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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】H30.12/16(日)美術館スタディ@ 国立国際美術館「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」

【写真表現大学】H30.12/16(日)美術館スタディ国立国際美術館ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」

大阪国際メディア図書館、毎年恒例の「美術館スタディ」の季節がやってまいりました。

近年は東京遠征が続いていましたが、今年は近場の大阪中之島国立国際美術館です。

その展示テーマは、日本の80年代における現代美術を客観的に再現し、当時の世相などとともにフラットに混ぜ合わせて可視化しようという試みです。80年代!夢のかおりがしますね。消費税をうらめしく思ったことは覚えてます(小学4年)。

 

(1)「80年代」の見方と語り方とは

第1フロア「1980-81年」の、これまでの系譜を受け継いだ概念的で切り立った平面中心の表現から、次のフロアへ抜けると一気に、様々な色・形の花が咲き乱れている。本展示は2フロア目の「1982-83年」から突然、別世界の様相を呈していた。

おもちゃみたいにスカスカっとした段ボール製の靴、トラック、サッカーといった日比野克彦の立体模型と、分子エネルギーが満ちたアイスクリーム製造機か絵具噴出機なのか分からないが杉山知子の可愛い平面作品とが並んでいる。森村泰昌ゴッホに化けて自撮りするのと同じ時代に、山部泰司は縦2.1m・横4.35mの超巨大な植物の油彩を掲げている。なぜそんなものを巨大に描くのかが全く分からないが、とにかく大きい。別のフロアでは田嶋悦子や池垣タダヒコの巨大な立体非生物の超?植物が床を占拠する中、壁面には2~3m級の巨大な平面作品が隣り合い、堀浩哉『風の声-21』はカラフルに荒ぶっているように見えて抑制のよく効いた筆致の弧を見せ、一方で剣持和夫『無題』はどす黒く闇がしたたり落ちた部屋の入り口を描くが、その支持体はカンバスと同化した、巨大に引き延ばされた白黒写真である。

 

楽しい、理解が及ばない、言葉が当てはまらない。

これが「80年代」か。

 

私は1980年に生まれたので、完璧に80年代感性に貫かれた人種、言わばネイティブであるはず、はずなのだが、己の出自と作品の理解とは別問題だったようだ。分からない。語り方が分からない。本展示をまず駆け足で観てみるが、ジャンルの混合、横断、作品の立体化、巨大化、といった大まかな動きは目に明らかながら、それが言葉の形で腑に落ちる感じが掴めない。展示作品の個別のことは、なおさらである。消費税をうらめしく思ったことは覚えている(小学4年)。絵画なのか、彫刻なのか、デザインなのか。

特に1982年から87年までの3フロアは厄介だ。言葉を置き去りにして生き生きと繁茂している。これらを体系的に見るにも、個々として見るにも、その読解、理解するためにはそれなりの装備が必要だろうと思わされた(私は美術系の出身ではない)。展示空間が、あるいは個々の作品・作家がどういう経緯から何を語っているのか、制作の意図や評価されているポイントなどが言語化できなかった。これを個別に理解していくには、少々手順と時間が必要となるだろう。

 

しかし括れないとは解りながらも、一旦は概括での理解がほしい。

そこで助けになるのが、学芸員の方のレクです。

  

(2)本展を企画した学芸員・安來正博氏のレク

本展及び連動プログラムとしてのコレクション展の二つを1時間半で駆け足に鑑賞した後、本展示を企画された安來正博(やすぎ まさひろ)氏のレクチャーを聴講した。レクの概要を以下のようにまとめて振り返ってみたい。

①本展示の目的と構成

②「80年代」という時代(イズムなき時代 = 領域の越境 (ポストモダン))

③絵画史の近・現代

④「80年代」美術の代表事例 

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①本展示の目的と構成

今回の『ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代』は安來氏が「個人的関心から」企画したもので、ご本人が最初にアートに出会った時の衝撃のようなもの、「原風景」を、「客観的に振り返る」試みであったという。当時、メディア等でよく名前を見かけた人などから打線を組み、計65名のアーティストから構成されている。

