとアーティストがコラボする楽しい企画。展示品は、動画作品を除いてほぼ全て写真撮影可。ドラえもんワールドを振り返る楽しみ方の他に、サブカルチャーを巡る写真や造形、絵画など「現代美術」のゼロ年代以降の流れを確認する見方も出来る。
【会期】2019.7/12(金)~9/23(月)
「ドラえもん展」は2002年にも同会場で開催された。この大阪文化館、建築は安藤忠雄で、当時は「サントリーミュージアム」という、れっきとした美術館の名を冠していた。しかし親会社の経営の都合により手放され、2011年より美術館の土地・建物、収蔵品は大阪市に寄贈、現在は(株)大阪シティドームが運営している。ゴルゴ13や木梨憲武、ジョジョ、ガンダム、恐竜など、広く誰もが楽しめる企画がなされてきた。
一時は閉鎖され、廃墟化するのではと懸念もしましたが、こうして公的な空間として生き永らえてくれているのは、大阪人にとって嬉しい限りです。
本展示は全28組30名の作家が「あなたのドラえもんを作ってください」という依頼に応える。大きくは2部構成となっていた。
前半は現代美術のベテラン層で、前回参加した作家陣5名に加え、新たに依頼を受けた、現在の日本の現代美術シーンを代表する作家約10名。会場入口のある4階にて展開。
後半は若手の新興アーティスト勢で、まだ知名度は低いが、企画者が可能性を見出して招聘した約15名。次の5階で展開されていた。
この構成は、現役作家の年代別の地層を生じさせていて、面白かった。特に、後者の若手新興勢力の参戦が有意義だった。「ゼロ年代」の到来からもう10~20年が経過し、確実に次の段階に進んだことを実感した。
入口からは本展示のキービジュアルに採用されている村上隆の明るく朗らかな大型作品を筆頭に、奈良美智、蜷川実花、福田美蘭、森村泰昌など超有名どころが続く。前回2002年参加アーティストは、前回出展作品と新作がともに展示され、90年代後半~2000年代初頭の空気の香りを懐かしむことができる。
「懐かしい」という感想は正しいと思う。当時名を馳せて一躍有名になった作家らは、無論、それ以降の20~30年間も新作を世に送り続けてきた。しかしテーマや文体の一貫性に優れるがゆえに、良くも悪くも、会場では「繰り返し」のようなデジャヴ感があった。その閉じた円環は開かれることがなく、懐かしさ以上のものを感じられなかった。「ドラえもん」というコンテンツを、大御所らがコラボするお楽しみ企画、それぞれの流派でアレンジし味付けしたものとして写った。それでええやん、そういう企画ですやんと、頭では分かっているが、じゃあ「アンパンマン」や「サザエさん」でも同じことになったのではないかと思ってしまう。それは「村上隆という作家が今もいる」「蜷川実花という文体が今も現存している」ということの確認だった。デビュー当初よりも毒のない、洗練された、うまいコラボ仕事として。
洗練、という点はベテラン作家各位に概ね共通している。嫌な言い方をすれば、予定調和である。ドラえもんを裏切らないし、作家らも自身のスタイルも裏切らない。歴史的・国民的アイコン「ドラえもん」とのコラボというお祭り企画ゆえに、「尊重」の念が生まれてしまうことは避けられないことは、重々理解できる。
ドラえもんは恐ろしい。
脅威の一つは、ドラえもん支持層の広さゆえに、ターゲットの想定が無限大化していることだ。1969年、小学館の子供向け雑誌での連載開始から、1973年のTV放映を含め、現在まで50年近くにわたって発信され続けている。直近では2005年にリニューアルが行われ、声優や絵柄が現代風に刷新された。そうしてまた新しい世代を獲得したのかと思うと、支持層の広さは計り知れない。そんなコンテンツをモチーフにする企画では、来場者の層が相当に広いため、どんな属性・年代の来場者に対しても面白く楽しめるように、との意識が何らかの形で働いてしまうことは避けられないかもしれない。
そしてもう一つの脅威は、ドラえもんという稀代のコンテンツが、作家側の世界観やフォーマットを取り込んでしまうことだ。
