nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】galleryMain × gallery 176 交流展「都市風景(アーバンランドスケープ)」_布垣昌邦「洛中洛外観察日記『03_19』」× カワトウ「スーパーメロンショートケーキ」

2022年3月、京都・五条のgalleryMainと、大阪・服部天神のgallery 176とで交流展が催された。両ギャラリーの作家が会場をチェンジして展示を行う企画だ。共通テーマとして「都市風景(アーバンランドスケープ)」が掲げられた。

布垣昌邦「洛中洛外観察日記『03_19』」と、カワトウ「スーパーメロンショートケーキ」の2つの展示をレポートする。

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【会期】布垣昌邦:R4.3/10~3/20 / カワトウ:R4.3/26~4/5

 

 

布垣昌邦は自主運営ギャラリー「gallery 176」の運営メンバーである。カワトウは2015年から「galleryMain」で毎年のように展示を行う作家だ。「gallery 176」は東京のギャラリーとの交流展は行ってきたが、京都との交流は初の試みとなる。

二人とも全く異なる作風・ジャンルの写真であり、作家としてのスタンスも全く異なる。交流展の共通テーマタイトルとして『都市風景(アーバンランドスケープが掲げられたものの、図録冊子への寄稿を求められた私は、二人の一体どこに共通項を見出せば良いのか、相当な手探り状態でそれぞれの作品を読み、思うところを書き進めていった。

 

結果、風景論は後退することになってしまったが、二人の共通項として「市場性を度外視したテーマや場所を撮り、自身らも評価の市場に乗るでもなく、名状しがたい動機から10年を超える作家活動を続けている」ことが浮かび上がった。

市場化を強く進めてきた大都市圏の都市空間と、それらを語る(撮る)ことを脱して3.11被災地や地方に向かっていった写真家らを対置して考えると、市場化から脱して自由にやっていく二人の写真家の活動は、写真史的な評価はし難いかもしれないが、その自由度の継続自体が重要であると言わざるを得なかった。

 

二人の展示を見てみよう。

 

◆布垣昌邦「洛中洛外観察日記『03_19』」@galleryMain(京都・五条)

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なんの変哲もなく、これほど「スナップ写真」と呼ぶにふさわしい写真もない。写真作品がコンセプチュアル化を強め、社会的意義のあるドキュメンタリー、あるいはアート界へ通用する力をより一層期待・要求される中で、旧来からのストリートスナップを実直に続けていることに、感銘に近いものすら受ける。

スタイルは90年代あたりまでの写真的態度:カメラとフィルムを備えた「写真家」が「街」へ出て、人や建築物などが乱雑に混ざり合った状況に切り込み、写真化させていく活動そのままである。

 

特徴的なのが、作家活動の持続可能性に全振りしていることだ。

2003年にビジュアルアーツ専門学校・写真学科を卒業した布垣にとって、先行世代である百々俊二や阿部淳などスナップの名手らの活動は、「同じ土俵で戦っても厳しいし、自分にはそんな写真は撮れない」との思いを抱かせるものだった。そこで、写真を始めた当初から、一生続けられる作風で戦っていくことを決めたという。

人物や光景に力・体で切り込まず、一定の距離を保ちながら全てを「風景」として捉えつつ、地元・京都を日常生活として撮り続けているのはそのためだ。

 

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日常景のスナップ、風景と化した人物、それは他のスナップ写真(家)とどう違うのか? 

作者曰く、これらは「滑稽と哀愁」を撮っており、北斎漫画」に通ずるとしている。懐かしさと面白さを感じるものが来るとシャッターを切ると。

このニュアンスは、会場で作品群を一望したことで理解できた。どの写真も画面中央に人物がいる、彼ら彼女らは無防備で後ろ姿、横向き姿を晒している。役者でもなく背景を意識しているわけでもないのに、その場その場に奇妙なポーズと取り合わせでフィットしている。それが一枚の平面=風景として収まっている。

被写体の登場人物らは、意識せずただその場に立っていたり、しゃがんだり、座っているだけなのだが、写真として距離と背景と瞬間をフレーミングで切り取る際に、strange――珍妙なおかしさを醸すようになる。

 

だがあくまで写真行為は作者の生活感、日常に根差したところからしか発露しないという。地元・生活圏でないと撮っても作品にはならず、日々の生活の繰り返しの中で、撮影すべきコースを巡回しているという。

 

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「滑稽」「懐かしさ」と作者が言っている点については補足が必要だ。

「滑稽さ」と言っても、人物はビタッと止まっていて躍動感はなく、画面に占める割合も小さいため生活感や感情は棄却されている。ゆえにラルティーグやドアノーにはならない。人間賛歌ではなく、むしろ個々人の人間性を空間の奥行きとともに失わせた、平面的なスナップである。まさに風景的だ。

作者曰く、長野重一が出発点となっており、また金村修については作品のみならず作家としてのスタンスや生き方そのものまで影響を受けている(駅で新聞配達のバイトをしている!)という。長野重一の距離感は確かに頷ける。

