nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R3.7/17~9/5_船場アートサイトプロジェクトVol.1 @船場エクセルビル

いつの間にか開催されていた、大阪・船場のビル一棟を使ったアートイベント。気付いたら会期が終わりそうになり、気付いたら会期延長してくれていた。新型コロナ禍で動きづらかったのを勘案してくれたのだろうか? 感謝いたします。

 

写真と動画が主な展示で、動画作品が多いから、ざっと観るだけでも2時間半はかかる。しっかり理解して咀嚼していくなら3~4時間は必要かも知れない。だがあまり触れる機会のなかった東南アジアの作品、貴重な機会です。

 

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【会期】2021.7/17(土)~9/5(日)(会期延長)

 

 

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www.semba-art.site

公式サイトだよ。

 

新型コロナ対策のため、入場のためにはオンライン(Peatix)で予約購入する必要がある。3時間刻みでの予約枠が設定されているが、観客がほとんどいないのであまり問題ない。日曜の午後に行ったら誰もいなかった。うええええ。もったいないあああ。

そう。イベントとして知られていなさ過ぎて、かなり勿体ない。Twitterを検索しても8月上旬にパラッと関係者が呟いてるだけで、異様にひっそりとした展示になっている。これは一体…。写真や動画をやってる人、興味ある人は、せっかくの機会なので、ざらっとでも観ておく方がよいと思う。

 

撮影は1Fオブジェと3Fのインスタレーションのみ可能。動画が写真撮影不可=座って受け身で見続けていないとだめ、というのが予想外にキツく、昼に他所でくそ暑い中を撮影などしていたため子供のように疲れが押し寄せて、子供のように眠りまくってしまった。これは誤算。いい歳こいた大人は体力を勘案して鑑賞しましょう。ひい。

 

 

◆全体を通じて 趣旨とかゾミアとか

大阪・船場。繊維の街であり「船場センタービル」や「萬栄」などを擁する問屋街で、アートと縁がなさそうな場所だが、この会場:船場エクセルビルは2006~2011年の間、大阪市立大学のサテライト施設「船場アートカフェ」が設けられ、都市とアートを結び付けた研究・実践の場になっていたとか。知らんかったす。

 

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このへん警察がいつも張ってるからあまりウロウロしたくないんすよ。道路を挟んで東側には韓国大使館があって、そこへの道を守るのに毎日守護してます。アートというより警官の街。やだな、(※治安はとてもいいです)

 

さて展示。

 

展示の大部分を占める動画映像の作品群は、東南アジアの作家を特集した『水の越境者(ゾーミ)たち -メコン地域の現代アート-』プログラムで、アジア地域の国際芸術展に出品している常連作家らを集めている。

思えば豪華な企画なのだが、こうして振り返って書こうと調べて、初めて気付くのが世の常であって、観ている段階では「東南アジア?」「アート上での立ち位置どうなん」「うわ作家全然わからへん」などと迂闊な。勿体ないことした。

 

「ゾーミ」って何なのかというと、東南アジアのメコン地域(ベトナムカンボジアラオス、タイ、ミャンマー)と中国南部の山岳地帯あたりの丘陵地帯「ゾミア」歴史学者ウィレム・ファン・シェンデルにより2002年に提唱された造語)に住まう人たちを指す言葉で、約1億人近い少数民族らが「国民国家」の枠組み・支配に囚われることなく生きているという。

そのような東南アジアのアーティスト・ゾーミらと、「大阪」という水の都と重ね合わせたのが本展示の主旨である。「大阪」も、水運と貨幣経済により独自の資本主義経済をやってきた「水のゾミア」ではないかと。経済面においてはメコンのアーティスト達は自国が不安定な状況にあるので、自律して生きていくために「アートマーケット」というグローバル経済にマッチしながら、自身の生まれ育った現地・ローカルの風土や歴史、文化を徹底的に作品化して流通させ、アート市場で得た売り上げをコミュニティの活動に還元しているという。

 

本展示は知らない作家ばかりな上に、各作家の作品解説や活動テーマなどをまとめた資料がなく、撮影禁止のため作品を記録してデータベース化するのも無理だし、書くの無理やんと半ば諦めていました。

