nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.3/19~3/29_京都芸術大学 写真・映像コース選抜展「MUTANT(S) on POST/PHOTOGRAPHY 写真は変成する」

京都芸術大学の写真・映像コースに在籍する17名が展示、教授の後藤繁雄、専任講師・作家の多和田有希がキュレーションを担当。「写真」を拡張させた変成体を繰り出し、「現在」のカオティックな状況を捉えようと試みていた。個人的に大好物な趣向。こういう企画はどんどんやるべきだ。やりましょう。

 

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【会期】2021.3/19(金)~3/29(月)

 

 

本展示は一般には公開されていなかった。出展者の紹介があれば入場を許可するという、かなり厳格な取り扱いのもとでの鑑賞となった。ぜんぶコロナのせいだ。

京都府では新型コロナ感染拡大の影響を鑑みて、大阪府兵庫県と足並みを合わせて2021年1月14日~2月28日まで「緊急事態宣言」が発令されていた。本展示は解除後の会期なのだが、卒業式や他学科の卒展との兼ね合い、安全対策など色々な面から、相当な調整がなされたのだろう。

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f:id:MAREOSIEV:20210509111719j:plain展示ではもう一つ取り扱いがあって、17名の出展者の中には胸部・性器を含んだ全身ヌードの作品もあり、それらは撮影禁止、なおかつ高校生以下のみでの鑑賞はNGとの但し書きが掲げられていた。配慮に次ぐ配慮が必要な時代なのだなあと改めて実感する。1990年にヘアヌードが実質的解禁となって久しいが、今なお火種となりうるのだから、人体と写真の関係は一体…。。。

 

◆全体を通じて

タイトル「写真は変成する」に象徴されるように、「写真」の可変性を模索する展示である。様々な方法・形態で写真を解き放ち、この、訳の分からない動乱に満ちた現状に対して、コンテンポラリーに呼応させようとする試みだ。

それは思うに、写真の大きな3つの要素―「平面性」、「記録性」、「意味性」において変成を催させていた。「平面性」とは平面芸術としての仕上げ:プリントや額装、写真集といった形態のこと。「記録性」とは現実、外界の複製として像を写し込む性質のこと。「意味性」とは、記録性とも関係するが、写った像が意味の指示対象を持つこと(特に写真の外部に対して)。

 

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本展示の作品の多くは、これら3つの性質のいずれかを解除あるいは拡張され、「写真」の意味と役割の型から自由になろうとしていた。結果、彫刻あるいはインスタレーション化し、見慣れた「現代アート」の展示・作品の形態に重なった。しかし、出発点が「写真」であることを踏まえて観るとき、それらは現代アートとは異なるニュアンスをもたらした。

現代アート側で写真を用いて作られた作品、これは80~90年代からお馴染みである。写真側から現代アートの作法と文脈を意識した作品も、また然り。だが写真側から写真であることを自己批評・批判し、形質変化を自覚的に掲げた企画はあまり経験がない。自覚的に、というパワフルにメタな取り組みは案外新しいかもしれない。

 

勿論、展示の序文を『生存するもの、停止するもの、死滅するものが出るだろう。しかし、我らが「来るべき写真 POST/PHOTOGRAPHY」は、ミューテーションの果てに生き残る可能性を持つことになるのである。』と締め括っている通り、企画者は最初から、この試行では空振りが出ることも織り込み済みである。

 

確かに、作品がどれも新規的な、斬新な「変成体」というわけではなかった。むしろ、多種多様な形態で展開される「現代アート」を見慣れている身としては、それらは見慣れた展示形態として感じられた。逆にその感想こそが、「写真」の置かれている現在地を反射的に示していたとも言える。写真には無限の展開の可能性があると期待され言われてきたが、意外と「型」の中に閉ざされてきたことを。

