写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】片岡俊「Life Works」@大阪ニコンサロン

【写真展】片岡俊「Life Works」@大阪ニコンサロン

放置された「庭」はどうなってしまうのか。そこには庭主の人生、表情が重なって映る。

【会期】2019.5/23(木)~6/5(水)

 

本作はドキュメンタリーだ。一つには「庭」という空間が、人為と自然の緊張関係の中で成り立つ規律的な、演出の場であるが、その均衡が破綻し、自然側が静かに侵略してくる様子を捉えたものだ。そしてもう一つは裏返しの意味として、庭を手入れする人間(=祖父)が、肉体的にも老境に入り、体が動かなくなりつつある状況を捉えた記録となっている。

 

本作の主役は、作者の母方の祖父が50年に亘って手入れし続けてきた庭である。ここには人の暮らしと自然(=植物)との共存共栄(=庭)における力関係、シーソーゲームが傾き、バランスが偏ってしまった状況が写っている。傾きを生じさせたのは、老いによる庭の手入れの限界だ。作品は5年ほど前から撮られたらしいが、「庭」はまるで小さなジャングルのように、自然の側へ大きく傾いてしまい、植物が氾濫している。 

会場風景を見ると、美しい「自然」景の作品に見えるが、作品の一点一点からは、人が手を入れ続けてきた空間がものの見事に植物によって食い破られ、秩序を失っていることがよく分かる。いや、ぎりぎりのところでまだ「庭」のフォーマットは残されている。もはや残骸に近付きつつあるが。この自然からの浸食は、毎日寝食を共に過ごしていたら逆に気付かないかもしれない。むしろその場合、作者は定期的に草を刈り取っていた可能性も大きい。物理的にも血縁としてもある程度の距離が離れた孫という立場だからこそ、そして写真の持つ長軸での時間感覚で俯瞰するからこそ、この状況はテーマとなり作品化されたと言える気がする。

 

植物の生態、バイタリティは想像を超えたものがある。自然は人を癒し、人の暮らしと共にある存在のように思われがちだが、癒しなど幻想だ。自然、その代表格である植物は、本来的には癒しも慈悲も持ち合わせてはおらず、人の手が積極的に入らない限りは生存原理に従って無限に増えて侵食を続ける。

鉢植えは名前もよく分からないものが多数生えていて何を主役として育てていたのか全く分からない。上から庭を捉えたカットでは、緑が溢れ、どこまでが庭の敷地なのか判然としない。「分かる」もの、つまり「分けられた」各部の区画や機能が崩れてしまっている。人の了解事項によって整えられていた場のことを「庭」と呼ぶならば、これは一体何だろうか。まるで人体のようだ。自律性を失い、防御を失い、内外の境目を失ってゆく、すなわち死という状態へ近付いてゆく。

 

作者はこの光景をマイナスの意味では捉えておらず、植物の生命力を肯定的に表現し、一個の独立した世界として表現している。草の勢い、収穫されずに放置された果実などがそのままに、むせ返るような太陽光と緑の中で存在感を放っている。そして、規模は小さいながらその自然の中に豊かさがあること、生き物が住み着いていることが示される。クマゼミを中央に捉えた写真は新たな主人が到来しているように見えた。

 

庭の主、家族は確実に老い、弱りながら、死へと一歩ずつ近づいているのだろう。反比例して植物の勢いは増し、「庭」を了解不能のものへ消化分解していく。しかし、なおも緑に呑まれずに残っている農具やプラスチックのジョウロ、そして祖父と思わしき人の後ろ姿は、シーソーが自然の側に倒れながらも、庭主との関係を完全には失っていない、むしろ現在の庭主の居場所としての姿を見せているように思われる。そんな本作は単に「老い」や超高齢社会の縮図といった、社会問題のドキュメンタリーとは一風異なる。本作は庭主の人生を照らし出す鏡であり、そして老いや死という現象が、自然とどのような関係性を結ぶものかを語っている。

 

 ( ´ - ` ) 完。