nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.5/25~6/6_熊谷聖司「眼の歓びの為に 指の悦びの為に この大いなる歓喜の為に わたしは尽くす」@ギャラリー・ソラリス

休みなく精力的に活動し続ける写真家・熊谷聖司、その姿は常に背中しか見えない。だが作品には幸いにもその「眼」が正面から捉えたものが写されている。

 

本展示に先駆けて、2021年2月に同名の写真集が刊行され、同時に東京・吉祥寺の「book obscura」でその記念として展示が開催されていた。新型コロナ感染拡大と緊急事態宣言ばかりの2021年だが、そんな中で大阪でもフォローアップしてもらえたのは幸運だった。

 

写真集、展示と、5/28(金)晩に催されたトークイベント『眼の歓びについて』の内容を踏まえてレポート。

 

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【会期】2021.5/25(火)~6/6(日)

 

本展示は、同名の写真集に掲載された38点の中から、更に絞り込まれた21点によって再構築されている。

 

写真集は2011年から2020年の間に撮られた、膨大な写真の中からセレクトされている。だが時期や場所は全く特定できず、問題でもない。全てが不特定であり、しかし曖昧ではない。 

 

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◆ノスタルジック、その奥にある眼

 一見、優しくて柔らかい写真である。光に満ちた、光そのものを宿した写真。熊谷作品はいつもそうだ。とてもエモーショナルでみずみずしい「光」の膜を纏っているので、既視感への――記憶への関連付けの誘惑に駆られる。

本展示に際し、AERA.dot』ではそのことを『誰かの記憶の断片を見るようなノスタルジックな光』と題してインタビュー記事を掲載していた。

 

dot.asahi.com

 

本人の生の言葉がたくさん載っているので、この記事は非常に参考になる。トークライブでの発言とも重なる部分が多く、言葉と姿勢が一貫していることがよく分かる。

 

だがあえて写真から受ける「ノスタルジック」な第一印象に抗い、じっと作品を見ようと思う。すると徐々に、「?」「これは結局何なんだ?」と、記憶のどこにもアクセスしない/できないことにも思い当たる。懐かしいかも知れない、懐かしいようで実は、これは私の記憶ではない。そして熊谷聖司の記憶でもない、他の誰の記憶でもない、そんなビジョンである。

 

それは従前から、熊谷作品を見たときの生の感想・体感として一貫している。ちょうど同じ時期に撮られた10冊の『EACH LITTLE THING』シリーズが良い参照項になる。

 

www.hyperneko.com

 

『EACH LITTLE THING』も『眼の歓びの為に~』も、各シーンの像は具体的であり、光の膜によっても象徴化されきらず、固有のものとしてそこにある。私達が風土的、文化的に共有している原風景的なものとはどこかで一線を画している。

個々の写真に横溢する「光」はノスタルジックなようで、記憶や印象の内側のものではなく、むしろその奥にある「眼」の存在が無視できない。ある分類不可能な外界を捉えて受け容れた「眼」、そこに起きた光学反応が高い鮮度で封じ込まれた結果が、本作をはじめとする熊谷作品なのではないか。

 

そう考えるのは、本作のタイトル『眼の歓びのために~』が、非常に核心に迫るものであるためだ。これまでの作品や、作者の制作スタンスと発言の核心をストレートに突いた言葉である。

作者は個展、写真集での発表の機会が多く、関連イベントとしてワークショップやトークイベントなどで本人の生の言葉を聴く機会もまた多いわけだが、今回のタイトルほど、本人の人となりやスタンスを率直に表した言葉はない。これが「ノスタルジー」という受け手の印象から向こう側へ、作品・作者の側――「眼」へとアプローチする大きな鍵となる。

 

 

◆熊谷聖司という写真機(器)

つくづく凄まじいタイトルだ。「眼の歓び」「指の悦び」「大いなる歓喜と、3連続で強い「陽」の、プラス側の情動を表す言葉が畳み掛けられる。「欲望」という言葉を使うか迷ったらしいが、ニュアンスが偏るので避けたという。確かに「欲望」には陰があり負の意味も帯びるが、この3語には「陽」気が満ちている。(ちなみに「指の悦び」とはシャッターを切る行為ではなく、写真集をめくる行為における情感を指す)

 