写真がデジタルデータ化され、印刷・液晶技術も向上した時点で、物理的にはどんな素材や立面にもプリントでき、放映可能となっていたはずだ。しかし実際の「写真」の「良さ」は従来通り、正しい額装とプリントによる壁面での展開や、一方向へめくっていくポートフォリオや写真集への編纂によって発表ー鑑賞ー評価されてきた。無論それが最も理に適っているし、ポテンシャルが活きる、売買が容易、等々の現実的な理由があるためだ。が、これまで写真は「もっと自由に拡張されるべき」と言われてきた割に、あまりそうはなっていなかった感が否めない。

なので、本展示のような、大胆な標榜によってチャレンジを仕掛ける企画は、もっとあって良いと思った。

 

 

特に気になった作品を以下、ピックアップする。



◆多和田有希『THEGIRLWHOWASPLUGGEDIN』 

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強烈で濃厚な中毒性があって目が離せなくなった。

女の眼と深い闇と紫色と光沢と紙面のうねりと長さは、メディアと溶け合った深夜2時3時の闇そのものだ。快感がこみ上げる。深夜のTV画面でCMが狂い、無限に同じ画面がループして、ただでさえ失われた時間感覚が迷走し、暗闇の中へ時空間が閉じたまま続いていく、ただそれに引きずり込まれるだけの眼と全身、「私」が無くなってゆく感覚がする、とてもとても快感だ。

支持体の垂れ下がりによる上下と長さが、波形と光沢と合わさることで、映像メディアのループ感を強烈に喚起したらしい。それが快感なのは何故だろうか。実体のない映像の向こう側、CMの中にしかいない架空の・匿名の・人工の・象徴としての・記号の・メディアの産物としての・女性。破滅的な混線とループの中で、表層と外殻を砕かれたそれは、現代の女神の体そのものだ、ありがたい、この眼はやっとあなたに肉薄できる… きっとそんな邂逅があって、それが快感の正体だ。多分。

 

本作タイトルは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの小説『接続された女の引用だという。本稿を書くにあたってあらすじを確認してみると、まさに広告と自殺未遂の女性(不細工)と広告用に作られた絶世の人工的美少女(VTuber的な人工物で、中の人を必要とし、電極を刺して操縦する)が登場するサイバーパンクSF小説らしい。それは素晴らしいことだ。本作は脳波計が吐き出す記録紙に、本体と義体の両方の自我が混線状態で出力されているようでもある。美と自我と体と私と女性と消費の話… 

 

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モチーフを因数分解した時に女性や広告、消費といった要素が出てくると、読解のコードは色々と用意されることになるが、私は敢えてフェミニズムその他社会批判への接続はせず、この異様な密度で波打つ平面の中で溺れていたいと思う。立体物を模しながらぎりぎり平面であるこの時空間は魔力があって、この中に麻痺しながら囚われていると気持ちが良く、そうすることこそ正解のように思われてならないからだ。痺れるような陶酔感、退行ではなく正解としての…。

 

 

◆北桂樹『A.o.M(Aesthetics of Media)ーメディアの声に耳を傾ける試み ver.2021』

 

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テクノロジー系の著述家にして『WIRED』誌の創刊編集長:ケヴィン・ケリーの著作『テクニウム―テクノロジーはどこへ向かうのか?』から、「テクニウム」の概念を援用して考察・制作された作品。「テクニウム」とは、あらゆるテクノロジーの総体で、生物・生態系と同じシステムやネットワークを持つものとして扱うが、生物と違って「絶滅」せず、前進し続けることが特徴だ。

本作では、既存の各種メディアやデバイスが『現時点でも何かしらの知性や美学を持ち、私たちが理解をできないだけでコミュニケーションとして何かしらの情報を発信しているのではないか』という視点から写真を提示している。

 かなり重要で面白い指摘だ。植物でさえ虫に襲われると緊急信号として化学物質を放出するというのだから、いわんや現代の各種デバイスがただ黙って単体で居座っているだけのはずもない。

 