が、下記リンクのページ「aura-asia-art-project」で、美術評論家・市原研太郎が「水の越境者(ゾーミ)たち」全作品について写真入りで端的にレビューしており、作品について適切な知識を得るのであれば、こちらをお読みください。わあい。私もうやることないよ。

今回のblogはこのサイトを大いに参考にしました。感謝。

 

上記のサイトがやたら本展示や出展作家について詳細な情報を上げており、超ありがたいけど、なぜこんなに詳しいのか謎でしたが、見るとこのサイト運営者は「アウラ現代藝術振興財団」で、まさに本展示の主催者。どうりで。東南アジアに目を向けるアート市場の流れが来ているのだろうか、業界のことは全然分からないんですが、中国の市場が規制規制で渋くなってゆく中、その周辺に関心が行くっていう流れがある? どうかな。

 

じゃあ作品観ましょう。

 

 

◆1F_[PROGRAM3]Art Exhibition by Osaka Artist

1Fと3Fは「Art Exhibition by Osaka Artist」企画、大阪在住や大阪を拠点に活動するアーティストを紹介する展示となっている。

大阪と東南アジアが混ざり合う、までには至っておらず、その間に挟まれた2Fの写真展は「大林コレクション」で、大阪もアジアも関係ない内容だったので、全体の構成と主旨がよく分からず、バラバラの企画がひとつの建物で同時に開催されたものと思っていた。

 

■永井英男《三位一体 ”THREE HEADS ARE BETTER THAN ONE”》

入口入って各部屋のポストあたりに顔が立て積みされている。顔!顔!顔!

 

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ゲゲゲの鬼太郎』にこういう妖怪がいた気がするので懐かしさもあり。コミカルに暑苦しくていいですね。こういう「暑い顔」は昭和から徐々に失われて脱臭されてゆく感があり、ある種の遺産的なものになるかもしれない。

これ真ん中は政治家・舛添要一に似てるなあ。上段と最下段はプロレスラーだろうなあ、えっ武藤敬司?いや最下段はヒゲの形からし飯塚高史では、じゃあ最上段は誰なんだろう。めっちゃいそうで、格闘技詳しくないからわかりません。

 

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3人ともすげえ飛んでます。漫画より激しいデフォルメが気持ち良い。

解説によると『顔の裏側にはアンバランスな小さな身体の社交ダンサー、レスラーが並行している。バランスとアンバランス、危うい均衡する力を表現した作品』とのこと。社交ダンサー! 舛添要一じゃないのか。

 

 

◆2F_[PROGRAM1]”CONTRAST=Light and Shadow” 「大林コレクションから日本の現代写真」

90~2000年代の著名な写真家らの作品群が並ぶ一室。都市と写真が元気のある時代のものなので、力があって贅沢な空間だ。

「大林コレクション」というのは、企業人にして現代美術コレクターである大林剛郎氏の個人コレクションから出品、と書いてあって、へえお金持ちですねと思ったら、大手ゼネコン「大林組」の取締役会長のことだった。そっちの大林さんでしたか。平伏。そして「あいちトリエンナーレ」の再編版イベントとなる2022年の「新・国際芸術祭(仮称)」の会長だという。うへー。大林組のトップがアートの理解者。平伏です。

 

有名どころばかりでなおかつ懐かしいラインナップ、国立国際美術館のコレクションとも通ずるところがある。写真(家)が、写真界だけでなく、現代美術の領域でも評価されるようになった時代の作品が盛り沢山で、やはり古き良き・・・なんか羨ましい。

 

宮本隆司日本大使館防空壕》(1996)2枚

荒木経惟《Pechancola》(2010)2枚

・松江泰治《ALPS 1996 #12》(1996)、《OSA 0199》(2001)

 ・杉本博司光の教会(建築家 安藤忠雄)》、《住吉の長屋(建築家 安藤忠雄)》(1997)

畠山直哉《Untitled/Osaka 2002》(2002)

・野口理佳《At the Bottom of the Sea》(2017)、《ドリーミング・オブ・バビロン》(1998)