その世界観の広さと深さは、鑑賞しているうちは楽しいが、相手取って戦うには底なし沼の手強さがある。デザイン面では、漫画記号として極めて優れた造形を有しているし、物語性においてはギャグ、教訓、成長、友情、感動などの要素を併せ持った、表情豊かな作品でもある。特に劇場版の長編作品では、壮大なストーリーとともに良質な冒険と感動のドラマとなっている。ドラえもんはそれ自体で深く大きく完結した世界だ。
そして逆に、完成や洗練を打ち破る力をも備えている。小学5年生の日常生活を舞台としながら、実態はブッ飛んだSFであるため、世界の拡張幅はほぼ無限大。時を止め、時を過去へ未来へ移動し、陸海空のみならず魔界も宇宙も異次元も自在に往来できる。更に、ブッ飛んだ域へ拡張された世界線は、毎度お約束で万能かつポンコツな秘密道具と、それらに翻弄されつつ破綻を来さない程度にうまく使いこなす(使いこなせない)キャラクター達のバランス感によって、再び短時間で日常へ回帰させられる。極めつけは、特に初期の原作において顕著な、毒・ブラックユーモアを過分に備えていることだ。現代アートの皮肉や冷笑が手ぬるく思えるほど、シュールで強烈な、笑えない笑いを秘めている。事実、単行本に収録されなかった伝説のブラックな回は多数存在している。
ドラえもんの魅力=脅威は挙げればまことキリがない。アートのコラボ力を以ってしても、それを上回る何かがあるのだ。本展示、特に4階を観た感想はそれである。ドラえもんの勝ちだ。
道中、壁に照らし出される劇場版の長編作品ダイジェスト。熱い。目から汗が。あああ。リルル。あかん。好きだ。やばい。あああ。
先述のように現代アートはサブカルチャーを射程に捉え、その領分を取り込んで新陳代謝を図ったが、ドラえもんはアート側から敬意を表され尊重されている。円環があまるで信仰だ。本展示4Fでベテラン層の展示を見たときは、そういう意味で懐かしさを感じた。ゼロ年代あたりの試みの集積、回顧展として穏やかに観て回ることになった。
◆4F
村上隆《あんなこといいな、出来たらいいな》は、キャプションでドラえもんは芸術、現代美術であると明確に宣言する。90年代後半頃にはそれは大きな「発見」であり宣言だったと思うが、今ここでは、トートロジーめいた出口のなさを見せられた感があった。アニメや漫画の側の方が、もっと何か深淵に蠢くものとなっているのではないか。現代美術、芸術性をあえて主張したことに説教臭さを感じた。
蜷川実花は90年代の作家であると確信した。誰でも共通していると思うが作家には自分のフォーマットを確立してしまう時期があり、以後その反復となることが宿命付けられている。そのような宣告を受けた。
写真上《ドラちゃん1日デートの巻》(2002)から下《ドラちゃん1日デートの巻 2017》(2017)に至って、蜷川舞台の手法が洗練・強化されており、二人の関係性の情景が写っていたのが、ニナガワ節というフォーマットが写ったものになっている。まるで映画の製作の合間に撮られたカットと化している。かつての、濡れた初恋のような、モヤモヤッとしたビビッド感はなかった。観客のこちらとしては、あまり介入の余地がない。
奈良美智の、思春期前後ぐらいの、女子と女性の間をたゆたう頃合いの眼差しは、安定して不安定だ。素人感想だが、高度な技術力を持ちながら、あえて洗練されないように努力しているのではないかと感じた。凪の内に、小さな渦のような何かを秘めた線や塗りを描き続けるために。
2枚目が《ジャイアンにリボンをとられたドラミちゃん》(2002)、製造後、出荷待機中の状態を描いたもの(後にタイトルのような設定へ変更)。3枚目が《依然としてジャイアンにリボンをとられたままのドラミちゃん@真夜中》(2017)。こ憎たらしい表情をしている。がやはり、初期の作品が好きだ。この眼に見つめられると、初恋にも似たドキドキ感が沸き起こる。中性度が高いからかも知れない。
会田誠《キセイノセイキ ~空気~》(2017)は 、素晴らしいテートメントで「現代美術の流儀で作りました」と書いているが、真っ当に地で行っている。ドラえもんに取り込まれず、ドラえもんを踏み台にして、現在の風潮・表現を巡る空気(=表現の自由の規制)と、自身の流儀(=エログロとサブカル)との相克から、大いなる矛盾や喪失を、滑らかに表した一枚。