 

「懐かしさ」についても、古い風景が写っていることもあってセンチメンタルに見えるのだが、上記のとおり被写体との距離感と平面さがあることから、写真は個人的な感傷や懐古からは距離があるように感じられる。

作者の写真は瞬間芸としてのスナップであるよりも、その接続先は具体的な場所性としての「地元」や「感傷」「記憶」ではなく、何処でもない写真的記憶なのではないか。写真史上の、これまで撮られてきた写真としての(そこにしかない)光景、記憶であり、作者自身が撮ってきた写真の光景を基本とした、写真的反復・・・いわば写真の記憶にアプローチするために、シャッターの反復を自身に強いている、という側面もありうる。

風景に場所性が薄く、人物らが平面的な配列に見えるのも納得がいく。この点がいわゆる「コンポラ写真」とは何が異なるのかというと、何だかんだ言ってもやはり主たる構造としては、ストリートで人物らとの出会いに即興的な「笑い」の滑稽さを求めるという、外部性との偶然の出会い・衝突が主題となっている点だ。

 

写真的記憶を求めて巡りながらも、求めているのは路上の外部性なのだ。ゆえに布垣の「風景」は簡単なようで、語りづらい。それゆえに終わりがない。

 

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◆カワトウ「スーパーメロンショートケーキ」@gallery 176(大阪・服部天神)

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カワトウの作品は一度見れば忘れられない。あえて作者が避ける「空き地」という言葉を使うなら、「空き地」という強力な矩形のフォーマットゆえに、一見コンセプチュアルで、タイポロジーを以て語りたくなる。

 

しかしシンプルなようで、その内容は捉えどころがない。

「そこにあるべきもの」が欠落した光景が延々と続く。区画の中で物件が抜け落ちたり、土地が放置されていて、隣接する物件の設備や生活がまろび出ている。本来は公に触れさせるつもりのなかった「面」が露呈しているのだ。これを私は、「土地」というある種の経済資源が、市場から脱落している状態だと捉えてきた。

 

これまで2回(2020年12-2021年1月、2021年9-10月)、カワトウの展示を観る機会があったが、空いた土地の平面性と、そこに現れる雑多なもの・模様によるノイズ感の取り合わせが魅力であった。

 

www.hyperneko.com

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何もない場を写真に撮ることでむしろ情報量が増すこと、情報量=意図されざるオブジェ・ノイズの音楽的な発生であること、その予期せぬアンコントロールな表情は、市場性から脱落している姿であること、そのようなことをカワトウ作品に見出してきた。

 

今作は2021年11月に作者が福岡に移り住んでからの、撮りおろし作品である。仕事で車移動をしている時などに気になったスポットを後で訪ねて撮影したという。つまり従前の作品より、地方に移ったことで土地の荒れ方が格段に増した。雑草が繁茂し、藪や森が迫ってきていて、地方ゆえの「自然」が猛威を振るっている。

 

環境の変化に伴い、作品の持つニュアンスは変化している。

ひとつは見ての通り、自然対人工物のせめぎ合いや、自然の侵略それ自体が主題化しつつあることだ。街中では「空白」地帯、経済性のエアポケットとして映っていたが、人工・人為が完全に押し切られていて、雑草のワイルドさに目を奪われるだろう。

もう一点は、鑑賞者側の諦念というか、「地方だから」「地方はどこもこうだから」(こうなるのは仕方ないよね)」という念が先行しやすくなり、ドキュメンタリー的な風景論に陥る可能性が大きくなった。住宅を旨とする京阪神の都市部とは前提が異なる。

 

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尤も、カワトウ作品においては場所性は前面に出されておらず、というより説明がなく、実はあまり意味はない。相変わらずステートメント(と呼んで良いのか?)は人力カットアップで作出された言葉の音律であって、全く作品解説、テーマ説明になっていない。土地柄や場所性、歴史性といったプロフィールは、撮影機材と同じく作品の構成要素ではあるかも知れないが、作品それ自体ではないのだ。

 

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本人に聞けば具体的な話を教えてくれるが、展示・作品としては、意味や意図を語ること自体を手放している。その点で姿勢はこれまでと一貫している。クロストークでは「意味は全く語りたくない」と強く拒絶の意を示していた。

 

なのでこれらの「風景」について、社会的な意義、例えば地方都市における人口減や町の衰退などを語っても、ハズレではないがあまり意味はない。また、意味の説明を拒む時点でコンセプチュアルな作品にも当たらない。一見、タイポロジー的だが、被写体は明らかに意味の攪乱そのものであり、鑑賞者としてはむしろ意味のなさをどこまで面白がれるか、造形物が画面内で織り成す無作為のリズムに注目するのが正しいだろう。

 

