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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART/トーク】「岡﨑乾二郎 縦横無尽」@浄土複合(京都市左京区 浄土寺)

 【ART/トーク】「岡﨑乾二郎 縦横無尽」@浄土複合(京都市左京区 浄土寺

場に到着すると、満員。美術品をお上や行政が価値付け・売却する仕組みへの疑義が語られているところだった。例のリーディング・ミュージアム構想である。

【日時】2019.5/24(金)18:00~20:00

 

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【浄土複合】
<★Link>https://jdfkg.tumblr.com/ 
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登壇者、岡崎乾二郎氏は造形作家と美術批評家という二つの顔を持つ。以下は聴講しての個人的まとめ。

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「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」構想は昨年・2018年5月19日に読売新聞が報じたもので、出典元としては同年4月17日の会合に、文化庁が作成した資料『アート市場の活性化に向けて』とされている。

構想のあらましと概念図についての詳細は、『美術手帖』2018.5月21日記事『政府案の「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」とは何か?文化庁「確定事項は何もなく検討中」』を参照されたい。文化庁HPは5/24~5/27までメンテナンス中でアクセス不可のため直近の状況は確認できず)

<★Link> https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/15569

 

この件は報道の直後より美術界に衝撃を与え、問題点を指摘する声が上げられてきた。「美術手帖」は特集で連載を組み、「全国美術館会議」からも2018年6月に声明が発表されている。

<★Link> http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/71672/

 

 

トークでは、文化庁資料【今後目指すべき姿(イメージ)】図が取り上げられていた。

この仕組みを乱暴に紹介すると、日本の美術界は体制から予算から色々と多くの課題があるので、市場を活性化させ、ゲーム参加者、美術品、お金の流通量を増すべく、指定を受けた国内の美術館・「リーディング・ミュージアム」が、美術品の売買を積極的にやっていきましょう、という枠組みである。

 

行政の考えとしてはよく分かる。財務省、予算課から「美術館運営の採算性を示せ」「自分で何とか稼げるスキームを示せ」「改革案を示せ」と何万回も言われて、事務方が知恵をしぼって(コンサルの力や海外の事例も得て?)絵を描いたのだと薄っすらお察しする。文化庁サイドによると、イメージ図はあくまで検討案であり、何も決まったものではないという。が、行政は基本的に反対意見が出なかった場合、検討案をぬらりと計画素案に作り込み、議会で予算承認されれば案が制度として確定するので、ただのイメージと割り切ることは出来ない。補助金が欲しければ身を切るプランを示せ、といういつものお話である。

 

岡崎氏の指摘したこの仕組みのまずい点は、まあ全体的に間違いなのだが、中でもリーディング・ミュージアムとコレクター(個人・企業)の関係である。案では民間から美術品を「寄附」により収集し、オークションに売却することとしている。岡崎氏はこれを「国がマネーロンダリングをやる、偽札を大量に作る仕組み」と評した。「寄託」であればまだしも、「寄附」というのは… 私は戦中の鍋釜金物供出や、五輪運営のボランティア総動員と似た感性をそこに見た気がする。

 

ここでは「価値」の付け方が美術館(=行政)主導となっており、コレクターは財を供出する側となっているが、これは関係性がひっくり返っているとのことだ。「価値」は「2、3人のコレクターが付けるもの」だそうだ。

長年の経験から実感を持って岡崎氏が繰り返したのが「2、3人のコレクター」のくだりである。

例えば、のらくろでも何でも、あるキャラクターの希少なお宝が見付かったとしよう。すると日本で数名の熱狂的コレクターがその作品を欲しいと思い、競り合いをする。お金を出して欲しがる人が2,3人いれば、そこで値段が付き、値が上がり、その作品の相場、すなわち「価値」ができる。この体系が「市場」である。

 

こうした行動をとる人種(コレクター)は、常人なら取らない選択肢をとる。月収の半分とかそれ以上の金銭を購入に回そうとする、つまり通常の生活費の観念、人生観がどこか破綻しているのだ。例えば個展の初日に画廊に現われ、作家と話もせず作品を吟味し、作品を買っていくような人が、少数ではあるがそれぞれの分野や作家に対して存在するらしい。 

通常の生活における買い物では、衣・食・住に関する選択肢が優先される。食い物・飲み物のうちどれを買うかという判断が下され、趣味は後回しになる。が、一部の人種にとってはそこに「美術品を買う」という選択肢が等価で併置され、一種の競合状態となる。経済原則から外れた回路(=当人らにとっては飲み食いすることと同等かそれ以上に、美術品によって「満たされる」。)が成り立つのが美術、アートの世界であり、それゆえに「市場」は、市民の側で自然と形成されうるのだという話であった。

 

そこで岡崎氏は「最も簡単に良い美術館を作るには?」と私案を語った。答えは、GAFA的なプラットフォームである。

市民が自由にアカウント登録し、個々人で自分の所有する美術品を登録する。そしてユーザー間でお互いの美術品に「いいね」と相互承認・評価するような場である。美術品については自分たちの文化財と化させ、売買などで移動した際も追跡され、現在地が更新されるようにする。