ただご本人でも仰っていたように「例えばこの時代を代表する大竹伸朗岡崎乾二郎といった著名人が入っていないじゃないか、というご意見があろうかと思います」との通り、この両名と藤本由紀夫、宮島達男らは本展示には不在で、逆に『起点としての80年代』展(金沢21世紀美術館高松市美術館を巡回)にはノミネートされている。こうした人選、あるいは会場のスペースの問題、個人的なキャパシティの問題もあって「80年代」を網羅しきれはしなかったらしいが、時代の風潮は再現できたのではないかとのお話であった。「80年代」を完結させるのではなく、「通過点」として可視化させることが狙いである。

 

②80年代という時代(イズムなき時代 = 領域の越境 (ポストモダン))

まず80年代以前=「モダニズム」という、発展・進歩主義の時代であること、それ以降が「ポストモダン」という時代である基本的な枠組みが確認された。ポストモダンは現代もなおその範疇となっている(それに取って代わられるべき時代区分の名称がない)。

まず80年代は戦後日本史において「現代」と呼ぶべき時代となった転換点である。戦後の復興から高度成長が一定のゴールに達し、社会が発展と成熟を迎えた、言わば「万博のスローガンが達成された」時代であった。

50~60年代にはごく一部の大学卒のエリートが高い理想と使命感に燃えて、国家や世界を意識して活動していた。国家の主権のあり方を巡って、革命への機運も生まれた。しかし学生紛争の結果、東大が入試を中止しても体制は崩れず、この国は変わることがなく、それどころか革命は内輪の殺し合いに帰結した(あさま山荘事件)ことに国内に衝撃を与えた。70年代は大きな停滞感に包まれた時代と言える。シラケ、ニヒリズムが漂う中、意識は外部ではなく自己の生活や精神、神秘へと向かい、オカルトや予言、終末世界が流行る世相となっていた。80年代はようやく光が見えてきた頃合いで、何か「それまでのモダニズムを越えて次の時代に行こうとする」機運があったとのことだ。

(なお、レク及び会場キャプション、目録の論文においても、80年代が必ずしも明るく希望に満ちただけの時代であったわけではなく、むしろ現代社会としての新たな社会問題や災害、エイズ禍といった暗い側面もあったことが踏まえられている。)

 

③絵画史の近・現代

ここで美術史における「モダニズム」を確認する。それは19Cにおける「写真」の発明、普及という一大革命を指す。1939年にパリのアカデミーが公認した「ダゲレオタイプ」から写真史が封切られ、次々に技術革新が重ねられ、広く商用に、そして一般民間人の手に「複製技術」は普及していく。

写真の最大の特徴は外部世界を複製できることで、肖像画や風景画における人間の役割を奪い、すなわち「絵画」のお株を奪うこととなった。そこで絵画は、写真には対応できないものを求め、独自の領域として大きく2点、

①世界のデフォルメ、抽象表現(印象派以降~フォービスム、キュビスム等)

②夢、想像の世界(シュールレアリスム等)

を開拓した。さらに「現代」に至るにつれて絵画は先鋭化する。次第に社会から離れ、外界を遮断する形で独自領域(コンセプチュアルアート、ミニマルアート等)を推し進めてゆく。これは絵画における本質の抽出作業であると同時に「実験室で試験管の中で純粋培養をしているようなもの」であり、日常や一般社会から隔絶されたものとなった。こうした流れは閉塞を生んだ。

それが1980年代に入ると、「1910~20年頃の時代にもう一度戻ろう、表現したいことを素直に表そう」という動き、すなわち「新表現主義」「ニューペインティング」の時代を迎える。ここにきて、本展示の内容へと到達する。ここでの特徴は、主義(イズム)の喪失、主流となる大きな動向がなくなること、それによって各表現分野の分断や純粋性を越えて、各作家が活発に自由な表現を行うようになったことである。

