今年3月に予定されていた修了展が再延期となった京都造形芸術大学(現、京都芸術大学)・通信教育部の有志6名によるグループ展が開催され、本来発表するはずだった作品を公開している。それぞれの日常への視点が感じられる作品だった。
【会期】2020.9/12(土)~9/22(火)
- ◆「KUGIRI」概要
- ◆高林直澄『シュプール』
- ◆狩野明茂『Visions』
- ◆下良隆彦『45リットル』
- ◆児玉大輔『存在について』
- ◆児島貞仁『Time of my life』
- ◆カルオマチコ『娘の母で 母の娘で』
◆「KUGIRI」概要
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)通信写真コース2019年卒業生の有志6名によるグループ展である。卒業というタイミングについて考えたとき、時間や所在を純粋に一つの区切るということで展示タイトルを「KUGIRI」と名付けたという。
開催に当たっての詳細なステートメントはこちらで。
本来の卒業制作展は例年3月に開催のところ、新型コロナ禍により8月中旬へ延期となったが、それも関西に広がる第2波により再延期となった。展示はまだ中止となったわけではないとのことだ。
gallery 176側でも、9月に予定していたドイツの写真家、マイケル・ニッケの展示が延期となったことや、これまでも関係者の展示などを通じて京都芸術大学と関わりがあったことから、会場の提供を申し出たという。
ちなみに東京でも同様に、連動企画ではないのだが、東銀座の「IG Photo Gallery」が会場提供を申し出て、有志4名によるグループ展『quartet 京都造形芸術大学美術科写真コース(通信)'19年度卒業制作より』が開催された。(【会期】2020.8/17~9/4)
会期初日の2020年9/12(土)13時半から、無観客での作家トークYouTubeライブが公開された。
KUAD Photography 2019 graduates 写真展 「KUGIRI」ギャラリートーク
新型ウイルスのパンデミックの渦中なので、社会そのものが当初の予定通りには動けず、人が集まることもままならないが、そんな中で、動ける規模で臨機応変に助け合いながら、場を生み出していくということの、ひとつの好例を見た思いがした。
以下、個々の作者・作品について感想です。
◆高林直澄『シュプール』
舞台は長野県の白馬で、作者が10歳の夏に訪れてからの縁だという。足繁く通っては、白馬連邦の風景やスキー場、自然の表情、市街地の光景などを撮り溜めてきた。話を聞けば聞くほど並みならぬ愛着が伺える。
全9点の作品は『雪国』のように、車でトンネルを抜けると雪の世界・白馬が広がり、銀世界あり、夏の緑あり、白馬の風景を移動しながらなぞっていく。最後の1枚は再び車で、サイドミラーに写る白馬連邦を背後に見やっている。作者が一時的な来訪者として、また関西へ帰ってゆくことを示しているようだ。
2019年7月の個展でも同様に「白馬」を舞台としていたが、その時はスキー場のカットや氷のクローズアップなど、雪国、スノーシーズンの土地という印象がかなり強かった。作者がスキーをしに白馬へよく訪れていたのだろう。本作ではそこからフラットさと拡がりが生まれたように感じる。
「白馬」という土地の何に眼を向けて取り組んでいくか、旅としての移動の体験や身体性を撮るのか、スキー場など自身の記憶と白馬の結びつきを掘り下げていくのか、あるいは市街地での関係性を撮るのか・・・ 実に多くの選択肢が広がっているように思った。野村恵子や古賀絵里子のような形で入り込むのか、どういう形があるのか、展開の方向性が楽しみだ。
額装での展示にはなかったが、市街地から山を望むこのカットが印象的だった。人の営みと巨大な連峰が混然となったカットだ。雄大な自然と人の営み(人工物)を二分できない状況が非常にリアルだと感じた。
こちらは、卒展の会期もぎりぎりの時期に撮り直し、作者が最も気に入っていたが、他の作品との相性の兼ね合いからお蔵入りとなったカット。モノクロに見えるが満月の夜に長時間露光で撮られており、色を伴わない光によって川が照らされている。
◆狩野明茂『Visions』
gallery 176の各作家紹介ページで唯一ステートメントがない作家・作品。純粋にそこに現れた形態を以って、自由に鑑賞・解釈してくださいというスタンスだ。
写真作品としての意味性を排し、展示のフォーマットを排し、洗濯物を干すように直接吊り下げられている。以前に参加した東京のニコンサロンでの展示(卒展のプレ展示的な会)では、プリントをくしゃくしゃにしてランダムに提示したという、トークでも、写真外して自由に手に取って、上下回転させて見てもらって良い、と本人が語っている通りで、鑑賞・解釈の自由度は相当に高い。
上下左右のない平面、不作為のテクスチャーは、「写真作品」というよりも、写真の技法を用いて、光学で瞬間的な染物に挑んでいるように感じた。足で稼いで撮影し、同じ現場には行かない、事後のトリミングもしない。写っているものは、壁などの塗料が経年劣化で罅割れ、まくれ上がり、剥がれ落ちる姿である。さっと見ると平面だが、細部を見ると立体がある。アーロン・シスキンドを想起させられる。だが「写真」のフォーム自体にもこだわらず、物理的な自由さの展開を追求するのであれば、横田大輔も視野に入ってくるのだろう。
◆下良隆彦『45リットル』
毎週出す45リットルのゴミ袋の中身、容器包装プラスチックごみを個別に可視化した作品。全152個のプラごみをスクウェア状に配置し、中心にゆくにつれ密度を高め、それらを一枚のプリントで出力している。
