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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】池本喜巳という写真家のこと(個展『裸のトポス』&『小さな写真美術館』@鳥取市内)

【写真展】池本喜巳という写真家のこと(個展『裸のトポス』&『小さな写真美術館』@鳥取市内)

夏ですね。暑くてしにそうです。

 

今回は鳥取で写真の道を邁進する求道者・池本喜巳(いけもと・よしみ)という写真家について語ろう。

 

以下は、植田正治の下でアシスタントを20年間勤めてこられた写真家・池本喜巳 氏の私設ギャラリーと、現在開催中の個展のレポです。 

  

台風12号ジョンダリが、へそ曲がりで不気味な進路予報で西日本を恐怖させていた7月28日。この日、鳥取旅行に出向いた。

私の通う学校(写真表現大学)の仲間で、桜井さんという鳥取在住、地元ベースで活動するプロフォトグラファーが、かねてより鳥取の魅力を味わってほしいとの誘いがあり、このたびツアーを組んでくれた次第である。

その中で「池本先生の作品は凄く良いし、めっちゃかっこいいんだよ、ちょうど個展やってるから」と行程に組み込んでくれたのが、話の発端である。結果、池本先生ご本人から多くのお話を聴くことができた。ここでは書いていない雑談のほうがむしろ刺激味があるぐらいである。

 

(以下、客観的に書くため、「池本氏」と記載する)

まず訪れたのが池本喜巳 小さな美術館」。ここが池本氏の拠点であり、活動の総括がなされている、生きたアーカイブだ。現在制作中の実験意欲あふれる最新作や、氏の創作の原点となった初期のモノクロ写真、代表作である『近世店屋考』の巨大なプリント、そして過去の愛用機や昔のフィルム等の機材が展示されている。

 

 <★Link>

池本喜巳小さな写真美術館 | YOSHIMI IKEMOTO LITTLE MUSEUM OF PHOTOGRAPHY

 

この「小さな写真美術館」は2016年1月、地域に特化したクラウドファンディングサイト「FAAVO」(ファーボ)にて資金調達に成功し、池本氏の事務所の1・2階を改築することで、同年誕生した。

その目的は、池本氏も70代になり、写真表現に対する技術と思いを次世代へ伝えたいということと、鳥取における写真文化を高める場とすることであった。しかし、後述する各種の作品制作に当たっては、多大な時間と労力を要し、そして自腹を切っての活動であったことから、投資を募るという形をとることになったという。

 

 

以降は、展示作品と、池本氏の活動を時系列でレポートする。

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(1)そでふれあうも ~鳥取の原風景~

写真館の2階に入ってすぐから、初期に撮られた素朴な作品が並ぶ。

池本氏は1974年から1990年にかけて、鳥取という地を「記録」した。

写真を学ぶために大阪に5年間滞在していたのだが、1970年に帰郷してみると、鳥取の風景がどんどん変容していることに気付かされたためであった。

 

ちょうどこの時期は、いわゆる高度成長期に当たる。日本全体が改造され、道路は広がり、川はダムと護岸工事で人工物と化し、自然も街も、コンクリートで覆いつくされていく時期であった。商店の形態も、スーパーやコンビニが主流となり、個人商店から切り替わる時代である。私はそれらの変化が一定進んだ1980年に生まれたので、それが普通だと思っていた。

しかし池本氏の写真を見ると、日本の辿ってきた変遷の中で失われた、かつての「日本」がしかと記録されており、驚かされた。自分が生まれ育った1980年前後の光景なのに、まるで歴史の教科書の世界だったからだ。そこに写された屈託のない笑顔の子供ら、のびやかな動き、写り込む木桶や木造校舎、小屋、あぜ道に、驚いた。もっと昔、60年代位の映像かと思ったのだ。まさに記録上の「日本」である。実際に見たことのない日本だ。私が郊外のニュータウンの団地で育ったことも大きい。鳥取にはその頃まで、他のアジアのどの国とも違う、穏やかで温暖――古き良き「日本」が息づいていたのだ。