森村泰昌《Mのセルフポートレイト(あるいは駒場のマリリン)》(1995)、《バケツをかぶった風刺家の肖像》(2004)、《Blinded by the Light》(1991)

畠山直哉《River series/shadow》(2002-04)7枚

 

どうですよこれ。国立国際美術館のコレクション展にしか見えない。

畠山直哉の都市を捉えた作品は、観ていると元気が出る一方で、懐かしいという思いを禁じ得ない。90年代からゼロ年代初頭にかけて、さらなる変貌を遂げてゆく都市の姿、巨大なだけではなく情報化や娯楽性を併せ持った、それまでとは性質の異なるものへと変質していったのを想起させられる。《River series  / shadow》は夜の川に映ったビル群の光を上下反転させ、もう一つの地平に建つ都市景をオブジェクト化している。

 

上空からの航空写真でお馴染み、松江泰治の2枚は、《ALPS 1996 #12》が広大な地形全体を平面化し、砂の抽象絵画のように見せているのに対して、《OSA 0199》はちょうど心斎橋筋商店街あたりを上空から撮ったような、物件の密集と具体物の連続が抽象性を生んでいて、マクロとミクロが対比的だ。

 

荒木経惟《Pechancola》(ペッチャンコーラ)を現物で見たのは初めてだったが、制作年が2010年になっていたり、オリジナルは70年代初頭だが同じものかどうか。本当に町が浄化されて空き缶を見なくなった。だからこれは古き日本の都市の、化石的なポートレイトに見える。

 

森村泰昌《Blinded by the Light》は初めて見た。これはパワフルですごく面白い。

縦2m×横3.65mという巨大な作品で、背景が暗くてかなり油絵ぽいタッチ、6名の人物が中央を対角線上に左上から右下へ配置され、ブリューゲルの絵のようなコミカルな民の躍動感と存在感がどーん、そして登場人物全員がサブカルやら絵画やらブランド品、国家に取り憑かれ、視界を奪われていて、足元が覚束ない。かなり勢いが満ちていて、後の洗練された変装作品とまた違ったパワーが魅力的だった。

 

 

◆3F_[PROGRAM3]Art Exhibition by Osaka Artist

2人の日本人作家による、部屋全体を使ったインスタレーション。身体を使って鑑賞しましょう。鑑賞というか体験。

 

■郡裕美《Green Airplane 2021 ー壁の向こうへ、ー》

紙飛行機の作り方すら忘れてしまつた大人たちへ。願いを書いて飛ばせ!

 

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木を植えるようにして、緑の紙飛行機が散乱している。ステートメントの『昨年より続くコロナ下の何とも言えない閉塞感を、なんとか乗り越えたい思いからこのプロジェクトを思いつきました。』と、個々人や社会が作った「見えない境界」を突破する試み。願いを書いた紙で紙飛行機をピューンしましょう。

 

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『あなたの想いを壁の向こうに飛ばしませんか?』と言われて「壁の向こうに飛ばしている図」を描く、これを行為のトートロジーと言います。うそです。想いを飛ばすのは良いんですが、紙飛行機の折り方を忘れてました。アエエエ。老いるとは、想いの飛ばし方すら分からなくなることなんだ。

 

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床に刺さった飛行機。想いが強かった人の飛行機やと思うねんな。おめでとうございます。しかしさすがに窓ガラスに刺さった飛行機はなく、壁の向こうに行くのは物理的には無理、コロナ禍や経済的苦難など見えない壁の内側に私達はいる、ということを自覚する一時でもありました。ふうー。

 

 

■堀尾貞治 × 友井隆之《1ton 彫刻》

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( ´ - ` ) 群体で攻めてきた。

なんやらもう雑然としてるようで秩序のバランス感が高いオブジェ群、これは一個ずつの物体?オブジェ?を「作品」と呼ぶのか、この部屋全体で一つの大きな「オブジェ」と呼ぶのか、どちらとも言い難っく、個体に独立性があるようでないようである、数もすごいし、形がないようで、形がある。

 

