写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】瀬戸正人「旅しないカメラ・・・まだ見ぬ、もう1枚の写真を求めて!」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

【写真展】瀬戸正人「旅しないカメラ・・・まだ見ぬ、もう1枚の写真を求めて!」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

瀬戸正人作品をぎゅっと濃縮して鑑賞できる良い機会です。

【会期】2019.4/13(土)~6/16(日)

 

瀬戸正人は、1981年からフリーランスの写真家として活動し、1987年には山内道雄とともに自主運営ギャラリー「PLACE M」を開設、そしてギャラリーのみならず「夜の写真学校」も運営し続けているなど、精力的な活動を行っている。本展示はこれまでの作家活動を濃縮したおいしいとこ取りの内容で、瀬戸作品について全く何も知らなかった私のような人間にとっては、非常にありがたい機会となった。

展示は6つのテーマから構成されている。以下に短観とともに紹介する。個人的に特に関心を持ったコーナーについては分量多め。

 

(1)『binran』(ビンラン)

6点が出展。タイトルのとおり、台湾の「ビンラン」(ビンロウ)の売り子と、車道に面した売店ブースを捉えている。

熱帯魚の水槽のようだ。性風俗店にしか見えない艶やかさと過度な露出が、熱い夜の不可思議さと情欲を駆り立てる。無機質な光に満たされた箱の中、若い女性店員はセクシーアイドルと化している。その舞台である店舗は、縁日の露店のごときチープさが際立っていて、蛍光灯、空調、配管、ブレーカー、監視カメラなどが不細工にまろび出ている。コンテナをくり貫いてガラスを張っただけのような店は、居場所・職場と呼ぶにはあまりに刹那的で、彼女らはどこにも紐付かない架空の存在として夜に浮かび上がる。

 

「ビンラン」は、ヤシ科の植物の実にキンマという植物の葉が巻いてある、噛み煙草のようなものだ。味は苦く、噛んでいると軽い興奮作用を伴い、現地のドライバーの間で人気らしい。写真集の後書きでは、ビンラン売りの女性が夜の雨の中、客の車の助手席から身を差し入れては戯れ、絡まり合う様子を、売店のネオンの光とビンランの効き目とともに、深い海の底になぞらえて描写している。

 

どうやって彼女らを撮ったのかを想像すると面白い。客として車で店に乗りつけ、窓からサッとフラッシュを焚いて撮ったのか。店に了解の下で画角を練って撮ったのか。写真は一見、軽やかに撮られたように見えるが、女性らの表情や衣装や姿勢、店の内装や商品、店を覆う前面のガラス窓、窓枠を囲む鮮やかな色の蛍光灯、店の両脇の壁に貼り出されたドリンクや巨乳美女の看板など、「ビンラン」を巡る状況の一切が、一枚の写真の中にきちっと収められている。即興のスナップなどではない。この高い構成力は、作者の私的な視線・体験をも超えて、ビンラン売店という独特のマーケット、風土の記録としての客観的な強度を併せ持つ。

 

そして観客の眼は再び、女性らを包む光の人工的に明るさへと立ち戻り、不思議な魅力を噛み締める。彼女らは、表情も内面もない人形、アイドルとして、どこか近未来も醸しながら夜の中に浮かび上がる。カウンター上に置かれた手元には木の葉、実のようなものが並んでいる。「ビンラン」だ。タバコやガムのような製品ではなく、原材料に近い状態で売られていることが分かる。この手元だけ、場違いに懐かしい雰囲気がする。地方の果物や柿の葉寿司の露店を思わせた。元々はビンラン売店、素朴な露店だったのだろう。ドライバー達の関心を惹く商法として、姿形だけ性風俗店のパッケージを取り入れて独自進化したのだろうか。

 

彼女らの表情や身なりから感情や生活感を、その素性を読み取ることは出来ない。そして写真からは、そんな彼女らと出会うドライバー側の表情も分からない。バックグラウンドから切り離された者同士が出会う店――光を帯びた水槽は、非日常の極み、熱帯の深海となって、濃密な「旅」を内包している。