 

この風土の「記録」という観点は、師である植田正治との違いではないだろうか。植田正治の作品は写真というより美術の趣があって、代表作である砂丘シリーズなどは特に、一枚の画を構成する美学のはたらきが極めて強い。

相違点については、池本氏も実体験を語ってくれた。昔、東京で展示をした際に、他の写真家から「どれも植田正治の作風だね」と指摘され、落ち込んだという。(創作者にとって、二世タレントのように評されることほど辛いものはない) しかし当の植田正治からは、自身の写真は″ 演出″であるが、「君の写真は″ 瞬間″だからなあ」とその差異を認めてもらえ、ハッとしたという。

  

植田写真は徹底してこだわり抜く配置と実験の美、シュールレアリスムな世界観が特徴的だが、池田作品では計算の及ばない瞬間瞬間の出逢いが息づき、そして狙いとして、土地の記憶を記録するという意識が特徴となっていると言えよう。

 

 (2)近世店屋考 ~失われる日本の商店の記録~

2階フロアの正面奥の壁面には、ひときわ眼を引く巨大な写真がある。写真の中はまるで魔窟で、生活の雰囲気、と呼ぶにはあまりに濃厚な空間が渦巻いている。

これらは鳥取県内の「店」である。消え行く昭和の日本の個人店舗を行脚し、記録し続けられたシリーズだ。

 作品はとても大きい。

 

言葉で書くと「社会的に意義のある記録写真」と綺麗にまとめられてしまうが、実際に体感する存在感は別格で、展示会場でひときわ重力があった。手前の素朴な子供たちの笑顔から眼を離したとき、眼は、この黒々とした魔窟へと引き込まれる。

店とも巣ともつかない空間が渦巻いていて、靴屋の親爺が胡乱な目付きで佇み、立飲み酒屋には正体不明の、いい顔をした常連客が定位置についている。商品なのか店主の家財の一部なのかが判然としない棚、壁に囲まれ、床屋の中央には貴族の持ち物のような椅子が鎮座する。店としての様式(売り物・売り場、客の立ち位置)が明確な店もあれば、もはや店主の「巣」と化していて、職場と暮らし、そして店主の生理が混然一体となった店もある。これは果たして「店」なのか? 

 

しかし撮影時期と、店主の年齢層から察するに、これらの店の多くがもう消滅しているだろう。1983年、鳥取市青谷町の「河田理容室」から始まった本シリーズは、まさに「撮影の間にも消えゆく商店があり、時間との競争でもあった」との言葉通り、辛うじて撮影が間に合った店も、その後は次々に閉じられていったことようだ。時代の移り変わりは酷だ。池本氏は機材を積んでは車を飛ばし、日々、鳥取の古く独特な貌をした店を求めて奔走した。

苦労はそれだけではない。撮影の許可自体が得られなかった事例が多々あり、「うちの恥をさらす気か!」などと強固な拒否にあったという。これはにわかに信じられなかった。写真を撮り、鑑賞する側の理屈に染まっている私にとって、非営利目的の社会的記録写真とは、意義深いもので、むしろ歓迎されるものだと思い込んでいた。

それは現在がそうだからであって、80年代の、特に地方の町にとっては、綺麗で近代的なものでなければ、みっともない、恥ずかしいという意識が強かったのだろう。右肩上がりの時代には、新しさ・高級さが正義なのだ。時には土下座に近い形で頼み込んで、渋る店主を説得するも、強く拒絶に遭ったと記されている。しかし、無くなるものは、無くなってしまうのである。池本氏はぎりぎりの精神状態で、モチベーションを保ち続けてきたことだろう。

 

  

本作『近世店屋考』は社会的にも評価され、代表的なところでは2004年に鳥取県立博物館で企画展、2015年に銀座・大阪のニコンサロンで展示が行われている。しかしこれだけ人生を懸けた重厚な取り組み――執念、高いクオリティ、魅力的なコンテンツなら、余人を以って代えがたい活動として、もっと広く知られていても良さそうにも思う。告白すると、この場に来るまで、池本喜巳という写真家については、何も知らなかった。