この会場内を自由に歩いて鑑賞できる。オブジェは鉄ものパーツの寄せ集めで、作家の友井隆之の工場で即興的に作っていたものだという。

解説を読んだら、2010年から現代美術家の堀尾貞治と友井隆之が「重量絵画」として「1㎏×1000個=1トン」の作成を目指していたが、2018年に堀尾が逝去したことで未完の作品となり、友井が意志を引き継いで継続、2020年に1トン彫刻として完成させたという。なんかいい話だった。てっきりこの「船場エクセルビル」から撤退する際に出たオフィス用品の廃材で彫刻をした、オフィス系ブリコラージュかと思っていた。

 

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客観的に撮ると昆虫標本に見える。線形が多くて繊細なフォルムのためか。トンボやガガンボやそれ系の昆虫が乱舞してるように見えるんすよ。でも生で観たら金属の尖り、錆、いかつさが体に迫ってくる。身体が突起に触れそうになりながら金属片の間を縫って歩くため、視覚情報よりも全身の触覚がスイッチ入るようだ。

 

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個々のオブジェはまさにみんな見覚えのあるオフィス用品、折り畳み式の長机やパイプ椅子とかの脚をバラして組み直したようなもので、社会人には感情移入がしやすい気がします。そして一品ずつにサインが入っている。つまり個体としてのアイデンティティーを丁寧に保持しているが、個体で見るには断片的すぎる、不思議な構造になっています。

 

 

◆4F_[PROGRAM2]「水の越境者(ゾーミ)たち -メコン地域の現代アート-」

4~5階は動画のみの展示となる。撮影禁止なのでblogにするに当たって色々とリンクを持ってきました。

が、なかなかWeb検索、youtube検索で掛かる情報がない。「現代アート」「アーティスト」には「東南アジア」は含まれているのかいないのか? アート(アーティスト)とは誰の(ための)ものなのか?西欧? などと思いながらですよ。ですね。

この4階では本展示の肝となる「ゾーミ」「ゾミア」の意味、メコン地域のアーティストとグローバル世界の関係、そしてこの大阪という土地とメコン、ゾミアとの関連=近似について語られている。

 

 

■ゴック・ナウ《信仰のために踊るのか?》/Ngoc Nau《She Dances for Desire》(2017)

ガビガビのデジタルノイズ調の中で伝統的な宗教衣装をまとった女性が、電子的なデータとなりつつ、真っ暗な中に佇んでいる。

"彼女"とはレンドンの儀式ベトナムの神が霊媒に乗り移って預言や踊りを行う儀式)で女性が行うもので、「母なる女神」を崇拝する信仰だ。この信仰はベトナム共産主義体制では禁止されていたが、技術発達とともに復活した。ただし現代では宗教的な儀式というよりエンターテイメントとなっているという。この母なる女神は誰のために踊っているのだろうか(=人々の欲望のために踊っている)という作品。

解説を読まないと「ああ、デジタル巫女(タイ版)だなあ」ぐらいしか思わないが、現地の信仰のことを知れば腑に落ちるかもしれない。

 

 

■アリン・ルンジャーン《黄金の涙摘》/Arin Rungjang《Golden Teardrop》(2013)

寝落ちしたので何も覚えていないが(ひでえ)、これは32分に及ぶ長編で、しかも色々な要素が盛り込まれていて大変です。卵をボウルでチャッチャッてかき混ぜてるところは覚えている。菓子すか? 菓子?

 

菓子動画!? 否です。これは壮大な歴史の話をしていて、展示のレビュー文を読むと『15世紀の布の糊付けに使われた卵の黄身、17世紀のベンガル人ポルトガル人、日本人のシャム王国への旅路、さらにはギリシャヴェネチアの船乗りの冒険とその残酷な結末等である。』いやあああ。話が多い。まじすか。そんなにてんこ盛りでしたか。寝てた私が全面的に悪いけどそれ以上に情報多すぎないか。きつぅい。台所と卵とボウルの動画ちがうんか。菓子動画ではないのか。くああ。酷やああ。

 

