nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真イベント】R4.4/16 THE BACKYARD「PITCH GRANT」2021年度 最終公開審査 @将軍塚青龍殿

写真家・岡原功祐氏の設置する「THE BACKYARD」主催の「PITCH GRANT」:35歳以下の若手作家プレゼンテーションによる助成金支援プログラム、2021年度の最終公開審査が行われた。

全41名の応募者からファイナリスト10名が選出され、うち9名がプレゼンを行い、宮田恵理子「disguise」木村孝「Amata Trilogy」の2名がめでたく受賞した。おめでとうございます。

R4.4/16

 

新型コロナ感染対策のため会期が9月からかなり延期され、年度をまたぐ形となったが、前回と同様、無事に観客を入れての公開プレゼンテーション形式で行われた。観客はプレゼンを見て「このプロジェクトの続きが見たい」と思う作家2人に票を投じ、その場で集計、上位2名が助成金(グラント)を受け取るというものだ。 

 

助成金は寄附と岡原氏のポケットマネーから捻出している。岡原氏の呼びかけが功を奏し、今年度は支援額が上乗せされ、1人15万円ずつの助成となった。(前回は10万円ずつ)

(参考)前回:PITCH GRANT 2020年度

 

今回のファイナリストの作品とステートメントは早速「THE BACKYARD」ホームページ上に公開され、どのような作者/作品だったかをいち早く振り返ることができるようになった。発表の中で固有名詞などが聞き取れず「やべえ、やべえよう」と泣きべそをかいていたのだが、正確な情報をきちんとフォローできたので非常に有難かった。

www.thebackyard.jp

(なお、ファイナリスト10名中、石野祐実「臍の緒」は作者欠席のため未発表であった。)

 

基本的な情報、作者の考えなどは上記リンクを参照されたい。では、以下、私見を交えてレポしていきます。

 

 

【1】淵上裕太「appearance」

撮影行為の積み重ねに伴う技術的上達を喜ばない作家である。むしろ撮り慣れてしまい、被写体=街で出会った人達を「コントロール」してしまうことに、撮る側と撮られる側の力の非対称性を疑問視した。

上3枚の写真は以前の活動:《IKEBUKURO》(2019)、《UENO PARK》(2020)シリーズで、池袋や上野公園で声をかけて人を撮っていたものだ。これらを8年間続けた結果、一転して《appearance》シリーズ:暗闇に顔がぼうっと浮かび上がる写真へと移行した。

 

撮影方法は「完全遮光の暗室の中、ペンライトで被写体をなぞるようにして5分間露光し撮影」「なぞった部分が多重露光的にフィルムに蓄積されていく」というもので、さらに現像・プリントでは、バライタ紙に焼いた後、額装して後ろから光を透過させたところをカラーフィルムで複写している。もはや「人」を撮るポートレイト写真の領域にとどまらない。

 

街頭ポートレイト撮影の進化や深化について言うなら、「人」を相手にする表現である以上、無限に奥の深い分野なので「上手さの上限」は無いに等しく、本来なら鬼海弘雄のように文字通り死ぬまで追求すべき道なのだろう。だがなぜか《appearance》シリーズは、ストレートフォトよりも説得力が増したように感じる。

 

なぜなのか?

 

ある「個人」が様々な属性・装備を脱ぎ、剥き出しの存在感を晒している姿、いや、存在感を は、何とも言えないリアルさがある。性別すら不確かな、何者かと一言では言えない朧げな人物像こそ、なぜか「正解」なように感じる。LGBTQ+だけの話ではない。「私」というアイデンティティーを語る言葉が今、写真においても転換を求められている時期にあるのだろう。

シリアスな作品なのだが撮影光景は妙に滑稽でした。撮影時は真っ暗になるため、撮影者は被写体の姿が見えておらず、被写体の側も撮影者の姿が見えていない。つまり本来あるはずの見る―見られる「写真」的な力関係が失効し、像が宙に浮いているのだ。個人の属性だけでなく、従来の写真文法からも解放されている点が興味深い。

 

 

【2】ニシヤマサユリ「小さな家族」

最後のスライドから先に紹介すると、本作は「写真家と被写体」という関係性を巡る問いと模索の取り組みである。

遺伝子欠損による障害を持った姉に、作者が「写真家」として向き合おうとしても、過剰な人懐っこさと「可愛い妹」の一点で突破されてしまい、思うような関係性が成り立たない――それは自分が作品を・相手を「コントロールしようとしているからか? 作者は作品をコントロールできるのか? といった問いを題材にしようとしている。

