会場の壁をずらりと埋めるのは空き地の写真群だ。場所も分からず、主たる眼前の対象もない。不在の風景ということになるが、しかしこれらの写真には多くのものが写っていて情報量はむしろプラス側にあるため、「不在」の語義とこの写真群が現わすものとは折り合わない。「ない」はずの場所を眼は何かあるものとして見てしまう。
【会期】2020.12/28~2021.1/11(月)
本作に写されているものとして、第1には、ある土地を取り巻く周囲・背後の環境で、詳らかになったディテールが挙げられる。無数の雑多な、とるに足らないものである。
被写体の多くは、かつて家屋などの物件が建っていたり、庭や駐車場や道路として使われていたであろう場所で、今や「痕跡」と呼ぶことができるだろう。現役稼働中の車道や個人の庭などもあるが、共通しているのは具体的なコンテンツとしての被写体ではなく、そこに何かが「無い」ことだ。
作者は私情を排して突き放し気味に撮っているため、ここでは曖昧な雰囲気や空気感ではなく、翻って、空白を取り巻く周囲や足元が見られる対象=主役となる。
するとそこには何も無いのではなく、土地は白線やフェンス、塀、アスファルトの塗り分け等によって周囲と区別が図られているのが分かる。それらが経年劣化によってグズグズに融解し侵犯されているのが分かる。普段は埋もれている約束事(と、その失効)の造形が可視化されている。
そして、隣接する建物らの横・後ろ姿が明らかとなっている。これらは隠されていた風景である。人目に触れないことを前提に作られているので、建物からすればそれはとても無防備な、裸の、私的な姿を撮られたと言える。作者の私性が抑制され、なおかつ制度や権利の線の力は弱まっている分、土地の側が宿してしまった素朴な私性が写り込むのだろう。散らかったゴミとも私物とも付かない雑多な物品、かなり成長した雑草らがその荒れっぷりに華を添える。秘められた私性の発露、だがそれは人ではなく土地である、そして一般的な美の基準には当てはまらず、表情が豊かである。
第2には、何も立っていないという空白の空間自体が、ある透明な体積、マッスとして立ち上がる可能性だ。
これは鑑賞者としてより、写真を撮る側の観点として共感し想像するところがある。私も、何もない空き地に向けてシャッターを切ることが多い。テーマやコンセプトのための写真ではない。何かに引き付けられて切るシャッターだ。
それは先述の要素:たわんだ空間の私性に魅了されるため、だけではない。無の場に対して、間合いがぎゅっと詰まったような感触を以て、そこに向けてシャッターを切る。切ってしまうのだ。すなわち空白の「そこ」に、質感のようなものを覚えているらしい。土地と区画だけがあって、具体的な建物がない。透明なマッスの誘惑である。それはしばしば、感じるより速くこちらへと現れる。
本作が同じ動機によって撮られているかは不明だが、空き地の地平面ではなく、空き地の地平面から上部にかけて注がれる目線は、無いはずの体積――マッスに着目したのではないかとも想像させられた。
第3は、空き地という被写体(被写体の不在?)に、経済的正義に対する無言の抵抗、経済活動への不参加を見ることができる点だ。
土地が遊休地のままであることは歓迎されない。タンス預金にせよ銀行の預貯金にせよ、個人が資産を手元に抱えている状態は歓迎されない。吐き出せと言われ、投資の対象として経済の輪の中に投じることが推奨される。税制度しかり、為政者の思惑しかり、コンサルタントやプランナー、イノヴェーターらのご高説しかり。あらゆるものが経済を回すために動員されている。「私」を構成するあらゆるものが。現金はそのまま持っていても価値が目減りする、投資しろ、などと散々言われている。(何なら大学や就職、就業の機会もこっちに投資しろなどと煽る奴等も無数にいる。)
要は経済というものが存在を示し、発展し続けるためには、全てが経済のゲームに投じられていなければならない。グローバル経済×資本主義の世界では「経済力があること」が正義であり、正義のために経済への積極的な参加が求められる。この強力で忌々しい円環。正義なので、それが良いか否かの判断はなされない。ただその巨大な、膨れ上がる方程式のような場へと駆り立てられている。
本作で登場する空き地はその正義、経済の環に乗っていない。ただただ、そこにあって、留まったまま、時間が流れている。これまで一体どれだけの時間が流れてきたのだろうか。もし資産活用できて価値を生んでいたとしたら、その効果的な方法が指南されたら、持ち主は雑草を生い茂らせたまま放置してきたことを悔やむかもしれない。だがそんな想定を催させない何かが、本作の空き地にはある。経済性を相手にしていない。無頓着で、鷹揚なまでの時間感覚が息づいている。
空き地だけの話ではない。
本作の構造と趣旨自体、すなわち作者の世界観自体が、コンセプトにおいても経済性(=作品として評価されるための戦略的)から少し身を置いている。中心が透明で、物語性も持たず、その周辺の物体や模様だけが、デジタル中判カメラによって高められた解像度でくっきりと形を現している、そんな写真と同じ構造をとるのが、冒頭のステートメントである。ステートメント?なのだろうか?これは。
もはやそれは壁面に自然発生した模様や繁茂した雑草に近いかも知れない。読めば分かるが、センテンス自体は分かる日本語で書かれているが、本筋はまったく分からない。バロウズのように真にラリっているか、バロウズのようにカットアップ的な技法に依らなければ、これだけの分量の文章を連ねつつ、同時に総体としての文脈を奪うことはできない。作者に訊いてみたところやはり後者で、手元で複数のテキストの元を持っておいてそれらを程好く散らしてはブレンド交配させつつ、リズム感が生きるよう句読点など微調整していったらしい。意味不明なようで上品で、暴力的な言葉遣いがなく、それでいて作者の観念を破るようにグレガー・マクレガーやハラビロカマキリ、ジョン・マクレーンが現れ、良い湯加減に熱してくれる。
これらの語句は、それを回収する「意味」という経済性の円環の罠に捕らわれずに此処にあろうとするもので、まさに本作の写真と似たような構造をとる。驚くべきは語句のスピード感へ、自己喪失の疾走感へと身投げせず、態度が丁寧であることだ。その意味では経済に対してイデオロギー上の格闘:対決や逃走を行っているわけでもない。ただ、解像度とともに光景があるだけだ。それが数となり、経済性に抗してゆく。
( ´ - ` ) 完。