この作家はずっと戦っていると分かった。会田作品では、「女性」という、サブカルでもハイカルチャーでも共に定番のモチーフを大胆に脱がし、凌辱し、サブカルとハイカルチャーの順列を無化させてしまうが、近年では「アート無罪を許すな」という空気の強まりを受けて、被弾することもある。2019年2月には京都造形大の受講生が、授業で会田作品を見せられた件をセクハラとして提訴し、彼の名は瞬間的に話題になった。
表現の不自由を求める空気の高まりは、国民的アニメから主要キャラクターの1人を消せという無言の要請をも予感させる、かつて当たり前に流れていた「しずかちゃんのお風呂」は、今後、自主検閲の下で幻のシーンとなるかもしれない。そんなことを想像させる。
比較的新しい作家、写真家・梅佳代が部屋を埋め尽くしていた。ドラえもんが世代を超えて愛され、暮らしとともにあり続けたことを、家庭内のスナップ写真で明らかにしている。作者自身の幼少期と思しき記念写真、現在の、子育て中の作者とその子供、作者の祖父母が、ドラえもんのグッズや単行本とともに写されている。
コイケジュンコ《二~四次元ドレス》は、原作の漫画のセリフから作られた衣装を提示する。
前後を切り離されたフキダシなのだが、何となくどのシーンだったか思い当たるところがある。立体化されると面白い。言葉だけで、ドラえもんがブッ飛んだSF作品・かつギャクマンガであることを示している。なによりマネキンのポージングが格好いい。
森村泰昌は何でも請け負うなあ… でもコスプレにはなっていないところがすごい。写真作品ではコイケジュンコの衣装とコラボ。アート界のプロレスラーだと思う。その身であらゆる巨匠の技を受け切ってみせる。
鴻池朋子《しずかちゃんの洞窟(へや)》(2017)は 、超巨大な牛革のドローイング作品で、革が縫い合わされて洞窟の壁画のように広がっている。大きすぎてカメラを向けても全体を1枚に捉えることができない。
眼を閉じて月に漂うしずかちゃんと、現実の動物、神話的な霊獣が書き込まれ、双頭の犬が裸のしずかちゃんを咥えている。わけがわからないが、特に内面の描写があまりなされてこなかった「しずかちゃん」の内側が実は反SF――古来の神話的な世界だとしたら、毎度毎度あんな連中と渡り合えているのも納得できる。
◆5F
階を上がると、より若い世代の作品が並ぶ。正直言って、知っている名前はほとんどなかった。しかし、サブカルをアートに組み込むことを達成したのが前の世代:4Fのアーティストたちなら、5Fの彼ら彼女らはその両者の和合を当然のこととして扱い、前提としながらその先の表現を行っている。ゆえに現在の感覚があり、面白かった。「表現」は絵画や彫刻の特権ではなくなり、アニメやゲームやWebの重要性がかつてより遥かに高まっていることを肌で理解している世代だ。
西尾康之《OPTICAL APPARITION(光学を用いた幻体)》 (2017)は、裏表で全く表情の異なるドラえもん型の彫刻に映像を当てる作品。疑似生命、生命感を表す作品だとしているが、背面の凹凸の模様は太古の呪術に用いられた土器を思わせる。映画「のび太の日本誕生」やFCゲーム「ギガゾンビの逆襲」でツチダマ(遮光器土器)が敵として襲ってきたことが連想され、妙に興奮した。
本展示で圧倒的に最高だったのが、坂本友由《僕らはいつごろ大人になるんだろう》(2017)。長編作品「のび太の宇宙小戦争」のワンシーンを、ド迫力で、思春期の揺らぎに満ちた身体を強調して描いた。
背丈よりも大きいこの絵が発する力は異常で、構図のダイナミックさ、真っ平らな原作をハリウッド映画ばりに立面で起こしたパースの迫力などもさることながら、会田誠にも通じる、「女性」モチーフのエロスとサブカル的記号にこれでもかと満ち溢れた情報の快楽が、これでもかと詰め込まれている。異常な力だ。アートというよりも同人誌などのセンスに近いのか? 女性性の誇張と盛り、非男性向けエロスの昂ぶり、それでいて至ってシリアスな、俳優然とした眼差し。ここには多くの、現在の文法が駆使されている。
