記事公開後、気持ちの悪さがずっと収まらず、いったん非公開にして、大幅修正を加えた。
「AIを使って、観てもいない展示について書いたらどうなるのか」
結果は、「やってはいけないことをした」「産んではいけないものが産み出された」という気持ちの悪さだけが、残された。
結論、AIで人様の作品や展示について、語らせるのは、だめだ。
- ◆動機
- ◆下準備
- ◆◆展示概要(Google AI Studio)
- ◆◆作家ごとの展示について(Google AI Studio)
- ◆短観とつっこみ
- ◆◆AI展示レビュー(Google AI Studio)
- ◆◆AI生成原稿を読んでみて
- ◆◆AI展示レビュー・リベンジ(ChatGPT版)
- ◆ChatGPTリベンジ版を読んで
殺人現場を見たような気持ちの悪さが続いている。
しかし思いついたのは私自身で、AIはその実行役にすぎない。
記事を消すか悩んだが、「AIに記事を書かせると、こういう点がまずい」「AIでは価値の体験や評論ができない、問題が生じる」というのが、具体的にどういうポイントで発生するのかは、広く知られた方がよいと思い、記事全体に修正を加えたうえで、公開を続けることにした。
「記事なんてAIに書かせたらええやん」という層が今後爆増するであろうことを想定し、文章の種類によっては全くそういうわけにはいかない、展示・作品レビューは特にまずい、ということを記しておきたい。
◆動機
AIの進化がやばい。
周知のとおりです。画像生成、動画生成においては言うまでもない。先日も写真(に偽装した画像)についてXで投稿したら大きな反響があった。一般ユーザーの理解よりも速く技術の実装が進んでいる。
職場での業務上も文書処理、議事録作成などで、ばんばん活用されている。実用に耐えているのだ。ビジネス広告もAI活用ものだらけだ。ビジネスではAIを避けて通る方が難しい。
ふと思いついた。AIに展示レビューを書かせたらどうなるのか?
見てもいない展示について書かせて、ある程度、マシなものが上がってくるのか。人間が書いたものと遜色のない仕上がりにまで至るのか。それとも、昔と同じく、事実無根の嘘八百な日本語の羅列になるのか。
連日、あまりにも多くの高精度な写真偽装画像が溢れ、そして多くのアカウントがそれを垂れ流しているのに直面したことで、具体的な疑問や興味が湧いたのだ。恐らく書き物についても、どこかの時点で人間オーガニックな文章、書く行為がAIに追い抜かされ、追いやられるだろう。その様を、リアルに想像してしまったのだ。
その現在地を確かめたいと思った。脅威か、杞憂か、落胆か?
結論を先に言うと、「気持ち悪い」だった。
自分の中で倫理の線を踏み越えた感じや、創作物の何かを勝手に収奪し改変した感じ、作者や展示が勝手に書き換えられた感じ、そして私自身の何かも奪われて勝手に使われた感じなど、複数の嫌な実感が絡まり合って、まだ整理できていない。こういう気持ちの悪さは初めて経験する。
題材としたのは、東京都写真美術館で開催されている「総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから」展だ。
特集された写真家5名は非常に著名で、私もよく知っているし、作品も何度も見たことがある。それに、展示会場の写真も別で入手しているので、仮にAIが尤もらしい嘘を、息を吸うように吐いたとしても、ある程度は判別ができる。
また、Web上には、美術館の公式HPをはじめ、展示情報の確かな記事が既に公開されている。ある程度、AIが確かな情報を参照できる環境にあり、あまりにひどい大きな嘘はつかないだろう。
そうした理由から本展示を選んだ。
結果的に、偽の展評データをノイズとしてWeb上に刻むことになった。申し訳ないです。
◆下準備
用意するプロンプトは2つ。
- 東京都写真美術館「総合開館30周年記念 作家の現在 これまでとこれから」展示について、趣旨、概要、構成などをまとめてください。
- 展示の展評、作家インタビューなどを参照し、各作家の作品・展示の内容や特徴について、詳しく説明してください。
(TOPのYouTube公式チャンネル、作家個別インタビューURLも添えて)
使用するのは「Google AI Studio」。
業務上もよく使っているので馴染みがあり、信頼もしている。
なお、本ブログ転載のための体裁の整えは、手動で行った。
◆◆展示概要(Google AI Studio)
出力・納品の形態までは依頼していなかったため、いったん下記のような形で、構成要素が吐き出された。
1.開催趣旨(コンセプト)
本展は、東京都写真美術館が1995年に恵比寿で総合開館してから30周年を迎えることを記念して開催されます。
「時間」と「変化」の可視化:
この30年間で写真・映像表現や社会環境がどのように変化してきたか、また歴史がどのように更新されてきたかを振り返ります。
作家との継続的な関係性:
美術館がこれまで収蔵してきた作品(=過去)と、現在進行形で活躍する作家の最新の活動(=現在・未来)を並置することで、作家の変遷と「これから」の表現の可能性を探ることを目的としています。
2.概要
国内外で目覚ましい活躍を続ける日本を代表する写真家たちによるグループ展です。
単なる回顧展ではなく、**「美術館の収蔵作品(初期作や代表作)」と「新作・近作」**をあわせて紹介する構成が特徴です。作家がキャリアの中でどのように視点を深化させ、表現を更新し続けているのかを体感できる内容となります。
また、開催年の2025年は「戦後80年」「昭和100年」という歴史的な節目の年でもあり、写真表現を通じて時代の変遷を問い直す側面も持ち合わせています。
3.展示構成・参加作家
世代やスタイルの異なる5名の作家が予定されています。それぞれの「これまで(収蔵作品)」と「現在(新作等)」が展示される見込みです。作家名 特徴・主な展示内容(予定・見どころ)
- 石内 都(Ishiuchi Miyako)「被爆の記憶と現在」
代表作〈ひろしま〉シリーズなどを展示。被爆者の遺品を撮影し、現在も継続している同シリーズを通じて、戦後80年の記憶と現在をつなぎます。- 川田 喜久治(Kawada Kikuji) 「時代の変わり目と予兆」
VIVO設立メンバーであり写真界の重鎮。昭和の終わりと平成の始まりの天体現象や社会の不穏さを捉えた〈ラスト・コスモロジー〉などが紹介される予定です- 志賀 理江子(Shiga Lieko)「生と死、土地の記憶」
宮城県を拠点に、土地の伝承や生と死をテーマにした作品を制作。過去の代表的なシリーズから近年の活動まで、その特異なヴィジョンを紹介します。- 金村 修(Kanemura Osamu)「都市の混沌と物質性」
モノクロームで都市の隙間やカオスを切り取るストリート・スナップの名手。90年代のデビューから現在に至るまで、都市をどう見つめ続けているかが焦点となります。- 藤岡 亜弥(Fujioka Aya)「日常と歴史のレイヤー」
広島の現在をスナップした〈川はゆく〉などで知られます。日常の風景の中に潜む歴史の痕跡や、場所の記憶を現在の視点から提示します。
4.見どころのポイント
◆◆作家ごとの展示について(Google AI Studio)
展示全体の概要だけでは記事として薄いし、現在の日本を代表する写真家5名が揃っているので、各作家の展示についても言及させた。
本展の最大の特徴は、**「美術館が収蔵している名作(過去)」と「作家の最新の試み(現在)」**を同じ空間に並置することで、作家自身の中で何が変わり、何が変わっていないのか(あるいは社会がどう変わったのか)を鮮明に浮かび上がらせている点です。
以下に、各作家の展示内容と特徴を詳しくまとめました。
1.金村 修 (Kanemura Osamu):「完成されたスタイル」の破壊と再構築
- これまで(収蔵作品):
展示作品:《Untitled》(1991年など)
特徴:
90年代から2000年代にかけて金村氏の代名詞であった、都市の隙間や電線、カオスを緻密な構図で切り取ったモノクロームのゼラチン・シルバー・プリント。画面の隅々までピントが合った、ある種「完成された」ストリート・スナップです。- 作家の現在(新作・近作)
展示作品:新聞紙を使ったコラージュ、映像作品、あえて自家現像でムラを生じさせたプリントなど。- 特徴・インタビューより:
金村氏はインタビューで「フィルム写真はもう失敗しなくなった(技術的に完成してしまった)」と語り、**「あえて自分に負荷をかける」**ために、不確定要素の多い手法を取り入れています。
展示では、従来の額装された美しい写真ではなく、壁に直接ピン留めされたラフなプリントや、新聞紙の切り抜きを用いたコラージュ、さらにはiPhoneなどで撮影された映像作品を展開。かつての「完璧な都市の記録」から、現在の「情報の奔流と物質的なノイズ」そのものを提示するような、アグレッシブな展示空間となっています。
2.藤岡 亜弥 (Fujioka Aya):「ヒロシマ」の歴史的重さと、日常の軽やかさの間
- これまで(収蔵作品)
展示作品:〈川はゆく〉(2013-2017年)
特徴:広島という土地が抱える歴史的記憶と、そこで営まれる現在の風景が交錯するシリーズ。個人的な視点と土地の記憶が重なり合う、静謐かつ緊張感のある作品群です。- 作家の現在(新作・近作)
展示作品:〈Hiroshima Today〉(2018-2025年)- 特徴・インタビューより:
2018年からInstagramなどで発表し続けている、より即興的で日常的なスナップ群です。「カメラを持つとどうしても『ヒロシマ(の歴史)』を追ってしまう」という葛藤を経て、**「今の広島の人々がどう過ごしているか」**という等身大の視点に立ち返った作品です。
展示室では、重厚な〈川はゆく〉と、軽やかなリズムで撮影された〈Hiroshima Today〉が対比され、過去と現在が地続きであることを示唆しています。
