nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R3.7/16(金)~7/18(日)「表現の不自由展かんさい」展示内容(前編:天皇関連) @エル・おおさか

実行委員会と大阪府、主催者側と右翼団体との不穏な対立、間に立つ警察、そして相次ぐ脅迫と報道。もはや何の展示だったのか、展示の趣旨、作品の意味がそもそも何だったのか、色々と置き去りになっていて見失われていそうな「表現の不自由展」について、その展示内容を見ていきましょう。

 

(長くなりそうなので、天皇関連の作品でいったん切ります) 

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 【会期】2021.7/16(金)~7/18(日)

  

 

◆全体的なことについて

 「表現の不自由展かんさい」の開催を巡る裁判関係と、当日の整理券購入の様子はこちらの投稿でレポしています。しました。 

 

くそ暑かったすよ。2年前のあいトリといい、暑くて厚くて、夏の風物詩として体に刻まれた感があります。ありがとうございました。

 

全体の雰囲気としては、「手作り感」の強さが特徴的だ。

展示されている作品自体はプロの作家が手掛けたものだが、その他の全て――空間、会場設営・展示方法から、来場者の受け入れ体制や捌き方、広報物・パンフレット類、観客の雰囲気など、あらゆる面において、美術界・デザイン界などの専門性と洗練からは距離のある、市井の人々から成る実行委員会の「手作り感」があった。

 

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象徴的なのは本展示のチラシで、風合いが実行委員会のスタンスや感性をよく表している。昔、小学校の道徳の授業で見た「人権」の教材や、組合運動のビラに通じるものがある。無力な立場の者が団結して、声なき声を訴えるビラの感じ。懐かしい。

このチラシは既に品切れ。展示パンフも売り切れた。パンフの内容、確認しとけばよかった。私の行った回では売ってたんすよ。並んでたら売り切れた。ひー。まさか会期のちょうど真ん中で売り切れるとは。

 

 一応、主催者のホームページはあるが、作品に関する情報はない。実行委員会の顔ぶれも不明だが、活動史のページで「あいトリ」での顛末や、展示へのスタンスを巡る論調からは、実行委員会の闘争の性質を読み取ることができる。

 

fujiyuten.com

 

そして、会場の「エル・おおさか」(大阪府労働センター)自体、9階展示室の雰囲気が地元の古い文化施設そのもので、これも手作り感に連なっている。

それだけではない。そもそもこのセンターは労働組合の健全な発展並びに労働者の教養の向上及び福祉の増進に資する集会、催物等の場を提供する」と設置目的が府条例で定められているとおり、労組、左翼的な場である。こうした要素の積み重なりは、本展示が「アート」という文脈・枠組みの外側で、社会的な主張を持った有志らが催した企画であるという印象を強めた。

 

それは前回の「あいちトリエンナーレ2019」が、巨大かつ現代的な「愛知芸術文化センター」という公共の施設で、国際的なアート祭典のプログラムとして催されたのと比較すると、根本的に性質の異なる展示である。

「あいトリ2019」はジャーナリストの津田大介が芸術監督に就任し、早々に出展作家の男女比を50%&50%に設定して称賛されたように、全方向的なリベラルの実行力が期待された企画だった。

そのため同じ「表現の不自由展」でも、「あいトリ2019」全体の趣旨に照らし合わせて展示内容、訴えの内容を確認することからは逃れられず、すると政治的な偏りがどうしても目についてしまった。ある一方向のスタンスからのみ「表現の自由」を訴えることは、ステルス的に特定の政治的スタンスを主張するための方便として「アート」を用いているのではないか? という疑義が拭えなかった。それを象徴したのが、世界各地で政治的主張のためにロビー活動と共に据え置かれる「平和の少女像」(通称、慰安婦像)だった。

 

www.hyperneko.com

 

今回は「あいとり2019」で抱いた感想とはかなり異なるものとなった。

今回の展示は、国際的な志向、公共性、「アート」という枠組みから外れたところで催される、ある志を持った市民団体らによる自主運営の活動であると割り切ることになった。意識せずとも、列に並んだり展示会場に居るだけで、自然と察することになった。それが前述の「手作り感」である。たとえ同じく「平和の少女像」を置いたところで、「日韓関係に対して主張をお持ちの方々なのだな」という、大人の理解というか、「そういうもの」として受け取るに留まった。

「アート」や「美術」のあるべきスタンス、リベラルな立ち位置について、様々な立場や多様性について、期待を抱いたり、アートとしてあるべき機能・作用についての批評を行わなくて良くなったと言えるだろう。労働組合の集会で、経営者意識がないとか人件費の削減がぬるいといって怒り出す人はいないのと同じだ。

 

なので平穏に作品を観ることになった。リベラルとしての批評性を度外視することで、逆にフラットに、即物的に作品を観ることになるとは思わなかった。

 

