nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.8/18~8/22_manimanium feat.町田康「汝我が民に非ず」/@BEATS GALLERY

老舗の写真系・自主運営ギャラリー「BEATS GALLERY」が、2021年3月10に江戸堀・阿波座から生野区新今里へ移転した。遅れ馳せながら今回の訪問が移転後初めてとなる。建物4階のうち1階と2階の展示スペースで3つの展示が催されていた。

今回は、町田康とmanimaniumのコラボ作品をレポートする。 

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【会期】2021.8/18(水)~8/22(日)

 

展示会場は、1階・入口からすぐの「gallery A」、その奥の「gallery B」、2階の「コビーツ」の3つから成っている。複数の展示を同時に展開するのは移転前と同じだ。

 

関西の写真展は出来るだけ観ます、と標榜しながら、移転後ビーツが放置状態で、はよ行かんと年が暮れてまうぞ、と自覚はありながらも、今里。どこですかそれ。布施、鶴橋のあたりらしい。えー。無理。どこからも何となく離れた立地ゆえ、他の予定と繋げられず、これどうしたらいいんや、と、もじもじしていたら夏が終わりそうになっていた。いかん本当に年が暮れる。誰か時を止めて呉れ(はよ行けや)。

とその日も変わらぬ、うだつのあがらぬ仕事時間を過ごしながら、就業中もTwitterを出たり入ったりし、虚ろな午前午後を漂っていたところ、タイムラインに妙に色っぽく人間っぽい人形の写真が現れ、展示告知を見ると町田康・文 manimanium・写真」とある。ななな。どういうことや。俄かに混乱。

小説家・町田康が写真(家)と、この人形の写真で、一体どうやって作品・展示が成り立つのか?? しかも写真の自主運営ギャラリーである。一体どういう展示になっているのか想像できなかったため、時間休をはめて職場を抜け出し会場に向かった。私ぜんぜん仕事してないやないか。やむをえない。それが町田康というものだ。くらくらするぜ。

 

◆manimanium feat.町田康「汝我が民に非ず」@gallery A 

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しかし町田康が写っているわけではない。人形展かと見まがう作品である。これはすごいぞ。ぜんぶドールだ。オール人形。言い方変えただけやん。はい、はい。

 

本作は、町田康が2016年に結成したバンド「汝、我が民に非ズ」3rdアルバム《汝我が民に非ず》(2020年11月リリース)のジャケット写真に起用されたもので、展示とアルバムは全く同じタイトルである。

 

小説家と写真家の掛け合わせ仕事は珍しいものではなく、有名どころではまさに町田康荒木経惟がコラボした『俺、南進して』(新潮社、1999年9月)が挙げられる。そちらは町田の唄い酩酊し徘徊するように書く独特なリズム感の文章と、大阪を舞台にして町田の発する独特な存在感を荒木が撮った写真とが合わさっている、私小説風の自主制作映画的な場末のライブハウスでの唸り合わせのような書籍、作家二者の掛け合いで、登場人物なのかどうかを行き来する上に荒木自身も登場する、小説内虚実のメタを混線させた代物だった。

 

本作は全く異なり、作家二人の顔と名前は表に出てこない。代わりに等身大の女性の人形が、耽美的な情景の中、物憂げな空気を漂わせてシングルで写っている。同じ顔の人形が続くので匿名性が高いが同時に指名性も高く、相反するものを孕んでいる。そして写真の余白や背景にテキストが合わせられている。

 

上掲の会場写真のように、距離をおいて作品を見ると、等身大の人形のポートレイトである。だが近付いてよく見ると、顔だけが不老不死の幼女めいた人形で、手元や指先は時を刻んできた生の人間であり、そのギャップが不条理な面白みをもたらす。写真家とモデルとの息の合った共犯関係としての演出、それを裏切る無表情な仮面の非人間性、更に詩が加わり、耽美だけではない独特な波長、脱力と意思の狭間の揺れが生まれている。誰のものか分からない人生の中で、揺れながら確かさを不意に垣間見るような。

 

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――と書けば、何の意外性もない優等生の感想文になってしまう。避けたい。相手は町田康である。優等生ではだめだ。満身創痍で小躍りする必要がある。

 

堀り下げるなら、本作はまとまりの良さゆえに心地良く、あまり感情のざわつきや理性のノイズをもたらさないのも事実だ。まず写真が意外なまでに歪さをもたらさない。作者とモデルの私的な世界、仮面というバロックな耽美的さ、情感に満ちた光と靄のノスタルジックさは、本質的には閉じた陰なる秘め事の場であり、鑑賞者の生理的に合う・合わないがハッキリと出る性質のものだが、不思議と拒否感や反発を覚えなかった。非常にすんなり観ることができ、その「すんなり」さが逆に違和感となった。