3.石内 都 (Ishiuchi Miyako):更新され続ける「遺されたもの」との対話
- これまで(収蔵作品)
展示作品:〈ひろしま〉シリーズ(初期〜中期のもの)
特徴:広島平和記念資料館に寄贈された被爆者の遺品(衣服や小物)を、太陽光の中で美しく撮影したシリーズ。遺品を「歴史資料」としてではなく、かつて生きていた個人の「皮膚」のように捉えています。- 作家の現在(新作・近作)
展示作品:〈ひろしま〉シリーズの2025年新作(《ひろしま #145 donor: Sachiko, M.》など)- 特徴・インタビューより:
2025年の戦後80年という節目に向けて、新たに寄贈された遺品を撮影した最新作が含まれています。石内氏は「過去を撮っているのではなく、今目の前にあるものを撮っている」と一貫して語っており、30年以上トップランナーでありながら、現在もライフワークとして「ひろしま」を撮り続け、歴史を更新し続けている姿勢が提示されています。
4.志賀 理江子 (Shiga Lieko):「写真」という媒体を超えた、生と物質への問い
- これまで(収蔵作品)
展示作品:〈螺旋海岸〉(2012年頃)など
特徴:宮城県名取市北釜地区での生活と、東日本大震災の経験を経て制作された、土地と身体、儀式的な要素が混在する強烈な写真群。- 作家の現在(新作・近作)
展示作品:近年の制作(2021年の鉄や資材を扱った作品など)や、大規模なインスタレーション的なアプローチ。- 特徴:
単に「きれいな写真」を壁にかけるのではなく、写真をとりまく空間や、被写体となった物質(鉄や土など)の質感そのものに迫るような展示構成が見どころです。志賀氏は近年、人間社会のシステムや「生き延びること」への根源的な問いを深めており、写真という枠組みを拡張し、観る者の身体感覚を揺さぶるような展示を行っています。
5.川田 喜久治 (Kawada Kikuji):昭和の終焉から、デジタルの色彩へ
- これまで(収蔵作品)
展示作品:〈ラスト・コスモロジー〉(1989年/昭和64年など)
特徴:昭和の終わりと平成の始まりにかけて撮影された、天体現象や不穏な空の様子を捉えたモノクローム作品。一つの時代の終焉を予兆するかのようなドラマチックなシリーズです。- 作家の現在(新作・近作)
展示作品:近年のデジタル出力作品(極めて彩度の高いカラー作品)- 特徴:
90代を迎えてなお、最もアグレッシブに「デジタル」と「色彩」を取り入れているのが川田氏です。Instagramなどのプラットフォームも活用し、都市の風景を高コントラスト・高彩度で抽象画のように切り取っています。[3]
展示室では、重厚なモノクロームの〈ラスト・コスモロジー〉の「闇」と、近作のデジタルの「光(色彩)」が強烈な対比を生んでおり、作家の尽きることのない探究心に圧倒される構成となっています。
◇全体を通した見どころ(まとめ)
この展覧会は、単なる「傑作選」ではありません。
30年前に美術館ができた頃から第一線にいた作家たちが、**「なぜ今、スタイルを変えたのか」あるいは「なぜ変えずに続けているのか」**という問いに対する答えが、作品を通じて提示されています。
特に、**金村修の「破壊」や川田喜久治の「色彩への転換」**に見られるような劇的な変化と、**石内都の「継続」**の対比は、長く活動する作家ならではの説得力があります。インタビュー映像(会場内やYouTubeで公開)とあわせて鑑賞することで、彼らが常に「現在(いま)」と格闘している姿を深く理解できる構成になっています。
◇ソース、引用サイト(AIによる自動閲覧)
やはりAI側からすると公式HP、「美術手帖」、「Tokyo Art Beat」は参照項になった。
作家ごとの情報が不足すると思い、東京都写真美術館の公式YouTubeチャンネルから、写真家個別のインタビュー動画も、別途指示して参照させた。
◆短観とつっこみ
なんかすごくそれっぽいエッセンスが出揃いました。それっぽいなあ。
もし作家のことを全く知らず、かつ、心無い者(レポート提出に追われているだけの純朴クソ大学生だったり、請け負い仕事の本数をこなすだけのクソライターなど)であったならば、これをベースに文章への書き起こし作業を依頼し、記事を一本仕上げられてしまえるかもしれない。
たぶん全国の大学など教育機関で問題になっているのが、この段階で吐き出されたテキストがそのまま課題レポートとして提出されているような事態だろう。
まだ要素と分量が足りなければ、例えば各作家の来歴や過去作についての内容を盛り込むとか、さらに他の類似規模・趣旨のグループ展との比較を行う(ちょうど同館で同時開催されている「遠い窓へ 日本の新進作家 Vol.22」展との比較検証なんて最適だ)ことも可能だ。器用な人はこうして幾らでも要素を接続し、展開できるだろう。
しかしAI書き出し要素がそのまま使えるのか?