 

興味深い話題である。

根底にあるのは家族の関係性の話:自分が姉や他の家族らといかに円滑な関係を結べるかという話で、「大嫌いだった家族を好きだと言えるようになりたい」がために作品を作っているとのことだが、ユニークなのは上記のとおり、よくある家族関係・親しみの再構築や再認識の話題に留まらない点だ。

作者は「姉の見えている世界が私とは明確に異なる」ことを強く痛感している。「姉のことが分からない」という、至極当然の事実に正面から向き合わざるを得ないのは、「写真」が介在しているが故の直視だろう。写真行為がその事実を浮き彫りにさせたと言うべきか。

撮影・対話を拒絶されたり、はぐらかされたり無視されるという苦労話はよく聞くが、本作は逆パターンで、空気を読まず無邪気に突進してくる「姉」により、「写真家」としての自分すら突破されてしまうことが思案どころとなっている。

写真家・写真作品のアイデンティティーが揺るがされることが、「分からない」との思いを強めさせているように見える。

 

本作の取り組みを推し進めることで、作者が何を発見するのか、姉には変化が生じるのか、取り組みがどんな形で進展して作品となるのだろうか。

 

本作を面白く思わせたのは、プレゼンの流れだった。

最初は写真だけが提示され、姉との距離感とギャップについて感覚的なところが口頭で語られる。不自然な近さと被写体の押しの強さに違和感を感じつつも、これらの写真をどう解釈してよいかに戸惑う。そこに、折り返しで文字が入り、姉の障害や被写体としての関係といった本作の構造が明かされ、単なる「家族」のポートレイトではないことが判明していく。

この進め方には好奇心をかき立てられた。うまい。

 

余談だが、作者のZINE『Icon』(2017)は、茨城県のZINEを扱うナノ・パブリッシャー、「crevasse」さんから購入していたが、作者名の表記が今回カタカナになっていたこと、作品テーマがあまりに違いすぎたことから、同一人物と知って大層驚いた。確かにこの作風だと、姉のあの極端にフレンドリーな挙動は作者も頭を抱えるだろうなと納得である。。

crevasse.buyshop.jp

 

 

【3】荻野良樹「土のにおい」

三重県在住の作者は地元の風景を記録している。

作者自身が兼業農家で生まれ育ったが、最近では農家を辞める家が増えていて、ソーラーパネル、新興住宅やアパートを提案する営業が定期的にやってくるようになったという。近いうちに住宅とソーラーパネルとバイパス道路へと開発され、慣れ親しんだ田園風景、記憶の場が消えていくのではないかという恐れを作者は抱いた。

壊れてゆく風景に対して、写真によって田畑のある風景を「記録」したいというのがまず取り組みの第一段階だ。

 

続いて次のステップとして、風景だけでなく土地に息づいてきた民話や信仰、文化も調査して残していきたいという。三重の山の神信仰、どんど焼き、しめ縄といった、かつてはありふれていたものが、みんなが離農するとたちまちに途絶えてしまう。

 

三重県四日市、亀山、鈴鹿だけでなく、奈良県南東部や和歌山県の奥深い山々と隣接しており、尾鷲のあたりは熊野古道のルートがあるなど、「山」の神や信仰とは縁の深い土地である。下記リンクは四日市市桜地区での「山の神」をまとめたサイトだが、随所にこうした仏教以前の信仰が生きているかと思うと胸が熱い。

www.sakuracom.jp

 

また「しめ縄」は通常の食べる米とは別に、手作業で刈り取って作る必要があり、かなりの重労働なようだ。これも離農してしまうと当然ながら無くなってしまい、他の地域や外国から仕入れることになる。

 

その他、田んぼの水路や、脇に積み上げられるワラ、もみ殻といった風景を事例に上げていた。それらは新興住宅街となるや、全て埋め立てられて消えてしまう。かくいう私の育った地元がまさに同じ状況を経ており、作者の地元のちょうど10~20年後の姿をしていると思う。田畑や竹林は無くなり、どこもかしこも家ばかりになってしまった。なんというか喪失感が深い。幼少期からの「地元」なのに人様の敷地という感じだ。

 

「農家」を継ぐ人がおらず、風景が一変している事態は、全国で進行している状況だろう。ぜひ地元を掘り下げる中で、普遍的なものを掴み取って発信していってほしいと思う。

 