(上記は世界史としての美術史だが、1960年代以降日本でも同様に、絵画や彫刻といった各専門分野が閉鎖された枠の中でそれぞれの表現の純粋性を追求することを求められた。物質やオブジェ自体を消し去り、概念を推し進めるか(日本概念派)、逆に物質性を推し進めるか(もの派)、いずれにせよ作家が手を動かし「表現」を介入する余地がなくなっていく。その後の美共闘などの運動を通じてこれらの還元主義は次第に薄まり、70年代半ばには絵画や彫刻への回帰が生じ、80年代へと接続していく。海外から「ニューペインティング」の動向が『美術手帖』などで紹介されたことが影響していると見られる。)

 

④「80年代」美術の代表事例 

俯瞰すると、80年代には以下のような

動向があった。これはレクに際して配付された捕捉資料で、80年代の美術関連ワードがあいうえお順に並べられたものである。フラットにこの語群を見ながら、高低、上下左右などを無視しつつ作品を観て回ると何かが見えてくるかもしれない。

レクでは「80年代」を代表する作家が何名か紹介された。

・絵画_横尾忠則超有名デザイナー(サブカルチャー領域)が絵画(芸術というハイカルチャー)へやって来たということで、サブカルハイカルチャーが混ざってゆく時代を象徴した。

日比野克彦横尾と同等かそれ以上にこの時代を代表する、スター的な存在。コマーシャル分野でコピーライター、グラフィック、デザインを手掛けていた人物が、「子供の工作のようなもの」を作品として提示し、「これはアートなのか?」という衝撃を与えた。横尾、日比野らはテレビにも登場し、これまでの芸術家の枠を超えてまさにスター的な存在として国民に受け容れられたという。

・写真_森村泰昌1985年のピカソに扮したセルフポートレイト作品で、写真の役割を一変させた。(外界の複製技術→構築された世界を映像化し、絵画を取り込む)日本におけるコンストラクティッドフォトの代表格。

・版画_吉原英里:複写・転写技術が「絵画」の一種として再発見、再評価される時代となる。ポップアートにおけるシルクスクリーン技法なども参照されていた。作品の大型化と相性がよく、公募展も次々に開催された。

・やきもの_田嶋悦子、神山明:元々は工芸品(”用”の美)だったが、表現のいち手法として伝統、領域を越えて追求され、クレイワーク、セラミックアートとの呼称を得、自由を獲得した。

これら80年代の作家の多くが1950年代の生まれである点が特徴的だと安來氏は指摘する。彼ら・彼女らは、TVを筆頭とするサブカルチャーが当たり前にある中で育った、完全なる戦後の世代だということである。

 

(3)改めて、「80年代」をどう見るか

他にも挙げればきりがなく、出展作家の全員が個性的である。ここまで分かってきたのは、「皆、やりたいことをやったのだ」というシンプルな事実だ。誰かの要請や権威の意向によってではなく、また本展示のキュレーション上そのように見せているわけでもなく、本当に当時の現場レベルでは、自然とカオスで活気ある状況が生まれたらしい。

ここではもはや、各個の表現に対して「何を」、「なぜ」「何のために」表現しているのか、主体性を研ぎ澄ます/抑制する問いはあまり有効でなさそうだ。(やる気がある、やりたかった、というだけでその問いはクリアしている) そしてイズム、流派、所属領域すら固定できないならば、表現の手法や素材、文体を突き詰めて問うことも効果が乏しい。(アンセル・アダムスのプリントの美を拠り所に森村泰昌を批評する人がいたら、相当に気の毒だろう)

むしろ作品や作者が「どこ」と関わって「どう」繋がっているのかという、ジャンル越境のあり方、メディア論的なものとして問う方が適切なのではないだろうか。

 【(仮)70年代までと80年代以降の「美術(表現)」の違い】

異様に乱暴な私用の概念図だが、この発想によって本展示を再度鑑賞するとき、見えてくるものが変わってくる。

各個の作家・作品が「なぜ」「何を」言っているか(点の目線)よりも、「どこと/どこへ」「どのように」展開、越境してきて、そこに在るようになったのか(線と面の目線)に注目できるようになる。