 

逆に言おう。この取り組みが例えば東京やその近郊を舞台にしたものだったらどうだったろうか。池本氏の話を聴きながら、私は写真界の論理を想像した。例えば同じような仕事を、大阪環状線のぐるり全駅で成し遂げた者がいたとしても、池本氏と同様の結果――いち「地方」の記録活動、ということで留め置かれてしまうのではないか。何よりも私自身が、そうした認識の型にはまっている。(日本の都市写真の系譜を追うときに、山陰の写真家を参照する発想は皆無だ…)  「写真界」の底に走る、深いクレバスの断裂を見た思いがしたのも、事実である。

 

とにかくエピソードと写真の表情が面白い。

 

(3)個展『裸のトポス』樗谿(おうちだに)グランドアパート ~異国に馳せた夢~

続いては会場を移し、「ギャラリー 鳥たちのいえ」で催されている個展『裸のトポス 存在の痕跡と根源をさがして』(会期:H30.7/14~8/10)の展示作品を見てみたい。

 

これらの作品は「おうちだにグランドアパート」(樗谿)という物件において、昭和50年代に撮影されたものだ。当時、プリントまではされたものの、約30年もの間、未発表のままであった。

舞台となったアパートは、昭和5年(1930年)に建てられた洋風の外観を持つ日本建築の住宅だったが、戦後、進駐軍に接収され、1946年に西洋建築での増築が行われた。軍人宿舎、ダンスホールとして用いられた後、アパートとなった。そして今や、鳥取市の指定文化財である。当時、池本氏の友人が住んでいたことで、格好の撮影の舞台として活用された。

 

このモダンな私的空間で繰り広げた創作活動の成果として、ギャラリー1Fでは女性のヌードを、2Fでは男性二人組のコミカルかつ実験的な作品を展示している。

 

<1F>

最初のカットでは、女性と思わしき影がベッドの上に立ち現れる。その幻影は実体化し、生身の女性となって、手の届くところで、親密な間柄を想像させる。彼女は裸で、ベッドの上で腰かけたり、立ち上がったり、寝そべったりする。だがどこか客観的で、裸の全身と、顔や四肢のクローズアップが交互に繰り返され、しかし彼女の顔や表情は、定かにはならない。匿名のイメージのままだ。

個展のチラシを見た時は、私写真かなと思ったが、逆に匿名性が高く、そこには池本氏の影すら感じられない。ある記憶を巡って編まれた短編映画のようであった。全てが瑞々しい頃の、触れるもの全てが美しい頃の。

それは、女性との親密で幸せなひと時の記憶を象徴化したようでもある。いや、どれだけ近くに居ても、男からは永遠に理解することのできない「女」の内を、肩越しから遠く眺めているようにも見える。

 

あるいは、かつて進駐軍が戦後日本にもたらした「欧米」という圧倒的にモダンな世界――豊かさと最先端の結晶であった空間に対する根源的な憧れと、その世界を自分たちのセンスで再解釈してみせんとする、若き日の池本氏や仲間達の意気込みも感じる。ロバート・フランクの、チェック入りコンタクトシート作品を連想させる大プリントに、表現への力強い衝動を感じた。

また一方で、古きものは壊され、新しいものへと次々に建て直しが進められる時代の中で、大切なものが失われることに対する存在表明にも感じられる。裸の女性は、「この”場”は”存在”しているぞ」という、存在表明の肉声として立ち上がってくる。この物件が辛うじて現存していることは、救いである。 

 

 

<2F>

2Fは「パンチョの部屋」と名付けられ、更に実験精神に溢れた映像作品の場となっていて、まさに短編映画集の趣がある。馬と見まがうほど立派な体躯をしたグレートデンが連れ込まれ、仲間のパンチョ氏と右近氏が体当たりの演者となって、ノッポとふとっちょのデコボココンビが、お洒落に完成された「おうちだにアパート」の洋風空間を攪乱させる。

 

  