・・・と思ったら、地方在住の写真家らで写真誌「陰と陽」を発刊しており、現在Vol.6が最新号だ(2022年4月発売)。また作者自身も「山神」シリーズを発表している。これらは作者の個人ホームページから購入が可能だ。

oginoyoshiki.theshop.jp

「陰と陽」は文字通り、山陰・山陽の写真家が中心となって発起しており、東京以外の「地方」の写真動向として非常に面白いと思った。

 

 

【4】桑迫伽奈「不自然な自然」

このキラキラ、ギラギラした光景は、誰が見ているのか? 

人間ではない。多重露光で重ね合わされた森や林の木々と、葉の間から見える空の姿だ。撮影した作者本人すら見ていない、カメラの内部のみが知覚している光景である。言わば、カメラという「人工」の中にのみ存在する「自然」の姿だ。

 

作者が取り組んでいるのはビジュアル合成ではない。作者はカメラというセンサー付きの暗箱の、空間的な操作を通じ、箱に疑似体験させ表現している。それは肉眼で見ている光景とは異なるものの、「ただの静止画よりずっと記憶に近いものになった」という。

北海道出身の作者は森や林の中で、樹に囲まれながら上を向いて「自然」を撮る。北海道を中心として、東京や奄美大島など複数の場所で、光の色や植生が異なり、それぞれの土地の美しさがある。

ここでの自然は、ビジュアルとしての風景というより、自分が「自然」をいかに体験・体感したかという、五感の総動員によって構成されたヴィジョンである。森や山の中に立って、辺りを、樹々を見渡す時、私達は「自然」の冷徹な視覚情報だけを受理しているわけではない。風や光の触覚、空気の匂い、様々な音などが五感に多層的に訴えかけてくる。人為的な感覚・体験の重なりが「自然」を形成しているのではないか。作者はそのようにして「人工」と「自然」の重なりを現わす。

 

作者によると、そもそも日本の森林のうち40%は人工林で、残りの自然林も保全のために人の手が入っていることを踏まえると、実は「自然」というものは「人工」と混ざり合ったものと言える。「自然」とは一体何を指すのか、どういう状態のことを言うのか。人の手によって保たれる「自然」は「不自然」なのか。そして作者=人間は「自然」に含まれるのか。カメラ内部で生成された光景は「不自然」なのか。本作はそうした問いを投げかける。

 

私はやはり、作品に現わされた光と木々の光景が、人間には知覚不能な、機械の画像処理の世界によってのみ生じる「自然」景であることに、非常に興味をそそられる。思えば、私達が直接に五感で立ち会うことの出来ない「自然」の多くは、機械の画像処理とデジタルメディアを介した画像・映像体験なわけで、物心ついた時から「不自然な自然」をオリジナルとして受容し続けていると言える。VR、Web空間の3次元化が進めば、その意味はより顕著になるのではないか。

本作は様々な問いへ派生する。

 

 

【5】木村孝「Amata Trilogy」

タイの「アマタナコーン3部作」というタイトルを冠する本作は、①ランドスケープ、②町の人々とプライベートな室内、そして③今後の取り組み、で構成される。

 

「アマタナコーン」はアマタ・コーポレーション(タイ工業団地公社が運営)が1989年に開発した工業団地名で、行政区分上の名称ではない。しかしその名はある「地域」を指すものとして流通している。

(タイ製造業向け情報サイト「タイ工場ドットコム」によると、2018年1月18日、団地名変更を行い「アマタナコーン工業団地」から、「アマタシティ・チョンブリ工業団地」となったとのこと。) 

 

木村が注目したのは、現地住民らの中で「アマタナコーン」は地名として生きており、尋ねる相手によってエリアの定義がまちまちであることだった。工業団地としての地図を描くことで同定することは出来るが、それ以上に地元民の内面に、それぞれの曖昧な「アマタナコーン」が存在していたのだ。

 

作品ではその内面と揺らぎに着目している。

①、ランドスケープ撮影の作品《Discipline and Nature》では、開発が続く中で移ろいゆく景色を捉えている。切り拓かれた平らな土地に、集合住宅、娯楽施設、ショッピングモールなどが立ち並ぶ。