本来は金色の水滴の形をしたオブジェが大量に連なって、天井から吊り下げられ、空間に黄金の図形が浮かび上がるのですが、ここでは動画のみです。『parasophia 京都国際現代芸術祭2015』で鑑賞したのを忘れていない。でも涙の形が歴史の何を物語っているのか知らずに、私を含めて鑑賞者全員がただただインスタ映えする写真を撮っていたのだった。だって無理くないすかこの読み解き。作者の考えと別次元のところで鑑賞者がアートを楽しむ現象には名前を付けていいと思う。

 

 

■スーリヤ・プミポン《流れ Vol.1》/Souliya Phoumivong《Flow Vol.1》(2018)

廊下の突き当りに投影されていて、しんどかったので観てない。クアッ。

こういうことでしたね。ストップモーションアニメでした。かわいいですね。内容はまたの機会に・・・(観てない

 

参考までに作者の別のアニメを。《Flow》がどこにもなくてね。これでだいたい作風や動きが分かる。めちゃくちゃディテールが凝ってますね、ミニチュアと言う感じがしない。この動画、日本語のテロップがちょいちょい入るんで、本来は日本向けに字幕付きで紹介されたものでは… しかし見つからず。

 

 

◆5F_[PROGRAM2]「水の越境者(ゾーミ)たち ―メコン地域の現代アート―」

動画作品が6本。多いぞ。嬉しいんですが、どれも抑揚があまりなく淡々と平板で、刺激はかなり無。寝落ちせずに鑑賞するために、前日は睡眠を十分にとる、当日は疲労を無くしておく、昼飯を食べすぎない等の準備が必要です。失敗しました。ぐうああ。

 

 

■スティラット・スパパリンヤー《おじいちゃんの水路は永遠に塞がれた》/Supaparinya Sutthirat《My Grandpa's Route Has Been Forver Blocked》(2012)

約15分間、分割ダブル画面表示で大きな川を映しており、これは本企画の主力作品だなと思った。これまでのアートイベント類での経験則からか、海や川を扱った作品は、その地域やイベントにおける地理的・歴史的な大きな根底に言及した主力級作品であると直感する。水の流れは多くの人の生活に関わるものだから、含有されるものが分厚いのだろう。「川」が表象するものについてはまた色々考えたいところ。

 

映されているのはタイのピン川で、チャオプラヤ川の主要な支流であり、歴史的にも水上貿易の要所であった。1958年にプミポンダムが建設されて道路網が整備されたことでピン川が堰き止められ、祖父の時代にあった貨物船を営む生活、そこで見られていた光景は失われた。

 

画面左側は川の源流からプミポンダムまでの光景、右側はダム貯水池を利用した地元のクルーズ船業者がガイドをしている様子などが映し出される。ダムが無いころはこのあたりは熱帯雨林だった、灯りも無かった、という言葉からも、環境が一変してしまったことが分かる。

 

 

 

■マウン・デイ《血花》/Maung Day《Bloodflowers》(2018)

モノクロでミャンマーの農村、自然と自作の詩が静かに映し出される。写真のように静かに止まった映像の中で、豚が動き、小舟が揺れ、詩は『癌の治療法は発見されない / 仏陀もそれについては何もできない』、『農民が感染症の危険性を説明している / 農場のあちこちで死に絶えた豚』などと、不穏な言葉を連ねる。

白い布をかぶって画面を横切る村人は死神か亡霊のようだ。

 


ミャンマーという国にある自然や信仰の幻想的な部分と、政治・生活の生きづらさが強く織り交ぜられているように感じる。

 

 

■クゥワイ・サムナン《ポピル》/Khvay Samnang《Popil》(2018)

本企画では数少ない躍動感ある映像で、竜のマスクを被った2人の踊り手が延々と向かい合って踊り続けている。

竜は漁業で使う籠の蔓で出来ていて、舞踊というより「関係」そのものを身体で表している。それは対峙・対立、攻撃的なものから愛し合う仕草まで幅広い。踊る舞台も次々に変わる。二頭の竜は中国とカンボジアを表していると知って納得した。分かちがたく絡み合いながら激しく対立もしている。

 