すると、目の前の半・抽象的な平面や立体物を見て「わからん」と唸って立ち止まってしまうところから、それらが接続先とした他の作家、運動、あるいは他ジャンルにおける知見を想像しようとする働きが生まれる。越境、接続というメディアミックスの試行の結果としてこれらの作品があるのだという了解を自分の中で前提にするのである。

舟越桂『傾いた雲』が能面とジャコメッティとシーガルの融合体だとか、日比野克彦『BJ.MACKEY』がW・エグルストンの三輪車と同じ類のポップで優しい滋味を醸しているとか、吉原英里『M氏の部屋(部分)』は空間インスタレーションマグリットだとか、もはやそのように観客が勝手に連想し、積極的誤読によって遊んだほうが話が早くて良い。第一、楽しい。

めいめいが、本来所属するジャンルから、他のジャンルや作家へと、どう接続して展開させるかを自由に模索しているのが、この時代の特徴のようだ。その接続の模索は、引用のあり方だけでなく、空間の使い方にも見られ、「インスタレーション」という展示形式が発達したのもこの時代である。(ジャンルを横断する立体造形作品と、日本の「ギャラリー」空間の規模との相性が良かったとのこと)

そのような態度の転換ができるようになるには、学芸員レクと質疑応答を通じて、腑に落としこむ必要があった。 

 

それはひとえに、私がこれまで「80年代」という視座でテーマ化された展示を観たことがなかったためでもある。あったのかもしれないが、学術的に検証された機会に巡り合ったことはなかった。(逆に90年代の写真、ゼロ年代のアート、ゼロ年代以降のナントカ、といった特集は色んな場面でさんざん見てきた。スタジオボイス的にも。)

 

自分の中で決定打となったのは、安來氏の指摘した、サブカルへの接続可能性である。

これらの作品を生み出した作家らが、日常生活のレベルで大衆娯楽、サブカルチャーを享受して育ってきたということは、すなわちサブカルの感性が無意識的にでも作品に混入してくることを意味する。ということは読み手の鑑賞者もまた、サブカル的な軽快で遊戯に満ちた眼で作品を誤読することを許されるのではないかと思う。

安來氏のレクと展示構成は、80年代後半の作品は、次の90年代に展開される更に新たな領域としてマイクロポップスーパーフラット、シュミレーショニズムを予期させる要素を含んでいることを押さえていた。福田美蘭『緑の巨人』が代表例として挙げられた。(※展示会場そのものはサブカルとの接続は行われていない)

 

もっとも、これで私が自由に作品をズバズバ解読出来るようになったという訳ではない。小さな視野転換の気付きを得た段階である。

今回のまとめとして、なぜ私が初見で本展示を「分からない」「語れない」と強く感じたのか、改めて整理しておきたい。

 

ひとつには、80年代が転機となって、それまで個々に分断され洗練されてきた各分野、フォーマット、価値の体系が一気に崩されたことが挙げられよう。急速に新たな生態系が爆発し、意味をなさなくなったと言うべきか。その爆発が、一言で概括できる状況ではなく、生み出された作品群も従来の「絵画はこうあるべき」「◯◯派はこういう思想傾向」という固定の括り方が通用しなくなった。括りが有効となるまでには、時間を経て80年代の熱が冷えて固まり、再び洗練を帯びるまで待つ必要があったのだろう。

 

もうひとつには、当時の言説を読み解き、形としてまとめあげる批評・評論(家)、研究機関がどこまで機能していたのかという問いがある。

いかに美術の現場がカンブリア期のごとき爆発的活況、熱狂を呈していても、それを強引にでも語る者がいれば、我々は「ニューウェイブ」以上の具体的な言葉でこの時代を形容できると思うのだが、現実にそうはなっていない。

