スナップ写真を組み合わせた展示は、プリント、スクリーンへのスライドショーの投影、スクリーンから透過した像を受け止めるミラーの3種類の映像から構成されている。
タイトルの『Unveil』とは「ヴェールを取る、覆いを除く」という意味がある。剥されたのは外界のそれか、それとも私達の認識の方か。
【会期】2020.10/9(金)~10/18(日)(金土日のみ)
作者は台湾を舞台としたスナップ、特に現地ですれ違う人物像が特徴的な個展『Call』を今年7月に展開した。見ず知らずの人物らは、時の擦過や狩猟としてのスナップではなく、撮り手と被写体がお互いにどこまでも未知の存在のまま邂逅してゆく写真であった。
本作は『Call』と並行して撮り溜められていたものだが、スナップとして大きく性質が異なる。『Call』が異国・異界で出会った風物や人物と向き合いながら、その正体については未知のまま閉ざしていたのに対し、本作『Unveil』は見ている視界そのものが複層化したりズレを来している上に、複数のパターンを混載しながら更に展示形式を分散させているため、「何が」写っているかを直接語ることはますます困難である。
「何が」とは、写真的な真実を巡るテーマである。真実とは、この世界・外界には何が在るのかという実在論と、私達は何を見たのか・見ているのか、という認識論の重ね合わせの問題であり、その確からしさ・不確かさ、虚実について、本作では結論の付かない行き来を体感する。中でも本作では前者の独立性が尊重されており、写真は外界をストレートに撮影したものばかりで、撮影時の多重露光などの操作や撮影後のソフトでの加工処理を介することはない。そうして主に後者の認識論に関するパターンを模索し、知覚上の整合性を求める私達の「ヴェール」を解こうとする。
まず前者の、この世界・外界にあるものの確かさ・不確かさについては、被写体が3つのパターンに分類できる。歪みのない記録的な現実の像だが、現実それ自体が虚構的に振舞っているもの。ストレートな像の中に強い光が取り込まれることで、性質や文脈を幻惑されているもの。そして更に強い光の反射や像の混乱によって、被写体の領域ものが揺らいでいるものだ。
そして本作の展示形式においては、後者:何を見ているのかの認識論は、更に2つの枠組みに分けられる。撮影者と写真それ自体がどう外界と出会い、どのように見て、どのように写真の形に託すのかという認識・出力の問題と、私たち鑑賞者がそれらの現された写真とどのように出会い、どのように知覚するのかという問題だ。
こうした2つの枠組みが、冒頭で述べた3つの構成により起動される。壁面に掲げられたプリントは、作者の視点から捉えた外界における認識のズレや写真そのものが引き起こす幻惑を扱う。スクリーンにプロジェクター投影される像は、作者の視点をベースとしつつも、鑑賞者側の認識の処理におけるズレを誘引し体験させる。スクリーンは極薄のトレーシングペーパーなので、背後に置かれたファンの送風で微妙に揺れているだけでなく、観客が裏側の壁面を見ようとする動きによっても大きく揺れ、像を見る体験は常に一定しない。
そしてスクリーン裏の壁に貼られた小さな複数の鏡は、透過したプロジェクター像を反射させ、バラバラになりながらも再反転して正像となる。それを覗き込もうと、距離を取りながら、時に鑑賞者自身が映り込んでしまうことと格闘する体験は、もはや作者の手を離れた映像体験となっている。
だが本作は知覚を揺さぶるための思考実験、あるいは「写真」のフォーマットの強度や拡張性を試すための美術的実験ではなく、あくまで光の織り成す世界の可能性の分岐に対して、作者自身が美しさを、掴んでは手放しながら肯定するための行為であるように思われる。
掴み難い瞬間的なすれ違いを「掴む」のが前作『Call』であったならば、本作『Unveil』は「掴み」ながら「手放す」を同時に行おうとしている。狩猟され収集された世界の断片とその美しさを、いかにして未完成で未分類のまま――謎のままに生かしておけないか。そんな命題を作者は抱えているように見える。謎のままに、という点では『Call』と同じ問題意識で、同時に発売されたZINEでは延長線上の印象があるが、展示会場のインスタレーションでは、像の意味や形態を定まらせないまま提示しようとする強い意欲が感じられ、前作よりも外界を「手放す」ことの試みがあった。
それもスナップを表層・断片に特化させるのではなく、現実の肌感覚の延長線上にあるものとして、エモーショナルな湿度を保ったままで実現しようとしている。情。温もりと呼んでも良いかも知れない。意味の整合によって剪定され、なかったことにされている世界の可能性に対する、思慕のような念である。
本作について、光によって分岐する世界の表情――非日常の可能性を渡り歩くこと、そしてスクリーンや鏡のような装置が登場したことを以て、私達のような大人が改めて「鏡の国」に入り込む物語として捉えることも可能だろう。確かに異国を探訪する中で撮られた多くのカットは、世界の裏側へ迷い込むような不思議さがある。
だが作者にとっては、本作のシーンもまた「現実」に過ぎないのではないだろうか。非日常と日常との境目は私達の認識によって分節されており、本来は表裏一体、いつでもどこでも虚実の在り様は転倒し得る――今も転倒し続けている。本作が示したのは、そのような世界観なのではないだろうか。
作者はきっと、確かに掴み取って固定される世界も、掴み取れずに姿形を変え続ける幻惑的な世界も、両方を愛している。書き割りの自然や剥製が生きていて、水の反射がガラス球やスクリーンのように光を放つ、その世界を虚ではなくリアルと認識し、両方を肯定した。そのように感じた。
( ´ - ` ) 完。