ビーツギャラリー訪問の続編、続いて「gallery B」の幸得 feat.okajimax『Fusion』と、2F「コビーツ」のホイキシュウ『進撃のまりりん☆GOGO!』をレポ。それぞれ全然違う作風ながら、「写真」行為がねっとりと絡み付く濃度を感じた。
【会期】2021.8/18(水)~8/22(日)
- ◆幸得 feat.okajimax「Fusion」@gallery B _幸得冬花 作品
- ◆幸得 feat.okajimax「Fusion」@gallery B _幸得×okajimax コラボ作品
- ◆ホイキシュウ「進撃のまりりん☆GOGO!」@コビーツ
前回レポでは、1F・入口すぐの「gallery A」では写真家・manimanium が小説家・町田康のバンド活動、歌詞とコラボレーションした「汝我が民に非ず」についてレポ&感触をまとめた。町田康側の読み解きも試みたので文章量が単純に倍になって、記事を切り分ける必要があったというのが実情です。おほほ。
1F奥の「gallery B」へ進むと思いがけない展示形態で、ドローイングのオブジェ作品と、それらを手に取り身体とともに写るモデルの写真作品とが並んでいた。BEATS GALLERYと言えばコテコテの写真専門ギャラリーだと思っていたので、この柔軟さには驚いた。
◆幸得 feat.okajimax「Fusion」@gallery B _幸得冬花 作品
まずドローイング作家・幸得冬花の単体での作品から。平面作品だが真四角なカンバスに描くのではなく、支持体を変形させて全体を絵画化している。平面状のオブジェである。
内へと向かって描かれる曲線上の塗りは、女性の人体、体内で起きている体熱や血流や内臓の脈動、神経の働きなど、生命活動における波長の振幅を可視化しているようだった。一言で言えば「生命の神秘」という決まり文句に集約されそうだが、身体の内部の流れをカラフルなエコーで見透したような絵からは、神秘だけではなく、持ち主でさえ理解しがたいもの・手に負えないもの、というニュアンスも感じる。
色合いが明るく、わりとあっさりとした塗り・陰影のため、どろどろとした内面にまでは行き着かず、ライトな印象である。これが、写真と組み合わさると劇的に変化し、別次元の力を見せた。これらはコラボレーション撮影企画として、体とともに撮られることを前提とした大きさに合わせて作られているという。つまり、オブジェ単独では完成形ではなく、この先があるということだった。何かが物足りなかったが納得した。
◆幸得 feat.okajimax「Fusion」@gallery B _幸得×okajimax コラボ作品
幸得冬花のドローイングオブジェを、作者自身がモデルとなって身体に合わせ、写真家・okajimaxが写真によって作品化したものである。これが見事で、ドローイング現物とは全く別物となっていた。
先に観たそれぞれのオブジェ「作品」が実は「パーツ」であって、人間の生身の肉体というもう一つの「パーツ」と重ね、それら二つの肉体を「写真」という媒体(触媒)によって溶け合わせて接合して初めて「ひとつ」(全体)となる、という作品だった。
写真の撮り方も現像・プリントの仕上げも巧みで、合目的でありながら本能的な肉感の強さを兼ね備えていることが、二つの肉体の一体化、作品への昇華に強く寄与している。普通に撮って出しただけではこうはならず、恐らくオブジェと人間がバラバラに分離するだろう。異なる二つの肉体を溶け合わせて一つにまとめあげるための色調、陰影、粒度などが全て調整されている。合わせ方、持ち方の角度、ポージングの表情も豊かだ。
「写真はまだまだやれるぞ」と嬉しくなった。
オブジェだけでは何かが足りなかった、情念でもなく、身体性も薄い、観ていて波動をこちらの内面に覚えるものでもなかったのだが、写真によって力を得て別の何かへと――本来あるべきものへと転換されたところに、「写真」の役割や可能性を再発見した思いがする。絵画やオブジェと人間の肉体を写真によって撹乱したり接合するのは、荒木経惟など先行する写真家がこれでもかとやり尽くしてきたことではあろうが、こうして時代が変わっても、その時代時代で、異なる領域の表現をエンハンス、メタモルフォーゼさせることが可能ではないか、写真には写真にしかできないことがまだあるではないか、と。