よいと思ったことは全てやってみる、という実験精神が、池本氏の流儀である。

1Fの展示では、マットとフレームでの定型的な仕上げを旨としているが、2Fでは空間を遊ぶように自由な展示がなされている。上掲のうち下2枚の写真は、コンタクトシートをコピーした紙を、半透明のプラスチックボードに貼っている。実はその裏にはギャラリーの窓があって、日光が射し込み、視覚上じゃまなのでこのように隠されたのだった。まるでライトボックスの上でカットを選別しているような一角となっている。

シークエンスが語る物語はコミカルで、ずいぶん肉付きのよい男性(パンチョ氏)が、テーブルの上に盛られたセロリの束と牛乳を前に奮闘するも、セロリがなかなか減らず、パンチョは「まだある」「まだある!」とでも言わんばかりに頭を抱える。ネガの並びを入れ替え、時系列を攪乱しているのだろう、食べようとしてはうんざりし、尻を見せてうずくまり、それを繰り返し、ようやく完食したようだが、その結果、彼はポパイのように強くなれただろうか…?  困り顔も、困り尻も愛くるしい男であった。

 

 

(4)現在進行形の取組 ~フォーマットの外へ、写真の外へ~

最後に、池本氏の現在進行形の取組を紹介したい。これらは、「写真」という枠組みを超えようという試みである。それは「現代美術」の領域が抽象表現を通じて問うてきたように、メタレベルで表現のフォーマット自体を問い直すという試みである。

 

会場を「小さな美術館」に戻そう。

ここにある作品を見ると、それぞれの写真が「写真」であるためのフォーマットを大胆に破られ、破片と化す。逆にフォーマットを規律するフレームの方が拡張されて空間となり、作品の支持体としての機能を担わされている。

例えば上掲3枚目の作品は、フレーム(ケース?)の中にバラバラのパーツとなった写真が入っているが、このフレームを揺さぶったり回転させると、中で写真群がシャッフルされ、どの写真がどんな形で組み合わさるかが毎回変動するという仕組みである。再現性が失われるため、観客は毎回異なる「作品」に出会うことになる。事実上のインスタレーション作品だ。「破片」の出どころは、上掲2枚目のように、池本氏がこれまで撮り溜めてきた作品からセレクト、再プリントされ、投入されたものである。

 

写真の扱いとは、額装され、壁に固定されて、1枚の平面絵画のように展示されることが当たり前となっていた。このことについて池本氏は「なぜ1枚でなければならないのか」「なぜ平面なのか」「写真が出来ることは、それだけか」と問い続けてきたのであろう。

なにせ、植田正治をアシストし続け、瞬間の出会いを愛し、生まれ故郷の景色や暮らしを記録し、大判カメラを担ぎながら、写真に人生を捧げてきた写真家である。一枚の「写真」を完成させることの美意識は、生半可ではない。話の端々からも、撮影やプリントに対するこだわりが感じられた。それを、あえて突き抜けて、写真を破って断片化し、主役でも従属物でもない、不思議な立ち位置に追い込んでみせたことには、相当な葛藤や想いがあったと察するばかりである。

 

しかし奇しくも、鳥取旅行の最終日、解散前の一服のため桜井氏に案内された市内のカフェで、その答えの一端を知ることになる。「TREES COFFEE COMPANY ハートランドマミー店」である。

 

店内には、池本氏の作品が大量に息づいていた。

 

店内は倉庫を改造したもので、非常に広く、また、無機質感はありながらも、照明や調度品のバランスによって、落ち着ける場となっていた。そして客席一つずつの壁面に、池本氏の作品が掲げられていたのだ。

これを観た時、写真を断片化して何を語ろうとしていたかのかがはっきりと理解できた。空間の味わい、空気感、調和、面白み、等々――池本氏は「場」そのものを作品として見ていたのだ。

断片化され再構築された作品は、空間のレベルを押し上げていた。一枚ずつの写真作品は、「写真」のフォーマットを剥がされ、それ自体は語る言葉を失う(脱・写真)。しかし逆に、プリント面ではなくフレームや下地そのものが支持体となることで、写真の枠組みから脱した「作品」が生まれる。