この動画は公開イベントとして催されたときのもので、本作はもっと二人の(二頭の)世界に入り込んでいた。オオトカゲの縄張り争いと人間の性愛の営みを同時に観るような複雑な表情が舞踏にあった。

 

なおタイトル「ポピル」の意味は不明。

 

 

■リム・ソクチャンリナ《海への手紙》/Lim Sokchanlina《LETTER TO THE SEA》(2019)

これも、本企画の代表作と数え上げるべきだろう。青い海中でボンベの気泡を立てながら詩を朗読する姿は印象的だ。

作家が立っているのはタイとカンボジアの領界の境界あたりで、目に見えないボーダーはタイと周辺諸国の不法労働問題に直結している。タイが漁業労働者に対して奴隷的な扱いをしており、人身売買、薬漬けで、命を落としたり精神を壊したり、働いても結局何も得られず仕舞だった労働者ら、そのエピソードを作者は海中で読み上げていく。

 

海の中なので当然ながら声は全く届かず、シーボコボコ、シーボコボコと酸素ボンベから供給・排出される泡の音が響くばかりだ。朗読の声は後に重ねられている。届かない声――読み上げられる言葉は泡となって海に、つまり海で命を落としていったカンボジアの漁師たちへと浸透していくようだ。

2015年に問題が明らかになってから国際的な非難が集まり(先進国である自分の国が、奴隷労働に拍車をかけてたなんて洒落になりませんからね)、EUなどが水産物・水産加工物の輸入を制限、2017年にタイは法律を改善していい方向に向かいました、ということで締め括っていいのかな。

 

 

■サマック・コーセム《羊》/Samak Kosem《Sheep》(2017-2018)

タイ深南部の社会状況について、羊をモチーフに物語っている。

タイ深南部とは、海に突き出たマレー半島、マレーシア国境付近の県を指す。マレー系住民、イスラム教徒が多く住む。文化・宗教上のアイデンティティーが中央と異なるため紛争も続いていた。近年では爆破テロも起きている。

 

力尽きて作品を観れていないうえに、頑張って探したが本作の動画が見つからない。以下の記事は明記されていないが作者サマック・コーセム本人の寄稿文で、本作《羊》を含めた全体的な問題意識、テーマについて知ることができる。

本作についてはこうある。

ヒエラルキーと宗教的暴力を暗示した作品で、深南部の文化におけるムスリム社会のもう一つの顔を描き、人間がいかに人間以外の存在と人間目線で接しているかを示すとともに、タイ国家の中の深南部の人々と暴力の隠喩にもなっている

 

(  >_<) あーあー 見るべきだったなあー

羊がかわいいだけの映像なんだろうなとなめてかかったせいです。チーン。

 

 

■メッチ・チューレイ&メッチ・スレイラス《母なる川》/Mech Choulay and Mech Sereyrath《Mother of River》(2020)

赤いローブを巻いた人物が次々に変態していき、人間ではなくメコン川の精霊か使いのようで、顔が見えることはなく、赤いローブは川のように体よりはるかに長い。緑の草むらに1本の赤い帯となって横たわる様は美しい。が、特徴的なのは生と死のサイクルが凝縮されていることで、川の泥を胸元に取り込んで(食べている?)、腹部が球状に膨らみ、懐胎し、泥の塊の球体を産んで、倒れる。手元には蠅が止まる。死んだのだろうか。

 

このサイトにメコン川の環境問題とともに作品のコンセプトが述べられている。川は生物多様性の場であり、多くのカンボジア民にとって水産資源をもたらし、主要な収入源となっていること、その生命が危機にあること、すなわち「母」は死につつあることだ。

 

 

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駆け足で観ましたね。もう1回観に行ったら良かった気もしますが、これはけっこう自分で調べてないと趣旨とか意味が分からないであろうから、こうした振り返りの労が必要だったように思います。

 

それにしても「東南アジア」のアーティストだけでなく現状について、かなり知らなかったんだなと実感しました。東南アジアは中学・高校の時の知識で止まってる気がする。いかんいかん。多くの人もそんなもんじゃないですかね。もっと情報がほしいな~。

 

 

( ´ - ` ) 完。