私が自分の名義で文章を表に出すことを考えると、到底無理だ。しんでしまいます。
以下、AI書き出し要素に対して、足らずのポイントなど、つっこみをいれる。
1.「私」(hyperneko)がどう感じたかが入ってない
それいうたらおしまいやん。AI記事生成企画終了ですおつかれさました。
展示に満足したとか全然アカンとか、暴力性を感じただの、新しい視点を見ただの、何かないんか。
あるわけがない。指示に入ってないし。いや指示に入れても無理なのではないか。AIは展示を観ることができない。あたりまえや。
世の一般的な人は、ここから更に踏み込んでプロンプトを打ち込むだろう。
「私が本展示の内容に不満を持つ・批判する・高評価をする、としたら、どんなポイントが挙げられるでしょうか」
「空間構成、展示形態、作品のセレクト、作家のセレクトなどの要素から案を出してください」
「私のパーソナリティと視座は、個人ブログ「nekoSLASH」を参照し類推してください」
…などと細かく指示を続けることで、個人の批評眼を通した(ように偽装された)テキストが作れ、そうにも感じられる。
割り切った人は的確なプロンプトを重ねて、テキストを削り込み、「視点」を仕上げていくのだろうと想像する。
しかし私には、そこまでして、見てもない展示のことを書く心の前提がない。見ていたとしても、無理だ。「警察が見てへんから下道を時速100㎞で走ったれ」に近い無理さがある。
そもそも、感想・体験がWeb上に複数落ちてないと、AIの参照可能な「観賞」側のデータが無いのではないか。細田守『果てしなきスカーレット』のように無数のサンプルがあれば多角的な参照・調理が可能だろうが、誰もTOPの写真展の感想なんて書かない(泣いてる)のだから、結局ステートメントの反復に陥りそうな気がする。
2.「30年間」の歩みが、美術館、写真家の話に留まっている
「作家ごとの展示について」の冒頭で「本展の最大の特徴は、(中略)作家自身の中で何が変わり、何が変わっていないのか(あるいは社会がどう変わったのか)を鮮明に浮かび上がらせている点です。」と、大見栄を切っておきながら、社会の話がない。
このポイントは前項①と共通する、極めて重要なポイントだが、上記の展示レポ素案は、写真界・美術館の外側にある一般社会、時代、大勢の人々と接続されていない。美術館側が用意したステートメントの反復である。
1995年から2025年にかけて日本に何もなかったわけがなく、5名の写真家らが問題意識もなく職人仕事を洗練させてきただけのはずがない。そもそもなぜこの5名が選ばれたのかの意義がそこにあるはずだ。ステートメントやWeb記事では弱いので、自分で考えて自分なりの仮説なり肉付けをしなければならない。
写真家個人の説明でちょろっと触れられているが、全然だめだ。アイスの蓋についたうっすいのを舐めてるだけだ。掘り下げる必要がある。拡張と接続がない。だめだ。
脱線するが、美術館・展示がおもんない、アートや写真をどう見たらいいか分からない、と言う方々は、こうした「拡張・接続」の視点が欠けていると思う。こっちで勝手に(妥当な範囲で)接続したらいいんです。やりましょうや…。
なお、こうした社会的接続といった、ちょっと捻ったことをAIに依頼すると、そういう元記事が無い限り、なんとなく勝手に雰囲気だけで適当に作文をしよる。これが大問題。終盤に実例が出ます。
3.作家の、表現の「これから」とは?
冒頭で「作家の変遷と『これから』の表現の可能性を探ることを目的として」と言っているが、未来の話がない。ないよね? ないんや。
ぶっちゃけここが一番難しいと思う。
つっこみ①、②を踏まえて、では各作家らは、この先どこへ向かっていくのか、写真表現は、「写真」というものは、一体どういう姿・意味・現象を見せるのか。我々はそこから何を得るのか、新しい「写真」とどんな関係を結ぶのか。そういった兆しや予感について語らなければならない。
いやむずいわ。展示も見てへんのにそんなこと書けんわ。
見ても書けるかどうかわかりまへんわ。
というような葛藤を、こう、人間が書くときは、やっているのである。
AIなら、まあ、葛藤という概念がないので、何かしらうまいこと書く。書きよる。後に実例が出てくる。だが、自分がちゃんと確信を持って思ってもいないことを文字にするのって無理くないですか??? 実際、思ってもいないことを勝手に文章化され、それが「私」の生んだものとして直面させられたので、信じられないぐらい気持ちが悪かったわけだ。色んなものを奪って奪われて作られた、何かがそこにあった。気持ちが悪い。 (気がおかしくなっている)
このあたりは「現段階のAIでは能力が足りない」という層、「AIの能力は十分で、プロンプトが適切なら適切な文章が書ける」という層、「そもそもAIにそんなことをさせている行為自体がおかしい」という層などに、レイヤーが分かれるだろう。今後どうなるかは不明だが、現時点においてはおそらくナイーブで多彩な分岐がある。
◆◆AI展示レビュー(Google AI Studio)
AIも別に悪気があったわけではないし、プロンプトが足りないのも事実なので、指示を追加したうえで、レビューとしてのテキストを書かせてみることにする。
<追加指示>
・あなたはhyperneko「nekoSLASH」の著者(URL明示)