②、現地人のプライベートな撮影の作品《Faces of Amata Nakorn, the 'Eternal City'》では、「あなたはどこに住んでいますか?」と尋ね、「アマタナコーン」と答えた人を取材し、人物とプライベートな居住空間を合わせて撮影している。この作品は《ライフ・コレクション・イン・ニュータウンというタイトルで、2020年に東京・大阪のニコンサロンで展示された。

 

この作品は印象深かった。簡素でがらんとした部屋、ツヤツヤの床、生活感があるようで全くないような不思議な空間だった。

 

本作については作者のインタビュー記事があって、分かりやすい。

www.herenow.city

 

今後は「アマタナコーン」という「ある」けれども「ない」街の像を浮かび上がらせるべく、現地の人々に「ここはアマタナコーンですか?」と聞き込んでその境界線を得つつ、回答者のポートレイトやランドスケープを撮影することを考えているという。

 

 

【6】金田剛「M」

2020年度「写真新世紀」優秀賞を獲得した作品であり、神秘的で宇宙を思わせるイメージ(特に3枚目・左側の写真、輝きを拡大するルーペを持つ指のカット)SNSやWeb記事でサムネイルとして出回っていたので、強い既視感があった。

 

作品のテーマ・主旨を知ったのは今回が初めてで、まさに謎解き回となった。

 

タイトルの「M」は架空の天文学者のイニシャルで、19世紀に写真術が発明されてから天文学が飛躍的に発展したことを踏まえ、写真と天文学:宇宙という壮大なものを見る欲望や営みを、一直線上の「物語」として結び付けようとする作品だという。

肉眼では見えない、地球外の天体を「見る」ことへの情熱と欲望を表すため、作品では当時実際に使用されていた機材や写真乾板などの観測成果を元に、フィクションとしてイメージを再構築している。

現代では可視光線だけでなく、ガンマ線X線、紫外線、赤外線など様々な波長の光線を用いて遥か遠い天体を観測しており、超新星爆発後のチリと化した星やブラックホールまで可視化されて提示されている。つまり「宇宙」に浮かぶ天体や起きている現象の姿形のイメージは昔とは比べものにならないほど豊富に得られている。

 

しかしそうした現代の「天体」像は、実際に肉眼で見える像ではなく、目に見えない観測手法から取得されたデータを、数字や方程式を解さない我々にも分かるよう再構築した、疑似的なイメージである。

金田が100年以上前の過去に遡って表そうとするのは、そうした高度な手法を持たず、素朴な可視光線と肉眼、そして想像力を以って「宇宙」の姿を描こうとした頃の「天文学」者の生き様、あまつさえ地上の何気ないヴィジョンから「宇宙」を思い描きすらした貪欲な情熱と欲望の営為であろう。それは天文学の考古学かもしれない。

 

今後の活動としては、元から作りたかった写真集の制作に取組み、支援金はそれに充てたいとのことだった。が、取組みの完成度の高さ、評価の高さに加え、既に「クマ財団」のクリエイター支援金を得ていたこともあってか、会場の投票数は伸びなかった。これは開始時に投票の主旨のアナウンス(作品の完成度ではなく、プロジェクトを応援したいかどうかで投票すること)が正しく作用したためではないだろうか。それぐらい完成度は高かった。

 

 

【7】高橋実希「Specimens」

画像を紹介されてもしばらくそれが何かが分からなかった。視覚表現なのに目で見てもそれが何かがよく分からない。そういうものは重要だ。こちらのまだ知らない・不慣れな、新しい視覚や認知のパターン、領域を示唆している可能性がある。

 

本作は写真をプリントアウトし、紙を切り抜いて継ぎ接ぎした立体的コラージュ作品で、下地から浮き上がるように作られているため影が写っている。つまりプレゼン資料と現物のオブジェとは見え方が全く異なる可能性が高い。ただでさえ何のパーツが組み合わされているのか謎めいているのに、それが立体化した時のことを思うと期待度が高まった。

 

作者は「時間の標本」と言い表す。年齢を経るとともに速くなり、無意識のうちに流れ去ってしまう「時間」に対して、感傷を込めながらも前向きに受け止められるよう、自分が日々の中で撮った写真を自らの手で触れて、確かめながら、見返してゆく。わざわざフィルムで撮影しているのも、時の経過をモノとして手に取り、見つめ返す作業に徹するためだろう。

 

作者の意とは別のところで、本作は個人の記憶や体験から離れたところへジャンプし遊離するオブジェであるように感じた。

 

