nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2024.7/16-28_田中ヒロ「BOLZO」@ギャラリー・ソラリス

パワーだ。ライヴだ。

 

 

 

相変わらずパワーがある。

この点において異論は皆無だと思う。わざわざ太字にしなくても良いのだが、ヒロ作品において「パワー」を迂回することは不可能だ。

優れた写真家はとかく、目力、脚力、出会い力、口説き力、恋愛力、等々様々なパワーについて指摘されるが、田中ヒロについては純粋に胃腸がめちゃくちゃに強い(と思わされる力がすごい)。内臓を中心として循環器系も呼吸器系も骨格も全てが強い(ように思う)(そう思わされてならない)。すなわち内臓が強い。なんだそれは。「健康的な」という形容では済まないので仕方がない。本当に内臓の強い人間は不健康な暮らしをしていても元気なので「健康」とは別の概念が必要だ。すなわち、パワー。(作者が不健康な暮らしをしているという意味ではない。比喩である。)

 

そうしたパワーへの実感は同ギャラリーでの3年前の個展:R3年2月「OOOFOO」から共通している。ちなみに続けてR4年1月には「gallery 176」で個展「Chicharrón」が行われたがやはり同様だった。

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パワーとは何か。不確かにして絶対的なもの。抽象的だがそれでしか言い表せないもの。写真の訴えかける力、写真に刻まれた被写体の形状・質感や色彩など多くの点で出力の度合いが高い。また、被写体が画面内を占有する割合が高く、多くの写真は単数形、ある被写体をそれ単体としてガッチリ撮っている。

モノ、ヒト、場所を「それ」として鷲掴みにするが、中平卓馬(特に倒れて以降のカラー写真)のように強迫的なまでにモノ側の世界へ行ってしまうのではない。ヒロ作品には遠近やリズム感、プリントなど多くの点で意図や調整があり、中平とは別物である。

 

ヒロ写真が訴えるのはモノそのものというより、むしろモノは埋もれてすらいる。なぜか? 形状・物理的な質は、それとその周囲の「色」との掛け合わせに巻き込まれている。逆に、色が形を伴ってリアルに現出してくる混成(混声)の様相を呈している。わざとどこにも焦点を当てていない全ボケしたカットもある。

それこそ、入ってすぐ左手の最も広い壁面には、メイン作品として被写体なき色のコントラストだけの大きな写真が3枚掲示されている。これは、縦長のメモ帳のようなサイズ感のシートが、縦20枚 × 横20枚のブロックで組み合わされて出来ていて、夕暮れや朝日の鮮やかな色のコントラストを分解・再構成したものと思われるが、そこにはもう「形」や「モノ」はない。色が壮大に響いているばかりだ。

 

形や像を取り込んで強烈に立ち上がる「色」味、その中でも日本人離れした原色の濃さ、何といっても白と黒の全力のコントラスト強度が、ヒロ作品を特別なものにしている。即物的なフラッシュ撮影によって色は写真の内部で照り返してこちらへと直撃してくる。

日本人離れというのは当然の話だ。作者の写真家キャリアの始点はアメリカにある。福引で当てたアメリカ旅行にて、現地で知り合ったバンドのツアーに同行する中でカメラを譲り受け、写真を撮るようになった。言わばアメリカとライブの中でヒロ写真の言語は生まれた。以降も度々海外へ渡っているのだから、まさに写真言語は国外の現地で身に付けた英語と同等の質を持つと見るべきだろう。枕草子的に曖昧な私達のスナップとはわけが違う。

今回の展示作品も、2018年にアーティスト・イン・レジデンスで滞在したラトビア(バルト3国の1国)に何度も訪れて撮り溜めた写真であるから、やはり本人の英語的写真言語 × 海外の風土・色味で仕上がっていて、日本(人)離れしたものとなっている。この色味の濃さ・深さが「パワー」の主要な部分を占めるのは間違いない。

 

こうして見ると「パワー」というのは「エモさ」「エモい」の対義語であると思った。ヒロ作品には余計な情緒がない。過剰な情緒もない。こちらの主観を想像・共感して重ね合わせたり、増幅させるよりも早く、写真の向こうから先手でイメージが五感に入ってくる。こちらのリアクション選択や共感を待たないのだ。暴力的なまでに明るく陽気な人のテロリストみたいな朝のおはようを受けた気分がする。ついていけない日も多いが実にどうしようもなくて一周回って気持ちがいい、そんな感じ。

もちろん明るいだけでなく影も彫りが深いが、そこに実人生・実社会の影や闇、葛藤があるわけではない。物理的・光学的に、太陽とフラッシュの光と闇があるだけだ。その意味では非常に純度の高い「写真」である。写真としてのイメージ以外に余計なものを背負わせない。写真の音韻、響きに特化している。やはりパワーなのだ。

 

安直かも知れないが、最も手っ取り早くヒロ作品にアプローチするには、このギャラリー空間をライヴハウスと捉え、写真をアンプを介してスピーカーから鳴り響く演奏の音の「鳴り」と捉えることだ。非常に具体的な被写体と、余白・色味を旨とした配置、単体としてのパワーの出力。それらを会場(空間)に配列しリズムと流れを持たせること。まさに音楽的、ライヴである。

日本人離れした色調と被写体の単体性としての捉え方も、楽器をかき鳴らして機械を通じて音が出力されている様と重ねると納得がいく。前奏、間奏、伴奏問わない形でそれは主体として鳴っている。

同様にハードめの色味で出力する写真家として題府基之を連想したが、確かに題府は近距離フラッシュ × ノイジーな仕上げによって、日常生活の食事や物品を即物的に撮る点で田中ヒロと共通するものの、モノ単体では切り出さず、もう一歩二歩引いて複合的に周囲を見せ、家庭・家族・料理などの文脈を提示している。対するとヒロ作品は圧倒的に楽器のストリングスの電子増幅音なのだ。

電子的かつ空気振動の物理的なノイズの内からやってくる、影を孕んだ光の波長の連なり・・・その捻りや曲がりやうねりに現れる様々な色の波・・・ ライヴはここにある。

 

 

そんな中で唯一変わった作品群がある。変色した森、樹々の写真である。

樹々の枝葉と根の生い茂る、密度の高い描写を、モノクロで撮ったものを全体的に色付けしてある。部分的には反転も見られる。シルクスクリーン印刷を思わせるこれらの森は、ラトビア現地の森の深さを物語っている。他の写真群が一枚一枚で完結した、色と構図の高純度な鳴り響き方をしているのと処理が異なる。

恐らく樹々、森が、作者の眼、身体の受容と処理のレベルを大きく超えていたために、すなわち作者の写真の文体のスケールを超えていたために、一枚の中に納まりきらないモチーフとして、色もまた被写体に対してではなく写真という面全体に対して付与されている。オールオーバーへ切り替えたのだ。ご丁寧にも、写真を吊っている下の床には黒い三角形が置かれ、これらは森の樹々を表したものだというから、それだけラトビアの森は作者に変容をもたらしたらしいと察せられる。

そしてこの森のシリーズは同名の写真集にも入っていないらしい。新境地である。面白い。別種のパワーである。

 

 

( ´ - ` )ノ完。