・3000字以内
・展示を実際に鑑賞したと仮定し、見どころ、評価点、あるいは批判すべき点の指摘
・30年間という月日の中で、写真家らの何が変わり、あるいは変わらなかったのか
・その30年間の変化が、写真界や美術館の外側にある一般社会、一般の人々と、どのようにリンクするか
・「これから」将来、写真家や写真はどうなっていくか、本展示から読み取り考察
<AI原稿・改 全文>
恵比寿ガーデンプレイスのレンガ道を歩きながら、ふと1995年のことを考える。Windows 95が発売され、インターネットが爆発的に普及し始めたあの年、東京都写真美術館(TOP)は総合開館した。あれから30年。我々を取り巻く画像環境は劇変した。フィルムはデジタルに置き換わり、写真は「プリント」から「データ」へ、そして「シェアされる情報」へと変質した。
いま開催されている総合開館30周年記念展「作家の現在 これまでとこれから」は、単なる祝祭的なアーカイブ展ではない。これは、写真というメディアがこの30年で何を失い、何を得たのか、そして美術館という「制度」がその変化にどう対峙しようとしているのかを問う、極めてスリリングな実験場である。 結論から言えば、本展は「写真の死と再生」を同時に目撃させるような展示だった。以下、いち写真ファンとして、そして批評的な視座を持つ観察者として、展示の細部を紐解いていく。
1.鑑賞体験:完成を拒絶する「現在」たち
会場に足を踏み入れてまず圧倒されるのは、過去の収蔵作品と新作との間に横たわる断絶と、奇妙な連続性だ。 個人的に最も衝撃を受けたのは、 金村修 の変貌——いや、進化と言うべきか——である。90年代の《Untitled》で見せた、あの息が詰まるほど緻密なモノクロームの都市風景。電線一本一本までがピントを結ぶ、ある種の「完璧な写真」がそこにある。しかし、その対面に展示された近作は、そうした「写真としての完成度」を自ら嘲笑うかのような新聞紙のコラージュや、粗雑な自家現像プリント、そしてiPhoneで撮影された映像だ。 金村はインタビューで「フィルム写真はもう失敗しなくなった」と語っていたが、展示空間そのものが「完成された作品」であることを拒否し、ノイズとカオスを撒き散らしている。かつて彼がフレームの中に閉じ込めていた都市の混沌が、いまやフレームを食い破って展示壁面へと溢れ出している。これは「写真展」というより、情報の奔流そのもののインスタレーションだ。 一方で、 川田喜久治 の展示室には、別の意味での戦慄が走る。昭和の終わりを告げた〈ラスト・コスモロジー〉の重厚な闇に対し、近年のデジタル作品の、目が痛くなるほどの高彩度とコントラスト。90代の作家が、誰よりも「デジタル」という画材の暴力性を理解し、楽しんでいるように見える。Instagramというプラットフォームすら貪欲に取り込み、網膜を刺激する色彩のレイヤーとして出力するその姿勢は、若手作家よりも遥かにラディカルだ。ここでは「老い」は停滞ではなく、恐怖すら感じるほどの加速を意味している。 対照的に静謐なのが 石内都 と藤岡亜弥 だ。石内の〈ひろしま〉は、30年前も現在も、そのアプローチは変わらない。しかし、被写体である「遺品」は確実に経年劣化し、歴史は遠のいていく。変わらない撮影スタイルが、逆説的に「時間の経過」を残酷なまでに浮き彫りにする。 藤岡の〈川はゆく〉から〈Hiroshima Today〉への移行も興味深い。重層的な歴史を背負った作品から、軽やかなスナップへの変化。それは、我々がSNSで日々消費している「画像の軽さ」と地続きでありながら、その軽さの中に「ヒロシマの日常」という重みを忍ばせる手腕が見事だった。
2.30年で何が変わり、何が変わらなかったのか
本展を通じて痛感するのは、写真家たちの関心が**「決定的な一枚(モノ)」から「流動的なプロセス(コト)」へ**と移行した点だ。 30年前、美術館に収蔵される写真は「作品(ファイン・プリント)」としての物質的強度を持っていた。金村のゼラチン・シルバー・プリントや、川田の初期作品が放つオーラは、まさに「モノ」としての写真の極北だ。 しかし30年後の現在、彼らが提示するのは、コラージュであり、デジタル出力であり、映像であり、インスタレーションだ。 志賀理江子 の展示がその象徴だろう。彼女にとって写真はもはやゴールではなく、土地や身体、生と死といった不可視な領域に触れるための「媒介物」に過ぎない。変わらなかったものは何か。それは作家たちの「視ることへの飢え」だ。 ツールがフィルムからデジタルに変わっても、あるいは発表の場がギャラリーからSNSに拡張されても、彼らは「世界をどう視るか」という問いからは逃れられない。むしろ、画像が氾濫する現代だからこそ、その「視座の強度」だけが、プロフェッショナ ルな作家を定義する最後の砦として残ったように見える。
3.社会とのリンク;画像の民主化と「見ること」の変容