かつての写真なら、「光学的に見えないものは写らない」「見えているものをしっかり撮れ」というのが教育の基調であり常識だったが、こんなにWi-Fiやら5GやらBluetoothやらが密に飛び交っている中で、写真だけがテクノロジーの生態網を度外視できるのかというと、能や人形浄瑠璃でもあるまいし、ましてやデジカメなのだから、むしろ不可視の領域に同種族としてどんどん参入し交感するのが「自然」なはずだ。作者の試行に大いに賛同する。

 

写真を見てそれが分かるかというと、photoshopで描画モードをハードに変えただけなのか、もっと含みのある構成や設定が施されているのか、見ただけでは不明であり、何か手掛かりが欲しいところだ。

スマホのスクショ画面で「翻訳」となっているように、積極的に対象の放つ「声」を認識・変換しようとしている仕草は、見て取ることができる。ということは、本作には「被写体」が存在せず、テクニウム音声の探索と翻訳の動作そのものが機能的に写真化されたものだということも分かってくる。被写体不在の、ゼロ距離で自機能を写真化するというメタな撮影、これもまた「写真」の現在形として重要だろう。

 

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◆柴田眞緒『手紙をかくよ(No.1-3)』

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ステートメントは、共に音楽をやっていた親友(とその他の人々)に向けた、青春の日々からの出発宣言(主に、写真を手にした表現者としての?)として綴られている。

だが作品側は想像を裏切る。エモーショナルみのある私生活と友人を私的にスナップした作風をイメージする文章だが、ここにはそもそも「写真」としてあるべき・期待される像が見えず、物理的な異物が挿入されノイズが鳴り響いていて、別の人の作品のテキストなのではと疑ってしまうぐらい雰囲気は結び付かない。

 

写真に雑多なものを貼り付けたりペインティングを施したのかと思ったが、横から見てみると厚みは紙一枚分で、写真の中身自体が多層建てになっている、つまり写真を写真に撮った入れ子構造だと気付く。手順は分からないが、instaxチェキの写真を1~2枚と、雑多な(作者にとって重要な、身辺のー身体的な一部である)ものを共に袋に入れて、採集試料のように撮影し、それを大きな紙にプリントしたのだと推察した。

ペインティングがどの時点で施されたか定かではないが、チェキに塗ってから撮影したもの、最終プリントに塗ったものとがあるだろう。

 

ではこのノイジーな、ブツと写真とペイントが混ざり合った「写真」は、一体何を伝えているのだろうか。これは、手掛かりがないので分からない。分からないのだが、タイトルとステートメントを信用する限り、「写真」のメタなフォーマットを批評するためというより、1枚平面のスナップ写真を超えた、複合的な形態で「私性」を記録・表現するためにこうしたと捉えるのが自然だろう。

チェキに何が写っていたか、貼り付けられた金属片のようなものが何か、その謎解きはヒントが無いため分からない。逆を言えば形として直視できない記録・記憶、自己の傷や喪失のようなものを突き付けた結果として、像が消えているともとれる。その中で、フクダ電子ディスポーザブル電極はペイント等を施されておらず、単体でストレートな扱いをされていて、作者の状況や思い入れを具体的に想像させた。

 

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◆大澤一太『部屋と立ちくらみ』

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敷物のようなかなりの大きさの作品が木枠から垂れ下がり、鑑賞中は何が写っているのか、何の作品なのかよく分からなかった。ただただ大きな面にモノクロのノイジーな何かが写っているということで、納得はしないが詮索のしようもなくモヤッとした感じで次に進んだ。

こうして遠目に見てみると、上半身裸の男性が仰向けになっている、その体が複数個(3体ほど)連なっている。

 

ステートメントは日々の暮らしとイメージの交換についてエッセイのような文体で書かれている。作品がなぜこうした形となり、何を表しているのかが分かりそうで分からない。日本語、主語の問題だと思うが、部屋の外では演出が必要で、部屋の内では言語は自由で、イメージの交換を続けながら繋がりを求めている、ということらしい。ペルソナの選択や対人関係のことを指しているのだろうか。本作で人物に顔がなく、肉体だけがある(しかも複数)ことと関係しているようだ。