肝心なのは、国や行政抜きで立ち上げることだ。あくまで自然発生的にソーシャルネットワークによりアーカイブ化された「場」であるべきで、行政はその「場」の力が大きくなれば、無視できなくなり、事後的に追認せざるを得ないという。逆の、国や行政が主導となってプラットフォームを構築する体系は「あり得ない」と語る。

 

似たような発想で、先行事例「スタートバーン」のようにブロックチェーンを活用したアート市場作りも考えられるが、岡崎氏のイメージはそれとは意味、前提が異なるという。 

<★Link> https://startbahn.org/

 

その理由として、「スタートバーン」は、アート市場の中でもセカンダリー市場を前提としているが、まず美術品がプライマリ市場で売れていないということ(オークションで高値が付くことは極めてレアなため、大きな話題となる)、そして、先にプラットフォームを構築しても、既に自身のコアな分野でコレクションを形成している層はそこに乗ってこない(むしろまだ知名度の少ない作家らが参入してくる)のではないか、という指摘がなされた。

よって岡崎氏がは、コアなコレクター同士の私的な繋がり、小規模な集団があったうえで、次にその集団間をつなぐネットワークとしてのプラットフォームが構築され、作品情報・価値を共有・管理する仕組み作りを進めていけばよいと語る。

 

私には守るべき家庭がないので、同世代の一般会社員に比べるとたいがい本を買い過ぎているのだが、それでもかなり収支のバランスは配慮している。だから「月収30万円で15万円とか20万円の美術品を買ってしまう人」、コレクションすることがその人の人生、実存となっている人の心境は、理解も想像もできない。「アート市場」という言葉ばかりが流布されているが、その根本のパワーとして購買・価値の生成には、理解不能な行動原理を有する熱狂的な少数のコレクターの営みがあること、つまり国の思い描く美術市場のフロー図ではそのパワーに掠りもしていないことが、よく分かった。

 

だが岡崎氏の言いたかったことは、美術館のあるべき姿の話にとどまるものではない。根本的に、美術品、アート、ひいては「価値」というもの全般について、それを誰が決めるのか、どう決めるのかの枠組みを、国・行政で勝手に決めてくれるな、ということだと感じた。

それはあくまで、市民の自由参加と自由意思に委ねるべきであると。市民に委ねることが、「公共」なのではないかという話である。

コアな愛好家が、生活や人生の「あるべき」バランス(それこそ社会によって調律された価値体系)を歪ませてまで、「好きで」購入している現状があるのであれば、それは「市場」というゲームが成り立っていることになる。好きで・趣味でやっている以上、何人もそのゲームを邪魔するべきではない。彼ら彼女らにとってはコレクションがすなわち人権、生存権と呼ぶことができるためだ。ならばその人権、ゲームを邪魔しないことが「公共」なのではないか。

 

美術館を巡る話は、そのような形でなされていった。  

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トークはこの次、近代建築の話、改元天皇制の話に移り、盛り上がりの中、閉幕のお時間となった。

天皇制の話題は面白かった。浅田彰が『REALKYOTO』に2019年5月1日付けで寄稿した『昭和の終わり、平成の終わり』――天皇制及び元号を廃止すべきとの論考に賛同しての話だった。

<★Link> http://realkyoto.jp/blog/asada_akira_190501/

 

トークでは、天皇制は論理的に矛盾していること(「国民」と天皇の非対称性)、国民主権・国家意識が国民に根付いていない(天皇一人が担っている)状況を踏まえた上で、「専門の無償教育を受けた一般人(何なら外国人から動物から含めて「国民」に限らずとも良いが)から、アトランダムに選出し、期間限定で「天皇」という国民でありながら国民でない存在になってもらうのはどうか」という、刺激的な提議がなされた。無論、本当にそうせよという主義主張ではない。皆が思考、論議するためのお題を投げかけ共有してみせたのだ。

 

これにはいたく興奮させられた。眠っていた脳のどこかが揺さぶり起こされるような気持がした。

「国」について、「体のいい関係だけ取り結んでおけばよい」と、仮死状態にしてあった部分に、電気が流れた。天皇陛下はTVで見るもの、沖縄は観光するところ、それ以上は踏み込まないこと――語ったり見ないようにすることを以って、日常を円滑にやっていることに気付いた。

 

 

そんなこんなのトークでした。

面白かったです。 

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「浄土複合」の近所には「ホホホ座」という、文芸、アート関連の書籍や小物を販売し、展示スペースを備えた場がある。これがまた、えらく、その、面白くてですね。衝動買いしました。『地下室 草号3』石川竜一ですよ。買うよね。 

まるで演劇部員のたまり場のようなこの香りがたまりません好き。

2階の古書コーナーあるの見落としてた(><)

 

( ´ - ` ) 完。