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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】art trip vol.3 in number, new world /四海の数_1F・今井祝雄 @芦屋市立美術博物館

【ART】art trip vol.3 in number, new world/四海の数_1F・今井祝雄@芦屋市立美術博物館

「具体美術」の力と現代の作家の思考が交錯する。まずは1Fの今井祝雄「デイリーポートレイト」シリーズから。 

【会期】2019.12/7(土)~2020.2/9(日)

 

世界を構成する「数」というものに焦点を当て、意識を深めるというテーマの現代美術展。芦屋市立美術博物館が所蔵する具体美術協会の作品と、現在活躍中の表現者らが各フロアで呼応する。

 

撮影禁止のため作品イメージは美術館HPにて確認を。ただ、空間で感じて体験することでしか理解しがたい内容であるため、現地を訪れることをお勧めします。

<★link>芦屋市立美術博物館

https://ashiya-museum.jp/exhibition/exhibition_new/13447.html

 

フロア構成図だが、かなり独特な形状をしている。1Fは円形ホールとその奥の歴史資料展示室。そしてホールから階段が伸びていて、2階ではホールの吹き抜けを取り巻く回廊のギャラリースペースと、左右の両脇奥に2つの展示室が広がる。

以下順番に紹介。

 

<1F ホール>

1.今井祝雄(Imai Norio)_「デイリーポートレイト」シリーズ他

1階・ホールでは、今井祝雄が1979年から毎日続けているポラロイド写真の自撮り《デイリーポートレイト》シリーズが特集されている。

 

毎日ほぼ同じカットである。バストアップの自分自身と、空いた左手には前日に撮った写真を持って写る。ポラロイドなので下に余白部があるが、そこには撮影の年月日がマジックで手書きされる。これにより写真は「時間」の記録体に変換される。すると、見ることも触れることも出来ないはずの「時間」が日々、物質として蓄積されてゆくことになり、それらを積み重ねると時の地層となり、1枚ずつ並べれば作者の人生の記録になり、そして1枚の中を覗き込めば、本日のポラロイドの中に写り込んだ昨日のポラロイドを発見し、その中にまた一昨日のポラロイドを発見し…と、時の迷宮に足を踏み入れることになる。実に示唆に富んだ作品だ。

 

今井氏は高校生(!)の頃に吉原治良に見初められ、1964年具体美術協会に最年少の17歳で参加し、その後も1972年の解散まで発表し続けた。具体美術の生き証人である。ちなみに、私の通う「写真表現大学」の「現代美術」カリキュラムにて講師を務められた(2016年)こともあり、個人的に(一方的に)に面識がある。この授業ではちょうど、《デイリーポートレイト》のコンセプトや映像が教材として紹介され、生徒らもポラロイドカメラで自由に自撮りを試みる、という内容だった。

 

だが今井氏の写真・映像表現は、世間に流布する「自撮り」や「自己表現」という生易しいものではない。徹底的に「時間」を写真で刻み続ける行為だ。成果物はプリントとしての写真というより、写真を撮り続けるという行為自体である。見えない彫刻を彫り続けているのだ。

 

ゆえにプリントはもはや1枚ずつでは開示されず、「束」の形で提示される。

 

イメージ:会場こんなん(略しすぎ)

 

フロアのど真ん中を貫く、40本近いアクリルケースの列《デイリーポートレイト》(1979-)は、日々の自撮りのポラロイドを「年」単位で縦に積んだ「束」、堆積物を固めた物体として床に配列されている。

365日×40年分、単純計算で14,600枚に及ぶ写真の大部分は、束の頂点に来る各年の年末・12月31日の1枚を除いて、中を見ることが出来ない。「時間」が厚みや質量を持った立体物となることを表すためにだけ存在している。見るためではなく、在らしめるためのプリントだ。

このインスタレーションは、1979年から今に至るまで、作者の人生を彫刻化した道であるとも言えるし、見ることも触れることも叶わないはずの「時間」を加算名詞化して見事に計量化してみせた道でもある。科学とも主観ともつかない、不思議な出力結果。数値への変換だ。

 

配置は入口側から会場奥に向かって、時代が遡っていく。頂点の1枚を見ながら歩いていくと、ある時点からジャンプして若返ってゆく印象を受ける。ヒトの老成についての記録とも見ることが出来るのが面白い。予期せぬ発見だったが、人は日々、徐々に徐々に年老いていくというより、6年とか8年ぐらいのスパンで階段状に、一気に歳をとるようなのだ。その間の印象はわりと一定している。生活環境の変化などのせいだろうか。こうして見たときには作者の人生と伴走している気分になる。

 

 