この、陽のdelight――歓喜の主体は作者本人である。

つねづね熊谷聖司が断言するのは「すべて自分のためにやっている」という姿勢だ。トークでも明言され、そして今まで様々な場面で本人が口にしてきた通り、写真行為に関する主語は全て「おれ」である。実際に喋ってみればものの30分ぐらいで実感するのだが、謙遜でも大袈裟でも主義主張のためでもなく、そうとしか言いようがない率直さによって「おれの写真は全部、おれのためにやってるから」という言葉が自然と出てくるのである。

字面だけを見ると、古典的な職人気質か、私写真を突き詰めているように感じるかもしれないが、全く逆である。主義やスタイル、写真史からあくまで自由であり、自由であろうとする。「なになに写真」「〇〇派」というカテゴライズを意に介さない。そんなものに意味はないと言いたげでさえある。

 

代わりに熊谷は必ずこう言う。「おれは全部承認してる」「全部アリなんだ」「全部等価なんだよ」、と。

これはまるで、写真そのものが喋っているようではないか。

 

「写真」は、熊谷聖司という個体にとって、完全に作者本人から発し、また作者本人に帰結する行為、現象なのである。自分の楽しみ、喜びのために写真行為を行う(写真を撮り、選び、プリントし、写真集を編むこと、全体)と、眼前の事物、時間と空間を広く承認して引き受けることとが、密接に結び付いている。外界の有象無象をその身で責任を持って引き受けているのだ。

 

このことを最も端的に表した言葉が「歓び」「悦び」「歓喜だろう。

観客である私達は、熊谷聖司という個体「おれ」が眼にし、受け止め、承認したものを事後的に、彼の周囲や背後から――遥かに遅れてやって来て鑑賞し、結果的に豊かさを享受する。動機はあくまで、熊谷本人の歓喜が先行している。

  

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そうした承認と引き受けの結果としての、「光」の大いなる祝福に満ちた写真。眼前にある世界(時空間や事物)の現前性を、等価なものとしつつ、そのままに写真という平面へと、光によって転写してゆく。まるでウジェーヌ・アジェの話のようだが、アジェの時代は機材と技法がヒトより遥かに大きく、写真家はあくまでオペレーターの位置に留まる。比べれば熊谷聖司は写真(器)とより一体化している。写真家・熊谷聖司とは、そういう唯一無二の「写真機」(「器」?)のようだ。

 

眼前の事物、眼の機構、等価性と承認。これらの要素を繋げ、ショットを「作品」や「作家性」へと昇華させてゆく大きな力の流れ――熊谷聖司という「写真器」は、「歓喜」という大いなる光に対して感光しているのではないか。そのような仮説を抱いた。

 

 

◆「歓喜」、外界を一心に引き受ける責務ーーエモさではなく

歓喜と光と写真、この連関・連動へと思い至らせたのは、タイトルや作品、トークの内容だけではない。展示会場で販売されていた写真集『もりとでじゃねいろ』(2006)だ。

『もりとでじゃねいろ』は、1994年「写真新世紀」でグランプリを獲得した際の作品である。神奈川県葉山町の森戸海岸、夏の海水浴に集まった人々を捉えたモノクロ写真だが、近年の作風との相違点と共通項に非常に驚かされた。

 最近の作品では、日常の時空間における色や光の表情・形態が主題となっているが、『もりとでじゃねいろ』は主題が人間である。色や光にも強い着目は見られるものの、人間たちの様態がより先行している点が大きな違いだ。

それはヒューマンドラマのようでいて物語性ではなく、記録でもない。

その場のエネルギー、祝祭的な喜びのバイブレーションに焦点が当てられている。喜びと祝祭と言っても、篠山紀信『オレレ・オララ』の異文化ジャーナリスティックな眼ではなく、藤代冥砂『ライドライドライド』の異国探訪と「性」の交歓とも全く違う。ステートメントによればブルース・ウェーバー『オ リオデジャネイロのオマージュだという。

 

大判の『もりとでじゃねいろ』には可視光線としての太陽光だけでなく、感情や雰囲気の波長としての「光」の移ろいが満ちていた。この振幅こそまさに「歓喜」、外界に溢れるテンションの波が、ある一線を超えたところで写っている。ここには、熊谷作品がずっと写してきたもののコアがあった。