元になった原作のシーンも掲示されているが、あくまで冒険活劇、ピンチに陥っていたドラえもんたち一行が起死回生のチャンスを得た、どんでん返しのシーンとしての意味合いが主であった。坂本作品では、小学五年生という「女の子」と「女性」の間で揺らぐ一人の人物の、内に脈打つ生々しい息遣いや鼓動が、逆方向に戯画化され描かれている。
とにかく素晴らしかった。
5階はこのような調子である。サブカルを絵画や彫刻の文脈といかにして結び付けようか、いかにこの国の「芸術」の系譜で語るべきかの模索に明け暮れていたのが村上隆や奈良美智らの時代なら、現代の作家は、サブカルとアートのベン図が重なり合い混ざり合った状態をスタート地点にして表現を行っている。
なのでTwitterやpixivで目にする秀逸な絵師と、芸大・美大をルーツとする美術作家との区別は、絵をぱっと見ただけでは曖昧なところがある。サブカルや遊戯と美術、作家とを区分するものは何だろうか。題名、ステートメントや制作手法、素材、あるいは経歴だろうか。
篠原愛《To the Bright ~のび太の魔界大冒険~》(2017)は、ツノクジラとセイレーンに襲われるシーンを、耽美的な一枚の油絵で表した。黄色く光る無地の背景、動きの静止した平面的な絵は、日本画を思わせる。
山本竜基《山本空間に突入するドラえもんたち》(2017)では、タイムマシンで亜空間を移動しているドラえもん一行を描く。エネルギーの溢れた空間は、制御不能になったタイムマシンが、自身の創作世界にも来てくれないかと思いから描かれている。人物の光の帯び方は絵画というよりアニメのワンシーンだ。
水墨画家・山口英紀は、まずペーパーアーティスト・伊藤航に「現物」のタケコプターを作成してもらい、その立体物を模写している。水墨画の学習は古典を模写することが基本となるため、非現実の産物ながら、手本を必要としたという。元となる現物、現実が存在しない模写は、真の「実」を求めて玉ねぎの皮を剥き続けるような営みで、SFとは何なのかを語っているかのようだ。
中里勇太《選んだゆめときぼう》(2017)は、樟の木を切り出し、長編作品「のび太の日本誕生」に登場する空想の動物・ペガを実体化させた。作中ではペガを含む3体の生き物がドラえもんの道具によって生み出される。その過程を作者は長い時間をかけて、手仕事で行うため、作中ののび太らの内面、思春期の心の動きなどに思いが至ったという。
暗闇の中に漂い、一定周期で光を帯びるのは後藤映則《超時空間》(2017)。時空間が乱れは時として、偶然にも日常生活の場と遠い宇宙のどこかと繋げ、行き来が出来るようになる。このようなブッ飛んだ空想を幼児らにごく当たり前のもの(?)として敷衍したのは、ドラえもんの偉大なる功績である。
本作はその多元的に広がった宇宙、次元を遥か彼方から観測したものと言えるだろう。枝分かれした造形物に光が通っていくとき、全く異なる次元の宇宙が、あたかも同じ時間を共有しているように見える。その時、離れている宇宙の住人同士は、通じ合うことは可能だろうか?
増田セバスチャン《さいごのウェポン》(2017)、大量の小物がコラージュされて出来た、巨大なドラえもん。人の背丈を優に超えるこの作品は、未来に発掘された遺物のように、観客を出口付近で待ち構えていた。
『現在過去未来いつなのか、どこなのか、なんの目的だったのか。笑い悲しみ喜び苦しみ、怒り怒り怒り。「さいごのウェポン」。きっと。ドラえもんがいたら、全部解決するのに。』
結局我々は、何一つ問題を解決できずに、ドラえもんのいた「未来」にまで到達してしまいそうな勢いもあるが、その時、”ドラえもんとは一つの柔らかな「信仰」だったのだ”と語られるのかも知れない。現世の救われなさを癒すために、未来からロボットがやってきて過去を改変するという物語を、国ぐるみで愛し、語り継いだ。それは政治や経済で満たされなかったものを癒してくれる、優れた「信仰」だったのではないか、と・・・ 本作はそんな未来を想起させた。
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かいつまんで紹介しましたが、
面白かった
ですよ。
ああ鉄人兵団また読もうかな。
( ´ - ` ) 完。