これらの写真を1枚1枚紐解いたものが、映像作品《ときの重奏:デイリーポートレイト 1979-2004》(2005)だ。

9分半の動画で25年間分の自撮りを1枚ずつ見せていく。9,000枚超の写真、1秒あたり平均16枚(日)のハイペースで流していくことになる。加速、たまに減速、また加速を繰り返し、軽やかなシャッター音の連続を伴って次へ次へ、翌日その翌日また翌日へと切り替わってゆく。動画は速いと1秒で20枚(日)分ぐらい吹っ飛んでいくから、細部を確認する暇は皆無だ。ここでもやはり物量としての「時間」、「数」というものの量的な分厚さを体感することになるだろう。

 

立体造形《身の丈タワー》(2006)は、制作開始から25周年の節目にあたるところでポラロイドをまとめた書籍《デイリーポートレイト ―四半世紀・記憶の日々》(2006)を、縦横を互い違いにさせながら、上へと77冊積み上げた作品だ。高さは169㎝にも及ぶ。こちらもまた1冊1冊の中身は見えない。幸いにも鑑賞者用には見本がある。本では1979年から時系列順でポラロイドを掲載し、その時々の時勢も書き込まれている。つまり一冊の本は時間の束であり流れなのだ。するとタワーを構成する本の1冊おきに、ミニマルに25年の時が流れては巻き戻されることが繰り返されていることになる。

 

 

《デイリーポートレイト》シリーズ以外の作品もあるが、作者が以前から「時」の量や数的特性、映像メディアの可能性に着目して制作してきたことを示すものだ。

 

写真《タイムコレクションー8:55》(1981)、《タイムコレクション―9:19》(1981)は、実験的だ。ある時刻内での、テレビ番組の映像を多重露光で留めたもの。朝のニュース番組だろうか、像だけでは判然としない。《8:55》の方では、黄土色の子供の顔と、白いキャップやエプロンで全身を覆った多数の作業員が合わさっている。《9:19》では、麦わらのような帽子をかぶった人物の顔と、老人が合わさっている。

どちらも番組が流す時刻の表示が写り込んでいる。「何時何分」という表示・記号はある時間の一点を指し示すが、「分」=60秒間のうちにあっては指示が定まらず不規則となる様を言及しているようだ。

同じく写真《F氏との1時間》(1979年)も時間に関する作品だ。タイトルの通り読めば、1時間の長時間露光で撮られた1枚の写真ということになるだろうか。男性2人が卓について、表情や動作のディテールは溶けて流れてしまっているが、テーブル上には沢山の器やカップがある。《タイムコレクション》とは逆に、時間の内側にある空間的な幅を表している。

《10時5分》(1972)は、壊れたテレビのブラウン管の前面に直接、テレビ画面の写真をスクリーンプリントしている。テレビというメディアの物質性と表層のイメージの関係に着目したような作品だ。日々、ひたすら流れ去ってゆくテレビという刹那の像を捕まえてブラウン管に固着させ、物理側に戻してみせた。作者の「時間」やメディアに対する関心の高さゆえだろう。

 

 

このように、1Fの今井祝雄作品だけでも、時間や写真について気付かされることが多く、ペース配分が良い感じで狂ってしまいまして、blogもペース配分が狂ってですね、2Fの作品の紹介はまた次の回にまわしましょう。回に回す。へんな日本語だ。ぐるぐる。

 

今井氏の大量のセルフポートレイトが一方通行の時の流れをなぞりながら、物体として空間に一定のスペースを占める様子を眺めていると、「時間」とはそもそも何だったのか、それは「時刻」とは似て非なる観念だ、ではこの体感は何なのか、などとぐるぐるしました。回る。

 

ここで言う「時間」とは、個々人の主観の揺らぎや心身の変化に付随する、「私」の拡張的な概念ではないだろうか。逆に言えば、誰かのうちに変化や揺らぎがなければ、そこには「時間」なるものは認められない。

「時間」は、究極的には「私」(わたくし)――自己の存在(自他問わず)と同義なのではないか。

 

もちろん人間がいなくても、自然界でも変化は積み重なっており、変化の節目を一定の尺で捉えることで「時間」を刻むことは出来る。月の満ち欠け、季節の移り変わり、動植物の絶滅や進化、天変地異などだ。それらの計測と記録による差異の判別こそが、科学的態度による「時間」だ。しかし人間の心身の尺度によって強く感知される、極めて主観的でどうにも割り切れない”広がり”のようなものを、今井作品に見た思いがする。

好々爺然とした今のお姿しか知らない身としては、1979年・33歳の、サングラスで、ちょっと尖った、ザ・若者な風貌は興味深かった。フロアを行き来していると、過去の作者と、今現在の作者とが同じ「今ここ」という地平面に乗っている。徐々に意識は常日頃とは違う”広がり”を、空間の中に更に広がるもう一軸のものとして見出したらしい。まだそれを言語化するには至らない。

 

私は会場で「時間」の中を確かに歩いていた。それは作者における「私」(わたくし)の内に見出された、”広がり”だった。

 

 

( ´ - ` ) つづく。

 

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