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◆展示構成の変化

展示作品における変更点としては、恐らく会場への搬入・展示における物理的制約からか、大型インスタレーション作品は「平和の少女像」だけとなり、その他は全て収まりの良い壁掛け作品となっていた。白川昌生、岡本光博の大型インスタレーション作品は額に収まるサイズで提示され、中垣克久の大きな「円墳」は無かった。

さらに、2室に分けて展示したことで、全体的に意外性はなく、スモールな印象となった。

 

また、横尾忠則藤江民、永幡幸司、Chim↑Pomの作品はなくなった。安世鴻(アン・セホン)の写真作品は8枚組から大伸ばしの1枚だけに再編されたうえに、ニコンサロン展示拒否をめぐる経緯の資料もなくなり、事の経緯は全く分からいものとなっていた。

代わりに増えた作品として、豊田直巳の写真群が新たに加わったことと、岡本光博の造形作品、島田美子の映像作品、キム・ソギョン、キム・ウンソンの映像作品などが増加した。そのため点数自体は減っていない印象だ。

ただ、全体として構成がかなり緩く、作品間の関連や、どんな事情や力によって発表が「不自由」となったか、その権力の恣意的な/自発的な発動を告発するものではなくなっていた。むしろ個々の作品の訴求力を重視し、天皇への批判や、原発や韓国(人)への言及をそのまま出している印象だ。

 

 

天皇というモチーフに関する作品

本展示にはいくつか明確な主張、批判の対象がある。その分かりやすさゆえに世論の動揺も大きかったわけだが、中でも最も大きな火種となったのが、天皇陛下をモチーフとした作品だ。

 

これらは正直、語るのが難しい。

少なくとも「あいトリ2019」時点では不可能だった。両者が激突し、世論が燃えに燃えているときに、どういう形であれ言及するのはリスキーすぎ、手間がかかりすぎた。

 

作品・作家側を手放しで支持すれば、すなわち天皇制度を批判する立場となり、炎上の中に突っ込んでいく形になる。逆に天皇や日本国家を肯定したり、それらを擁護する勢力へ理解を示した場合、表現者側・主催者側とは相容れない立場をとることになる。

両者を高度なバランス感覚で客観的に見ていくことも可能だろうが、完全にフラットで客観的な視座というものがありうるのかどうか? Twitterを中心として 世情では、読み手の悪意によっては幾らでも切り取って炎上させられるし、当時は状況の変化が激しすぎて熟考する時間もなかった。

なにより、天皇という存在に一定の理解を示した場合、美術関係者、表現者サイド側から「勉強が足りない」「歴史を知らなさすぎる」等と非難される恐れがあり、考えれば考えるほど身動きの取れないテーマとなって立ち塞がった。私としてはそちらの層の方が距離が近い分、もしもの時の実ダメージが大きいことが懸念された。

だが平成の世で天皇皇后両陛下が、大災害のたびに列島全土を回り、被災者らを慰撫して回った実績を考えると、そうそう簡単には批判の対象として切り捨てられないところがある。昭和天皇にせよ、個人の懊悩というレベルにまで落とし込んで見た時に、戦争責任についてどう考えればよいのか、明確な解を持てないでいる。

 

うだうだ書いたがそういうことで、歯切れがとても悪いことを了承いただきたい。難しいんですよ本当に。苦しくなってきた。アホとでも何とでも言うてくれ(投げ出した)。ああん。

 

 

 

■大浦信行「遠近を抱えてPartⅡ」

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天皇陛下のお写真を燃やしている、けしからん作品」として、2年前も今回も象徴的に槍玉に上げられている作品だ。大量の警官が陣を張り、右翼団体が終日大声を上げ、脅迫が相次いでいるのは、この作品が引き起こした異常事態であるとさえ言える。ここまで暴力と公権力にスイッチを入れた美術作品が近年、他にあっただろうか。日本の美術史に何らかの形で遺されるべきではないかと、素人目には思う。

 

本作は手前の写真ではなく、その奥で観客が取り囲んでいるのが作品だ。映像作品で、作品の撮影はNG。本展示で唯一の撮影禁止対象である。「あいトリ2019」の時は撮影可だった。

 

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 ステートメントのとおり、映像は1945年の太平洋戦争を舞台とし、19歳の従軍看護婦を演じる女性が映し出され、モノローグが続く。そして夜の暗い海と、バーナーの青い炎で、昭和天皇の写真が燃やされてゆく映像が交錯する。主人公は従軍看護婦として、死地に赴き、靖国に祀られることを母親への最後の手紙として読み上げる。

 

20分ほどの映像作品だが、これまで様々な記事で指摘され、また本人も述べているとおり、天皇(制度)を批判したり攻撃した作品ではない。実際に観てみると拍子抜けするほど、喧伝されている内容とは趣旨が異なるし、何より攻撃性がない。心象光景としてバーナーの炎は当てられるが、否認や攻撃の意図ではなく、女性の決意に満ちた語りとともに、物理的な写真的な像から、強い情念やイメージへと昇華させるための炎である。