自身の「歓喜」のために写真を撮り、作品を作るというさきの言葉は、言葉の通りであり、言葉以上に深い。外界と自身(=写真器)との間に湧き起こった「歓喜」という関係性としての「光」の反応が、光学処理されて写真化されたものだと捉えれば、デビュー作と現在地とががっちり一貫していることが分かる。

  

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ここで、「歓喜」という「光」を考えるに当たっては、似て非なる事例として「エモさ」との差異を考えたい。「ノスタルジー」と並んで検証すべきポイントである。

なぜなら「エモさ」は今のところ、あまりに氾濫し、写真のみならず表現全般を覆い尽くしているからだ。光と色彩の瑞々しさに溢れた、圧倒的多数なる典型例、エモーショナルな湿度の詩的情緒に満ちた「エモい」写真。この言葉もそのうち「アゲ」や「盛り」、「インスタ映え」や「シズル感」のようにピークを過ぎて退潮してゆき、このニュアンスも伝わらなくなる日が来るのだろうが… 現時点では支配的だ。

 

熊谷作品はその「光」の量と質ゆえに、InstagramTwitter等で多くの人から愛され求められる「エモい」写真と、パッと見が似ている。だが全くの別物だ。似ているのは、色と光がレイヤーの多くを占めていることだけで、写真の動機や原理は全く別物である。

思うに、一瞬で共感を広く集める「エモい」写真は、人々の快楽・感動の情に刺さるための、コマーシャリスティックな文法構造が主題となっている。撮り手の個性はその反復と微細なズレを活用した演出によって生じるもので、前提となる文法構造は撮り手と被写体の関係性より先行しており、支配下にある。写し取られた事物はその文法=コマーシャル機能を駆動させるために消費・還元される。

この時「エモ(ーショナル)さ」とは、ソーシャルネットワーク上のコマーシャル性能をいかに強く発動したか、どれだけ多くの人が情動を催されたかの成果であり、言うまでもなく「いいね」数やアクセス数に換算された数値であろう。被写体や撮り方、写真の仕上げ方、全てがそのために動員される。

 

熊谷聖司の「歓喜」は全く逆だ。熊谷は何物も支配しないし支配されていない。外界の光や色は、作者個人の身によって、無数の可能性の一つとして受容される。身体は常に1なので数値化ができない。写真は1対1、いや1対全か。しかし「全」なる無限の外世界は、写真に写った瞬間に「1」へと収斂される。この終わりなき選択と結果の受諾が、熊谷の言うところの「承認」ということだろう。

ここにコマーシャルやポピュリズムは介入できない。「エモさ」が集客上の数値に対して責任と成果を要求されたり、その数値自体が根拠となるのに対し、熊谷作品は数値への還元が出来ない。

だが、個人の内面に閉じた世界でもない。動き続ける外界の、無数の可能性から関係を取り結び、選んだもの・選ばれなかったものをも、「歓喜」という最上の光で引き受けているのだ。写真でしか現わすことのできない、唯一なる現前性と向き合うために、写真器たる作者は「おれのために」シャッターを切り続けるだろう。

 

 

 

◆『眼の歓びの為に~』写真集と展示について

ここまででほぼ、熊谷作品全般の世界観や姿勢について概括を行ってきた。最後に改めて今回の作品とテーマについて触れておこう。

 

この2011-2020年の10年間で撮り溜めた膨大な写真、カラーネガをチェックして170枚ほどを選び、仮プランで「つかみ」の写真集が作成された。構成を検討し、最終的に38点にまで絞り込んだという。そして展示に当たってはギャラリー・ソラリス:橋本オーナーが21点にまで更に絞り込んで、並び順と構成を独自に企画した。

会場では、3つの壁面ごとに作品の傾向・性格があり、具体物・具体的なスナップの構図があるものから、無属性の光や色の形象、オールオーバーに包む抽象性へと、現実から夢、網膜の内へと漂う旅のような流れがある。始まりの1枚と終わりの1枚が反射によるセルフポートレイトであることが、網膜の内の旅という感じを非常に示唆していた。

 

橋本オーナーの「どうやって膨大な中から作品を選び、絞り込んだのか」という問いに対し、熊谷は「おれの眼を喜ばしてくれるものを選んだ」という趣旨の回答をした。全てのネガを網羅的にチェックするのではなく、「もう十分楽しんだからいいや」というところで、セレクトを終えたという。