想起させる環境問題は色々とあり、プラごみの出方やその末路(太平洋ゴミベルトや環境ホルモン等)に結びつくところだが、撮り方や配列のフォーマット化に加え、個々のゴミがかなり綺麗で、予想以上に被写体=「ごみ」という感じがしない。これは分別のために、容器をちゃんと洗っているためだろう。そういう意味では、従来の「ごみ」を取り上げた写真と意味がまた違うのかも知れない。
よってプラ容器は、それ自体で完成されたコンテンツ(=商品としてのパッケージ、広告、企業イメージ、容器のタイポロジー等)として見えていく力があり、デザイン、色味、形状に眼がいくところだが、画像がどんどん小さくなってゆき、ディテールが分からず、興味が打ち止めになった感がある。全て自然光で撮られていることから、容器の具体的な表情が見えるとまた意味が大きく変容しそうに思う。
実際の45リットルの袋も置いてある。毎週これを出してるわけですね。プラも土や海に還る素材になったらいいのになあ。
◆児玉大輔『存在について』
2枚が展示。ぼんやりとした写真とともに、マットには不思議な図が書かれている。これは本作の制作過程・ルールが独特というか、ルールに基づく行為自体を作品化しているためだ。
①道に数字を割り当てる
②サイコロを振る
③出た目で進む道を決める
④その道を写真に撮る
⑤次の角まで歩く →角に出くわせば②に戻る
→これを100回繰り返すと1つのアクションになる
100回の試行におけるサイコロの出目、GPSの移動記録、試行の日時、開始と終了の時に見かけたものが、マットに書かれている。写真は100回の試行中に撮影した道の像を1枚に合成したものだ。
作者はサイコロの出目、次の角に出会うまでの距離などの偶然性に支配される。かたや、100回という試行回数や、ルール通りに道を歩くという、ルールそのものにも強く支配されている。道や歩くことから意味・目的を奪う工程が、作者の主体性を無に還す。まるで仏道修行のように「我」を消していく作業である。
しかしルールの設定と、その試行の可視化が何を生んでいるのか、何が発見され得るのかが、正直分からなかった。ルールはあるがゲームがない状態をどう受け止めればよいのだろうか。
例えば顧剣亨は、写真行為と「歩く」(動く)ことを直結させていたが、それは写真自体がそもそも不確定な、自己を無化するビジョンを取り込むものという本質を最大限に活用した取り組みだった。ルールの構成に工夫があるか、写真自体の無我さをもっと活かすかがあれば、読み取れるものがあるかもしれない。
◆児島貞仁『Time of my life』
ブックと写真6点で構成。日々の生活、移動中などで撮られたスナップは、作者の生活の、存在の実感であり、実証としての意味合いがある。撮影日時と場所が余白に書かれていることからも、ヴィジュアル自体だけでなく、撮影の行為、いつどこでシャッターを切ったかということも含めてが作品という意味合いがある。
写真のサイズと形状は様々だが、正方形が多用されており、そのフレーミングのバランス感と被写体の強度に惹かれる。日常の光景×正方形は佐内正史を連想するが、撮り方の自由度や、全体的に覆う薄暗くくすんだブルーみ、どこか物憂げさが宿っているところが全く異なる。
本作は大学入学の2014年から撮り始めて6年になるが、今後も続いてゆくことを意図して、ブックには「episode 1」とナンバリングされている。プロフィールでは、昔は写真に夢中だったたものの、高校生でやめてしまったこと、2011年の東日本大震災に出くわして人生観に変化が訪れたことなどが綴られている。撮影行為は、今の時代ではデリケートなものとして、特に公共の場では厳しい扱いを受けることが多々あるが、個人の感性や生の実感を取り戻す効能には、もっと目が向けられてほしいと思うばかりだ。
◆カルオマチコ『娘の母で 母の娘で』
ポートフォリオと複数の写真の展示、額装3枚と小さなパネル16枚で構成。
作者の母と娘との関係が写っていて、とても私的な息づかいのする写真だ。詩的ではない。現実がある。第三者が鑑賞し楽しむものではなく、現実を直接伝えてくるものだった。よって私には「作品」未満の像として逆にリアルに、親子の関係、高齢にさしかかる両親との関係についてを突き付けてくる。私も私の親も、いい歳である。作品として冷静に見ることがうまく出来なかった・・・参った。。できれば目をそむけたい。
本作はタイトルのとおり、娘から見れば「母」、母から見れば「娘」という重ね合わせの立場にある作者が、その両者を撮ったものだ。4年ほど前に、体調を崩して東京から実家に戻ってきた娘を励ますつもりで始めた写真だったが、同時期に老いが見え始めた母のことも撮るようになったという。
1枚ずつのシーンにどれだけ鑑賞者が心を寄せて、入っていけるかが大切な写真だと思った。面として一度に目にすると早送りになった感があるが、限られたスペースとの兼ね合いの中でどう見せるのかは難しいところだが、サイズ、構成や編集で伝わるものが大きく変わってゆく気がする。
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全体を通じて、コンセプトやテーマ性から少し距離を置いた、自由な作品だったように思う。アート市場で戦うための作品作りというより、さりげない「日常」へ個々人が目を向けることを優先している印象だ。これらの作品はコロナの前から計画されてきたものではあるが、今年前半の新型コロナの体験は、今後そうした流れを呼ぶのかも知れない。
( ´ - ` ) 完。