なので世間の非難の声とは全く逆に、天皇陛下に象徴される「国」のようなものをその身に宿し、個人が負うていく姿として、登場人物にとっては極めて肯定的とも解釈できるシーンであった。炎は情念であるとともに、不可逆の戦火も意味し、後戻りできない戦局とも解釈できる。その場合も、昭和天皇に象徴される日本帝国が終わっていく在り様と見ることができ、やはり天皇批判では全くない。

 

そもそも「天皇のお写真」ではなく、燃えているのは大浦信行の版画作品である。天皇の像を燃やしている」から「自分で自分の作品を燃やしている」と語るとき、その意味はまた世間が騒いでいるのとは全く異なる視座を提供するだろう。

写真にしては素材が頑丈で、炎の回り方が明らかに遅く、「燃えている」「燃やしている」というより「炎に包まれている」という方がしっくりくる。写真が燃える時はあっという間なので、こうはならない。本当に写真を燃やしていた場合は、一見強固な「天皇」像があれよあれよと言う間に終わっていく=虚像の儚さ強く指摘され、偶像性・権力の破壊に繋がるだろう。

だが本作では天皇陛下は容易には消えず、炎の中で、炎と一体化しながら、女性の決意の声とひとつに混ざり合ってゆく。

 

むしろこれ、内容を知れば知るほど、右翼的にはあんまり批判できない作品なのではと思わざるを得なかった。

 

タイトルに「Ⅱ」とあるのが気になっていたが、元になっているのはコラージュのシルクスクリーン作品『遠近を抱えて』(1982-1983)だ。作者自身に内在する葛藤を表した作品であるというが、1986年の富山県立美術館での発表後、県議会や地元新聞から批判を受け、右翼団体の抗議もあり、美術館側は作品を図録と共に非公開とし、図録470冊を焼却処分した。つまり30年以上も前から因縁のある、戦い続けている作品である。

 

『VICE』で作者本人が作品について語っているのを発見。


 

映像がくっきりしているので、元の『遠近を抱えて』がどんな作品か分かりやすい。

 

また、本作は1時間38分の映画『遠近を抱えた女』の一部を編集した映像作品でもあると知って、異様に断片的で象徴的だったことに納得がいった。フルバージョンの映画は2019年10月、山形国際ドキュメンタリー映画祭で出品されたが、その後上映を引き受ける映画館がなく、お蔵入りとなっていた。「Vimeo」で2020年4/11~5/8まで期間限定で配信されたのだが、知らなかったので観ていない、、残念。

 

この作品については、「あいトリ2019」時に作者へのインタビュー記事が公開され、制作意図など詳細に語られていて参考になる。

 


 

■嶋田美子「焼かれるべき絵 A Piture to Be Burnt」(1993)

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顔のない天皇像に大きく赤いバツ印が入ったエッチング作品。これだけだと、正直言って、分かったようで分からない。顔の中身が描かれていないので直接的に昭和天皇とは断定できないが、軍服などから容易に連想できる。

だがこれ単品だと、ただの天皇ボイコット絵にしか見えない。

 

「あいトリ2019」では、これと『焼かれるべき絵:焼いたもの』(1993)とが並置され、更に大浦信行の作品との関連が説明されていた。嶋田美子は、大浦信行『遠近を抱えて』展示にまつわる検閲に対する抗議・非難として、この版画作品を制作し、更にそれを燃やし、燃える過程を撮ったスナップ写真と、1/3ほど焼いて残った版画、そして美術館へ送った灰や手紙などを一連の作品として提示した。美術館側の検閲に対する痛烈なカウンター行為の作品だったのだ。

 

今回の展示は作品が単体で置かれているため、恐らく鑑賞者は描かれたものを記号的に受け止めるにとどまり、作品間の関連や、なぜ「不自由」な「表現」となったかの経緯などが立体視できないだろう。意図があっての構成なのかどうかは不明。

 

 

■山下菊二「弾乗りNo.1」(1972) 

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70年代の制作とは思えないほど、暗くて不穏さの空気感がザラザラと触れてくる、コラージュのシルクスクリーン作品。1940~50年代っぽい―同時代的な風合いだ。

いくつも降り注ぐ弾丸に、昭和天皇が乗っていて、武器弾薬の散りばめられた中を、風刺画的な、とぼけた無垢な表情の天皇が、ぼうっと立っている。陰から様子を見ているのはチャップリン。とにかく不穏だ。図像の張り合わせの冷たさが、シュールな力を生んでいるのだろうか。

 

山下菊二と言えば『あけぼの村物語』(1953)の、コミカルでいて土着的な、不気味な陰湿さを高濃度で煮しめた油絵が代表的だ。解説によれば、脊髄性進行性筋萎縮症の進行によって油彩制作が困難となる中、戦時下での悪夢にうなされながら獲得したのがコラージュ技法であるという。

 

山下菊二については、2019年の展示とその代表的な作品について、「ART iT」での椹木野衣の時評が参考になる。

www.art-it.asia

 

情報量が桁違いですね。いいですねそんな高密度に書けて。

 

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その他の作品はまた次回に。

 

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