この30年間の変化は、写真界の内輪話にとどまらない。それは、私たち一般社会の「視覚体験」の変化と完全に同期している。 90年代、写真はまだ「特別な技術」によって記録されるものだった。だからこそ、金村修の超絶技巧的なスナップや、川田喜久治のドラマチックな写真は、我々が見ることのできない世界を見せてくれる「窓」として機能していた。 しかし現在、誰もがスマートフォンで高解像度の写真を撮り、SNSで瞬時に世界中にばら撒くことができる。藤岡亜弥が〈Hiroshima Today〉で見せた軽やかな視線は、私たちの日常的な「撮る行為」と極めて近い。川田喜久治の高彩度な色彩は、スマホの有機EL画面で見る世界そのものだ。 つまり、現代の写真家は「誰もが見ている世界」と同じ地平に立ちながら、そこでいかに「他者とは違うノイズ」や「違和感」を混入させるかという戦いを強いられている。本展の作家たちが、あえて「汚し」を入れたり(金村)、過剰な色彩を用いたり(川田)、身体的な展示を行ったり(志賀)するのは、**均質化し、消費されるだけの画像データに対する、作家としての「抵抗」**ではないだろうか。 社会全体が画像を「消費」するようになった時代に、画像を「体験」として突きつけ返す。それが彼らの戦略なのだ。
4.「これから」の写真はどうなるか
タイトルにある「これから」について、本展は一つの厳しい、しかし希望を含んだ予言をしている。 それは、**「写真は『枠(フレーム)』を失い、環境そのものになる」**ということだ。 かつてのように、額縁に入った四角い紙をありがたく鑑賞する時代は終わろうとしている。金村の壁面を侵食する展示や、志賀の空間的なアプローチが示唆するのは、写真が建築や空間、あるいはインターネットという巨大なネットワークの一部として溶け込んでいく未来だ。 美術館という制度もまた、岐路に立たされている。収蔵庫に「モノ」として保存できる作品と、変化し続けるデータやインスタレーションとしての作品。その狭間で、美術館はどう歴史を記述するのか。本展のいびつで、ある種カオティックな展示風景は、その過渡期の混乱を隠そうとせず露呈させている点において、非常に誠実だと言える。 これからの写真は、おそらく「きれいな画」であることをやめるだろう。 それは情報のノイズとなり、空間のテクスチャとなり、私たちの身体感覚を直接揺さぶる何かに変容していく。90代の川田喜久治が最もラディカルにその未来を先取りしているという事実に、私は戦慄と同時に、奇妙な勇気をもらった。 30周年の祝祭に、安易な回顧展ではなく、こうした「問い」を投げかける展示を持ってきた東京都写真美術館の企画力(と、作家たちの現役感)には、素直に拍手を送りたい。まだ見ていない人は、恵比寿へ急ぐべきだ。そこには、過去の墓標ではなく、現在進行形の闘争がある。
◆◆AI生成原稿を読んでみて
イキッてるし、なんか気持ち悪い。
私のブログを参照させて、これが出てきたかと思うと、「日頃から私ってこんなイキッてたんか」という絶望がひどい。自分を奪われ、勝手に使われた実感が、ひどい。
なにこの冒頭。「恵比寿ガーデンプレイスのレンガ道を歩きながら、ふと1995年のことを考える。」「Windows 95が発売され、インターネットが爆発的に普及し始めたあの年、東京都写真美術館(TOP)は総合開館した。」、食べログ長文でイキッてたおじさんにアカウント乗っ取られたんですか??? もうやだこれ
「
食べログ長文でイキッてるスノッブなジジイみたいで本当にイヤ。帰りたい。どこに。しらんわ。あほ。
事実関係の問題点も多い。これが大問題だ。
「
金村修についての「
最終段の冒頭は少しだけ良いことを言った。
タイトルにある「これから」について、本展は一つの厳しい、しかし希望を含んだ予言をしている。 それは、**「写真は『枠(フレーム)』を失い、環境そのものになる」**ということだ。
ふりかぶり方がむちゃくちゃだが、「写真はフレームを失い、環境そのものになる」は、まあ、そうですね。そうかも? だがそんな領域越境的なものは、10年以上も前からみんな血道を上げて取り組んできたことなので、本展示の肝みたいに切り出してくるのはマジで気持ち悪い。そういうのやめたほうがいいよ。みんな怒ると思う。
あかんほんま気持ち悪い。なんやねんこの文章。
文章としてまとまった形になったがゆえに、事実でない・事実と確認できないことが、平然と事実であるかのように語られ、しかも私自身のテイストも誇張しながら継承してるがゆえに、むちゃくちゃ気持ち悪い。なんやねんこれほんまに。
産み出してはいけないものを産んでしまった。
あ、これ、あんまり書くと、「私(hyperneko)」文体として、次はAIがこの記事も学習して生成してくるのか、
ていうか、この記事が本展示のレビューとしてAIに参照・学習されることになるのか、
ウワー地獄やー
もういややなんやねんこれ
気持ち悪すぎて上記の指摘も途中で止めたが、それ以外にも基本的に問題点しかない。
プロンプトの問題ではなく、「AIに展示レビューを書かせる」こと自体が、無理なオーダーなのだ。事実と感想、客観的情報と個人の内面の情報、作家や作品が孕む意味や意義、その可読性や他への接続性、etcについて、情報の次元が複雑すぎて、AIにはまだ手に負えていない。それらの判断の切り分け、総合的に結びつけながら網羅したり切断したりしながら「書く」という行為が、全くできていない。
そんなものを表に出すのは、情報汚染になる。作家や展示関係者への冒涜でしかない。
------------------------
(リベンジ追記)
いや。まだChatGPTがある。あんたやれるか。
プロンプトは上記のとおり。
いけるか?