人工物と自然物とが、右にも左にも流動しない経済性の踊り場で織り成すモンタージュ、それをライブ演奏のように捉えているのが本作である。

では音楽なのか? それは違う、比喩に過ぎない。音楽は尺・長さから成るが、写真は一瞬を硬化させた零度の平面だ。つまりは、中判デジタルカメラで徹底的に「何もない」土地の細部を描画していく、意味のなさを突き詰めて重ねていくことで浮かび上がる配列の妙に「力」を見ている。それは表向きの意味――経済性・市場に牙を剥く。標的を変えたダダイズムのように。

 

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◆二人の捉える「都市風景」とは

冒頭のとおり、布垣昌邦、カワトウの二人が共通するのは、特に写真史的な必然性のない場所(本人の地元や生活圏であり、歴史上のイベントも特にない)を、ライフワークとして10年以上も撮り続けている点だ。写真作家としての市場性を度外視し、また土地・被写体も、「都市」のあるべき経済性から脱している。その両者が出会う地点が写真となっている。

 

写真界の中心地――つまり東京的な場に言及するでもないし、広島・長崎(原爆)、沖縄や東北(3.11、原発)でもない。かといってニュー・トポグラフィックスのように写された土地に背景や意味があるわけでもないし、作家本人のパーソナルな記憶・ルーツを語る場所でもない。汚染物質が埋まっているわけでも、大量殺人が起きた現場でもないし、自身の親子関係やアイデンティティーの揺らぎを語る場でもない。

つまり、最も評価されづらい風景である。

 

写真界というものが一定の中心性なりトレンドを持っているとすれば(評価が存在する以上、そういうものは絶対にあるのだが)、そこでの話題性、言説に掛からない場所とテーマを撮っていることになる。

 

だがカワトウは12年、布垣は18年に亘って、こうした風景を撮り続けてきた。恐らくこの後も特に大きな転向を来すことなく、継続されていくだろう。

二人にあるのは、市場性から脱し、自由にやっていくこと自体の発露と体現に他ならない。

言葉を当ててみればそれだけ、何かの枠や意義に嵌めて語ることが難しいことを実感する。つまり、言説を脱したところで、自由に写真をやりたい・自由に外界を捉えたい(しかし当人にとって一定の調律、テーゼは確かに存在する)という他はない。

 

これを私は、市場化する都市空間からの脱却と、市場を志向する(せざるをえない)写真作家活動からの脱却と捉えて、展示図録冊子に寄稿した。だが二人は達観しているわけでも解脱しているわけでも、諦めたわけでもない。展示クロストークの終盤でカワトウが「傷のなめ合いはしたくない」「売れたいんすよ」と明言した通り、自己満足で閉じたものとして続けているのでは決してない。

 

このアンビバレンツ。

「なぜ評価されようとしないのですか?」「評価されるための手法・テーマ・言説に乗らないのですか?」という、暗なる力学を明確に拒んでいるからに他ならないだろう。でなければとうに写真をやめている。

関西(=非・東京)の文化的風土がそうさせているとしたら面白いと思った。私自身がそういう性質を過分に持ち合わせており、よく分からない立ち位置に立ち続けているため、シンパシーというか、共通項を見ずにはいられなかったのだ。誰かに語られ評価されることを拒みながらも、表現として認められたいと思いながら継続していく行為。ほっとけや、と、俺を見ろ、という矛盾した訴え。面白い。関西人的だ。

 

 

都市に話題を移そう。

私の実感で言うなら、市場化を進めた「都市」は、集客力や採算性と、安全・安心の名目で、顧客の囲い込みと部外者の排除を機能として備えている。見られたい・望ましい姿を「都市」自身が選好し、それ以外は基本的に受け付けない。撮られ慣れた「映え」で外観を固め、撮り慣れたフォトグラファー(フォロワー)と蜜月関係を築く。

その結果が現在の「都市風景」であるならば、写真作家はそこには乗らないであろう。それは企業活動の片棒を担ぐ以外の何物でもなくなっていて、写真家の仕事としては失効気味なのではないか。

 

加えて、写真作家らは自身の社会的役割を 3.11後の被災地や縮小する地方などに見出している。ここには写真家・写真界における市場性の原理/と同時に批判意識も少なからず働いている。誰が現在の東京的なる都市部の「都市風景」を写真で語れるだろうか?(そもそも東京を語ること自体が有効か?) それどころではない。よりメタな活動――フェミニズム、性的多様性による写真史・写真界隈批判や、写真文法の脱構築と再構築等々に勤しんでいるところでもあるのに。

 

そんなわけで「都市風景」の商業性、市場性を暴き、批判するためのうまい写真的文法はまだ見当たらない。

 

布垣昌邦とカワトウの二人が撮る「都市風景」を一言で語ることは、今の私には難しい。「~ではない」の繰り返しから見えてくるのは、ただただ都市と写真界の市場性から脱したところで、粘り強く「写真」を繰り返す関西人の姿であった。

 

 

( ´ - ` ) 完。