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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.5/26~6/12_成田直子「Natura morta in camera ―部屋の中の静物―」@GALLERY 04街区

生活の身近なところにある写真をコラージュ的に用いて、静物を描いたセザンヌやジョルジョ・モランディの絵画に重ね、再構築し、空っぽの器について踏み込んでゆく作品である。

折込チラシ広告の写真を用いたコラージュは、モランディのオブジェと驚くほどの類似を見せる。

【会期】R5.5/26~6/12

 

展示は大きく3つのシリーズから成る。①最新作:ジョルジョ・モランディ作品を模した作品。②ひとつ前の過去作セザンヌ静物画『リンゴと籠のある静物』を用いた作品。③初期作:セルフポートレイト。

 

このうち②セザンヌについて、私が見たのは2021年12月、「GALLERY wks.(ワークス)」クローズ前の最終展示で、ここで1枚が展示されていた。チラシ広告という既成の印刷物写真を用いたコラージュは、このセザンヌから始まっている。

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今回の展示では動きのある3連作で示され、同じ『リンゴと籠のある静物が下地になっているが、その上に貼り付けられた果物や酒瓶のチラシ広告写真は籠の中――「静物」の静態から転がり落ちてゆく。キュビスム的多視点の絵画を、写真的なシークエンスへ解体し、時間の流れ、重力の働きを再現している。

写真の黎明期~スティーグリッツ以前においては絵画の美を真似る動向もあったが、その時既に絵画の方では独自の新しい平面表現を模索していた。本作は、近代化に目覚めて速度を高めて時間を分節化するようになった写真と、一枚の中に多視点・多時間を同時に表現するようになった近代絵画との分岐点を物語っている。

 

①新作:モランディ作品を元にしたシリーズは、セザンヌ静物画ベースの前作と同じく、絵画をベースとしてチラシ広告を用いたコラージュ作品ではあるが、作り方が大きく異なる。今作では画面構成がよりシンプルになっていて、モランディの絵が直接用いられるのは背景にとどまり、主役となる静物は、絵画風の塗りを施されたチラシ広告写真そのものである。

これは複数のプロセスから作られていて、背景(下地)の方は、モランディの絵画のうち静物の部分を画像編集によって塗り潰し、全て背景に転換して作ったものだという。そこにチラシ広告から切り抜いた商品の写真をオブジェ本体として配しているが、サイズ感からも分かる通り、チラシの切り抜きを直接貼り付けているのではなく、いったん背景と合わせて撮影したものを改めてカンバス地にプリントしているようだ。撮影時には静物画を意識して、陰影が生まれるように高さが付けられている。

 

セザンヌ型の作品では、チラシの切り抜きをバラバラ・個別に配置した、まさにコラージュだったわけだが、モランディ型作品では静物がひとかたまりの状態で提示される。これは基本的にチラシ広告に掲載されていたセットがそのまま使われている。新聞をとることもなくなり、折り込みチラシを見る機会もすっかりなくなったが、チラシ広告に掲載されている写真には商材が個別に載っている場合と、「清涼飲料水」「酒」といったグループものとして複数まとめて撮られた写真とがあり、本作ではそうしたセットものの配置や重なりを活用している。

見事な配置の妙である。奇妙であるというのと面白いのと両方の意味で。

チラシの上では商品写真だけでなく、商品名、そして価格(+「特価」「お買い得」「おひとり様○点まで」等のフレーズ煽り)がセットになっており、実は写真だけを単独で見る機会はない。訴求力もメッセージも失った商品写真は奇妙で静かな造形物となる。特にセットものの写真は、奇妙だ。不自然極まりない。商品写真は広告として機能するよう、角度や方向など厳密な規則のもとで撮影されているので、作者の関与できないところで強い作為が働いており、その統一感がモノ離れした奇妙さをもたらす。

しかも本作では厚みのある実物の製品ではなく、厚みのないチラシ写真を複写するので、それらは造形物と呼ぶべきか悩ましい、造形の影である。更に、造形の影に後付けで高低差を付けて文字通り「影」を付与して撮影するので、疑似的な立体が生み出され、ここにもまた奇妙さが生まれる。虚構に虚構が重ねられていく構造が非常に刺激的だ。

モランディも日用品をオブジェ化して絵を描く際には、その表面を絵具で塗って情報を消したり、配列や角度の試行錯誤によって、それらが立体物とも平面体ともつかぬ、異次元へ溶け込む/異次元を引き出すように工夫したものと思われる。こうしたモランディの創作を、まさに身近な既製品としての写真から追ってみせたのが本作である。普通にコラージュで貼り重ねるよりも静かな異様さが滲み出てくる点が面白かった。チラシ広告の商品写真というものがかなり特殊な写真、写真としては頼りなさすぎる、弱い抜け殻のような写真であることを実感した。

また、モランディについても、漠然と「卓上で色々並べて淡々と描いた人」ぐらいの印象しかなかったが、写真という別角度から再構築を試みられることで、その功績と思索の深さの片鱗が伺えた。上掲の作品も元ネタがあるが、モランディは静物画だけでなく風景画も描いていることを知った。結局はモランディの静物画も風景画もあまり変わらなくて、立体や奥行きのあるはずのものを描きながら、それらはしっとりとした食パンのように平面に寄っている。

面白いのは、チラシ広告用の商品写真は必ず同じ角度から撮られているため、モランディの絵を再構築しようとすると影の向きが逆になり、左右を反転させた形にせざるを得なかったというエピソードだ。チラシ広告はろくに見ずに捨てている、どころか、新聞を取らない現代では手に取る機会すらレアとなっているが、あれらの何気ない商品写真にそのような特性があると知ることができた。徹底して情報、造形の影というか、そこには何もない、空っぽの写真なのである。

 

この「空っぽ」さについて着目し、同時に展開されたのが、③初期作品のセルフポートレイトだ。

部屋の中で体を床に横たえた、眠るような、転がるような姿の写真である。ギャラリストの話では、2012年頃に撮られて展示され、次に2015年頃に再度展示される際に多重露光の作品が追加されたという。撮影された当時には様々な思いが込められた作品だったが、年月を経るうちに作者自身が客観的に捉えるようになり、ここに写された身体は「私」の容れ物として映るに至ったとのこと。

空の容器としての「私」の身体を外から見るという構図は、日常の場で容器の配置を作品化していたという点で、本作のモランディ型作品との類似性が見い出され、同時展開されている。タイトルの「部屋の中の静物はまさにそのまま両者を繋いでいる。

私の目には、モノクロで角度を付けて四方から撮られた「身体」は心理的なニュアンスを帯びて映った、つまり内面そのものであったため、「容れ物」と見なすにはまだ時間がかかりそうだった。が、背を向けて真横に横たわるカットは確かに平面性が強く、内面とは別の次元でそこにある造形として映った。

 

「私」の容れ物としての「身体」は内面・心情とは別のところでモチーフとなり、その平面内での配置が「作品」を構成する・・・このことは20世紀初頭の写真においても共通したものがあり、マン・レイエドワード・ウェストンと繋がっていくものも感じさせた。ただやはりチラシ広告写真の、あまりのひ弱さが面白かったので、「弱い写真」とは何なのかという問いが強く残った。

 

 

( ´ - ` )完。