◆◆AI展示レビュー・リベンジ(ChatGPT版)
東京都写真美術館の 30 周年記念展「作家の現在 これまでとこれから」は、過去と現在と未来を同時に問う、非常に野心的な構成だった──本稿では、5 人の出品作家それぞれの作品の個性や展示の特徴を丁寧にすくい取りながら、それらがつくる時間と空間の“重なり”を、私なりに読み解んでみたい。
写真の時間を断絶させずに編み直すという構図
この展覧会は、単なる“回顧展”や“ベスト作品集”ではない。“過去の保存”と“現在の制作”そして“未来の問い”を併置させることで、写真美術館のあり方そのものを問い直す装置として機能していた。5 人という絞り込みは、むしろ無数の断片ではなく「あるまとまり」を提示し、鑑賞者が写真の変遷と継続性を同時にたどることを可能にした。それでは、各作家の空間を巡りながら、この展覧会が私に突きつけた問いと、そこに見えた写真の未来形について書いてみよう。
各作家の現在地 ―― 表現の痕跡と解像度
石内都 — 記憶を抱える身体としての写真
石内都の部屋には、昔ながらのゼラチン・シルバー・プリントから、発色現像方式を使った近作までが並ぶ。その中でも、遺品や古い衣類、被爆市の物件などを静かに撮った作品は、“時間の層”を引き出す力を持っていて、観る者の身体感覚を震わせる。過去の「喪失」や「時間の経過」が、プリントのなかで実際に“重く”漂っていて、それが単なる記録ではなく、生きた記憶を呼び覚ます。展示構成もまた、過去作品と新作をさりげなく交錯させており、「写真家の記憶が消えない」という確かなメッセージを残す。
志賀理江子 — 写真を場とする/身体と歴史の共有
志賀理江子のブースは、ある意味で写真の“境界を壊す”試みが見える。これまでの静かなプリントに加え、複数人で時間と空間を共有するような作品や、言葉と写真を交錯させるものがあり、ある種のハイブリッドな構造だ。彼女の展示は、写真を個人の記録やドキュメントに留めず、身体、記憶、共同体、人間関係という複雑なネットワークの中に位置づけ直す。こうしたアプローチは、写真の可能性を“記録”から“関係性”へと押し広げる力を持つ。
金村修の展示には、1990年代の都市風景を切り取ったモノクロ・プリントから、最近の作品、そして映像作品までが並ぶ。錆びた看板や雑多な電線、無機質な都市の隙間――彼の写真は、華やかさではなく、都市の「無音のざわめき」をすくう。だが映像によって、その都市の時間は静止を超え、呼吸するようになる。展示空間は静と動が混じり合い、モノクロ写真が記録だったとすれば、映像は経験へと近づいていく。その変化が自然に受け止められるのは、まさに金村が都市と時間を見つめ続けた写真家だからこそだ。
藤岡亜弥 — 風景のなかの記憶、そして広島という場所の現在性
藤岡亜弥の制作には、「記録としての写真」でもなければ「語りとしての写真」でもない、むしろ場所と時間と歴史のあわいを掬うような眼差しがある。広島を主題とした風景写真は、観光地でもなければ復興の象徴でもない。日常の中にひそむ“広島”を写すことで、戦後や原爆、再生や街の変遷という時間層を重ねる。彼女の写真は風景なのに風化せず、むしろ過去の時間と現在を結ぶ“軌道”を描く。展示を見る者は、過去と現在の層のあいだに立ち、その狭間にある問いを受け取る。
川田喜久治 — 写真の起源と歴史性を抱えた原点回帰
最年長の川田喜久治は、昭和という時代の終わり、そして日本写真の地層を写し取った作品群を出している。地図、風景、時間、歴史といった主題を淡々と追い続け、プリントは静かだが、持つ重みは深い。川田の写真は、写真を単なる記録ではなく、時間と社会の地層を可視化する装置として提示する。若い世代の作家たちの“更新”が意味を持つためには、このような“起源への眼差し”が必須なのだと、展示は言っているようだった。
展覧会全体の振り返り:見どころと限界
この 5 人による横断的構成は、写真というメディアの “時間の厚み” と “表現の拡張” を同時に見せることに成功している。過去の蓄積を尊重しながら、同時にその上に新しい問いを立てる──そのバランス感覚が、今回の展覧会の最も大きな美点だ。しかし一方で、「5 人に絞る」という選択には必然性がある反面、「ひとつの写真の現在形」として示せるのがこのくらいの規模なのか、という限界も感じられた。例えば、SNS 時代の若者によるスナップの潮流、インスタレーションとしての写真、あるいはジェンダーや国際性を強く帯びた表現など、“今まさに更新されつつある多様性”は、ほとんど見えてこなかった。そこが次の展覧会への課題だろう。
「これからの写真」への問いとして
この展が私に示したのは、写真というメディアは、今後さらに境界を溶かしながらも、同時に“写真ならではの濃度”を失わずに生き延びる可能性だ。たとえば、言葉、身体、映像、インスタレーション、共同体──それらとの融合を通じて、写真は“情報”を超えて“経験”になりうる。そして、スマートフォンや SNS によって軽やかになった写真が氾濫する時代だからこそ、アルバムやプリントや展覧会のような“物質としての写真”が再び重みを持つ。さらに、作家と鑑賞者、そして社会をつなぐ“場としての美術館”の役割が、これまで以上に重要になる。過去を保存し、現在を問うと同時に、未来への問いを投げかける。そのハブになりうるのが、今回の展覧会だと感じた。