これは作者がプロフォトグラファーとしてモデルや場をまとめあげ、私的かつ内向的に見える”陰”を、スポットライトの灯った舞台(=観客を想定した構成)として昇華させる演出力と編集力に優れていることの証左だろう。

 

それ以上に、写真に施された詩、「ことば」の挿入スタイルが「まとまり」の最大の要因ではないだろうか。

言葉の編集によって本作は「写真」ではなくなり、本の一頁やデザインなど別のメディアへと転化されている感がある。クラシックなシルバーフレームでの額装を施されながら、波打つペラッとした紙で出力されているのも「写真」から「本」への近接にひと役買っている。これが全体としてはバランスのよさ、見やすさに寄与し、同時に写真家のポテンシャルを想定の安全圏内に留めてもいる気がする。

写真には言葉に意味や世界観を大きく左右される脆弱さがある。翻って、言葉や説明を引き剥がされた写真は深い力を宿す。物言わぬ瞳の方が迫力があるというのは人間でも同じだ。作者の写真のポテンシャルとしては、像だけが自立した際には展示以上のものが出てくるのではないだろうか。

 

もう一つ解決されざる命題が残っている。「なぜ町田康がこの作品に惚れ込んで一発指名したのか」「結果、manimaniumの世界観は町田康のどこに活かされたのか」という問いだ。

manimanium単独名義の展示であれば、全ては「作者の意図」として直線的に読解・解釈して済ませられる。だが作者曰く、町田康本人が以前から自身のinstagramTwitterを見ていたらしく、ある日、本人からオファーがあり、写真データを送ったところあれよあれよと言う間にコラボ、そして本展示のように、詩と写真が合わさった作品が先方で作られていたという。

 

言わば、本作は作者の手を離れ、意図やコントロールの及ばないところで作られたコラボレーション作品である。

となると、本展示の肝を理解するには、コラボの起点となった町田康のインスピレーションの発火、現在の町田作品の世界観を理解する必要がある。

 

しかし写真を観ても詩を読んでも、なぜ町田康がこのビジュアル・世界観を指名したのかが全く分からない。

要因は幾つかあり、一つには町田康側のコメント、ステートメントなど制作意図が表明されていないこと。従来の町田康の作家像と本作のイメージとが直接には結びつかないこと。もっと言えば、私の「町田康」認識が90年代半ばからゼロ年代半ば頃、小説『くっすん大黒』や『パンク侍、斬られて候』あたりで止まっており、現在のバンド「汝、我が民に非ズ」の活動や世界観は一切知らないためでもある。

 

これは読み解くどころではない。

ここで改めて町田康側からの読解を試みるには、あまりに情報と時間が無さ過ぎるので、無念の思いで切り上げねばならない。

が、町田作品において「人」は、やむにやまれず、誰に見せるでもなく小躍りし、くるくる回ったり、理屈があるやら無いやら不条理の中で、地団駄を踏む存在である。PUNKである。生活というもの自体がPUNKの状態、めし食って泣いたり笑ったり寝たり起きたりしている。だが世俗や政治や経済やなんやらからは決定的に逃れられず、かと言って政治的な直接闘争はありえず、革命もありえず、自傷自死もありえず、ただひたすら、へらへら、ぬらぬらしながら、時折/頻繁に/孤独に踊り狂っては、しぶとく生き延びてゆく。そういうPUNKな存在である。決意ではなく状態として腹を括っているというか、どうしようもなく存在をやっていく、それしかない状態であることを受け容れている。

諦念混じりの、不条理清濁併せ呑みの実存主義。合ってるかどうかは別として町田康の作品に漂う感触と人間観は私にとってそのようなものである。

 

本作に写された人とドールのハーフの姿は、無表情と大きな瞳ゆえにどこか飄々としながら、角度によっては悲哀も漂い、無表情ゆえに浮遊しながら、しかし肉体が実生活の地上に縛り付けられている、世を舐めているのか、世に耐えているのか、どちらなのか判然とせずどちらともとれる卑近さも感じさせる、そうした諸々のの中に個が「生きている」ことが、何か、町田康的にはピンとくるものがあったのだろうか。

全ては憶測ですが、かなり久々に町田作品に手を伸ばして頁をめくり、脳の普段使っていないところが賦活される思いがした。面白い展示だった。

 

 

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( ´ - ` )ノ 完。