その成功にはもちろん、身体の内側の波長や精神といった表情を可視化したオブジェに対し、人間側も実の身体を対等に差し出していた――舞台を成立させていたのが大きな要因となっていることも忘れてはならない。写真家の力量だけでなく、作家側のマインド、覚悟が大いに関係しているのだった。
◆ホイキシュウ「進撃のまりりん☆GOGO!」@コビーツ
自作のフォトフリーペーパー『まがたま』を発表・各ギャラリー等で無料配布(A4縦・8頁のカラー出力と豪華、最新策はVol.150!)し続けている、特異な情熱を持続する写真家である。
日常・ストリートのスナップと女性モデル撮りを主に発表しているが、かと言ってスナップ写真家とも、ポートレイト写真家ともはっきりと断言できない、横断的というか領域徘徊的な作風で、写真行為自体に憑かれたような人柄が伺える。
モデル撮影はこれまでの傾向で言えば、狙いを外したり、擦過的なものであっても、基本的には「美しく」女性を撮ってきたが、本作は目のやり場とコメントに困り、「普通、女性はそういう角度で撮らなくないですか」という、ある種の露悪さをポップに打ち出している。
遠目には、一見「かわいい」女性を可愛く撮ったように見えるが、普通は暗黙の了解として隠す部分、撮らない角度から「攻めて」おり、『クリムゾン・キングの宮殿』ジャケを素人で再現したようなことになっていて、それでいて別に全身の雰囲気や衣装は「かわいい・美しい」路線を全肯定したものなので、アヴァンギャルドへ踏み込んでいるわけでも全くない。これは展示内容や撮影技術の鑑賞・解釈以前に、この撮り方自体が意図であり目的だったのだろうと察する他ない。
考えられる一つは自己模倣の中断・切断。自分の中で手慣れたパターン化した撮り方、作風を打破して次の可能性を模索している可能性がある。「女性を美しく撮る」ことのパターンを部分的に中断しつつ、親密な距離感と相手への肯定はキープして、別角度から親密度と意外性を高める狙いがあるのではないか。
もう一つ可能性があるとすれば、写真行為を自分の「作品」にする際に、どこで「ずれ」を出すか、その領域を変更したことだ。
これまでの作品は「美しい」女性ポートレイトの領域にありつつも、ハイクオリティな洗練、高解像度でのハイファッション化や、エモーショナルな質感の盛りを目指してはいない。あくまで自分の手の届く距離でのモデルとの相対――私写真的な距離感を担保しつつ、フィルムの荒れやサービスプリント的な色の浅さ、ざらつき、ピントの甘さといった質感の「ずれ」や、生活の延長線上にあるような風体、写真を介した戯れとしてのポーズと表情という「ずれ」が、必ずどこかに取り入れられている。洗練と完成を「ずれ」によって回避する、踊り場でのあかるい密室行為が、ホイキシュウのポートレイト作風なのではないか。
今回、その「ずれ」をモデルの「顔」の扱いに対して持ってきた。そのため逆に他の要素はバシッと安定していて、色や輪郭や背景は明確に描画されており、明るく彩度も高く、全身・服装は撮られる前提で選ばれている。「ずれ」をどこに設定するか、その長い試行錯誤の旅を自身の作風としているようだ。
しかし本作は、そこでシャッターを切れば光学的にはこう写るだろう、というものであり、デッサンの模索中である。「こんなポーズしてみて」「どんなふうになった?」「あー、面白いかも」「…ほんまに??」などと、二人が試行錯誤のやりとりをしている様子がありありと目に浮かぶ。同時に、自分自身に何か一石を投じたかったこともすごくわかる。
これはあらゆる点で、前回レポートしたmanimaniumの作品、モデルとの向き合い方と対比的であったのも興味深い。「表現」の定義自体からして違うのだと思う。
この下の2枚は良かった。タイトルの通りだし、作者の手を離れており、二人が手探りで「このポーズどうかな」「どうだった」と試行錯誤するところからひとつ抜け出た状態のように感じられた。着想としては南阿沙美《MATSUOA!》あたりが念頭にあったのだろうか。撮り手も被写体も「作品」へ入り込むというのはかくも難しいものなのかと実感する。
という感じでビーツでした。面白かった。仕事を放り出してきてよかった。生産性が下がりすぎてマイナスを示して逆に何か生まれそうな気がした。気がしただけどす。ははは。ああ、
( ´ - ` ) 完。