この大きさで、しかも垂れ下がるような形態なので、何かもっと作者の思いや考えがあるはずだと思うが、読み切れなかった。日本語の刺し方一つで、メッセージがもっと「来る」ような気がしている。

 

 

◆吉田コム『col ped.』 

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ルール縛りアクションもので、「地面に地図を敷き、目隠しをして高さ1mのところからピンを落とす」「どこかに着地した針先の場所を目印に作者は「落とし物」をする」、作品は「後日回収したその落とし物に残った眼差し」だという。

撮影手法は不明だが、通常の写真ではないことがよく分かる。2枚一組、縦5列のほぼ同じ写真が並び、左下に日時・時刻が分まで刻まれている。言わば監視カメラが自律的に写した画像に近い。作者は小型の監視カメラでも落として自動操縦にしておいたのだろうか。

機材やセッティングなど手法が分からないので断言できないが、もしそうだとすると、本作は「写真家がシャッターを切らない」撮影行為であることが重要な作品となる。澤田知子『ID400』を自動撮影装置の路線で捉えたときに生じる、作者不在の写真、主体不要の都市の視界、と言えるだろうか。今のところ分からない。

作者の言う『能率の番地を背負った格子を外した時、見えているものが何なのかではなく、その焦点は記号になり得ない果てのない共鳴の波に触れた。』からすると、土地や空間、光景の匿名性や、等価性について、主体の意識を廃し、アナログに撤することで、Google MapとGPSデータの支配(によって保証される私性)から逃れる光景を写し出したいといった狙いがあるのかもしれない。

 

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◆新開日向子『反復する森』

会場中央のパーテーション裏側と、会場奥の壁面の隅、2カ所で展開されるインスタレーション作品。 

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 『春から京都に移り、蜘蛛を家に持ち帰った頃から日常の記録を撮り始めた』作者は、蜘蛛とは『一緒に暮らせないと分かった時、頭の中にはある見えない森のイメージだけが広がり、見えない森に帰還する』という。「森」の記録を記憶へと引き寄せること、を試みているらしい。

こちらもステートメントの日本語から受ける印象と、展開されるモノの組み合わせ・立体的配置とがどこか噛み合わない、言葉以上にもっと深い考察があるような気がしている。

 

まず「写真」の要素が一見、ない。強い光を放つLEDディスプレイが、強いて言えばデジタル写真的な要素だろうか。緑色の網は蜘蛛の巣か。カンバスが2枚、裏向けに立てかけてあることや、墨汁のような塗料で模様のついた大きな白い布が壁に掛かっているのは、絵画的な要素を思わせる。絵画の制作現場のようでもある。

 

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部屋の隅にあるもう1つの方では、同じくLEDディスプレイの光、緑色の網、 裏返しのカンバスと、同じオブジェクトが出てくるが、デジタル感、いわば「光」の感触が増している。床はビニルシートに覆われ、断熱材の銀シートのようなものが目に付く。ディスプレイの数も増えていて、ツヤツヤ・テラテラした膜がLEDの人工的な光を乱反射させる。

先の作品群に比べると、こちらは現代人・我々のスマホ的な生活や、その中で消費・反復されるデジタルイメージ領域に近いのではないか。ひどく荒っぽく言えば、旧来のアナログな絵画的な世界と、実際に生きているデジタルイメージの世界とが両義的にあって、しかし乖離しているが、「蜘蛛」はそこに同時に現れる。

ステートメントによれば、作者は蜘蛛とは共存できず自然へ帰っていくというが、これは自然対人工とか、日常における郷愁的な話と捉えてよいのだろうか。そこを疑うならば、新旧メディウムの差異・乖離を踏まえつつも、それを越境し両方に巣を張るという作者自身の粘りこい生の衝動のようなものを感じるのだが、これも読み手の自由ということで。

 

 

◆渡辺晃介『裸足の彼女』

セクシュアルな内容のため撮影禁止。紹介できないのは残念だが、本展示の中では珍しく、かなりストレートに「写真」を提示していた。W・ティルマンスのように、壁面いっぱいを使い、大小のカラー写真を額装なしで配置している。

