身体。言葉。性別や恋愛について。それらを越境したところにある親密さについて。
(会期は6/14~6/30までだったが、後に7/6-7の二日間が追加された)
「身体」。私たち個々人の持ち物、私たち自身、であると同時に、長い時間をかけて仕込まれてきた教育、調律の賜物である。国家が国民の範として伝える教育制度そのものであり、国民のあるべき理想像にも繋がる。それは健康福祉に留まらず、近代化された手続きに基づいて労働力・生産力となるべく育まれ、倫理や人格、そして性差や性愛の領域にも及ぶ。
私人の関係性、踏み込んだ関係になればなるほど、身体に掛けられた線引きは直接的な力を発揮する。私は男か、男でないか。あなたは女か、男か、どちらでもないか、ではどうすればいいのか。それは良いことか、あなたはどう思うか。等々。
作者はそうした幾重にも掛けられた国境線を越境して、その身で相手と親密であれるかを試行する。恋愛や性愛という言葉(国語と言っていいかもしれない)の枠では語れない「親密さ」について可能性を探る。
しかし。メジャーな言葉、国語の規定を脱してものを見たり考えたりするのは想像以上に大変で、自身の内なる言葉にウェイトを高く置いて生活できる学生やフリーランス、アーティストならまだしも、組織の一部となって日々、分単位秒単位でワンフレーズで3点要約でものを考えものを伝えるよう言語的に調律されまくっている社会人(私だ)は、まず自己に幾重にも掛けられた強固な言語シールドを解かねばならない。だが解くと死んでしまう。シールドは全身の免疫系であり警察の制服のようなもので、決められた種・型の言語しか基本的に通さないし、そのシールドの上や中で生活しているので「外す」という発想がそもそも存在しない。これが一般的(社会人的)な「身体」の状況である。概ね皆さんもそうじゃろ?
というわけで展示をぐるぐるしながら、
写真作品を眺めているだけではどうにも埒があかない。
話し言葉書き言葉は写真の言葉よりもあまりに強力で、写真が語ろうとするのを上から抑え込んでしまう、その際に最も強く駆り出されるのが恋愛、性別、性差、LGBTQ+、などといった身体と心身を巡る中心~周縁の分布と付置を行おうとする言語体系である。つまり政治的理解である。作者が最も脱しようとしていたものを、言葉に表そうとすれば逆に強く当てがおうとしてしまう。
この自身の強権的な身体言語のループの発動には気付いていて、以前の展示、例えば「KG+ 2023」でのグループ展「透明な手で触れる」(堀井ヒロツグ、成田舞、片山達貴/@ GOOD NATURE STATION)でも逃れ難く、作品そしてそこに写された人物について理解し、言葉にしようとするや、体内のシールドが作動し、作品・作者の趣旨に反したカテゴライズや判断を行うことに繋がってしまう。その困難ゆえに結局blogに書けなかった。
言葉を当てようとすると政治的な言葉で縛られた身体性が作動する。そのことに自覚的になればなるほど言葉を表に出せない。この単純にして強いジレンマのループを乗り越えるにはどうすれば良いものか。私のことは完全に切り離して、評論・批評として客観的に表現形式の系譜や分類によってアプローチするのが最適解か。しかしそれではこの何とも言えないジレンマが表現できない。何より作品と相対して何か、男性ら同士が肌を、体を、半透明の状態で交える様に、何かを感じたから忘れられないわけで、しかしそれを。二重のジレンマが襲う。
だが今回、『りんご通信6』掲載の「からだの波打ち際で」と、作者のZINE『モノローグの綻びを窓にして』のテキストを読んで、アプローチをもっと体の側で切り替えることを思いついた。
繰り返されているのは「ふたり」でいることの時間と空間について。
「親密さ」、言葉や性別で定義できない距離感、存在感について、友情や恋愛という枠組み以外の/超域する重要な感情があることが、作者の作品なのだと知った。そしてそのことを言葉にすること自体は否定されていない。むしろ言葉が対に無ければ表現できない。写真作品でもそのことを表しているはずなのだが写真に相対すると言語シールドが先行して押し潰してしまう。だがテキストであれば後攻に回る。
であればテキストから受けた作者の「親密さ」へのアプローチを、私自身でも言語的にトレースして想起し、それを以って写真作品へ入って感得し直すよう、全身をスイッチさせてみれば良い。
というわけでこうして自分語りと展示レポを強く混ぜながら書いている。
写真では長時間露光で二人の人物が重なって写っている。
居場所、肉体、姿形、固有名詞としての単数性が、混ざるとともに重なり合っている。二人は、そばにいる、を超えて、触れ合うところにいて、しかし性的に一体化するという振り切ったところへは行かない。狭間のような関係にある。
人物の姿は2人、3人と数えられる。半透明の体は可算名詞になりきれない。1と2と3のどの値も取り得る。1を1で割ったり掛けたりするように、全ては1であるかもしれない、だが個別の身体として明確に別物とは数えられず、合体しているわけでもないので「1」とカウントすることはできない。
写真は、夜明けの光に夢がかき消されてゆくように繊細で、どうしようもなく「切ない」強さを湛えている。ここには身体の外側で――社会そのものを大きな身体とするならなおさら、流れている時空間から脱した、狭間の場が表されている。
おぼろげで、儚く、だが確かにそこにあった「親密さ」へと向かう。
写真は原理的には、光学的に光を反射・吸収するものを外側から撮ることしか出来ない。通例、写真による愛しき関係性は、残された行為や場所や人物を外から照らして撮ることによって、記憶を喚起する記録として遺され、あるいは自分の体験を連想させることで表される。だがここでは「親密さ」の状態、場、そのものを表そうとしている。
2人はどちらが誰なのかを問うこともないし、男・女の役割を問うこともない。つかず離れずに添った距離感と、そこに2人は関係性の言葉を越えて「いた」のだということ自体が、現れている。
それは作品の語り手・被写体といった役割や立場においても同様で、撮る―撮られる、語る―語られるという力関係が生まれないように、どちらもが重ね合わせの状態で作者は存在している。Xなどでおなじみの、マイノリティからの異議申し立てや告発的証言、多様性への訴えとは全く異なるところに本作はある。正しさを巡る活動、論争からもっとずっと引いたところで「身体」と関係性とに向き合う。自分と相手の呼吸、脈、体温が重なっていく、存在感が共になる、そしてまた「身体」によって醒めて分かれてゆく、またまた情感によって近接し重なってゆく、その波がここにはある。
誰かと、得も言われず傍にいたいという好意、思慕を、私がダイレクトに想像し共感することは、最近かなり難しかった。自分自身の置かれた状況やこの数年での様々な変化が、心を忙しくさせ、強張らせていたために、何かを感じるということ自体が困難になっていた。あかん。
だが作者が繰り返し丹念に重ねるテキストが、がちがちに硬化した私の身体/言語に響いてきた。水は柔らかくも強いのだ。作者の言葉と写真は水のようだ。シールドは水に濡れて、撓む。
なぜ「わたし」は一人の私として生まれてしまったのか。なぜ「あなた」を知ってしまったのか。そしてなぜ「ふたり」になったのか。そしてなぜまた「ひとり」に戻るのか。人間をやっていくというのはずっと波打ち際で、寄せては返す波に揺られることなのだろうかと思った。たいへんや。
たいへんや。ああっ。
( ◜◡゜)っ 感(完)。