 

 

(2)『nara』

7点が出展。タイトルからして、奈良のワンシーンだと思うが、場所など具体的な情報は一切ない。花(牡丹?)、道路の山側斜面の法面補強壁、仏像、池に浮かぶ藻と桜、木の根元の膨らみ、しだれ桜の花といった、さりげないモチーフのカットが続く。

仏像の掌を覗き込むように撮った一枚が印象深い。奈良の様々な事物が仏教観によって繋がっていることを示しているのだと思った。

 

 

(3)『記憶の地図』

28枚(縦4枚×横7枚)で構成。古い、旧日本軍の兵士の顔写真である。

ともすれば現代アート的な、メイキングの工程を踏まえた不思議な写真作品だが、これらは作者の父親が作成した複合写真だ。軍帽と軍服の部分がコラージュのように貼り付けの画像となっている。

戦後、故郷に戻ってきた瀬戸の父親が写真館を開いた際、客から戦死した家族の写真の復元を依頼された仕事である。出征前の集合写真から顔の部分を引き延ばし、個人の肖像へと転換させている。

 

 

(4)『Cesium - 137Cs - 』

大伸ばしの写真10枚で展示。

福島第一原発事故から1年後の2012年2月、フランスの通信社の依頼により、撮影のため福島第一原発の敷地内に立ち入った作者は、目に見えない放射性物質セシウム)の降り積もった自然界と邂逅した。

 

被曝した「自然」の写真は、モノクロと呼ぶには灰色と白に満ちている。色のない光が表面の質感を反転させて、見えないはずの内側が曝される。「樹」や「根」や「植物」といった、モノと言葉、意味との繋がり、同定を、それは引っ繰り返し、いずれの被写体も正体不明の肉体となって迫ってくる。樹の幹と根はまるで、体液に濡れたヒトの背中や腰、腹部のように膨らみ、うねっていた。これは人間だ。私は心の中で唱えた。裸の人間がのたうっている。私は心の中で繰り返した。裸の人間がのたうっている!

 

意味の境界が裏返っている世界だ。あるいは無数の羽虫、あるいは花を付けた草、あるいは光り輝く水面と岩、それらもまた風景であることをやめて、不穏な「気配」として写真に留まっている。白黒は若干反転している、白黒でない白黒写真、赤外線フィルムに少し似ている。

 

どのカットも直接的にフクシマや放射能、震災について言及しているわけではない。むしろ写真には何の具体的な情報もなく、何の変哲もない木々や川の水面が選び撮られており、日本のどこを撮ったのかは分からない。しかし恐らくサルトルマロニエの根に見出だしたよりも強く、有機的な不穏さに満ちていて、それらは木や根であることを超えて、白と灰色の光から成る肉と体液を滴らせ、存在感を醸している。

 

作者は複雑な心境とともに、それらを「美しい」と記している。特異な美しさである。それは通常のヒトと自然との関係とは言い難い。

作者は現地において、白いタイベックスーツ(防護服)と防毒マスク越しにこの「自然」を見ている。そして自然の側も、セシウムという死の膜に覆われている。二重の膜によって、触れられず、直に視ることもできない、そんなお互いの関係を取り結ぶものが、目に見えざる「危険」性=放射能だ。死へと連なるイメージ(見ることが出来ないので、ヒトは想像、想定する他はない)であり、実際に命に害を及ぼすものだ。その如何ともし難い関係性が、作品に不穏でパワフルな気配として現れている。

セシウム半減期は30年と言われる。この怪物めいた「自然」の輝き、肉のせり上がりはこの先も当分収まることはないのだろう。私達はこれらとどう関われるだろうか。

 

 

(5)『Silent Mode』

1996年の写真集『Silent Mode』は、高級コンパクトカメラ、コニカ「HEXER」のシャッター音を消し(サイレントモード)、電車内の女性らを至近距離から気付かれないようスナップ撮りされたポートレイト作品であった。表情もなく放心した女性らの表情は、写真集『Living Room, Tokyo 1989-1994』と2冊合わせて第21回木村伊兵衛賞を受賞した。