眼を楽しませてもらえたからもう十分だ、という切り上げ方、独特な身体感覚は、撮影やプリント時のそれと合わせて考察に含む必要があるだろう。簡単な言葉ほど難しい。トークの前段はセレクトと並びの決定について、熊谷は身体感覚からアスリートのように答え、橋本オーナーは具体化を促すために問いを繰り返した。

 

そうしたやりとりから重要な証言が引き出される。「好きな写真を入れるとかはなくて、そこにふさわしいものを置く」「記憶は記憶でいい、記憶や想いは入れない、写真は写真としてしか見ない」という選択・編集の態度だ。

冒頭の「ノスタルジー」を巡る考察で触れたが、どの写真もが誰の記憶でもないという感想と、本人の言は合致する。むしろ熊谷個人の内面や感傷を切り離した結果が本作であり、これまでに発表されてきた『EACH LITTLE THING』やポラロイド作品も一貫している。

写真(機)が自分で言葉を話してくれたら、まさにそのように語るかも知れないと思った。私が熊谷聖司という写真家に謎の関心を抱いてしまうのはこのあたりの点で、心身の深いところが「写真」なるものと同化している、その意味での「写真」家であるためだ。職業やアイデンティティー、自尊心から名乗る写真家ではない。写真なるものの本質をその身に継承しながら生きて動いているためだ。

 

写真は難しい。定義が広すぎるせいでもある。中平卓馬の書いたものを読んでも、記憶喪失後の状況について書かれたものを読んでも、ドキュメンタリー映像を観ても、分かるようで分からない。だがリアルタイムでこうして「写真」なるものと、身体のレベルでやりあっている人の言葉を聴くと、こちらも何かを身体のレベルで分かりそうになることがある。気のせいかも知れないし、掴みかけているのかも知れない、真相は分からないが、しかし熊谷聖司の言葉と作品が合わさるとき、「つかみ」の感じは確実に来るのだ。

 

このあたりの話――ノスタルジーとエモさの向こう側、写真が写真であるための写真、写真が選び・写すものの正体、記憶や思い入れとは別のもの・・・という話は、必ず佐内正史なり、中平卓馬なり(何ならアジェも、ウォーカー・エヴァンズも)との比較検証が欲しくなってくるところだ。まだそのあたりには自分の中で到達できていない。今後の探求テーマにもなるだろう。

 

だが、「アジェや中平卓馬が、額装に色を塗って本気で喜ぶか?」という点は大きなポイントだと思う。時代性の違いではなく、個体としての大きな違いだ。(佐内正史は写真集の装丁や版型、題字などの作り込みを相当やり込んでいるから、相違点の検証が詳細にできそうだが…)

本作では木製の額が「シュトックマー」という蜜蠟のクレヨンによって手塗されている。写真一点ずつを見ながら、合う色を塗り重ねて、微妙なグラデーションを生み出していったそうだ。「これが楽しいんだわ~」と笑っていた。「色」の「塗り」に対して深甚なる関心、喜びを抱いているところは、それこそソール・ライターの姿も連想される。

単独・個体の「写真器」のように書いてきたが、こうして視点を移すと、実は写真の世界に対する様々な点で接続可能性が見出せるのも、また興味深い点だ。

 

本展示ではひとつ、小さな仕掛けがあった。各作品の下にタイトルや価格を明記した小さなプレートが掲げられているが、橋本オーナーが裏側に鏡面のような細工を施し、照明を受けて、それぞれの額に合った色を反射していたのだ。

それは熊谷自身も言われるまで気付かないほど、小さくささやかな光だった。前日に話題になっていなければ、自分も会場で気付かなかっただろう、そのぐらい小さな「色」が、プレートと白い壁の間に生まれていた。 このことに熊谷は大いに感嘆し、Zoom画面に深い感激を映し出しながらトークはエンディングを迎えた。この時の予想外なまでの喜びのリアクションに、「この人は一体どこまで、光や色を見ていて、追求してきたのだろう」と、想像のつかない深さを改めて実感した。

 

 

いつも常に、一貫していて、そして何かが新しい。そんな境地を見た気がする。

 

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( ´ - ` ) 完(感)。