オブジェ、彫刻は、個人の手を離れてそれ自体の言葉を発し始める。

 

日常のカットを使いながら、切り抜いて「モノ」化することで、その造形自体が独自の言語を発するようになる。切り抜き方も最小限で、単数形の「モノ」に近いため、より「言語」のニュアンスが強まる。謎が謎を呼ぶのだ。同じ「写真を切り抜いて立体的に表わす」手法でも、例えば多和田有希が心象光景が絡み合うような線的なイメージで切り抜くのとは全く異なる。

 

これは展示で実物を見ないと真価が分からない。サイズ感すらまだよく分からないし、立体感がどのように見えるのかも分からない。なので展示でぜひ見たいと思って投票しました(単純)。

 

 

【8】伊藤颯「干し草を食べた」

今回の「PITCH GRANT」でダントツに意味が分からなかったプレゼンで、作者の言葉は日本語なのに何を言っているのか分からずメモを取る手を早々に止めてしまった。これは重要なことだと思った。私が今まで触れて体得してきた「写真」のスタンダードな文脈や理論の外側にあるか、使う言葉が違うだけでやっていることはスタンダードなのか、同じ「写真」でも今までになかった新しいデバイスの土壌から来ているのか、何かしら作者のロジックと制作動機は私の「知らない」ところに由来している。その事実が重要だと思った。

 

ステートメントでは「暗号と鍵」「ウイルスとワクチン」「アートとデータ」という対概念を動員して、様々な手法から生成された写真と、そのイメージが語る意味や言葉との関連について言及している。

だがそこに解はなく、むしろ作者は自分が思いつくがままに手法や素材を試行し、予期せぬところから生じたイメージを展開・派生させ続けることに精力を注いでいる。他の作家が、撮影方法や場所、被写体を決定させてテーマ化するという、帰納法なり演繹法なり「絞り込み」を行うのと決定的に異なり、伊藤颯は活動のスタート地点と終了地点の双方が全方向的に無作為な作為・「生成」に終始しているのだ。言葉の意味を知るよりも先に言葉を習得してしまった子供のように、手法を組み合わせ重ねてイメージを生成し散乱させる。ステートメントからは、それら生み出されたイメージについてどう語ればよいか、その言語化・理論化が追い付いていない、というよりイメージ生成の演算スピードを止めたり弱めるような言語化を特に必要としていないことが感じられた。ありえるとすれば加速と拡散を催させる言語だけだ。

 

言わば伊藤颯とは演算器であり、イメージを生成する各種の手法を「写真」行為から逸脱しながらランダムに掛け合わせるための、脱カメラ的な暗箱であるとも言える。そこに「作品」としての意味、作家としての思考や態度を見い出せのるかどうかが、逆に鑑賞者側に問われているように感じた。

 

どの作品がどういう手法で作られているかは言語が速くて手元に書き留められていない。洗濯機にかけてしまったフィルムをヨドバシカメラで現像したもの、手作りしたInstagramのフィルターを透明フィルターにプリントしてフィルムカメラに装着して撮影したもの・・・無数のデバイスを触れば幾らでもデータ操作、イメージ生成が可能な世代の感性で、フィルムや現像、カメラによる撮影といった従来の「写真」的手法を交差し重ねてゆく。

 

タイトル「干し草を食べた」とは、英語表記「I ate hay」、作者名のアナグラムだ。他にもスラングでは「大麻を吸う」とか「島に行く」「ここがいい」のように、自分の名前が様々な意味へと転じていくことを暗号解読のようだと語っている。そして自分の作品=生み出されたイメージ群自体が暗号であり、自分自身にはその意味が解読できないとも。方程式のパラドクスだ(式は演算を行う、しかし自分が生み出した値の意味を知らない)。

これを「作家」としてどう評価するか。ここまで述べてきたように演算力によって切り拓かれる境地、言語外の知として評価するか、ただ手法が前景化したり散りばめられているに過ぎない・むしろ悪しき「無垢」に過ぎるのではないか、との批判もありえ、意見は分かれるところだろう。

私? 後者の可能性を勘案しながらも、私(だけでなくおそらく通常の言語使用者も)では言語化できないものをパワフルに推し進めていることを最大限評価し、投票した。

 

 

【9】宮田恵理子「disguise」

伊藤颯と別のベクトルで、こちらの常態化した「知」の外側から別の体系を語る作家。同様にメモを取る手が何度も止まってしまって、自分の中では要領を得ず混乱を来してしまった。

