nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&トークショー】R3.3/12~3/23_田凱「Temperate Landscape」(トーク:川崎祐) @gallery 176

東京の「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」との4回目となる交流展として、田凱(デンガイ)が大阪・服部天神の「gallery 176」にて、個展とトークショーを行った。 

トークは写真家・川崎祐(かわさき ゆう)が対談相手を務めたが、同じく「風景」を扱う作家として議論は深まり、「郊外」というものへの熟考を促すものとなった。

 

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【会期】2021.3/12(金)~3/23(火)

 

 

1984年、中国生まれの田凱は、2014年に「日本写真芸術専門学」を卒業し、2018年・第19回写真「1_WALL」 でグランプリを獲得している。

 

展示された20枚の作品には、何も特別なものが写っていない。展示タイトル『Temperate Landscape』、展示に合わせて作成された写真集では『程良い風景』と冠されている通り、ここには温暖な「風景」がある。 

 

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何もないことが共通項として並ぶ作品。言葉遊びのようだが、具体的な建築物や地名などの明確な対象がない。駐車場、空き地、車道・歩道、などだ。総じて言えば、「郊外」の光景である。

それ以上の共通項は分からず、何の土地をどういった意識から撮り集めたのか判然としなかったが、トークで旧・五街道を回っていることが判明した。とはいえ、写真からは特にその結び付きは感じられず、テーマとして街道の記録や過去の想起を試みているわけでもない。

 

ここで「1_WALL」での受賞作『生きてそこにいて』を参照してみる。これは自身の故郷・中国の街を撮ったものだが、かつて油田で栄え、発展の後に「衰退した」街である。街全体がざらざらと、寒々しく、急速に風化の一途を辿ってゆく姿は「ディストピア」と呼ぶに相応しい。

故郷を撮りながらも情感を加えず、無機質に撮る視点があった。大判カメラにより真正面から精緻に撮られたことも、無機質さに作用しているだろう。また、風景だけでなく住民を一人ずつ捉えたカットもあり、「衰退」をその内側からアプローチしている感があった。

 

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比較すると本作・五街道に連なる郊外の表情は確かにくたびれて、へたっていて、空虚さが漂うが、シリアスさや肌のひりつくような衰退はない。まだまだ余裕がある。作者は、母国で撮った光景と似たものを見い出した親近感と共に、中国には無かった温もり、温度感を受け止め、肯定的に表現しようとしたのではないだろうか。

トークではそれを「郷愁」と言い表していた。

 

この点がトークで最も議論となった。

聞き手の川崎祐が指摘したのが「ノスタルジーの扱い方・語り方についてであった。色調の色温度の偏り、エモーショナルな描写が目立つ点(特に前作『生きてそこにいて』から明確に姿勢を転向させていること)について、母国でない場所に郷愁の念を見い出したことには理解を示しつつ、評価を保留する姿勢を示した。

 

川崎自身もまた郊外:生まれ育った滋賀県長浜市を舞台として、家族や風景を撮る写真家である。2019年の展示・写真集はその名も『光景』である。

 

www.akaaka.com

 

川崎は同じ写真家としての立場から、自分なりの「風景」への接し方について語った。長浜市は空っぽの街で、「終わってる」感が漂っている、しかし外側の人間にとって「終わっている」のとそこで生きている人間が「終わっている」と言うのとは意味が違う、自分は作為性を出さないよう一日中歩き回り様々な時間帯で撮影する、色のコントロールはしない、色を出さないようにしている、撮る側が何らかの解釈の下で「作っていく」ことは同時に何らかの妨げにもなっている、・・・写真家がこのように「風景」に対して非常に慎重な姿勢であるのは、「郊外」という場所を語ること、そこに住む・生きることを語ること、見せることの困難さに直結している。

 

田凱は「見る人に伝わりやすい写真」「見る人がノスタルジーを受け取ってほしい」と答えた。

 

 「ノスタルジー因数分解できる」と川崎は言う。物理的な環境要因、経済的な停滞感、受け手の主観など多くの要素が絡んで「郷愁」の念は作られる。恐らくノスタルジーとは鑑賞者が得る個人的な感覚・体験であって、土地の外側から一方向に投げ掛けた視線が綺麗に反射した際の産物、その内部に生きる当事者のことは、必然的に度外視されるだろう。川崎祐の指摘と懸念はここに集約される。

「郊外」という場所が一見、均一で、何もなく、廃れていて、「郷愁」を孕むものであったとしても、その逃れ難い内側に生きることがどういう意味を持つか、川崎は当事者として知っており、同時に、東京へ移住したことでそこから抜け出した=解放された身である ことに、非常に自覚的である。

 

話は「郊外」の本質に及ぶ。都市部~近郊と田舎との間に位置し、言わば「田舎」の性質を持つ。人間関係がほぼ見通されていることの息苦しさ、同じ時間・同じ施設・同じ行為が繰り返される息苦しさ、閉じた中に存在する差別的な意識や排除の構造、そうしたものから逃げられないこと・・・それらを総合して強調した一言が「フラットという言葉は大嫌いなんですよ」だった。