今回展示されているのは2010年代後半(2018年が初出?)の同名シリーズ作品で、1996年版からは手法やシチュエーションを変え、屋外での長時間露光によって制作されている。が、ポートレイトという体裁や、女性らの表情、特に眼の向きや開き方がどこか尋常でない点、つまり本質的な着眼点やテーマは前作から一貫している。

 

女性らの表情は、ポートレイトと呼ぶにはあまりに異様だ。これは10分近くに及ぶ露光時間の長さによるもので、顔の輪郭やパーツは形をしっかり表わしているものの、髪は動きで流れ、視線は失われ、寝落ちしていたような眼からは、彼女らから意識や内面がこぼれ落ちてしまったかのように見える。

直視するのが怖い作品だ。電源が落ちている時のペッパー君に少し近い怖さを感じた。もしかすると平時、何処を見るでもなくぼうっとしている時、私達の顔はこのような虚ろな姿を晒しているのかもしれない。

 

 

(6)『Picnic』

2段組で11列、計22枚の構成。1995年の夏から撮られた、公園で仲良くデートし戯れるカップルの作品。カラーの色調が濃くて懐かしい。ネガフィルムなのか、90年代の香りが濃厚に宿っていた。

 

屋外にシートを敷いて男女2人が座ると、様式美かと思うぐらい自ずとお決まりのスタイルが取られていて面白い。並列座り、背もたれ抱っこ、膝枕の3パターンが基本形だ。

上級者はベッドの中の行為中のように寝そべって抱き合っている。背丈ほどもある草の繁みの中で、男女が草に埋もれながら抱き合っている姿は、他のカップルらとは異質な、密室の中を覗き見てしまった感があり、印象深く記憶に残った。

また同じぐらい異色な一枚があって、10代後半ぐらいのおしゃれ男子が缶コーヒーを手に、ヘッドホンを装着し、一人でポーズを決めて立っているカットがあり、その意味深さに思わず立ち止まってしまった。彼は何だったんだろうか。

 

これらの作品を、プライベートが公的な場に持ち込まれる姿を観察・記録したドキュメンタリーとして見ると面白い。なぜ人は公園で敷物を敷いて戯れるのか。なぜ人は交際が始まると屋外でイチャイチャするのか。何を味わうために戯れるのか。時代によってイチャイチャする場所や体位、小道具は色々と変わるだろう。なぜ花見の時期でもないのに敷物を敷いて屋外で飯を食ったりイチャイチャするのか。イチャイチャするとはどういうことなのか。2019年現在も公園、広場ではこのような形態で愛し合っているものなのか。そもそもピクニックが、屋外でシート敷いて日中を過ごすこと自体が趣味だという人はあまり聞いたことがない(実は一定数いるのかもしれないが)。恐らく恋愛関係の過程で、親愛の情が高まり、一定水準以上に発情した際に催す合同行為なのだろう。わからん。一体何なのだろうか。

 

それに90年代半ばのファッション、若者文化もくっきり記録されているのも面白い。もし現在撮るとすればまた異なるメイク、髪型、服装の写真となるし、カップルの構成も「男女」だけではないはずで、全てにおいて時代の証言となっている。『Binran』もそうだが、作者の個人的関心から始まったであろう取り組みが、時代や社会のコンテンポラリーな記録、証言として腰の座った表現になっていることが素晴らしい。味わいがあります。 

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( ´ - ` )  面白かったです。

力のある写真を見ると元気になります。

 

奈良に来るとカレーが食べたくなり、おつむがカレーになります。

「カレー屋楽(らく)」で、チキンと野菜のハーフ&ハーフをいただきました。この店は普通のカレーではなく、現地のスパイスを重要視した風味で、薬膳料理とまではいかないまでも、「美味しさ」や「のどごし」とは対極にあるカレーを作ってくれます。

店内でスパイスも100円分小分けにして販売。

 

( ´ - ` ) 完。