「距離」を撮るとはどういうことか?

上野公園を歩き回って、遭遇した人物を撮影する写真家。東京都写真美術館「見るまえに跳べ 日本の新進作家 Vol.20」展(2023.12月~2024.1月)にも取り上げられ、作者の存在と手法は着実に定着しつつある。


作者は東京の自主運営写真ギャラリー「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」メンバーであり、東京が主たる活躍の場となっているが、時折関西でも触れる機会があり、2019年12月には「gallery 176」でTOTEM POLE PHOTO GALLERYとの交流展として「上野」展が催されている。私の話で言えば、2022年4月のTHE BACKYARD主催「PITCH GRANT」を聴きにいった際、作者の存在と取組みを知った。
上野公園を歩き回って、出会った人を撮影するというのがメインテーマ・作風となっている。といっても普通のスナップ、ポートレイトではない。なにかというと無名の人物らの「圧」が凄いのだ。よくまあこんなに独特な風貌、風体の人物らと出逢い続け、録り続けてきたものだと思う。生活時間を秒単位で拘束されている一般人(つまり筆者のような勤め人)なら確実に見て見ぬふりをして通り過ぎるだろう。
不確実性に満ちた人物らが登場する。定型を逸した人々が、群衆という枠にすら収まらなくて、ただただ定義から零れ落ちて「個」として現われ続ける。都会―東京=人口が多くて密度も高いからこんなにも個性的な・独特な人が多いのだろうか。それだけではない。上野公園であることが重要だ。未だ高級志向へ浄化開発されざる上野公園だからこそ人種の坩堝が生じる。誰でも「そこに居る」ことを許容してくれる場となっている。本来は雑多なカオスであることが「都市」の要件/特性のはずなのに、現代の都市では逆に雑多さカオスさを切り詰めて純化させ、マーケティングの産物として高収益性を目指して再開発される。そこでは「居ても良い人」が最初から選別されている。場を作る側の設定する経済的階層、ペルソナに当てはまった人間、すなわち「顧客」だけが、新しい街に「居る」権利を得られる。
「顧客」に当てはまらなかった人物は、何処に行き着くのか。答えの一つが上野公園ということだ。東京の都立公園等では94施設で指定管理者制度が導入されているが、上野恩賜公園と井の頭恩賜公園の2施設は都の直営で管理されている。古き良き?公的に開かれた場所として真っ当な役割を果たす。公的であるとは、資本主義的、いやもっと具体的な企業経営上のマーケティングや顧客管理の枠組みから零れ落ちたもの、はみ出したものを受け容れることを指すだろう。写真家が、上野公園で、被写体となった人物らと出会ったのは偶然か、必然か。
思うに写真家自体が、既に現在の「都市」からは排除されている。インフルエンサー的なフォトグラファーの写真は許容・歓迎される。違いは、都市の商業性を邪魔するのか加担するのかどうかの、関わり方の本質のところだ。インフルエンサー的フォトグラファーは、企業に与えられた上澄みの美をドライヴし、肯定を貫く。写真家は、美を暴く。基本的に商売の邪魔にしかならない「写真家」に居場所はあるのか? 都市の内に固められ、着実に拡大しつつある商圏のマジックとロジックに従えない者同士が邂逅するのが、淵上裕太の写真行為なのだ。都市の中に居ながらにして徐々に中心から居場所を狭められ追いやられてゆくものたちの肖像。そう感じた。
淵上と同様に、都市(東京)を舞台に個性的な人々を撮り続ける写真家がいる。鬼海弘雄、有元伸也が代表的だ。
似ているようで、よく見ていくと違いが明らかになる。鬼海弘雄は路上のポートレイトとして静謐で純度が高く、スタジオ撮りのようにすら見える。路上から生じた出会い、路上だからこそ存在する異形の(正当な)王たちの肖像、しかし「路上」自体を空間・背景として撮ることはなく、あくまで撮られるのは人物だ。人物らは路上を内面、身体に取り込んだ存在として写される。
有元伸也は逆に、「路上」の獰猛さを活写する中に人物がいる。路上は生き物のように現される。都市の闇を切り裂くようなモノクロの艶と鋭さは倉田精二を思わせるところもあるが、倉田の都市景が深い猥雑さや危険さを孕んでいるのに対し、有元作品はもっとナマモノさと友愛に満ちている。都市空間とのグルーヴ感が生み出す関係性がスナップ内の人物写真となって現れる。人物らは個性的だが、異形というより根の部分で作者と繋がっている仲間として写され、その繋がりが鑑賞者側に延長されてくる。
淵上作品は有元作品のこうした路上との繋がり、グルーヴ感とスナップさを継承している一方で、有元作品ほど都市路上スナップに寄っておらず、スタイルとしては人物に重心のある鬼海弘雄寄りともいえる。また、鬼海弘雄、有元伸也がともに6×6フォーマットであるのに対し、淵上は6×7、微妙に長方形を採用していることも差異の一つだ(作者曰く、意図的にフォーマットを変えている)。
さらに今作「肌と距離」は、より踏み込んだ差異を作り出している。多くの写真で、被写体となった人々に、作者が手を触れているのだ。被写体と撮り手が物理的に連続していて、一見、混乱する。誰の何を見せられているのだろうか? 写真にまつわる立場の二項対立を中和し、視る(撮る)暴力性・権力性を指摘あるいは内省しようという試みだろうか?
逆である。作者が企図するのはもっと素朴にしてラディカルなものだ。
これまで作者が保ってきた「被写体との距離」を、あえて自ら乗り越えて、静かな記録であることを超えようという試みが、本作に入り込む「手」である。
撮る/撮られるの関係を撮影者自らが入り込むことでかき混ぜ、新たな力場、舞台を生み出すのは、荒木経惟、テリー・リチャードソンなど多くの例がある。しかし本作では「手」など僅かなパーツに限られ、それが渕上本人であるかは明示されていない。たまに別の人の場合もある。ここで撮られているのは作者本人ではなく、パフォーマンスでもない。関係性と言っても私的な関係性の表現としての私写真や、それを転用した舞台化された演出表現などとは距離がある。
距離感。これまで作者が撮影時に用いてきたスケール、文法を逆転させ、それら自体を被写体へと転換して撮ろうとしているのではないか。例えるなら「◯mの距離を保って人物を撮る」ことをライフワークとしていた写真家が、「人物までの◯mという距離を被写体として撮る」へと、文法を総入れ替えしている。もちろん「距離」は写真には写らない。必然的に、穴へ意味が逆流するようにして、「撮り手と人物との間に残るものは何か?」を写真は問うてくる。
それは植松奎二が透明な物理法則を可視化するような、ソリッドなものとは全く違って、温もりがある。感傷的な言を盛り込むのも控えたいところだが、今のところ温もりとしか形容し難い。
体同士の接触、コンタクトによって、本来写真には写らない血の通った体温のようなものの往還が試みられている。それは経済合理性が行き渡り、数字が全てである「市場」と化した都市空間から弾かれ、或いは自ら背を向けた者たち同士の邂逅と、この先も関わり続けるのだという、路上の無言の約束のようなものを感じさせた。
あまりに感傷的だろうか?
許してほしい。そういう思いに駆られる写真だったのだ。



( ◜◡゜)っ 完。