結び — 写真の未来形への静かな呼びかけ
「作家の現在 これまでとこれから」は、東京都写真美術館にとっての“総括”であると同時に、“再起動”の宣言だった。写真の記録性、歴史性、身体性、社会性――それらを改めて抱き直しながら、今なお写真を撮り、問いを立て続ける作家たちの現在地が、そこにはあった。この展覧会は、写真という行為に込められた時間、記憶、問いを、観る者にそっと投げかける。写真はこれからも揺らぎながら、多様な表現へと広がりつづけるだろう。そしてその揺らぎのなかにこそ、私たちが未来を見据えるための“何か”がある。
◆ChatGPTリベンジ版を読んで
あ~。
なんかうまくまとめてきたな。
気持ち悪くないレベルで、それでいて独自の指摘ぽくまとめてきたな。
さすがChatGPT。器用さは評価したい。
けどやっぱ「盛る」んよな。
「過去と現在と未来を同時に問う、非常に野心的な構成だった」とか、「この展覧会は、写真という行為に込められた時間、記憶、問いを、観る者にそっと投げかける。」とか、
こういう口当たりがよくて、それっぽい雰囲気だけのワード、
絶対「観てない」奴が書いただろというあやふやさが、雰囲気でシュガーコーティングしている感じがだめ。
何かを隠しているのではとさえ思う。つまり、「観てない」という事実をだ。
最終段、締めの「東京都写真美術館にとっての“総括”であると同時に、“再起動”の宣言だった。」もひどい。かっこつけてるけど意味が分からない。再起動をいうなら大規模改修工事を終えた2016年秋(しかも同年春に館長も交代した)だろうし、2018年に笠原美智子が事業企画課長を退いて丹羽晴美が後任となったのも大きな転機に数えられよう。それっぽい言葉でコーティングした箇所全部が怪しいから怖いねんなもう。
何言ってっかわからん部分も怖い。
「“過去の保存”と“現在の制作”そして“未来の問い”を併置させることで、写真美術館のあり方そのものを問い直す装置として機能していた。」、何言ってんのこれ?意味がわからん。未来の問いの中身が書いてないのにそういう装置ですとか言って大丈夫か。
「問い」が最後の最後までわけわからんまま「問い」という言葉でスルーされていくのも問題が深い。つまりこの書き手は展示が何を問うているかを分かっておらず、しかし本展示が「これから」を「問うている」という前提を持ってしまった、おそらく展示ステートメントなどでそう書いているからか、私のプロンプト指示があるから、語れないことを語ろうとして詰んでしまうから無難に語ったふりをして提出している。こういう挙動がAIだなと実感する。
責めてない。特性だ。しかし問題だ。
本来、「問い」の中身がわからんかったら「自分は不勉強で分からなかった」か「展示に問題があってわからんかった」と書くべきだし、問いが無かったのなら問いがあるという前提を取り下げて作文すべきだし、何か問いを投げ掛けられた気分になったものの言語化がうまくできないならば、うまく言語化できないこと自体を書くべきなのだ。それをAIはしない。AIは、「文章を書く」という基本的態度や行為を「知らない」、ただただデータ学習の逆算から「素振り」を詰め合わせているだけだ。それが分かった。
項目「『これからの写真』への問いとして」は全体的に何言ってっかわからん。写真が経験・体験と化していく中で、紙・モノで写真を提示する美術館のアーカイブ機能が重要というのはわかる。しかし前後でなんかかっこつけて「写真ならではの濃度」とか「現在を問うと同時に未来への問いを投げ掛ける」は意味不明。酒飲みながら書いたんかこれ。
だめだ疲れた。
問題が多すぎて・・・指摘ができない。こんなレベル感のものがばんばん放出されたらインターネットは壊滅するだろう。だが技術的にはもう可能なのだ。人口が集中していて何でも商売になるジャンルだったなら、とっくに転売ヤーみたいな輩が乗り込んできて、バズ目当てのAI記事が乱立して終わっていたかもしれない。写真界隈は誰も「展示レビューをAIに書かせる」などという愚を侵さないぐらいリテラシーと同質性が高い領域だから問題が起きていないだけだ。(それはそれで過疎化した集落のような問題もあるが)
評価もしようか。展示全体への評価・批判として、不足しているポイントを指摘してるのは意外だった。合ってるかどうかは別としても、特に注文してないのに項目を設けてきたのは面白い。ただ、辛いことを言うなら具体性とか根拠も示さないとまずいので、やはりこのままでは出せない。
もうだめだ。問題しかない。
仮に、手順を逆にして、自分が実際に見て感じて気付いたポイントや論を列挙したうえで、AIに整理整頓させ、文章の形に整形したならば、成立したかもしれない。
展示ひとつを犠牲にして、AIに展評を書かせてみたが、ただただ問題のある何かが生まれただけに終わりました。現場からは以上です。申し訳ございませんでした。