要因の半分は、取材地であるスイスの地名やその歴史を全く知らないがゆえに、純粋に単語・固有名詞レベルで何を言っているのか実感が沸かなかったため(マイクと滑舌の問題もあって聞き取れなかったのもある。。)。もう半分は、日米や日中、日韓といったお馴染みの主観的な多国関係・国際性の枠組みではなく、慣れた枠の外側で他国について語られることそのもの(=客観的な国際性?)への不慣れさや実感の無さのためだ。

 

要は、スイスという永世中立国の「歴史」と「風景」をポストコロニアリズムの観点から紐解けば、山に溶け込むように配された第二次世界大戦時の軍事遺構:陣地壕とトーチカが大量に見出される――「平和」とは何か? 政治的立場であり、現実的な折り合いの問題である。そのような趣旨の作品だ。

www.myswitzerland.com

 

要点を抽出すると非常にオーソドックスで、ある土地・地域の歴史と風景、暮らしをリサーチし、目に見えているものとその裏に積み重ねられてきたものの関係性、折り合い、忘れられたもの、記憶されているものを紐解き、結び付け直して「作品」へ昇華して可視化する。各種の現代アートの芸術祭などでもお馴染みの手法とテーマで、広く作家の基本的なリテラシーというか話法、技術の一つとなっている。

 

だが宮田が写真スライドをめくりながら語った言葉は未知の「知」を感じさせた。上に挙げた要因では足りないかもしれない。「スイスは永世中立国だなんて言っているが、大戦の中で血生臭い歴史を経てきて辿り着いた政治的態度なんだよ」なんて論調は、『エリア88』でも読んだし『ゴルゴ13』あたりが好んで言ってそうな話(確認していないが掘れば出てくるんじゃないだろうか多分)だというのに、未知のものに感じた。つまり宮田の語り自体に何か、自分には無い「知」のスタイルやモードを見たということになる。

 

 

作者は「公益財団法人江副記念リクルート財団」アート部門の第46回奨学生として、2019年8月に活動レポートをWebサイトに残している。www.recruit-foundation.org

読めば一目瞭然。「日本」の中にへばり続けている人間(私)とは「国」や「歴史」の捉え方の角度の多さ・広さが全く違う。まさに「日本に何十年かいた人間が、ヨーロッパに約3,4年いるとなると、モラルのレベルで知らなければならないことを、知っていないという事実をその時期に突き付けられるのは典型であると思います。」と言っている通りだ。国内に長く留まっている人間の視座と感性は概ね「アジアにおける二元論におさまらない複雑なレイヤー」を「日中・日韓・日米・・・」といった単線へと棄却し単純化することで、逆説的に「日本」なるものの国際的な位置付け・関係を獲得している。他国の人も、例えばトランプ旋風やブレグジット騒ぎで暴れているような大衆はそんなものかも知れないが。

 

話が逸れたが本作は軍事施設に被せられたカモフラージュ、そうした遺構と共にある風景と歴史を扱っている。米田知子や下道基行らとはまた違った形で表されるだろうか。写真集などでしっかりと見たい。

 

 

(【10】石野祐実「臍の緒」)

当日欠席のため「PITCH GRANT」サイトでの紹介のみとなった。フィリピン人の母親との関係に向き合う作品だ。

www.thebackyard.jp

 

2021年11~12月に「Jam Photo Gallery」で初個展を開催、同時に50部限定で写真集の受注制作も行っていた。

jambooks.stores.jp

 

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面白かったですね。駆け足で概要と短観を書き連ねてきましたが、動画だの令和だのZ世代だのフィルム高騰だの老舗カメラ雑誌廃刊だの大手メーカーの一眼レフ事業撤退だの「写真新世紀」も「1_WALL」も終了だのと言われている(さんざんだなオイ、)現在において、35歳以下の若い世代でわざわざ「写真」をやり、「写真家」として活動していこうとする人たちが、一定数おり、高いモチベーションを持っていることが、たいへん面白く、いいなあと思いました。

 

誰でも飛び入り参加してそれぞれの「美」に向かって腕を競える類の「写真」界隈( ≒ アマチュア写真界)と、何か特異な力や教養を有したり生活・人生上の資源を半端なく投じる者たちが牽引する「写真」( ≒ 写真作家界)とが、いい感じに併存していけたらと思います。

 

( ´ - ` ) 完。