【写真展】第43回伊奈信男賞 インベカヲリ★「理想の猫じゃない」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY
猫を巡る問い。
「理想の猫じゃない」、それはある犯罪者の一言であった。
インベ氏は序文で、「猫」に理想を求め従わせること自体が、そもそも猫に「犬」の性質を要求しているのであって、そんな「理想の猫」は存在しないのだ、と喝破している。
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ニコンプラザ大阪 THE GALLERY
2018年5月 7日(月) 〜 2018年5月16日(水) 日曜休館
10:30~18:30(最終日15:00まで)
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インベ氏のステートメント及び、モデルらの立ち振る舞いと独白からは、「理想」を巡るある種のシステムが浮かび上がってくる。インベ氏の写真と取り組みは、そのシステムの作動を一旦宙吊りにさせ、自己責任論に囚われた民を解放するものだと見えた。この点は前回の展示《ふあふあの隙間》で感じることができた。テーマは継承されている。
強いて言えば、前回《ふあふあの隙間》は演技性が非常に高く、本作《理想の猫じゃない》はもっと自然に、風にさらされるようにしてモデル達がそこにいる。誰にも捕まえられない、誰にも所属していない姿で佇んでいる。
さて、「理想の猫」とは何だろうか。
件の犯人にとっては、完全に自分の支配の対象でしかなかった。
(2017.10/12 西日本新聞記事を転載したWebメディアより)
インベ氏の取組の全容と、タイトルに引用された事件などからは、力のシステムが浮かび上がってくる。我々が他の誰かに「理想の猫」を求める際のフローであり、同時に、我々が何ものかから「理想」的であるよう求められる際のフロー、そうした力の体系である。
<図:「理想」のシステムとフロー>
※図は著者の勝手なあれです 脳内で改良してね。
例えば、先の猫殺し凶悪犯は右側の極端例になり、「100人に100万円やるから俺をほめろ」と言うような金持ち経営者やAKBの支配人などは、左側事例へ寄る。
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①「理想」形成フロー
・社会や組織の理想から、個人的願望まで様々
・猫以外にも犬、鳥、魚など、様々な形、質あり
※ 自由・民主主義社会なので、ここは原則自由
②要求前フロー
・理想を託す相手を募る、選ぶ、合意形成など手続き段階
・支配的関係では、手続きがふっ飛ぶ、歪む
③要求時フロー
・「理想」を要求。レベルや手続きの種類は多数
交渉や教育、法制度など様々
・最も直接的なものが暴力、いじめ、洗脳など
④要求時フォロー
・「理想」要求に対価、報酬、称賛など「アメ」付随
サラリーマンが良例
・対価ゼロ、「支配」だけの場合も多々
(ブラック企業、一部のアイドル、スポーツ界隈)
⑤生存フロー
・「理想」要求の結果、「猫」の生存状態
・民主的な場では、個々に「理想」を引き受けるか選択可
(「猫」以外にも「犬」や「鳥」など選択可)
・不幸な場合は病んだり死んだり
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異様に乱暴な図だが、新春ポンチ絵祭りということでお許しいただこう。
「理想の猫」を巡るシステム工程①~⑤における関心どころは、どの箇所で「支配」「権力」の構図が発生するかであろう。答えは全てである。どの部分でも権力が発生する。いや、そもそもこういうフローを描けること自体が「権力」の賜物である。
逆に、力の行使者が社会のニーズにマッチした「理想」を掲げ、「猫」側の自由意思を引き出しつつ、対価や名声も還元してみせる場合には、それは「ホワイト企業」といった優秀なシステムとして称えられる。このとき「権力」のニュアンスは弱まり、資本主義的なルールに則ったものとしてOKと評価される。
しかし作品鑑賞の後味の悪さが秀逸だ。何かこちらの身の上のことを突いてくる。
そこで更にモデルらの表情と独白を見つめていると、思い至る点がある。
先のフローには注意すべき点が2つある。
まずフロー①「理想」形成だが、これはあくまで、その社会や組織、構成員がこれまで受け継いできた価値観の慣習、パワーバランスをがっつり反映する。
そのため、組織なり権力者なり一般人でも「理想」を描くのは自由なのだが(いかに性的に非常識な内容であっても自由)、この時点で既に、「理想」を託す・押し付ける側と、それを受ける側という支配・被支配の関係は少なからず組み込まれてしまう。個人あるいは組織、国家なりが存続し繁栄するためには、無数に抱え込む不都合なこと、非合理なことを併せ呑まねばならない。「理想」はその折り合いの結果としての果実である。
厄介なのは無自覚であることだ。理知的な検討の結果であっても 昨今の企業の広告、CMが「女性」の扱いを巡って炎上するのはまさにこの点だろう。
2点目は、大きくマルで囲った部分の「グラデーションがある」ところだ。「理想」を民に課す側と、「理想」を課される民の側のスケール、立ち位置はグラデーションになっている。場面によって逆転するのだ。ある一人の「生」が、権力側にとっての「理想の猫」であることを強いられる場面と、他の誰かに「理想の猫」であることを強いている場面との両方を、流動する。これが普通に発生している点は注意が必要だ。意図はなくとも、マジョリティに属しているというだけで、既に数という権力を身に帯びているのだ。組織に所属してこなす「仕事」などは最たるものだろう。
インベ作品と、作中に登場するモデルらは、まず無言で二つの告発をする。一つはこうしたパワーシステムが存在していることを、もう一つは、我々鑑賞者の多くが「理想の猫」を他の誰かへ無意識で強いてきたことである。
だがインベ作品は、「主義」を主張しない。正義を謳わない。徹底して内省的で、自分の不十分さを吐露し続けるモデルらの独白と、誰のことを見ているのか掴めない眼差しがだけがある。猫は「理想の猫」にはなれない、という全身からの訴えだ。モデルらの眼差しは、我々鑑賞者をすり抜ける。内省の嵐の中でも生きようとする眼がこちらがわに新たな視点を宿すことになる。
それは第3の告発を呼び覚ます。それは、私たち鑑賞者もまた何者かの「理想の猫」として懸命にやってきたのではないか、という気付きである。
モデルらの寄る辺ない眼と、自分の至らなさを責め続ける独白は、哀歌となって浸透する。悲しいほど彼女らは優しくて強い。優しすぎて、彼女らは「理想の猫」を人に強いる側に立つことが出来なかったのではないだろうか。そして、どこまでも「理想の猫」を引き受ける側に留まり続けた。
これは他人事ではない。今この身に起きていることだ。人はいつも自分のことには最後まで気付かない。気付いた時には、大抵遅い。私たちは誰の「理想の猫」だろうか?
( ´ - ` ) 完。