一見すると同じ風景、平坦で何もないように見える土地の中で、息苦しさを感じながら生きている人がいる。それだけではなく、「もっと弾かれている人がいる」、暴力的な構造が見えない形で畳み込まれている。そうした力学を完全に度外視して撮られる「フラットな風景」の写真は、二次的・三次的な暴力性を帯びてしまうのではないか。だから「風景」の撮影には、慎重に、繊細な注意を払う必要がある。そのような指摘であった。

 

 

今回の展示とトークのことを書き起こすのに、異様に時間が掛かっていたのは、私の心身のコンディションが地を這っていただけではない。川崎祐の「フラットという言葉は大嫌い」に対して、私自身が回答を持ち合わせていなかったためだ。

 

「フラット」。写真を語る人間が誰しも通る評である。

この言い回しは写真評論、レビューを見聞きする際にも、自分が写真作品を評する上でも必然的に、頻繁に用いられる。「多様な」とか「中性的な」「物語性」などと同じぐらい頻繁に使う。しかも用いられる際にはほぼ肯定的なニュアンスである。被写体、取材対象に対してフラットであること=善、という図式が念頭にある。なおかつ、風景をフラットに撮ることは写真史上の作法としても一般化している。

ここに、フラットに見える風景を、フラットなものと見なして、フラットに撮ることが「暴力」を潜在させることの可能性は、考えたことがなかった。フラットなものはフラットだから作者の押し付けがなくて良い、という価値判断は「無添加、オーガニックな食べ物は無添加だから体に良い」という思考停止とよく似ている。

 

というわけで、川崎祐『光景』が実際には何のことをどう語っていたのかを、再確認する必要が生じてしまった。こうなると田凱作品の話を超えて、それ抜きには今回の話を文字に起こすことは不可能であった。

 

写真集『光景』を改めて読んだ。巻末に、作者本人によるテキストと、小説家・堀江敏幸の寄稿文が掲載されていた。展示会場で素手でガチンコで作品に当たった時と、全く異なる奥行きが得られた。ひどく面白かった。身に覚えのあるような話でもあったし全く大きく異なる事情でもあった。

私の実家は同じ「郊外」でも完全な新興住宅圏にあり、古い人間関係や風土からは切り離されていて、両親も自分も非常に自由に開放されていたためだ。その中に「はじかれている人」は、いたような気がする。いたと思う。今もいると思う。誰とも深入りした付き合いをしていないし、複雑な想いも特に抱いておらず、今、ベッドタウンとしての安らぎが感情の大半を占めているので、私には私の地元の、乱反射するような「光景」は見えていない。ただ自分の眼から直線的に見える、自分一人の記憶を反射してくる単一の「光景」だけが見えている。その意味で川崎祐「光景」は凄みがあった。

 

展示を観た際に書いたblogは、写真集を読んでいない状態で書いているが、あえて加筆修正等を触らずそのままにしてある。

 

確かに自分の地元をフラットかと訊かれたら、まず即答できない。均質でも平板でもない。国道沿いや駅周辺にそういうスポットはあるが、それ以外の、人の生活が染みついた場所はフラットではない。特に昔からずっとある家や集合住宅の周りは、こちらが勝手に入り込めない空気がある。フラットさが歪んだり澱んだりする空間、それはこちらの主観による印象だと思うが、そこに「郊外」の本当のリアルはあるのだろう。ホンマタカシのような文体が通用する場所は、同じ郊外でもニュータウンなど特殊な条件が必要だと考える方が無難かも知れない。

 

 

写真展に話を戻そう。

田凱作品には多くの駐車場が写っていた。本人の住まいの最寄り駅も、古い屋敷が土地を切り売りし、「そんなに車もないのに」駐車場が次々に作られているという。

郊外の風景が均一化されるのは、少子高齢化、若者世代の流出、街の縮小と経年劣化、全国チェーン店の進出とグローバル化、挙げればキリがない。駐車場は均質化の代表格だ。いくら郊外が車社会とは言え、パチンコ屋にせよイオンにせよ、駐車場で地域の暮らしが豊かになるわけでも活性化されるわけでもない。高齢者に施す延命治療のような感じもする。郊外のフラットさを写真で指摘するのであれば、風景をフラットなものへ転換させている駐車場などの装置を重点的に押さえていくのは、選択肢としてありうる気がした

 

前作からの変容について、川崎は「自分は田さんの”転がり方”を、緊張感をもって見ているのかも」と評した。作品を人に分かりやすく伝えたいという思いと、作品が語るべきこととの隔たり。郊外というものの実体。風景とは何かという問い。普段使っている写真の言葉をひとつひとつ、再点検する機会となった。

 

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( ´ - ` ) 完。