美術評論という枠ではなく、別の語り口によって語られたことにより満たされ(たことになっ)ていたのかもしれない。例えば浅田彰中沢新一柄谷行人に代表的される当時の論壇はあくまで文化、社会、メディアなど時代全般の状況(=ポストモダン)を対象として盛んに評論を行っていた。しかし思想上のポストモダンは、個々人の意志や主体といった「点」を対象にするのではなく、近代という世界観及びその後に登場する構造主義を対象として批判の思考を繰り広げるため、芸術家一人一人に対してきめ細かく研究・考察し、それを大きな潮流へと還元する仕組みを当時の論壇がどこまで確保していたかは不明である。同時代の評論では岡崎乾二郎がいるものの、感覚的には「現代美術」で連想する評論家というと、いきなり90年代に飛んでの椹木野衣である。そして「90年代的な」というとイメージが即座に浮かぶ。村上隆マーケティングが極端に秀逸だったのだろうか?

加えて、日本において当時の爆発的かつ瞬間的な美術・アートの動向を収集・研究し論考を発表する機関=美術館が未成熟だった可能性も高い。まさに公立の美術館・博物館が各都道府県に爆発的に設置されてゆくのが70~80年代である。十分な収集・研究の土台、そして批評の言説が整わないままに、現場ではジャンルを越境した作品が次々に登場し、立体化、巨大化、空間化・瞬間化(インスタレーション)、広汎なサブカルへの接続試行などが繰り広げられていったとすれば、美術史上の考察や検証は、今まさに着手されたばかりとは言えないか。

本展示の目録に掲載されている2本の論文(安來正博『現代美術の曲がり角ー追憶の80年代ー』、谷 新『80年代美術をめぐって/その隆盛と社会に開かれたアート ー<ポストモダン>を超える<オルタナティブ>なステップー』)では、先行研究の論文、言説によってというより、当時の具体的な展示状況や社会全体の動向を中心として「80年代」の定義を行っているように伺える。当時はギャラリーとアーティストらの主体性・能動性な活動がアートシーンを強力に牽引していたことがよく分かる。反面、「80年代」のアートシーンを「語る」という作業は、ようやく始まったところだという印象を受けた。

「80年代」が現在に直接連なった地点であることを踏まえるならば、それを一定程度理解することが、現在、そして東京五輪後の日本を捕捉し、思考するための眼差しを培うことになるだろう。 ただしそのためには、ポストモダンという語り口の口当たりの良さで終わらすのではなく、自身の中に傷のようにして残る特定の作家なり作品なりと出逢い、その世界へ個別に深く潜行してゆくこともまた不可欠のように思われる。

以上のような形で、相当に私見を織り交ぜつつ、今年度の美術館スタディでございました。

畑館長から締め括りです。「6つの国立美術館のうち2つが関西にある(大阪中之島、京都)ということは非常に恵まれていることです」「しかしこの展示、前回のプーシキン展と比べると、人が少ないですよね。日曜日なのに。これが今の日本の状況です。これからのことを考えた時に、どちらの展示の方が重要なのかは、皆さんもお分かりかと思いますが」80年代が重要なのだということを叩き込んで〆です。このあとみんなで仲良く飲みました。わあい。 

(※国立美術館・全6館のうち1館は映画アーカイブで、1館はコレクションを有さない(新美術館)ため、事実上4館中2館)
(※プーシキン美術館展で約20万人、本展示で現在1万人程度とのこと)
 

ねこの絵を用いて「何を」「なぜ」の点の目線から、「どこへ・と」「どのように」という線・面の目線で捉えることの有効性を説きながら、最後はポストモダン的思考って美術の現場に対してザルでしたよねという、自分で火をつけておいて自分で水をぶっかけるような文章になっているのもまた一興です。まあね。それも含めてポストモダンだからね。ああ地下茎になりたい(白目)。

( ´ - ` ) 完。