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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R2.2/7_吉岡さとる「Whatever is sensible, Beauty distors. Vol.2」@gallery 176

【写真展】R2.2/7_吉岡さとる「Whatever is sensible, Beauty distors. Vol.2」@gallery 176

30年前、芸術家/写真家としての、活動の方向性を掴んだ頃の作品が公開された。写真に宿る無数のダメージは「時」の存在を強く感じさせた。

 

【会期】2020.1/31(金)~2/11(火)

  

FBなどで回ってきた広報の画像、そして展示作品、いずれも闇の効いたモノクロ写真で、情緒や日常とは異なる像があり、作者が誰だったのかを思い出せなかった。しかしポートフォリオで作者の経歴を確認し、国内外の素粒子物理学研究所の加速器を撮っていた「あの写真の人か」とようやく認識できた。巨大な先進的機器、研究所の写真と、人をモノクロで滲ませた本展示は、あまりに距離があったので結び付かなかった。

 

展示の紹介では、作者が1980年代後半にドイツ表現主義の絵画に惹かれていたことが触れられ、キルヒナー、オットー・ミュラー、エーリッヒ・ヘッケルの名が挙がる。作者はそれらから、人間の内面を主観的に表したものとして多大な力を感じ取る。そして同時期、ドイツの写真雑誌に掲載されていた、写真と芸術を結び付けた表現に出会い、自身の写真家/芸術家としての生き方の発見を得たという。

 

古典の絵画表現と、サンディエゴ滞在当時のコンテンポラリーな写真表現とが、作者にもたらした知見からか、本展示の作品は夥しいダメージを刻印したプリントが特徴的だ。黴や錆に浸食されたような痕、あるいは現像処理が完了する前に密着状態から引き剥がしたような痕が強く刻まれている。ネガ自体への、あるいはガラス面をかませたのか分からないが、通常の記録、ドキュメンタリーとしての写真とは性質を異にする。表現のための写真である。

展示は大きく3部構成とみられ、会場向かって左の壁面はダメージが忍び寄る人物写真、正面の壁は、ダメージは無いものボケの中に呑まれながら立つ人物写真。右の壁面では、人物の顔とダメージの浸食が対等の強度でせめぎ合い、時空のはざまに漂っているかのようだ。

 

人物写真、モノクロ、ダメージとくると、作者個人の感傷で囲い込まれた作品を想像してしまうところだが、本作は私的な廃園からは程遠い。元となる人物写真が、それぞれの人物の存在感をしっかりと捉えていることと、ダメージが作者の手を離れているためだ。ダメージ痕は、画面の内側、メディア自体の体積を認識させる。

古い建築物に長年かけて宿っていった染みや襞のような痕は、被写体と写真との間の距離、鑑賞者との距離として、そこに留まり続ける。人物らはかなりの年月の「時」の厚みを感じさせるものとなる。ダメージは写真に写る光景自体を建築物に変換する。 特に右側の壁面の浸食は凄まじい。人物写真が元となっているとは思えない抽象度、混迷に満ちている。時が化石のように硬化してゆく中で、人物は彫刻と化していく。

左右の壁面に反して、中央の壁で展開される人物写真はダメージがない。写真自体を斜めから撮り下ろしたような独特の角度で、顔以外はボケと粒子の中に消えてゆき、足元は見えない。幻の中に立つような人物は、時間を感じさせない。生きた人間が立っているのに、その人物がどの時代、どの時間に居るかが不問となる。

 

時系列を感じさせない、それは「時」そのものの質感、体積を写真に現わそうとしているからなのだろうか。

80年代から90年代前半にかけて、背景、画面全体をダメージや襞のように覆い、絵画と写真のはざまのような形態で表現する手法が多く見られた。劣化そのものを映像化したり、写真というメディア自体の物性を映像化するような表現だ。本作と当時の種々の作品とを詳細に比較したわけではない。大まかな手法として傾向は似ているが、本展示は30年を経過して改めて考察した上で提示されており、またこれまで意図的に表に出してこなかったものだというから、時代の傾向とは別に考えた方がよいだろう。

 

大型加速器の研究施設を撮る眼も、映像の内に刻まれた痕跡を視る眼も、どちらも「時」という可視化されざるものへの深甚な関心という点では共通しているのではないだろうか。

 

 

( ´ - ` ) 完