すると、それらと連結されているカフェの内装もが作品の一部へと転化され、カフェという「場」の側が、語る言葉を持つようになっていく。だが、そこに声高な主張やメッセージはない。ただその「場」に居る私たちが、自分らしく心地よく語り合うことを促すような、相槌の空気感としての言葉である。

 

「場」を従わせるのではなく、「場」を支持し、引き上げるという発想は、写真家にはなかなか出来ないことだと思われる。デザイナーが第三者的な目線からプロデュースすることはできても、写真家自身が携わると、写真の言葉の主張を押さえることは難しいはずだ。池本氏がこの境地に辿り着いた事情や過程は、分からない。ただ、相当な自問自答や試行錯誤、学びがあったことだけは確かだと思う。

  

 

別れ際に池本氏が私たちに繰り返し伝えたのは、「 写真を学ばなくていい」「写真家に学ばなくてもいい」という言葉だった。

写真のことは知らなくてもいい、ということではない。写真界の枠組みに囚われるな、旧態依然とした枠の中に収まるなというメッセージである。

「大阪には国立国際美術館があるでしょう。あそこにはいい作品がたくさんある。そういう所に行きなさい」

 

今回の訪問を通じて痛感したのは、池本喜巳という写真家は、恐らくボロボロになるまで戦い続けてきたのだ、ということだった。撮影時の苦労のことだけではない。安住を潔しとせず、自身の求める何かのために歩き続けてきたのだ。基本的に人は定住を好み、集団を好む。集・住がムラ化し、感性が保守化することは、ある種、避けられない。

だが、池本氏は何かをずっと求め続けており、身体は地元・鳥取にあっても、その魂はどこかへの移住を続けている。それが時には周囲の反発を生み、また時には、その厳しい眼が自分自身にすら猛然と突き刺さる。その行き先は、尽きることのない「表現」を巡る、問いだ。

 

 私は1978年と1987年にアルルでの国際写真フェスティバルに参加しました。(中略)その中でアメリカの女性写真家ダイアン・アーバスの『フリークス』という作品にショックを受け、落ち込み、「これが写真なら、私のはなんなんだ」と叫びたくなり、本気で写真をやめようと思いました。

写真とは何かを追求するあまり、見てはいけないものを見てしまったのです。そのために非力は私はすっかり押しつぶされてしまい、自己の才能に限界を感じ、しばらく写真を撮ることができませんでした。

   (配布資料『ふるさとを記録する』P.2)

 

おそろしい述懐である。氏の極めて健康的で、力強い描写からは、想像もつかなかった。この人は戦い続け、歩き続けている。誰も答えの出せない問いに向かって。

 

表現とは何なのか。自由にやればいいと誰もが言うし、自由など幻想だとも言われる。基礎をやれと誰もが言う。逸脱せよと誰もが言う。「もう、やり尽くされている」と言われ続けて、なお、表現を志す者は止まない。きっと「表現」は、真っ当に取り組むほど、地獄めいている。そのうえ、当人の意思では、止めることもできない。多分、最終的な回答も、出ない。その瞬間瞬間で、表現行為によって、応答していく他は、なさそうである。池本氏の活動を辿って、そのようなことを感じた。

 

 個展会場の2Fに掲げられていた、何気ない1枚の写真が、池本氏の生の声を語っているような気がした。

 

『Only One is Number One』

 

誰よりもよい写真、誰とも似ていない写真を撮ってやろう、そんな、表現者としての標語を表しているのだと思い、負けず嫌いな性分が察せられた。しかし、活動の全体を見渡したとき、それは「オンリーワンである限りは、自分は自分でいられる」、そのような、求道者の魂を写したかに見えた。

 

 

以上です。 

 

 

 

 

ヾ(๑╹◡╹)ノ" 

あめちゃんとかコーヒーいたただきまして美味しかったです◎   ありがとうございました◎ めっちゃおいしい◎