空き地を撮る写真作家、カワトウの展示である。「空き地」の空白を造形として撮っているのか、空き地から見える「裏側」の光景を撮っているのか、土地が「空く」現象を撮っているのか、空き地が触発する意味性からの解放や弛緩の感覚を撮っているのか、空き地がノスタルジーや癒しをもたらすのか、意味の無さを反発として見せようとしているのか、こうした様々な読み方が可能なのがカワトウ作品である。
【会期】R3.9/28(火)~10/29(金)
住宅街の空き地や道など、空白となった場所がひたすら続き、それがどこなのかも示されない。空き地だけが撮られているのではなく、空いた土地が隣り合う壁や家屋に囲まれた場が撮られている。何もないわけではない、むしろ、ある。だが、明確な対象がなく、意味はないように見える。
どのカットも「何もない」「何でもない」場所ということになるが、それはつまり土地の機能上、経済上の空白を意味する。いずれは売却されて別の物件が建ったり駐車場になったりするだろうし、私有地の一部として取り置かれているものは何となくフリーな使い方をされ続けるだろう。茫漠とした土地、役割と所有から手放された「空白」が、本作に写っている。
基本的には前回:R2.12月~R3.1月の展示「MY KING IS ANALOG AGITATION」(galleryMain)と同じ被写体、コンセプトであるが、今回はそれよりも空白性を強く感じる。
前回の展示では、不在性、「ない」ことの体積をマッスとして感じた、と記しているが、今回の展示では写真同士がほぼ間隔なく接続されていることと、モノが何もない空き地がより多く続くことで、体積ではなく「空白」が強まった。逆に、空き地を通じて、その周囲や背景にある「裏面」が主体の表情となって強く表れてきた。
「空き地」自体には何も無いかもしれないが、土地が空いたことが暴く「裏面」の造形、風景があり、そこには雑草やレンガ塀、天戸や網戸、壁の染みだけでなく、給湯器や室外機、それらを繋ぐ配管やコード、窓から覗く不鮮明な日用雑貨、洗濯物など、無作為・ランダムに生み出された、作者不在の「詩」のような散らばりと構成の律がある。
この「詩」が意味するものは、おそらくは、ない。意味がないが見ているとじわじわと伝わってくるものがある。家屋の裏側や側面にまろび出る私達の生活、私性の魅力、だけではない。街や土地、家という私達の社会の構成物が、経済性や効率性を寄せ付けない場=可能性をそこに見るからだろうか。本来は厚く広く経済性に支配されているのだが、無造作な、訳の分からない雑草と給湯器の取り合わせには、経済原理を途切れさせる脱臼作用を感じてしまう。それが面白いのだ。
あるいは「ない」ものを執拗に見出してはそれを作品・展示として繰り出す行為、音楽性とでも言うのか、そのノイズに近い律を見せる姿勢――意味や経済性ばかりを求める社会に抗して、分からないものを突き付けようとする反発や懐疑的な姿勢もまた、作者の見せたいものでもあろうか。
なお、カワトウ作品というと、AIでさえ生成しないような、目の眩むようなテキストが特徴的だが、この一見、乱雑で支離滅裂に見える言葉の選択と接続は、密度は違えど、案外、空き地が暴いた「裏面」の風景、造形の散らかりと整合に通じるリズム感を覚える。
無意味なように見える、読んでも意味は分からない。だが全く意味がないわけではなく、例えば大まかな文法構造は正しいし、長い修飾部を除けば句読点ごとの単位では意味は整合されている。造語もなく偏った主張もなく、観念も日常も視覚情報化されて出力されている。意味の経済性の「裏面」にある、暮らしの中に見出される言語的意味の散らばりや繋がりを再現しているようだ。それは本作の写真に通じている。
( ´ - ` ) 完。