 

ヌード作品だが、男性が脱いでいるものと、女性と男性が二人で写っている後ろ姿、そして男女どちらの性別にも分け難いビジュアル・雰囲気のものという3種類から成っていた。ほとんどの写真には顔が写っていない。上半身もしくは首から下の全身が写る。誰もいない屋上、河原、夜の真っ暗な川辺で白い裸体を晒し、全身をカメラの前に預け切って脱力している姿は、虫がサナギから羽化した直後の姿を思わせた。傷つきやすく、艶めかしい、ゼロの姿。自分にとっての枷を外す行為こそが、本作の表現行為そのものなのだと。

 

枷とは恐らく作者自身における性別、性的役割についての葛藤だ。それはもう写真の仄暗いムード、抑圧と彷徨いと無垢さを孕んだイメージからも重々伝わる。「男性」であることへの疑念や、そこからの脱皮、真の身体を得ようとする運動を感じる。

ステートメントでは『境界を彷徨いながら、あの日を境に私は変化した。一定の自由を超え、幼児となった。ここに存在する写真は、境界を超える前に撮った写真です。』とあり、写真の前後で決定的に「境界」の乗り越えが起きたらしい。

 

作品については作者がHPで公開しており、また、「御苗場」にも積極的に出展しているようで、不特定多数への公表を前提としていると解されるため、ここにリンクで紹介する。

 

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本展示のステートメントでは不確かで分からなかったことが、HPでの掲載文から徐々に補完された。それでも謎は多い。

 

最も混乱するのが、作者と共に背を向けて写っている女性について。パートナーなのか、よき理解者・友人なのか、兄妹なのか、関係性が不明な点だ。

このカットがあることで、本作を上述のように「作者の性自認の揺れ」で纏められなくなる。自分の文章を覆すような話だがここに決定的な回答が見つからないことには、作品の意味は同定できない。非常に悩ましいポイントだ。女性一人の存在で、作品の解釈、タイトルの意味、作者がどこに向かおうとしていたのか / 辿り着けたのかが、大いに左右されてしまう。性差の問題を脇に置いて、「作者は混乱の中で、この女性へのきわめて深いシンパシーから、自己同一性の軸を彼女の側に持ってしまった」、とも捉えられなくもない。

 

なので、作品読解については判断を留保せざるを得なかった。読まれたいとも思っていないかもしれない。ただただ自分がどう生きねばならないか、そのシリアスなせめぎ合いの過程としての作品と呼ぶべきなのかもしれない。

 

 

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以上です。

どれも面白かったですね。私もそのようでありたい。

写真は拡張すべきだし、写真の側も拡張されるべきです。youtube独り勝ちの状況は面白くありません。写真の本性を発揮すれば、動画プラットフォームも飲み込めるはずなんです。そのはずだ。

 

書こうとして苦労したのが、ステートメントをもっとストレートに、科学的に書いてくれたらマジで有難いのになあと正直痛感しました。作品世界観を損なわないように書くのは難しいのですが。詩的でエッセイぽいと読解がそこで終わってしまって勿体ないところもあります。私が未熟あるいは老ってるためでもある。ドラゴンボール集めていい塩梅の精神年齢に仕上げてくれと頼みましょうか。どこにあるんや玉。

 

前段で述べましたが、「現代アート」として見た時には既知でお馴染みなのに、「写真作品」という前提から見たときには新しく珍しく感じる、このことはかなり重要というか、「写真」を巡る言説と現場において、重大な問題があるように感じます。写真の力をもってすれば、本来、YouTubeやYouTuberに押し負けるはずがない。批判的にもドキュメンタリー的にも遊戯的にも包含し、再解釈・再構築ができるはずだ。それができていない。変性です。変性しましょう。

 

本当は全員分を紹介・読解してみたかったですね。時間がね。有限で。ユーゲントシュティール。またの機会にあれしましょう。あれだよ、あれ。あれということで。ありがとうございました。

 

( ´ - ` ) 完。